芳香に満ちる(4)コンコンと部屋の扉が優しくノックされる。部屋の主は答えなかったが、外の人物はゆっくりと扉を開き、中へ足を踏み入れた。
「ギルモアくん」
男はベッドの側に立って尋ねた。タオルケットに身を埋め、男に背を向けるギルモアから返事はなかったが、床に膝をつきベッドの縁に肘を置いてもたれかかった。
「巣作りのこと、調べたの?」
「……何故、それを」
「君の端末。検索画面が出たまんまだった」
「……知っていたのか、あれが何か」
「うん」
ギルモアは自身の腕を強く掴んだ。
「知っていて、俺に何も言わなかったのか」
怒気の含まれた声にも、男は怯む様子は見せずに答えた。
「ギルモアくんは知らなさそうだったし、あまり覚えてもいなさそうだったから、言っても混乱するだけかと思ったんだ……後で、ちゃんと話をした方が良いかなとは思ってたんだけど……今、しようか」
男は深呼吸をした。そして、芋虫のようになってタオルケットに包まるギルモアを、優しい目つきで見つめた。
「僕ね、ギルモアくんのこと好きだよ」
ギルモアは布の中で静かに目を見開いた。
「だからギルモアくんも僕のこと好きだって思ってくれたら、嬉しい」
しん、と部屋が静まり返る。静寂を破ったのは、自嘲の含まれた声だった。
「……フェロモンも出せないオメガをか」
ギルモアの言葉に男は目を瞬かせた。
「フェロモン……」
男はそう呟いて黙り込んだが、すぐにまた口を開いた。
「ヒートの時のギルモアくん、ほんのりといつもと違う匂いがするけど、それは違うの?」
「ヒート中のオメガだぞ、ましてやお前はアルファだ……その程度で終わるものか」
「……アルファだからって、必ずしもフェロモンに惹かれてオメガの人を好きになるとは限らないよ」
「オメガを欲する本能が働いた結果ではないと証明できるのか」
いささか強い語気のギルモアに、男は口を噤んだ。
男が女を、女が男を求めるよりも強く、アルファはオメガを、オメガはアルファを求める。例えばアルファの男なら、ベータ女性とオメガ男性とがいた場合、オメガ男性に惹かれやすいのだ。勿論、必ずしも全ての人間がそうなるわけではないが、全体としてそのような傾向にあることは誰もが知っている。
しばらく無言が続いたが、男は再び口を開いた。
「……ギルモアくんは、食事の時の所作が綺麗」
ギルモアはタオルケットの中できょとんとした顔をした。
「料理も上手。僕の体調が悪い時はシチューとかリゾットとか、食べやすいのを作ってくれる。寝る時は大の字で寝てるけど、時々面白いポーズで寝てる。毎日お仕事頑張ってて、毎日家に帰って来てくれる。僕より綺麗好きのくせに、靴下だけはその辺に脱ぎ捨てちゃう。服はシンプルなのが好き。おならしても何にも言わない。嬉しい時とか、照れた時は顔にすぐ出る。それから、ちょっと甘くて優しい匂いがする。体鍛えてるから筋肉があってカッコいい。でも寝顔は可愛い」
ギルモアは目をぱちぱちとさせた。
一体、こいつは何を言っている?
