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    花月ゆき

    @yuki_bluesky

    20↑(成人済み)。赤安(コナン)、虎兎(タイバニ)、銀神(銀魂)、ヴィク勇(YOI)好きです。アニメ放送日もしくは本誌発売日以降にネタバレすることがあります。

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    花月ゆき

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    恋人同士になったばかりの二人

    ※なんでも許せる方向け

    #赤安

    シナリオ通りにはいかない<1> -降谷Side-


     誰にも言えない、片想いをしている。
     きっと、人生で最後の恋。そして、きっと、叶わない――そう思っていた。しかし、天は何を思ったのか自分の恋を叶えてくれた。
     永遠に続くことはない、ほんのひとときの時間だろうけれど、自分が描いたシナリオは、恋を叶える男の物語へと変わっていった。

    「あなたのことがずっと好きでした。その……恋愛的な意味で」
     組織壊滅作戦の最中。生と死が隣り合わせている境地で、降谷は赤井に胸の内を打ち明けた。
     密やかな心残りを吐露したことで、気持ちがそっと凪いでゆく。
     死ぬつもりはさらさらないが、たとえこの作戦で命を落とすことになっても、後悔することはないだろう。墓場まで持っていくつもりだった想いだ。墓場にいく前に伝えたところで大差はない。
     もし、生きて帰って来ることができたら、そのときは赤井の前から完全に姿を消してしまえばよい。そうすれば、生きていようが死んでいようが、赤井の未来に降谷零は存在しないことになる。
     このシナリオは完璧だと降谷は思っていた。しかしそれは、まさかの序章で覆った。
     赤井は視線を正面に向けたまま、静かな声で降谷に言った。
    「……そうか。俺も君が好きだよ」
    「……え?」
     降谷は自分の耳を疑った。信じられない気持ちで、降谷は赤井を見やる。
    「俺も君が好きだよ、と。君と同じ気持ちだと言ったんだ」
    「いや、そんな、まさか……」
     降谷の胸が暴れだす。混乱する降谷をよそに、赤井の声はどこまでも落ち着いていた。けれどその声は、静けさの中に強かな熱を宿して、甘く響いてゆく。
    「……降谷君。もし無事にここから生きて帰れたら――俺の恋人になってくれないか」
     どこまでもズルイ男だ。はじめに告白をしたのは自分のはずなのに、関係を進めるための一言は、この男が持っていってしまうのだから。
     どうしようもなく、頬が、身体が、熱くなってゆく。この熱の解き方を、降谷は知らない。
    「――いいですよ。もし生きて帰れたら……あなたの恋人になります」
     声が震え、目頭の熱さを意識する。現実味のない未来語り。生きてこの作戦を終えることができたら、自分はいったいどうなってしまうのか。
     恋に揺さぶられ“本来の自分”を見失っている自分など、赤井には絶対見せたくない。しばらくは赤井から逃げ回ることになるだろう。そんな自分の姿を想像して、降谷はおもしろおかしくて笑ってしまった。
     自分はこんなにも感情を揺れ動かされているというのに、赤井の瞳は、これから突入しようとしている目的の場所を、静かに捉えたままでいる。けれど、ほんの一瞬だけ。赤井がふっと表情を緩めるのが見えた。

