かぐわしのあなた(5)番になりたい、と伝えてから1週間経った。俺たちの生活に変化はない。一緒に部屋へ帰って、ご飯を食べて、寝て、朝起きる。いつもと変わらない日常だ。
ただ、時折ギルモアさんが、じっと俺を見つめることが増えた。何か考え込んでいるような、そんな目つきをして。
今日、俺は休みだけどギルモアさんは仕事だ。体を動かしたい気分になって、ぶらぶらとピリポリスの駅前を歩く。クーデターの時は酷く寂れていた大通りも、今やすっかり人で賑わう場所になった。
デパ地下にでも行って、ギルモアさんの好きそうな菓子かつまみでも探してこようかな。人混みの中を歩いていると、通りに面したガラス張りの店が目に入った。モノクロのシックな外装に、シルバーの看板。ガラスの向こうでは若い男女が何人か、小さなケースの中を覗き込んで話している。彼らの目線の先には、煌めく腕輪があった。
ピリカには、婚約や結婚の証として相手に腕輪を贈る習慣がある。ギルモアさんが、これからもずっと共にいると言ってくれたのなら、お互いの気持ちの証としてペアリングを買うのも良いかもしれない。
ちょっとだけ、覗いてみようかな。
興味が湧いた俺は、ガラス張りの扉を開けた。カップルの多い店内にたった1人で男が入るのは場違いかと思ったが、意外と1人で来ている人間も何人か見られた。
宝飾類のことはさっぱり分からないが、まずはショーケースを見る。クッションに埋め込まれた腕輪が、照明を反射してきらりと輝いていた。宝石のないシンプルなデザインだが、値段を見て俺はひっくり返りそうになった。
たっ、たっけえ〜〜〜!!!
叫びたくなる気持ちを堪え、ごくりと唾を飲む。腕輪ってこんな高いのか?
慄きつつも隣のケースへ。今度は複雑な紋様が刻まれた腕輪だ。値段はさっきの倍ある。
思ったより値段が高いが、貯金額を考えれば払えない金額ではない。問題はサイズだな。俺は手首が太いから、それに合うサイズがあるかどうか……。
そう考えながらケースを見ていると、隣にいたカップルの片割れ、女性がふらついたのか、俺の左腕にもたれかかるようにぶつかってきた。
「あっ、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ」
女性はすぐに自分の彼氏の方に寄り、「つまづいちゃった」と恥ずかしそうに笑った。彼氏の方も「びっくりしたよ」と心配しつつも笑みを浮かべていた。
ケースに目線を戻す。すると、端の方、大きなサイズのペアリングが飾られていた。輪に嵌められた宝石は、一見色のないように見えるが、角度によって空色にも紫色にも見える。
綺麗だ。宝石の色が、俺とあの人を表しているように思える。
目を奪われたように見つめていると、店員さんに声をかけられた。
「お気に召しましたか?」
感じの良い女性の店員さんだ。俺は「は、はい」と頷いた。
「こちら、角度によって色を変えるスカイジュエリーを埋め込んだリングでございます。ペアでお買い物求めですか?」
「いや、えっと……」
何と言えば良いものか。まごまごしていると、店員さんはにこやかに尋ねてきた。
「ではおひとつでのお買い求めでしょうか?」
「……実は、その、確定ではないんですけど、ペアリングを買う……かも、しれなくて、ちょっと見ておこうかなって……」
まるで遅刻の言い訳をする小学生のように、しどろもどろになって答える。店員さんはそれで事情を察してくれたらしい。
「そうでしたか! 下見でいらっしゃるお客様も多いですから、何かありましたら遠慮なくお尋ねくださいね」
早とちりだと言われたらどうしようと思ったが、優しい店員さんで良かった。俺はほっと胸を撫で下ろした。
店員さんによると、俺が見ていたリングは様々なサイズが用意されているらしく、俺やギルモアさんのような大柄な人間向けのサイズも在庫があるとのことだった。それなら、ギルモアさんの返事を待っているうちに売り切れてしまうなんてことはなさそうだ。
店を出ると、もう夕方だった。落ちかけた陽が、ビルの隙間から道路を照らしている。店員さんと随分話し込んでしまったようだ。
急いで百貨店へ向かって、紅茶に合いそうなクッキーを購入する。本部への足取りは軽い。足に羽根でも生えたかのようだ。
と、鞄の中から着信音がした。携帯端末を取り出すと、ドラコルル長官からの着信だった。
何か緊急事態でも起きたのかと、心臓をドキドキさせながら電話に応じる。ところが、告げられたのは思いもよらぬ言葉だった。
『副官! お前のプライベート写真がニュースになってるぞ!』
ネットニュースを見れば、確かに俺の写真が記事に掲載されていた。「ピシア副官、地下アイドルと熱愛か!?」という突飛なタイトルと共に。
記事の内容は荒唐無稽も甚だしく、捏造という他にない。しかし写真に写っているのは確かに俺で、その隣にしだれかかるように女性が立っている。
……これ、さっきの腕輪の店で女性がぶつかってきた瞬間を切り取った写真じゃないか?