「ね、僕、ギルモアくんの好きなところいっぱいあるよ。僕が君のこと好きだっていうのは、確かで、本当のことだよ」
「……それが全部、アルファの本能によるものだとしたらどうする」
一部愚痴のような言葉も聞こえたような気がしたが、ギルモアはその辺りは聞かなかったことにした。
「全部? うーん、そうだなあ……」
男はしばし逡巡し、そして、何てこともないことのようにけろりと答えた。
「本能も僕の一部だもの。全部アルファの本能に関係があったとしても、僕がギルモアくんを好きなことに変わりないよ」
「……自分の、一部?」
ギルモアは一言そう呟くと、矢継ぎ早に男に問いかけた。
「アルファとしてオメガを求めることもお前の一部だというのか。自分で制御もできるか分からない不確かなものも、理性とは程遠いものも自分自身だと言えるのか」
「うん」
男の口調は優しく、迷いはなかった。
「僕たち人間には理性がある。けれど、自分の感情や行動の全てをコントロールすることはできない……ギルモアくんはお肉好きだけど、好きになろうと思って好きになったわけじゃないでしょ。理由は分からないけど美味しいから好き。違う?」
ギルモアは黙ったままだったが、男は言葉を続けた。
「これが好きとか、嫌いとか、何かをしたい、何かが欲しいとか、そんな気持ちはコントロールできるようなものじゃない。頭の中で電気信号と化学物質のやり取りが成されて、その結果感情や欲求として意識することができるだけ。無性に甘いものが食べたくなるのも、ギルモアくんにぎゅってしたいなって思うのも、僕にとっては同じことだよ……あ、同じっていうのは自分で完璧に制御できない欲求という点ではという意味であって、こう、欲求の方向性とか求め度合いとしてはまた別っていうか……!」
途中でワタワタと手を彷徨わせ弁明を始めた男は、仕切り直しの合図にひとつ咳をした。
「と、とにかく! 僕はね、自分でも制しきれない感情や体の色々なことも、僕を構成する大事な要素で、切っても切り離せないものだと思う。例えアルファの本能が強く働いて何かしらの欲求を感じたからって、僕と違う何かになるなんてことはない。ただ、アルファとしての欲求を感じる僕がいるだけだよ」
ようやく落ち着いた男は、温かな眼差しを向けて言った。
「ギルモアくんにオメガとしての本能が強く働いた影響で、色々なことを感じたり、何か欲しいと思うことがあっても、ギルモアくんとは別の何かになるわけじゃない……僕は、普段のギルモアくんも、ヒートの時にほんのり甘い匂いがするギルモアくんも、僕の服で巣作りして眠っちゃったギルモアくんも、みんなギルモアくんだと思うし、大好きだよ」
男の口調は柔らかなものであったが、最後の言葉には力強い感情が込められていた。
タオルケットに包まる物体は微動だにしなかった。だが男は待った。じっと、何も言わず、ただ待ち続けた。
もぞ、と布の芋虫が動く。殻の形をゆっくりと変形させるそれの、頭の辺りに亀裂が走った。タオルケットの割れ目からぴょこりと触覚が飛び出し、次いで躊躇いがちにギルモアの頭が出される。不安と困惑、そして、喜びの滲み出た複雑な表情をするギルモアを、男は柔らかな微笑みで出迎えた。
「……オメガの本能に、精神すらも縛られるのが嫌だった」
ギルモアと男はふたり、ベッドの端に腰を下ろし並んで座っていた。
「アルファを欲情させるためにフェロモンを撒き散らし、首を噛まれたぐらいで熱を上げ、執着するような、理性のない獣になりたくはなかった。番を作る気持ちも、これっぽっちもなかった」
膝を抱え、呟くように言葉を紡ぐギルモア。その隣で男は、ただ黙ってギルモアの言葉に耳を傾けていた。
「今までは、少し体が鍛えにくかったり、ヒートの時に体が不調になったりと身体的な影響しか出ていなかった……俺はアルファの子種を求めるケダモノではないと、どこかで安心していたのかもしれん」
そう言うと、ギルモアは口を閉じた。足元を見つめるその顔は、迷子の子供のようにも思えた。2人の間に静寂が流れるが、すぐに男が口を開いた。
「……それで、自分が巣作りしたことにびっくりしたの?」
「……」
「……ギルモアくんはさ、僕に対して巣作りしたの嫌だった?」
ギルモアはハッと顔を横に向けた。
「ち、違う」
動揺は見えたが、それははっきりとした否定であった。
「違う、嫌、ではなく、俺は……その……」
辿々しく言葉を発するギルモアの顔が陰る。俯いたギルモアは、膝を抱える腕に力を込めた。
「お前に対して思う……色々な感情は、全て……アルファを欲するオメガの本能によるものなのではないかと…………」
次第に語調を弱々しくさせながらも、ギルモアは言った。
男は腕を組み、考え込むように頭を傾けた。
