しるし「肩、噛んでくれませんか」
服をはだけさせ、ベッドに仰向けに横たわる副官が発した言葉に、ギルモアはぽかんと口を開けた。
意味は分かる。自分の肩を噛んで欲しいと言う、至ってシンプルな頼みだ。だがそう頼む理由が分からない。
既に上半身の服を脱ぎ、副官の体の上に跨っていたギルモアは相手の顔を覗き込んだ。
青年と呼ぶべき年をとっくに過ぎた男の、空色の髪の毛には白髪が混じり、目や口の周りには皺ができていた。ただ、昔と変わらないまん丸の目がじっとこちらを見つめている。
「……肩を、噛めば良いのか?」
「ええ」
副官はぐるりと回転し、うつ伏せになる。前開きの服を後ろにぐいと引っ張り、肩の筋肉を露わにさせた。
ギルモアはゆっくりとその背中に覆い被さった。そして、副官の肩の肉に歯を立てる。昔よりも優しい、甘噛みのような力で。
肩口にうっすらと歯形が残るがすぐに薄くなり、少し待てば完全に消えてしまった。
「ん、噛んだぞ」
大きな背中をポンと叩く。副官はちらりとこちらを窺っただけで、起きあがろうとはしなかった。
「もっと強く噛んでください」
「痛いぞ?」
「良いんです」
副官の口調はやけにきっぱりとしていた。
どうしてそんなに肩を噛んでもらいたがる。ギルモアは副官の肩に手を置いた。
出会って間もない頃。ギルモアがまだ「ギルモア」であった昔。副官を自分のものにしたいという思いから、彼を荒々しく抱いていたことがあった。いや、犯したという方が正確か。副官はギルモアを受け入れたのではなく、恐怖から身を差し出していたに過ぎなかったのだから。肩を噛むというのも、その当時彼によくやっていたことだ。副官の笑顔が見たいと思うようになってからはぴたりとやめた。
しかし一体、肩を強く噛んでほしいとはどういうことだろう。あの頃の苦痛の思い出が蘇るだけではないか。
「留置場での、あの時」
副官が口を開いた。
「終わった後、噛んでもらえば良かったって思いました」
うつ伏せのまま横を向いた副官の顔は、どこか遠くを見ているようだった。ギルモアは副官の体の上から降り、その隣にぴったりと寄り添うように腰を下ろした。
「嬉しかったんです。今までで一番優しくしてくれて。俺の願いを聞いてくれて。でも……それから仕事が忙しくなって、毎日ヘトヘトで、将軍のいない日常が当たり前になって……」
副官はベッドシーツの上で拳を作っていた。
「怖くなりました、将軍のことを忘れてしまうんじゃないかって。将軍の私物も仕事道具も全部処分されてしまって、何にも残らなかったから……あの時、肩を噛んでもらえてたら、その跡を見れば、どれだけ疲れていても、どれだけしんどくても、いつでも将軍のこと思い出せたのかなって」
記憶とは薄れていくものだ。どれだけ重要な記憶であっても、すぐに他の記憶に埋もれてしまう。時々思い出してやらなければいつかは忘れてしまう。
「死刑執行」の後、ギルモアにはたっぷりと時間があった。施設に収容されていた期間はずっと過去を思い返していた。長い人生を生きてきた分思い出も多いが、やはり副官と過ごした日々の記憶は格別だった。何度も何度も思い出に浸り、今副官はどうしているだろうかと思いを馳せた。
特別に懲役刑を免れる代わりに散々に働かされていた副官は、きっとそんな暇はなかったのだろう。仕事のことで頭がいっぱい、そんな日々が続けば、2人で過ごした記憶が薄れてしまうのも仕方がない。
「ギルが産まれてから、将軍との思い出を振り返る機会が増えました。将軍はちゃんと俺に贈り物をくれた、愛してくれたって……でも、ギルはギルであって、ギルモア将軍じゃない。だから、直接あなたと繋がれるものが欲しかった。お墓でも、写真でも……噛み跡でも」
寂しそうに笑った副官に、ギルモアは落ち着いた声音で言った。
「……噛み跡は、何年も残ったりはせんぞ」
と、副官はむうと唇を尖らせた。
「そのぐらい分かってます! こっちだって噛まれた経験はなんべんもありますからね、誰かさんのせいで!」
ギルモアは、拗ねたふりをする副官の後頭部に手を伸ばし、さするように撫でた。まるで子供をあやすような手つきだった。
「……ん、待て。それと、今噛んで欲しいことと何の関係がある?」
そう言うと、副官は目を逸らして口をもにょもにょと動かした。
「そ、それは……」
恥ずかしそうな顔であっちこっちに目線をやる副官は、くるりと反対側を向いた。ギルモアに背を向け、小さな声で呟く。
「若かった頃の気分を味わいたくて……」
その触覚はほんのりと赤い。ギルモアは一瞬目を見開いてから、ニンマリと笑顔を浮かべた。副官の肩を掴み、勢い良くこちらへ向ける。
「わっ!」
仰向けになった副官の上に跨り、その肩口に顔を寄せる。副官の青い瞳が期待で輝いた。
がぶり、と歯を立てると、大きな体が強張る。くっきりと浮かんだ歯形を、ギルモアは子猫のようにペロペロと舐めた。
「ん、くふふ、くすぐったい」
副官が笑い声を零す。ギルモアは頭を上げて副官の顔を覗き込んだ。
副官は男の頬を両手で包み込んだ。年月が経つにつれ、少しずつ「あの頃」に戻りつつある顔を見て、嬉しそうに微笑む。まだ目元や口周りの皺は浅い。老いると同時に元に戻っていく伴侶。あと20年もすれば、出会った頃と同じ年齢に至るはずだ。