偶然この写真が撮れたというわけではないはずだ。おそらく張られていたのだろう。あのカップルもグルだったのかも。それで、ネタになりそうな写真が撮れたからそれっぽい記事を書いた、そんなところだろう。妙なところで断定を避けており、あくまで記者の推測だと断って書かれているのは、いざとなれば「嘘を書いたのではない。この写真から想像したにすぎない」とシラを切るためか。
しかし読み手にとっては、それらしい写真と文章があれば、嘘ですら真実となる。記事はすでにSNSで拡散されており、多数のコメントが付けられていた。
ドラコルル長官に事情を説明すると、「そうか。とりあえずはマスコミに聞かれてもノーコメントで通す。お前もしばらく表に出ないほうが良いだろう。災難だったな」と言われた。
夜の闇の中、重い足取りでピシア本部へ帰る。
将軍室の扉を開け、奥の壁のとある箇所に手をかざす。いつもならすぐに開くはずの壁は、うんともすんとも言わなかった。
えっ、何で。
何度も手をかざしたり、手を押し付けたり、軽く叩いたり。しかし状況は変わらない。
もしかして故障したのか? ギルモアさんは既に執務室にはいなかった。もし彼が私室の中にいて、内側からも開けられないのなら、ギルモアさんは部屋の中に閉じ込められていることになる。
「ギルモアさん、ギルモアさん!」
声を上げると、壁の向こうで人が動く気配がした。
「扉が開かないんです。そっちから開けることは──」
すると、低く唸るような声に遮られた。
「二度と来るな」
思わずびくりと体が震える。
「……ギルモアさん、な、何で」
何とか言葉を絞り出し、尋ねる。返事はなかった。
ギルモアさんに拒まれた? どうして? 俺は何かしてしまったのか?
少なくとも今朝の時点では普通の態度だったのに……。
と、先程起きたアクシデントのことが頭に浮かぶ。
「ま、まさかニュースを見たんですか?」
地下アイドルと熱愛しているという、単なるでっち上げのニュース。まさか記事を見て誤解を?
「あれはマスコミの捏造です! 女性にぶつかられましたが、本当にそれだけで──」
「もういい」
あわあわと事情を説明していると、静かな声に制された。
「ここへ二度と来るな。以上だ」
怒りよりも諦めの感情が強く感じられる声だった。壁の向こうで、足音が遠ざかるのが分かった。
「待ってください、ギルモアさん! ギルモアさん!!」
壁に縋り付き、名前を呼ぶ。しかし返ってくるのは静寂ばかり。
「ギルモアさん……」
最後の呟きを絞り出すも、返される言葉はなかった。
アパートとピシア本部の往復。繰り返される無機質な日々。「おはよう」も、「おやすみ」も、「ただいま」も「おかえり」も口にしない毎日。ひとり暮らしには慣れているはずなのに、胸にぽっかりと穴が空いたような感覚は消えない。
時間が経てば、ギルモアさんも冷静になって話を聞いてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて送ったメールに、未だ返事は来ないまま。
自分が迂闊だったとは思う。虎視眈々とピシアのアラを探すマスコミが、メディア露出は少ないとはいえ副官という地位にある俺をマークしていないはずがなかったんだ。
これまで、ドラコルル長官とギルモアさんがマスコミの餌食になったことはない。長官はおそらく、外に出る時はかなり気をつけているんだろう。ギルモアさんはほとんど外に出ることはないから、少なくともプライベートな時間のことをネタにされることもない。飢えたマスコミの前に、俺という餌が転がって来たんだ。そりゃあ嬉々として捏造記事を飛ばすだろうな。
正直、それ自体はそこまでショックじゃない。今一番辛いのは、ギルモアさんが俺よりも、あの記事を信じてしまったことの方だ。
友人や家族とは、クーデターをきっかけに疎遠になった。彼らが記事を信じるか信じないかなんてどうでもいい。でも、ギルモアさんは、ギルモアさんだけは、俺のことを信じてくれるのだと思っていた。今までずっと、将軍のプライベートルームという小さな世界の中でだけど、共に時間を過ごし、愛を育ててきたのだからと。
それは幻想だったのだろうか。俺は本気で番になりたい、結婚したいと考えていたけど、あの人は違ったのだろうか。俺と、真偽の不確かなマスコミの記事とで、後者を選ぶような、その程度の関係だったのだろうか。
唯一の救いは、ドラコルル長官や部下たちは俺の話を信じてくれていることだろうか。記事が出た翌日には色々な人が慰めてくれたり、元気づけようとしてくれた。