「てことは、自分はオメガの本能と縁がないって思ってたけど、もしかしたら自分の今までの思考や感情は本能に支配されていたかも、ちゃんと自分で考えて、感じていると思っていたけど、本当はそうじゃなかったのかもって、そんな風に思ったってこと?」
ギルモアは小さく頷いた。流石小説家というべきか、男はギルモアの数少なな言葉から意図を読み取り、丁寧に噛み砕く。ギルモアは頭の中で複雑に絡まり、雁字搦めになっていた思考の蔓が少しずつ解けていくような感覚を感じていた。
「……ギルモアくんが、本当はこんなこと感じたくない、嫌だって思うなら、体に問題があるかもしれないから病院に行った方が良いと思う。でも、そうじゃないのなら……」
すう、と男が息を吸った。
「僕はギルモアくんと一緒にいたい。ギルモアくんも僕に対して望むことがあるなら、応えたい」
「望むこと……」
そう呟き、ギルモアは男の方を向いた。男の目は真っ直ぐで、優しさを湛えていたが、その奥に僅かばかりの怖気の色が見えた。
彼も怯えている。勘違いでなければ、それはギルモアに好意を抱く故だとギルモア自身も分かっていた。
「……巣作りの時も言ったが、嫌だと思ったことはない。お前に対して、色々と思うこと自体は……ただ、その……」
ギルモアは躊躇いがちに言葉を続けた。
「どうしたら良いか、分からん……」
男は安堵したように頬を緩めた。
「そっか……」
緊張感のあった空気が和らいでいく。男は膝の上で手を組み、ギルモアに尋ねた。
「ギルモアくんは、自分の感情と欲求に向き合う練習をした方が良いのかもしれないね」
「練習?」
「そう、練習。ギルモアくんは気持ちは湧き起こっても、具体的に何をしたいかまでは出てこなくて、それでオメガの本能が先に来ちゃってるんじゃないかと思うんだ」
「だとして、どういう練習をするのだ」
「んー……」
男はしばし逡巡すると、そうだ、と両手の平を合わせた。
「ギルモアくん、ちょっと立ってみて」
ギルモアは腰を上げた。男も同時に立ち上がったかと思うと、目の前で両手を広げた。
「1回ハグしてみよう」
微笑みを浮かべた男に、ギルモアはおずおずと手を伸ばす。すると、男にふわりと、柔らかいものを扱うかのような優しい力で抱きしめられた。
「どう?」
中途半端に腕を浮かせていたギルモアは、目をぱちぱちと瞬かせた。ここまで体を密着させるのは初めてで、男の体温と匂いが強く感じられた。
落ち着く。けれど同時に気分の高まりもある。任務が上手くいった時や、勝負事に勝った時の高揚感とは違う、緩やかな喜びだ。
「ギルモアくんはどうしたい?」
耳元で問いかける声はとても優しかった。ギルモアはゆっくりと男の腰に手を回した。細い男の腰を、そうっと弱い力で、抱きしめるというよりはただ触れるような加減で抱き寄せた。
ただ一方的に抱きしめられるよりも、こうしてお互いに抱き合う方が、体の隅々まであたたかなもので満たされる気がした。
「ふふ、ちょっとドキドキしちゃうね」
「そうだな」
小さく笑い声を立てる男に、ギルモアは穏やかな表情で答えた。
空はいつの間にか晴れていて、雲間から覗く太陽の光は眩しく、暖かかった。
それから、2人の日常に「ハグ」が追加された。言い出すのは決まって男の方だったが、数日間ハグをしていないとギルモアの方がそわそわしてしまい、それに気づいた男がハグを持ちかけることもあった。
1日の始めに男とハグをすると元気が出た。1日の終わりにハグをすると疲れが癒やされた。おそらく、他の人間、他のアルファと抱擁してもこうはならないだろうと、ギルモアは思うようになった。
思えば、自分は行き場のない欲求を暴走させることを恐れていたのかもしれない。不特定のアルファに性的欲求を向け、誘惑し、まぐわいを迫るような人間になってしまうのではないかと。だが今は彼がいる。どんな己も、オメガとしての本能が出た己すらも好きだと告げてくれた彼が。彼ならきっと、強く本能が出てしまっても受け止めてくれるだろう……いや、己を受け止めてくれるのは彼だけだろうし、他のアルファには向けたくもない。もし彼が他のオメガに迫られたとしたら、その不埒なオメガを投げ飛ばしてやる。
今日も今日とて彼と抱き合う。週の終わり、仕事で疲れ切った身を男に擦り寄せた。いつもならこちらから手を離すのが終わりの合図だが、ギルモアは男を抱きしめたままぼんやりと考え事をしていた。
最近、ハグだけではどうにも物足りなくなってきてしまった。ヒートが近づいてきているせいなのだろうか。もっと触れ合いたい、熱いものが欲しいと思ってしまう。
しかしこの欲求をどうすれば良いのか。
「……ギルモアくん?」
なかなか手を離さないことを不思議に思ったのか、男が声をかけてきた。
「……」
