酒と傷(1)元自由同盟盟主にして治安大臣、ゲンブの趣味のひとつに「酒」がある。
各地の銘酒を集めて家でゆっくり飲んだり、酒場に行ってお気に入りの酒を飲んだり。仕事に追われる毎日から抜け出し、ほっと一息つける貴重な時間だ。
クーデターからの復興で慌ただしい日々を送る中、ようやくもぎ取った休みの夜、ゲンブは行きつけのバーのカウンターで地酒を煽っていた。
ピリポリス駅から少し離れた飲み屋街の、メインストリートから更に離れた細い路地にある、こじんまりとしたバーだ。ウッド調の温かみのある内装で、カウンターの後ろには所狭しとボトルが並んでいる。小さなバーだが、一体どこから仕入れたのかと驚く程貴重な銘酒が当然と陳列されるような、不思議な店だ。
ゲンブはこのバーの馴染みだ。この店を見つけたのは、治安省に勤める一公務員だった若い頃。会食で散々、豪勢で上等な食事処や酒場を体験してきたが、やはりこういう所で静かに酒を飲むのが1番落ち着くのだ。
「いらっしゃいませ」
ゲンブは老齢のマスターの声に顔を上げた。帽子を目深に被った男、いや老人がバーに入って来た。
知らない顔だ、と思ったのは最初の一瞬だけだった。カウンター席の、自分の2つ隣に座った男の横顔を見てゲンブは思わず声を上げた。
「ギルモア!?」
ハッと向こうがこちらを振り向く。
「ゲンブ!?」
大声を出した2人に、マスターは首を傾げて言った。
「おや、お知り合いで?」
「何故貴様がここにいる!」
声を荒げたギルモアに、ゲンブも負けじと言い返した。
「それはこちらの台詞だ! お前こそ何でこの店に!」
「たまたま目に入ったからだ!」
「2人とも、他のお客さんがいないからってウチで喧嘩されちゃ困りますよ」
マスターの言葉にゲンブは口をつぐみ、椅子に座り直した。ギルモアも不機嫌そうに顔をしかめたまま、大人しくマスターの方に向き直った。
「せっかくの休みだというのに、まさかお前の顔を見ることになるとは」
ギルモアの呟きに、ゲンブも言葉を返した。
「そのままお前に言い返してやる」
せっかく1人で酒を飲んでいたのに、まさかギルモアに会う羽目になるとは。
自由同盟が勝利し、再びパピ大統領が政権を取り戻した後、ピシアは大統領直下の情報機関として再編成された。元々政府軍に所属していた構成員は軍に復籍させ、ドラコルルなど一部の人間はそのままピシアに残すことにした。
ギルモアはピシアと切り離され軍のトップに戻された。ピリカの国民のために働くことでこれまでの罪を償いなさい、という大統領の命により、彼もまた復興のため日々奔走している。当然、ゲンブと顔を合わせる機会も多く。
2人同時にフンとそっぽを向く。お互い、敵対する組織のリーダーだったのだ。今更仲良くするなど土台無理な話である。
と、ゲンブはギルモアがやけに静かなのに気づいた。男はぼんやりと壁の棚に並んだボトルを眺めているだけで、注文をしようともしない。
「飲まないのか?」
「……」
眉をひそめたゲンブだが、ギルモアは何も答えない。
まさかボトルを鑑賞する趣味でも持っているのだろうか。
「もしかして、こういった店は初めてですか?」
マスターの言葉に、ギルモアは小さく頷いた。
「普段どんなものを飲まれますか?」
「ビールか、焼酎」
「でしたら、こちらはどうでしょう」
マスターは後ろの棚から一本ボトルを取り出した。緑色の瓶の中に、とっぷりと液体が入っている。
「ピリチャーナ名産の焼酎です。度数は低めで風味がまろやかですので、落ち着いて飲めるかと」
「貰おう」
マスターがグラスを用意する間、ゲンブは我慢できず話しかけた。
「お前、何でこの店に来たんだ?」
「何だって良いだろう」
ビールと焼酎、という普段のラインナップと、座ってからの態度から察するに、ギルモアはおそらくこういった店に不慣れなのだろう。そういった酒なら安い居酒屋にでも行けば飲めるはずだ。どうしてわざわざ、飲屋街からも離れたこの店に?
