前半 これはイライにとっての転機であった。
まず彼は本社から地方支店への移動が命じられた。これは降格などではなく昇任の為に必要なカリキュラムであり、つまり栄転への橋がかりであった。
そして何より彼にとっての幸運な出来事が訪れることになる…。
⁂⁂⁂
慣れない土地や業務で心も体も疲れ切っていた時だ。
いつもは通らない仮住まいのマンションとは反対方向への道が不思議と気になって、重い足をえんやこらと動かした。そこは街灯もチラリとある程度の昔は商店街として流行っていただろうシャッター街。時間も時間なだけに人の気配はない。代わりに春の終わりに近い肌寒くもベタりとした湿気を感じ、なぜこんなところへやって来てしまったのかと軽く絶望する。
明日も仕事だというのに夕食も買わずにフラフラしていて良い時間ではなかった。
イライは引き返すかタクシーを頼むかと辺りを改めて見回す。先ほども言った通り人気のないシャッター街。だが一軒だけ、民家でない電子的な光が瞳を刺し、さらにそこから香るのは空腹の胃袋を絞るケチャップの焦げた香り。
この時イライはほぼ無意識に足を動かし、誘われ様に古く燻んだ重めのガラス扉を潜っていた。
店内は案外綺麗にされていて、重めの4人がけテーブルがいくつかと狭いカウンターテーブル。昔懐かしい小さなブラウン管テレビが天井付近に設置され、昼間は常連客の憩いの場となっているのかもしれない。しかし今店内には誰もおらず、なんなら店員すらいない。
もしかしたらもう閉店かもしれない、慌てて時間を確認しようとした時だった。
「ぃ、いらっしゃい、マセ…」
こちらにまで伝わるほどに緊張した様子の上擦った声。細すぎて聞こえずらかったが確実に女性の声で、その方向へ振り向けば腰に巻くだけの黒いエプロンを着けた、月を落とし込んだように淡く美しい人がそこにいた。
イライは一目で心を持っていかれた。
その後に出てきたマスターによって食事を作ってもらい無事食事にありつけたイライはその日からそのカフェという名の大衆食堂の常連客となった。
安くて量も満足なのにうまいという高パフォーマンスで食後のコーヒーもうまい。何より、そこにはイライのお目当ての人物がいる。
あの時の女性店員ことイソップ・カールは、イライが初めてこの店へやってきた日が初出勤だったらしく、元々人との交流は苦手なのだそうだが、知り合いであったマスターが人手不足というから手伝いでアルバイトをしているらしい。
「初めて来たお客さんがイライさんで良かったです」
そう言って滅多に笑わない彼女の目元がふわりと弧を描いた瞬間、イライはノックアウトだった。
それから芦毛く通った末に彼女と同じ小説作家が好きなことが判明し、そこから店外でも会ったりと距離をグングンと縮めて言った末にやっとの想いでお付き合いすることに…。今ではほぼイソップの家に同棲状態でイライはかなり浮かれていた。
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イソップは一度就職に失敗している。
地元は田舎だからと栄えている在学していた大学周辺の中小企業へと入社した。しかしあまりにもブラック企業であったために数ヶ月で退社となり、その一連の出来事がトラウマとなってなかなか再就職に踏み切れないでいた。
そんな中手を差し出してくれたのが今のアルバイト先のマスターだ。イソップが大学在学時から利用していたカフェのためお互い顔見知りで、さらには卒業後も常連となっていたしなんならブラック企業の愚痴も話していた。なので退社したことも知っていたマスターにより「再就職するまでは置いといてやる」と、高齢なのに年を感じさせないマスターの好意で置いてもらっている身分であった。
そんなバイト初日、まさかの運命の出会いがあるだなんて誰が思うだろうか…。
その時に出会ったイソップの恋人ことイライ・クラーク。物腰が柔らかく人懐っこい顔立ちで素敵な男性だ。特別人見知りが激しいイソップにも和かに話しかけてくれて、けしてペースを急かすようなことはせず、いつの間にかイソップの心の中にドッシリと居座ってしまった。