ギルモアの顔が眼前に迫る。副官は離した手をギルモアの首に回し、腕全体で絡みついた。ちゅう、と唇を触れ合わせた後に深く口づけられる。恍惚の表情を浮かべていた副官は、やがて気持ちよさそうに体を委ねた。
「んん……なかなか消えませんね」
洗面台の前に立つ副官は、シャツの襟をぐいと広げて鏡を見ていた。肩にくっきりと歯の跡がついている。
「もう1週間ではないか?」
その後ろで歯を磨いていた、風呂上がりのギルモアが口を挟む。長袖のパジャマに身を包み、肩にタオルをかけていた。
「何ででしょう、昔は数日で消えてたのに」
「年のせいじゃないか」
「うう……子供たちが帰ってくるまでに消えたら良いんですけど」
副官はため息をついた。息子たちは今、それぞれ一人暮らしをしている。ピシアに勤める長男、ギルは隊員宿舎で暮らしており、次男のモルは大学へ通うため下宿している。来週は珍しく全員の予定が合うため、久しぶりに家族で食事にでも行こうと約束をしていた。
「襟元の長い服を着れば良い」
ギルモアの言葉に、副官は眉間に皺を寄せた。
「まだ秋ですよぉ? 暑いから嫌です」
「もう秋だぞ。薄手のやつならいけるだろう」
副官は不服そうにギルモアを見下ろした。若い頃から暑がりな彼は、秋でも夏服を好んで着る。歳をとってからはそれなりに寒さを感じるようになったが、まだ秋口の今は半袖で過ごすのが楽らしい。今着ている寝巻きもTシャツに短パンだ。
すると、副官はハッと何かに気がついた。
「そうだ! 傷パッド貼れば良いんだ!」
「ああ……」
確かにその手があった。名案を思いつきテンションの上がった副官を押しのけ、うがいをする。
「理由を聞かれたらどうするんだ?」
「虫に刺されて目立つ跡が残ったから隠してるって言います」
ギルモアはくっくっと肩を揺らした。
「随分と大きな虫だな」
後ろを向き、ニヤニヤと笑いながら副官の肩を指で突く。跡が残った方とは反対側だ。
「こちら側も刺してやろうか?」
「ダメです。両方の肩に傷パッドなんて間抜けじゃないですか」
手を掴まれ下ろされる。何だつまらん、とギルモアはうがいコップを棚に戻した。すると、背後から巨大に抱きしめられる。
「今のが消えたら良いですけど」
ちょっとツンとした、照れたような声音。ギルモアは大きな腕の中でもぞもぞと体を回し、副官と向かい合った。
子供たちが家を出て以降2人だけで過ごす時間が増えた。今年からクーデター前からのピシア所属員の待遇が改善され、勤務時間が短くなったことや休日が増えたことも大きい。長年、ピリカに尽くし罪を償ってきたドラコルルや副官に対する恩赦のようなものだ。
ギルモアは副官の顎に手を当て、背伸びして唇にキスをした。息子たちがいない時の副官はちょっぴり我儘で甘えん坊だ。スキンシップも多い。普段は仕事で気を張り詰めている反動もあるだろうが、元々の気質もあるのだろう。猜疑心の塊だったギルモアとは違い、彼は出会った当初から人懐っこい性格であった。
口づけられて薄く頬を赤らめ、嬉しそうに顔を緩ませた副官の首筋に、またキスを落とす。制服で隠せない位置に跡を残すと怒られるため、優しく唇を当てるだけの柔らかいキスだ。
「んっ、しょうぐ……将軍!」
肩を掴まれぐいと押し離される。ギルモアは首を傾げた。何だ、甘えたいのかと思ってキスをしてやったのに。
「こ、ここでは、ちょっと……」
「何故だ?」
躊躇っていた副官だったが、やや俯きながらギルモアの問いに答えた。
「鏡があるから恥ずかしいです……」
「それくらい別に良いだろう」
「良くないです! 自分の顔映るの恥ずかしいじゃないですか!」
ギルモアにはよく分からない感情だ。鏡は現実世界をそっくり映すものであって、自分の顔が映ったからといって何か思うことがあるわけでもない。
だが、副官が嫌がるというのなら別の場所に移ろうか。
「……続き、ソファでしてくれます?」
「ソファでか?」
ギルモアは副官の言葉を反芻した。いつもはベッドに行っていたのに、ソファでやりたいなどとは珍しい。
副官がゆっくりと目線を逸らしたのを見て、ギルモアは得心がいった。
「若かった時の気分に浸りたいか」
こくり、と大男が頷く。
長男がまだ幼い頃は、ソファでお互いを求め合って、そのまま体を繋げることもあった。次男が生まれてからはそもそも2人きりの時間を取ることが難しくなり、息子たちが寝静まってから寝室でこっそりと睦み合っていたものだ。
ギルモアは副官の腕を引いた。バン、と勢い良くリビングのドアを開け、ソファに伴侶を押し倒す。
目をぱちくりとさせる副官の頬に、鼻先に、首筋に、ちゅ、ちゅ、とキスを落とす。ふと顔を上げて相手を見下ろすと、にへえ、とだらしない笑顔を浮かべていた。
「懐かしいな」
初めてソファで行為に及んだのは、留置場で会ったあの日だった。決して営みに向いた環境ではなかったが、それでも2人にとっては大切な思い出だ。
「ええ」
微笑んだ副官の頬を撫でる。明日、彼は休みだ。時間を気にすることなく没頭できる。
ギルモアは、副官の首襟からちらりと覗く歯形に口づけを落とした。
翌日、2人して体のあちこちが痛くなり、「もう若くないからなあ」とお互いの顔を見て笑い合ったのは言うまでもない。(終)