「お待たせしました」
ことり、とギルモアの前にグラスが置かれる。いっぱいに注がれた酒と球体の氷が、店内の照明を反射しキラキラと輝いていた。
ギルモアはグラスを手に取り氷を転がしていたが、やがて縁に口をつけた。ちびちびと子供がホットミルクでも飲むかのような仕草に、ゲンブは思わず笑いそうになった。
「う、美味い」
口を離し、目を見開いて心底驚いたように呟いたギルモアに、店主はにっこりと微笑んだ。
マスターから酒の説明を受けるギルモアを見て、本当に初心者なのだなとゲンブは感じた。クーデター前から度々政界に顔を出していたし、政治家と会食も行っていたようだから、てっきり高級な酒や食事に慣れっこなのだと思っていた。
傲慢な男だと思っていたが、初めて飲んだ酒に目を輝かせるような可愛げな面もあるらしい。
機嫌良さそうなギルモアを横目に、ゲンブは静かに酒を煽った。
ガラ、とバーの入り口が開く。そこに立っていた人物を視認してすぐ、ゲンブはうんざりした顔を見せた。
「またか」
「またとは何だ」
同じような表情を相手から返される。
どうやらギルモアはこのバーをいたく気に入ったらしい。あの日以降、こうやって店で会うようになった。
「私だけの楽園だったのになあ」
そう言うと、男は鼻で笑って隣に座った。
「残念だったな」
ギルモアは、最初の頃よりは慣れた様子でマスターに注文を入れた。少しずつ酒の名前を覚えてきたらしい。最近は新しい酒に挑戦することもある。
「……お前、いつからこの店に来とるんだ?」
酒を待つ間、ギルモアは隣のゲンブに尋ねた。
「さあ、30年は前だと思うが」
「常連というわけか」
「まあな」
ゲンブはつまみに魚の煮物を口に放った。最近、ギルモアの表情が幾分か柔らかくなったように思う。以前は顔を合わせれば嫌そうな顔をして、用が終わればそそくさと立ち去っていた。だが今は、バーで会えば雑談くらいはするようになった。離れた席ではなく隣同士で座ることが暗黙の了解のようになった。仕事で顔を合わせた時も、素っ気ない態度は変わらずだがしかめっ面を見せられることは無くなった。
ピリカイモの焼酎を口に含み、舌で味わってから喉に流す。ちらりと横目でギルモアを見ると、顔を少し赤くしてワインを飲んでいた。
「そのワイン、気に入ったのか?」
ギルモアが飲むワインは、一般に女性が好む甘口のものだ。以前店で会った時も注文していた覚えがある。
「ん」
機嫌良さそうな返事に、ゲンブは腕を組んで考え込んだ。考えて、考えて、さらに考え……そして口を開いた。
「ウチにロゼワインが何本かあるんだが、いらないか?」
「はあ?」
ギルモアはくるりとこちらを振り向いた。
「酒好きならどうぞと人から貰ったものなんだが、私の口には合わなくてだな。お前ならちゃんと飲んでやれそうだし、どうだ?」
ギルモアの眉間に皺が寄せられる。提案しておいて何だが、妥当な反応だとゲンブは思った。
元々敵同士で、しかもこちらは身内を処刑されかけたのだ。当然のように隣に座り、言葉を交わすだけでもかなり気を許していると言えるが、更に踏み込んだ発言をしている自覚がある。
最近、幼い頃から見守ってきた2人の姉弟、パピとピイナが、あのドラコルルと親密な関係を築いているのだ。パピは食事に誘うなど個人的な付き合いを深めようとしている。お転婆なピイナの方は、事あるごとにクーデターの最中の出来事を持ち出して長官に嫌味を言っていたりもするが、決して険悪な雰囲気ではない。
あの2人が歩み寄りを見せるのなら、自分も。
ギルモアがプライベートでは存外穏やかな気性をしていたというのも、その提案のきっかけになった。
ギルモアはしばし逡巡していたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。
「何本か、と言ったか?」
「ああ」
「ワシの家にワインを保存する場所はない。一本なら、開封して余れば冷蔵庫に入れれば良いが…」