だがイソップは知っている。
イライは、地元に本命の恋人がいるのだ…
それはいつだったか、イライがスマホを置きっぱなしにうたた寝をしていた時だ。
可愛らしいアイキャッチ音が聞こえたと思ったらイライのスマホ画面にメッセージの知らせが届いた。とくに意識はしていなかった、だがたまたま見えたそのメッセージの冒頭の文…
『忘れ物してるよー♡』
たんだその一文、女性なのは名前から確実だったがハートマークくらい友達同士の戯れの一環で使うこともあるだろう。だがこの一石のはイソップを酷く不安にさせた。
それから、いけないとはわかっていてもイライへ届くメッセージが目についた。
『次に帰ってくるときはお土産よろしくね』『最近下着おしゃれじゃない?笑』『今度の土曜帰ってくるなら唐揚げ作るよー』
どれも同じ人物からのメッセージで、流石にこれは友人の範囲を超えているのでは無いだろうかという事まで書かれていて、そういえばコチラのイライの部屋へも行ったことがない事に気がつく。1つのメッセージが布石となり、広がる波紋が胸の中を侵食し、たどり着いた答えにイソップの心はキシキシと悲鳴を上げる。
『イライは現地妻としてイソップと付き合っているのではないか…?』
最近は頻繁に誰かと電話で連絡をとったり、土日は地元に帰ることが増えた。
こんなこと本人に直接聞いてしまえば良いのに、今まで恋人はおろか、人付き合いもまともにして来れなかった自分がどのように言えば良いのかわからない。なにより今までの優しい彼の言動や温もりが全て偽物だったと言われてしまうのが1番怖かった。
そしてある日、決定的なメッセージが届く。
その日は珍しく祝日にイライがいて、2人で買い物をしていた時のことだった。賑やかなショッピングモールで夕食はどうしようかなどと話しながらひんやりとした食品コーナーを歩いていると、そこでイライが買い忘れがあったと一度別行動をした。しかし聞き慣れたアイキャッチが聞こえたかと思えば、どうやらイライが買い物かごへスマホを入れっぱなしにしていたらしい。そこで煌々と光る画面に、ドキリと心臓が跳ねる。
何組かの家族連れや楽しげな学生グループがイソップを通り越していく。肩に誰かの鞄がぶつかって蹌踉けるけれども、それでもイソップはそのスマホ画面から目が離せなかった。
そこには純白のドレス、いわゆるウエディングドレスに身を包んだ女性と、恥ずかしげに私服で寄り添うイライの姿が映された写真が写っていた。
『来週の衣装合わせはちゃんと来てね』
浮気相手、なんて可愛いものではなかった。何故なら彼は婚約者がいる、しかも近々結婚の予定まであるのではないか、と。そういえばイライがもう暫くしたら地元の本社へ帰らなくてはいけないと言っていたことも思い出す。そしてそれについて、今後の話は一切していなかった…。
「イソップ、大丈夫?」
自分の上にのし掛かる男から心配気に声をかけられる。
あの写真を見てからずいぶんと自分の思考にこもってしまっていたらしく、行為の最中も空けた状態で何も集中できなかった。
慌ててイライの言葉に頷き、再びベッドへと背を預ける。「そぉ?無理しないでね」などと言いながらイライが再びのし掛かり、彼のソレを挿入しようとする。
が、そこでイソップに薄暗い闇が囁く。
「……それ、つけない、で」
初めて出会った時ほど、緊張した。
でも、もしも自分がこのまま妊娠したら、イライは自分を 選んでくれる、かもしれない…。
息を呑んでイライの顔を伺う、するとイライが困ったように眉をきゅっと寄せて、イソップの頬を撫でた。
「すごく、魅力的なお誘いなんだけどね」
そう言い1㎜以下の壁をつけたまま、イソップの胎へ侵入するそれ。
「また今度、ね?」
またなんて無いくせに
自分を揺さぶる男に、気がつけなかった自分に、泣き出してしまいそうなのを淫らな声に隠して、イソップの悲鳴は誰にもバレることはなかった。