でも俺は、やっぱり、ギルモアさんに信じてほしかったんだ。
「……護衛任務、ですか?」
そう言うと、目の前に立つ人──ドラコルル長官は頷いた。
「ああ、ギルモア将軍は来週に休みを取って人と会うそうだ。その間の護衛を、副官と中隊長に頼みたい」
俺の隣に立つ部下、ユタ中隊長は「はい」と短く答えた。
「将軍には護衛の存在は伝えていない。何か非常事態が起きない限りは、将軍に悟られないように護衛してくれ……中隊長は将軍の近くで周囲を見張るんだ。副官は目立ちやすいから、少し離れた位置にいるように。それから、将軍は時々、体調を崩されることがある。何かあれば病院に連れて行ってくれ」
「承知しました」
俺と中隊長、2人の声が重なる。
それから、ギルモアさんが移動する経路と、ギルモアさんが会う人、そして会食に使用する店を確認する。
会う相手は金融庁に勤める官僚の男。年は70代。そういえばテレビで観たことがあるような。目鼻立ちがギルモアさんに似ているように見えるのは気のせいだろうか。
ギルモアさん、プライベートでの知り合いがいたんだ。今でも会うってことは、余程仲が良いのかも。
副官室に戻って、私用の連絡用端末を起動させる。メールの返事は、やはり来ていない。
こういう時、どうしたら良いんだろう。どうやったらギルモアさんと話ができるだろう。最近は会議もないから顔を合わせる機会もない。仕事が終わってから将軍室に向かっても、ギルモアさんはもう私室に行ってしまっているのか、執務室はいつも無人だ。今度の護衛任務だって本人には秘密だ。俺がいることを知られてはいけない。
ため息をついて椅子に座る。ずうっとこのままだったらどうしよう。ギルモアさんに信じてもらえなかったことはショックだったけど、また以前のような関係に戻りたい。でも、その方法が分からない。
答えの出ないまま、とうとう護衛任務の日がやって来た。夕方に本部を出発したギルモアさんの後を、俺と中隊長とで追う。帽子を目深に被って、くすんだ色の服を纏った彼は、一見冴えない老人にしか見えない。通行人たちは誰も、その人がかのギルモア将軍であると気付いていないようだった。
何事もなく目的地に着く。政治家や官僚が御用達の料亭だ。俺たち護衛は、ギルモアさんが通された部屋の、隣の部屋で待機になる。
ここからは、ギルモアさんのいる部屋にこっそり設置している監視カメラを通して、ギルモアさんやその周囲の様子を確認する。中隊長と2人、座布団の上に座り、机の上に置いたモニターを見るため肩を寄せ合う。
ギルモアさんが机の片側、座布団の上に腰を落とすと、部屋の襖が開かれた。
『久しいな、ギルモア』
ワイヤレスイヤホンを通して、人の声が聞こえた。間違いない、例の官僚の男だ。旧知の仲なのか、くだけた口調で挨拶をするも、ギルモアさんは一瞥をくれただけで言葉は返さなかった。
『最近病院に通っているそうだな。どこか悪いのか?』
黙りこくっていたギルモアさんはようやく、顔を上げて尋ねた。
『何故それを知っている』
男は上着を脱ぎ、畳んで鞄の上に置いた。そして、ギルモアさんの正面に座ると、涼しげな笑みを浮かべたのだった。
懐石料理を食べる2人の間に会話はなかった。全ての皿が空になり、酒を飲み始めてようやく、男の方から口を開いた。
『お前、俺に話があるんだろう』
赤い猪口を軽く揺らしながら、男は言葉を続けた。
『ずっと俺の連絡を無視しておいて、今になって応えたのは何故だ?』
ギルモアさんは猪口を思い切り傾け、酒を飲み干した。そして大きくため息をつくと、男の言葉に答えた。
『……今、病院に通っている』
『ああ、知っている』
『ヒートが始まったからだ』
機嫌良さげに、徳利から猪口へとくとくと酒を注いでいた男の顔が固まる。徳利を置いて、まじまじと向かいのギルモアさんの顔を見つめた。
『原因は不明だ。何故始まったか、いつ終わるかも分からん。弱い抑制剤を処方されてはいるがな』
『そう、か……』
男はギルモアさんを疑ってはいないようだった。納得したような声で呟き、猪口に注いだ酒を啜った。
それからしばらく沈黙が続く。2人とも、相手などいないかのように、ただ酒を呑む。
この2人、一体どういう関係なんだろうか。男は、ギルモアさんからヒートの話を聞いて、驚いたようではあったがそれ程動揺はしていなかった。前からギルモアさんがオメガ性だと知っていたのか?