ギルモアはそっと腕を緩め、半歩下がった。
「……ハグ以外に、何かないのか」
男は一瞬呆気に取られた表情を浮かべたが、すぐにパッと明るい笑みを浮かべた。
「そうだなあ、何があるかな……」
考えを巡らせながらも、彼の頬は緩み切っていた。遠回しなれど、ギルモアの言葉はつまり、先に進みたいという意思表示であった。
「キスはどう?」
「……まあ、良いんじゃないか」
男はにこりと微笑んだ。
「じゃあ僕から」
ギルモアの右頬に、軽く唇が触れた。まるで小さな子供同士が戯れにするキスのようであった。
ぽっと顔が熱くなる。結婚式の時、誓いのキスはしなかった。形式としては挨拶に近いものの、2人にとっては初めてのキスに他ならない。
男から期待の眼差しで見つめられ、ギルモアも男の頬に口付けた。ぶちゅ、と何とも不恰好に唇を押し当てただけであったが、それでも男は嬉しそうに微笑んだ。
胸の奥がほわほわと温かい。感情を向け合い、受け止め合うことがこんなにも満たされるとは。だが、今に幸福感を感じる程に、ある点に不安を感じてしまう。
「……ヒートの時」
ギルモアは口を開いた。
「ヒートの時は、どうする……?」
前のヒートの時、いつの間にか巣作りをしていた。次のヒートでも熱に浮かされ何かしでかすのではないのだろうか。ハグやキス以上のことを彼にせがんでしまったら。
もっと、もっとと彼を求める気持ちが高まって、完全に理性のタガが外れてしまったら。
「そうだねえ、どうしようか」
「……もし、何かやらかしたら躊躇なく張り倒せ」
「ギルモアくんなら多分大丈夫だよ」
男はニコッと笑みを浮かべた。
「何故そう言い切れる?」
「今までのギルモアくんを見た感じ。自分からどうこうってのはこの間の巣作りだけだったし」
「そう、なのか?」
「そうだよ。君は……ちょっと寂しがりなだけだもの」
寂しがり?
ギルモアは男の言葉に首を傾げた。そんなことを人から言われたのは初めてだ。
「で、何かやらかすっていうのは、ハグやキス以上のことを求めるあまりっていうこと?」
図星を当てられたギルモアは気まずそうに目を伏せた。
「……ヒートの時は、特別な練習をしてみようか?」
「特別な練習?」
男の提案に、ギルモアは顔を上げた。
「そう。ハグやキス以上のことをやってみるのはどう?」
ハグやキス以上のこと、となると。
ギルモアの頭にある単語が浮かぶ。いや、確かに我々は婚姻関係にあるアルファとオメガで、「それ」をしても何らおかしくはないのだが……彼と、つまり、そういうことを……。
触覚を赤くしたギルモアに、男は続けて言った。
「服を脱いで触り合いっこしてみるのはどうかな? そうしたら、ギルモアくんもヒートの時どうしたら良いか掴みやすいと思うんだ」
「……あ、ああ」
想像よりもマイルドな案を持ちかけられ、面食らったギルモアは呻くような頷きを返した。
そうか、練習だから急にハードルを上げたりはしないか。無意識に生々しい妄想をしてしまった自分が恥ずかしい。
とはいえ、ハグとキスから比べたら大きな一歩だ。ヒートの際、自分がどんな欲求を抱くか、どこまで欲求に従い、どこからは止めれば良いのか、それを把握する良い特訓にはなるだろう。
ぐるぐると考えるギルモアに、男は半ば独り言のように言った。
「まあ、下着も全部脱ぐかパンツも脱ぐかはその時の気分で考えれば良いか。ギルモアくんの体調にもよるだろうし」
と、男は自分の首を指差した。
「……首のは、外すか着けたままかはギルモアくんの好きにしてね」
それが保護具のことを指しているのだと、ギルモアはすぐに分かった。
アルファとオメガの特別の繋がり、番。アルファがオメガのうなじを噛むことで、お互いだけに分かるフェロモンを出せるようになり、より強く惹かれ合うのだとか。
既に惹かれ合う2人が番になったら、一体どうなるのだろう。変わらないのか、もっとお互いを求めるようになるのか。己もフェロモンを出せるようになるだろうか。彼の発情フェロモンを嗅いだことはないが、それも自分だけが分かるようになるのだろうか。
一度番を成立させれば、オメガの方から番を解除させることはできない一方、アルファはオメガの断りなく番関係を終わらせることができる。その上、番を解消されたオメガは、その後二度と番を持つことができなくなると言われている。オメガにとっては不利な面も大きい契約だ。
番となることで、自分の中の何かが変質してしまうのではないかと恐れる気持ちは今でもある。首の保護具を外すことも躊躇われる。けれど、長い階段をゆっくりと一段ずつ登るように、彼と共に歩んだその先でならきっと。
再び彼の腰に手を回す。とくとくと小鳥のように脈を打つ心臓を押し付けるように身を寄せると、優しげな微笑みと共に抱きしめられた。(続)