ワインの譲渡に前向きのようだ。ゲンブはほっと胸を撫で下ろした。
しかしギルモアはワインの保管場所に悩んでいるようだ。確かに、ワインは温度湿度共に適した保存条件がある。長期間置いておくならそれ専用の場所が必要となる。冷蔵庫に置いておくにしても、何本もとなれば相応のスペースを確保しなければならない。
「いや、1本ずつ持って来れば良いか」
「ここにか?」
休みの日にここで落ち合い、ワインを渡す。そういうことかと思い尋ねた。
「いや、ワシの家に持って来い。わざわざ外に出るのは億劫だ」
ギルモアの言葉にゲンブは呆れの表情を浮かべた。
「お前の家にワインを届けろと言うのか!? 私はデリバリー屋ではないぞ!」
「うるさい。住所は教えてやるから持って来い」
やはり傲慢な男だ。マスターから筆記具とメモを借りるギルモアを見ながら、ゲンブはため息をついた。
約束の日。お互いが休みとなる日を選んで、ゲンブはワインを片手にギルモア邸を訪れた。ピリポリスからエアカーで30分程の距離にある、2階建ての大きな一軒家だ。広い敷地の中、林と呼んでも差し支えない程には木々が生い茂っており、その中央にぽつりと家が建っている。まるで、木々が邸宅を守っているように見えた。
インターホンを鳴らすと、程なくして玄関からギルモアが出てくる。まだ秋口だというのに、に首元まで覆われた長袖の服を着ていた。頑丈な作りの門が軋んだ音を立てて開かれる。
「ご苦労」
「私はお前の部下ではないんだがな」
肩をすくめて言ってやる。ワインを入れた袋を差し出すと、ギルモアは一歩後ろに下がった。避けられた、というよりはまるで。
「中に入れ」
思いもかけない言葉に、一瞬呆気にとられる。ギルモアの顔を見ると、立ち止まったままの己を不思議に思ったのか、首を小さく傾げられた。
車を邸宅の敷地内に駐車させてもらい、ゲンブはギルモアの家の中にお邪魔することになった。外観から想像した通り大きな家だ。扉や手すりの隅に至るまで細やかな装飾が施されており、相当に金をかけて作られたのだろうことは分かる。廊下に掛けられた、抽象的な絵画は家主の趣味だろうか。
ギルモアは独身のはず。たった1人でこんな広い家に住んでいるのか。
通されたのはリビングルームだった。今時珍しい、木製の家具でまとめられたインテリア。ワインはテーブルの上に置け、ソファに座れ、と言われその通りにする。
柔らかな座り心地に、自宅にもこんなソファが欲しいなあ、しかしこれはいくらになるのだろうと考えていると、目の前のテーブルにドンと瓶が置かれた。
「これは?」
ラベルを見たところ、ブランドものの酒のようだ。
「お前にはこれをやる」
ギルモアはグラスを2つ並べた。そしてゲンブの隣にどさりと座り、ワインの栓を開ける。
「……私も飲むのか? 今ここで?」
とくとくとグラスに薄い薔薇色の液体が注がれる。
「飲まんのか?」
「車で来ているんだぞ」
ロボット操縦士付きの車ならまだしも、ゲンブの車は至って普通の、手動で運転する車だ。
驚きを滲ませたゲンブだが、ギルモアは平然とした様子で次の言葉を言った。
「泊まれば良い。明日も休みだろう?」
「よく知っているな」
「青二才が言っているのを聞いた」
「大統領と言え大統領と」
この老人はいつまで経ってもパピを大統領と認めたくないらしい。仕事中や公の場ではちゃんと呼ぶのだが、プライベートでは「青二才」だの「子供」だの舐め切った呼称を貫いている。
その子供に負けたのは誰でしたかな、と含みたっぷりに言ってやったこともあるが、かなり不機嫌になったのでそれはもう言わないことにしている。
「下着はお前が風呂に入っている間に洗濯してやる。寝巻きはワシのを着れば良い。客間にはベッドがある」
つまり、ゲンブが泊まるにあたり何も不都合も支障もないらしい。早く帰らねばならない理由もない。「ではお言葉に甘えて」と言葉を添えて、ゲンブは目の前の酒瓶に手を伸ばした。
蓋を開け、グラスの半分程を酒で満たす。初めて飲む銘柄だが、香りからして自分の好みだ。