親しそうに見えて、でもどこかよそよそしい。不思議な関係だ。
次に口を開いたのは、ギルモアさんだった。
『……失恋を、したことはあるか』
男は一瞬目を見開き、そして口を大きく開けて笑い出した。
『はっはっは! まさかお前の口からそんな言葉を聞く日が来るなんてなあ!』
酔いが回って気分が高まっているのか、男は意気揚々とと語り始めた。
『そうだな、学生時代、同じ学科でよく同じ班になる女子がいてな。綺麗な子で、気も合って、告白しようかと思ったんだが……彼女は既に相手がいた。あれが初めての失恋だったなあ。いや、俺は告白するよりされる方が多かったからな、全て断っていたからどちらかというと失恋させる側だった』
『どうやって立ち直った』
『駄目だったことに執着しても仕方ない、次があるさと己を奮い立たせていたな』
男はとても楽しげだ。
『次なんぞあるわけがない』
一方で、ギルモアさんの声音は震えていた。
『この年齢で、この風貌で、この社会的地位で! 次があるものか!』
突然叫び声を上げたギルモアさんを、男は静かに見やった。
『全てそうだ、全て……ワシの前からいなくなる……』
一転、弱々しい声で語ったギルモアさんは、乱暴な手つきで猪口に酒を注ぎ、ぐいと呑み干した。
『失恋したのか?』
男の問いに、ギルモアさんはため息をついてから答えた。
『浮気された』
『浮気!? 付き合っていたのか!?』
ギルモアさんは顔を俯け、呟くように言った。
『ワシよりもずっと若い、女と……腕輪の店に行っていた』
『そうか……』
男は、悲しみと哀れみを混ぜたような
複雑な表情を浮かべた。
やっぱりギルモアさんは、俺があの女性と交際していたと思っているんだ。
違うんです、あれはたまたまぶつかられた時の写真なんです。マスコミの記事はでっち上げなんです。信じてください。
そう叫びたい気持ちを堪え、俺は拳を握りしめた。
『お前、今ピシア本部に住んでいるだろう。退官した後、行く当てはあるのか』
ギルモアさんは答えなかったが、男は気を悪くした様子もなく続けて問いかけた。
『ウチに来ないか』
ギルモアさんははっと顔を上げた。
『今住んでいるのは、俺と、妻と、長男一家なんだが、部屋がいくつか空いていてな……家が嫌なら、長らく使っていない別荘でも……離れにでも住まって構わん』
心臓が嫌な鼓動を打つ。
ギルモアさんがいつ退官するかは未定だ。クーデターの罪を償うという名目で特別に将軍職に就いており、特別な事情がない限り辞めることはできない。そういう決まりになっている。
でもいつかは、年齢や体調を理由に退官することになるだろう。そうなったらギルモアさんに、俺のアパートに来ませんかと、それか2人で住むところを新しく探しませんかと言うつもりだった、のに。
だめ、だめです、行っちゃだめ。
心臓が早鐘を打つ。胃の辺りが、ぎゅっと掴まれたように痛くて、苦しい。
部屋が静かになる。ギルモアさんは考え込んでいるのか、口を噤んだままだった。
『もしウチに来る気になったら連絡を寄越せ。俺はトイレへ行ってくる』
男は部屋の襖を開けて、廊下へと出て行った。足音が遠くへ消えたところで、隣に座る中隊長から声を囁きかけられた。
「副官、顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
好きな人が、俺を誤解したまま他の人のところへ身を寄せようとしているのを聞いて、平気でいられるわけがない。
今すぐギルモアさんのところへ走って、あれはマスコミの嘘だ、あの人のところへ行かないでくれと懇願したい。
でも、今は職務中だ。非常事態が起きない限り、ギルモアさんに俺たちの存在を悟られてはならない。
この壁の向こうにいるけど。会おうと思えば会える距離だけど。それだけはやっちゃあいけないんだ。
「大丈夫だ、ちょっと疲れが出ただけだ」
無理矢理笑顔を浮かべて、中隊長にそう返す。遠くへ行った足音が、またこちらの方へと帰って来た。あの男が戻って来たんだ。
息をひそめ、気配を消す。このまま部屋の前を通り過ぎるだろうと思ったその時。
「おい、さっき厨房で酒の追加を頼んで……」
開けられたのは俺たちの背後にある襖だった。振り返ると、頬をほんのりと赤く染めた男が立っていた。
「ああいや、すまない、部屋を間違えたようだ」
背筋が凍りつく。やばい、非常事態だ。護衛対象の同行人に存在を知られた。
「あ、あのですね……!」
ギルモアさんには俺たちのことを言わないでくれるよう頼むしかない。立ち上がって男の前へ歩み寄ると、低い声が耳に届いた。
「ところで、この料亭は俺が貸切にしているのだが……」
男の目が鈍く光ったような、気がした。
機嫌良さそうに酒を呑む男、その向かいに不機嫌なギルモアさん、そしてその隣は俺、さらに隣は中隊長。
男には、俺たちの身分と何故ここにいるかを明かした。すると、「隣の部屋でこそこそと待機なんぞまどろっこしい。こちらへ来い」と強引に隣の部屋へ連れて来られてしまったのだ。勿論ギルモアさんは驚いていた。そもそも護衛がついているなんて知らなかったのだし、しかもその護衛に俺がついていたとなれば……。
ずっと会いたかった人に会えて嬉しい気持ちはあるが、同時に俺の胃はキリキリと音を立てそうなくらいに痛かった。護衛対象に存在を知られないようにと言われていたのに、失敗してしまった。長官になんて言えば良いんだ。報告書もとんでもない量になるかも。
お通夜状態の俺と中隊長に、男は声をかけてきた。
「何だ、呑まんのか」
「職務中ですのでご遠慮させていただきます……」
俺たちの前には猪口が置かれている。しかし、こんな事態になったとはいえギルモアさんを護衛する任務の最中に酒なんか飲めるはずもなく。
ちらりとギルモアさんに目をやる。眉間に眉をしかめつつも、猪口に酒を注いで飲んでいた。
「今時の若いモンは真面目だな。昔は警察でも役人でも、誘えばすぐ飲んでいたぞ」
はっはっは、と部屋に笑い声が響く。
「先程は恋の話で盛り上がってなあ。若人二人もほれ、浮いた話のひとつやふたつあるだろう」
それは、話をして場を盛り上げろということなのか?
男は酔っているように見えて、しかしまだ目にはしっかりと理性が宿っている。俺たちを翻弄して楽しみたいのかもしれない。
ここは、二人のうち立場が上の俺が先陣を切るべきだろう。しかし恋の話なんて、隣にいるこの人との話しかないぞ。
少し悩んでから、俺は意を決して口を開いた。
「……実はその、この年になってですが、初めて交際というものをしまして」
「ほほう」
男は興味深そうに目を細めた。
下手に取り繕ったって、すぐに嘘だとバレてしまう。いっそ本当のことを話してしまった方が良いんじゃないかと……そして、ギルモアさんに、俺の今の気持ちを伝えるチャンスだと思ったのだ。
「なので経験は乏しい方です」
「相手は?」
「かなり年上の人です」
「出会いは?」
「職場です」
話題の中心が俺になったことで中隊長は安心したのか、ほっとした表情をしていた。ピシアは若い世代が中心だけど、俺より年齢が上の隊員も沢山いる。これだけぼかして言えば、中隊長でも相手を特定することは不可能なはずだ。
「ふうん、きっかけは?」
「最初は……その人から、良い香りがすると思ったんです。香水なんだろうと思ってましたが、後で、その香りはフェロモンだと気づきました」
「お前、アルファなのか?」
「はい」
俺は男の言葉に頷いた。
「俺は、人のフェロモンが分からない体質だったんです。でも、その人のフェロモンだけは、ヒートでなくとも分かって……」
「ふむ、不可思議なこともあるのだな」
男は肘鉄をついた。
「まあその、一緒にいる時間も多く、遂に家に呼ばれるようにもなりまして、同棲をしていたんですけど……」
言い淀んだ俺を不思議に思ったのか、じっと男がこちらを見つめる。
「その、この間追い出されてしまったんです」