ギルモアがワインを口に入れたのを見てから、こちらも酒を飲む。
まろやかだが、最後にツンとした後味が残る、不思議な酒だ。
「ほう、美味いな」
「だろうな」
ニヤリと笑みを浮かべたギルモアは、機嫌良さそうに何度もグラスに口を付ける。
「これも美味いな。なかなかにスッキリした味わいだ」
「……この酒、自分で買ったのか?」
「いや、ドラコルルに貰った」
「ほう?」
ゲンブは片眉を上げた。
「ワシが最近酒を飲むのが趣味だと言ったら贈られてな」
「ふうむ……」
ガラスを左右に傾け、酒が波打つのを眺める。この酒は甘党でも辛党でも楽しめるものだ。体裁を人一倍、いや人万倍気にするギルモアのことだから、自分が甘党だと言っていなかったのだろう。どんな好みの人間でも飲める酒というチョイスは、ドラコルルらしい配慮が見てとれた。
「お前は飲まないのか。せっかくの貰い物だろう」
「お前だって貰い物をまた人にやっとるではないか」
そう言いながらギルモアはまたワインをグラスに注いだ。今日はやけにペースが早い。
これは、きっとお返しのつもりなのだろう。意外と律儀な面もあるのだな、と思いながら、ゲンブはぐいっとコップを傾け酒を飲んだ。
「だから! あの星は最近不穏な動きをしているから注意しろと散々言っとるだろうが!」
「それくらい分かっている! だからこそピシアに探らせその結果を元に対応を決めているのだ!」
赤い顔をしてぎゃあぎゃあと喚くギルモアと、同じく頬を赤くして大声を出すゲンブ。ソファに並んで座る2人の前、テーブルの上には何本も空の瓶が転がっている。
いつしか、どちらかの家で酒を飲むのが恒例となった。ゲンブのワインセラーから甘いロゼワインが無くなった後も、互いに酒を持ち寄って飲むのが数少ない楽しみとなっていた。
今日はゲンブの家で酒を飲む日だが、度数の高い酒に酔っ払ってしまったようで珍しく2人ともテンションが上がっていた。
「あの星は20年前にも戦闘をしかけてきた星だぞ! 今更信用できるか!」
ギルモアはそう言ってまた酒を煽る。ゲンブもコップを片手に言い返した。
「信用できようができまいが建前上の付き合いというのは続けなければいけないのだ!」
不服そうなギルモアだったが、また酒を飲んで声を上げた。
「フン! いざとなれば前線に立つのは我々軍の人間だぞ! 文官は何も分かっておらんな」
「分かっていないのはお前の方だ!」
半ば怒鳴るようにゲンブは反論した。
「他の国家からどう見られるかがどれだけ重要か分かっているのか! ただでさえ軍にクーデターを起こされた未熟な国扱いをされているのに! そのイメージを払拭するのがどれだけ大変か分かっているのか! クーデターの後始末だってそうだ! お前のせいで我々文官の仕事がどれだけ増えたと思って──」
そう言い終え、ギルモアの顔を見たゲンブはハッと息を呑んだ。
釣り上がった半月型の目はまん丸に見開かれ、酒のために赤く染まっていたはずの頬は青白く見えた。頼りなさげに僅かに開いた唇はワナワナと震えている。
その顔を見て、ゲンブの頭は急速に冷えた。
ガシャン、とギルモアのグラスがテーブルの上に叩きつけられる。ギルモアは無言で立ち上がった。
「お、おい」
家主の声には一切反応せず、男はハンガーラックにかかっていた上着を取り、リビングルームを出て行く。
「ギルモア!」
ゲンブは後を追う。だが、ギルモアは一度もこちらを振り向くことなく、そのまま玄関を出て行ってしまった。
「そ、そんな……」
玄関に立ち尽くしたままゲンブは呟いた。今までもああやって酒に酔って口論じみた会話をすることはあった。しかしただのストレス発散であって、本気で怒ることはなかった。
最後に自分が放った言葉は、ギルモアにとっては多分許容し難いものだったのだ。その理由までは詳しく分からない。分からないが。
謝るしかないだろうな。
酔いの覚めた頭をがっくりと落とし、とぼとぼとリビングへ戻った。(続)