「喧嘩でもしたのか?」
「いえ……マスコミが、自分と地下アイドルが熱愛関係にあると捏造記事を出して、あの人はそれを見てしまったらしいんです」
「ああ、ワイドショーで見た気がするな。それで向こうは浮気されたと思ったわけか」
「ええ」
と、男は豪快に笑った。
「はっはっは! 奇遇だなあ、浮気された男と、浮気と誤解された男が同じ場にいるとは……それで、まだ弁解はしていないのか?」
「メールはしたのですがまだ返事が返って来ておらず……それに、職場でも会う機会がほとんど無くなってしまったもので」
「はあー、それは大変だな」
男はにこにこと笑って相槌を打った。
「では復縁は諦めるのか?」
「いえ、諦めません」
即答すると、男は意外そうに目を丸くした。
「新しい相手を探した方が良いんじゃないか? まだ若いからすぐ見つかるだろう」
「……確かに頑張って探せば、交際相手は見つかるかもしれませんね」
俺は膝の上の拳を握った。
「でも、あの人の代わりはいないんです。仮に、もっと若くて、もっと官能的な人が目の前に現れたとしても、あの人と一緒に過ごして積み重ねた思い出と……愛情に勝るものはありません」
男は愉快そうに目を細めた。
「熱烈だな。そして饒舌だ」
「焦ってるんです。その人が、他の人に誘われているのを偶然聞いてしまって。俺の家に来ないかと」
「何と。そいつは何者だ?」
「自分の知らない人で、その人とどんな関係なのかも分かりません。ただ……親しい間柄のように見えました。もしかしたら……」
俺は間を開けて、おそるおそる口を開いた。
「もしかしたら、元カレなのかもと──」
その言葉を途中で遮ったのは、しわがれた声だった。
「も、元カレなわけがあるか!!!」
俺はハッと顔を上げて声の主、ギルモアさんを見た。
「こいつとはただの腹違いの間柄だ! 妙な妄想をするな!」
ギルモアさんは正面の男を指さし、顔だけでなく触覚までも真っ赤にして、俺に向かって怒鳴った。ぜえぜえと息を荒くしていた彼は、自分の叫んだ内容が意味することに気づいたのか、狼狽え始めた。
「あ、いや、これは……」
中隊長は意味が分からないのかぽかんとした表情をしていたが、男は真実を察したらしい。みるみる口角を上げて、ついに大声で笑い始めた。
「はっ、ははははっ! 事実は小説より奇なりとはまさにこのことよ! なあギルモア、浮気は誤解らしいぞ?」
男は愉快そうに笑みを浮かべてギルモアさんを見た。ギルモアさんはがっくりと俯いていたが、触覚は真っ赤な果実のように染まっていた。
後で改めて話し合いができればと思っていたけど、まさかこんなことになるとは。博打に出たは良いものの、思ってもみないところにまで誤爆してしまった。
と、男は徳利を持ち上げ、猪口に酒を注いだ。
「若いの、俺たちは異母兄弟でな。惚れただの腫れただの、そのような関係ではない、安心しろ。ちなみに俺が兄だ」
「し、失礼しました!」
机に頭を打ちつけそうな勢いで謝罪する。
二人は兄弟だったのか。それなら我が家に引っ越さないかと提案したって何もおかしくない。
ギルモアさんの言葉を借りれば、妙な妄想をして早とちりしてしまった自分が恥ずかしい。
そうっとギルモアさんの方へ目をやると、頬に赤みを残したまま猪口に酒を注いでいた。周知を誤魔化すように、ぐいっと勢いよく酒を煽る。
「お前にも春が来たか。健気で情熱的な相手じゃないか、良かったな」
兄の言葉に、ギルモアさんは嫌そうな顔をして返した。
「……マスコミに流すなよ」
「流しはしないが、酒の肴にするくらいは良いだろう?」
会話する兄弟を横目に、俺は隣の中隊長に囁きかけた。
「今日のこと、他の人には言わないでくれるか」
「は、はい」
ようやく事態を理解したのか、中隊長はしっかりと頷いて答えた。今度奢るからさ、と言い添え肩を叩く。
再び、ギルモアさんの方へ顔を向ける。酒を呑むその横顔は、安心したような、柔らかな表情に見えた。(続)