     組織の主要メンバーの八割を捕獲し、作戦は終了した。完全に組織を壊滅させるまでの道のりは長いが、今回の作戦はこれで一区切りついたことになる。
     腹に怪我を負い、赤井の肩をかりて歩いていた降谷は、作戦終了と同時に病院へと運ばれた。赤井に付き添われ救急車の中に運び込まれたところで、降谷の意識は途絶えた。
     目が覚めると病室のベッドの上で、すぐそばに赤井がいた。椅子に座っていた赤井が、腰を上げるのが見える。
     赤井も自分も、生きていた。もし生きて帰れたら――交わしたあの約束が、今にも掴めそうな距離まで近づいている。
     ぶわり。まるで子どもの頃に戻ったかのように、涙が溢れた。赤井が慌てたように顔を覗きこんで、「どうした」と問いかけてきた。低くてかすれた男の声は、ひとつの揺らぎもなく自分へと向けられている。
    「……何もかもうまくいかないな」
     天井を仰いで降谷が呟くと、赤井が目を見開いた。赤井の節くれだった大きな手の指が、降谷の頬に伸びてくる。
     零れ落ちた涙の一滴ひとしずくを拭うその指は、ライフルの引き金を鳴らすそれとは思えないほどに優しかった。
    「……降谷君」
     名を呼ばれて、降谷は赤井へと視線を向けた。赤井がまっすぐ自分だけを見ている。優越感に浸りたくなるけれど、どうにも素直に喜べない。
    「誤算が二つあります」
    「誤算?」
     赤井はどこか面食らったような様子で降谷の言葉を繰り返した。
    「ひとつ目は、あなたが僕を好きだったこと。ふたつ目は、あなたに泣き顔を見せてしまったこと。両想いだなんて、悔しくて恥ずかしいから、作戦が終わったらあなたから逃げ回る予定でいたのに」
     嬉しいくせに、悔しいのだ。自分の思い通りにいかなかったことが。赤井に受け入れられる未来など、自分が描いていたシナリオにはなかった。
     にらみつけると、それはそれは嬉しそうに赤井が微笑む。降谷はどんな表情をすればよいのかわからなくなった。
    「君が逃げ回ったところで、俺は君を逃すつもりはないがな」
     赤井が自分の手に触れる。いわゆる恋人繋ぎをされて、降谷は自分の手がじんわりと熱を帯びるのを感じた。
     生きていると、恋をしていると、こんなにも落ち着かない熱にうなされてしまうのか。自分の身体でさえも、自分の思うようにはいかなくなるのだろうか。
     赤井の手に熱がこもる。繋ぎ合った手と手を直視できない。強く握られてしまった手はそのままに。降谷はふいと赤井から視線を逸らして言った。
    「誤算がもうひとつ増えました。……あなたでも、こんな風に人の手を握ることがあるんですね」
     ほどくこともできない降谷の手の指に、赤井のキスが降りてくる。
     不敵な笑みを浮かべる赤井に、降谷はベッドを降りて逃げ出したくなった。けれど、もう、どこにも行けない。
    「ところで降谷君、約束は覚えているかな?」
     ――この男の恋人になる約束なんて、なぜ叶ってしまうのだろう。


    <2>


     命懸けの組織壊滅作戦の途中。降谷は玉砕覚悟で赤井に告白をした。ずっと実らぬ恋だと思っていた。赤井が恋愛的な意味で自分のことを好きになる可能性など、まったくないと思っていたのだ。だが、天はいったい何を思ったのか、自分の恋を叶えてくれた。
     生きて帰ることができたら、恋人同士になろう。二人で交わした約束は、二人の生還によって現実のものとなった。
     作戦の終盤で負傷した降谷が、病院に運ばれて三日。入院は一週間の予定。折り返し地点となる今日も、降谷の手は赤井に握られたままだった。目が覚めてからずっと、降谷の手は赤井にとらわれたままでいる。
    「そろそろ離してくれませんかねぇ……」
    「手を離して君に逃げられたら困るからな。しばらく我慢してくれ」
     嫌だ、と降谷が上下にばたばたと手を動かしても、赤井の手も一緒になって動くだけ。空しい抵抗だ。赤井の手は離れていかず、恋人繋ぎのまま。赤井がフッと笑みを零すのを見て、降谷はムッとなった。
    「せめて普通に握ってくださいよ。こんな握り方……他の人に見られでもしたら大変なことになる――」
    「はっきり言ってやればいいだろう。俺達は恋人同士なのだと――」
    「ダメですよ。他の人には絶対に秘密です! FBI捜査官と公安警察の人間が恋仲なんて、バレたらどうなるか……」
    「バレたら別れさせられるとでも?」
    「…………」
     口にすることは戸惑われて、降谷は目を伏せた。答えない降谷のかわりに、赤井が口を開く。
    「バレたところで、どうにもならんよ。どんな手を使ってでも、邪魔はさせない――」
     低く険しい赤井の声に、降谷は伏せていた目を上げる。
    「……あなたって、そんな人でしたっけ?」
    「……ん?」
    「いや、その……あなたにとって恋愛は二の次なのかと――僕が、こ、こ、告白するまで、僕を好きな素振りひとつ見せませんでしたし」
     赤井の視線が、繋ぎ合った自分たちの手と手に注がれる。
    「……賭けを、していたんだ」
     赤井の口から出たとは思えない、穏やかな声。思わず耳を疑ってしまうような言葉。
    「賭け、ですか?」
    「もし君が俺を愛してくれたら、俺はもう君への気持ちを隠さないとね。君からの告白で、俺はその賭けに勝った。だからもう、君の前で偽る必要もない……」
     気持ちを隠すのはもうやめたのだと赤井は言う。それはつまり、降谷の前では自身の気持ちに正直になる、ということだ。
    「……恥ずかしい奴だな」
    「……君に対してだけだよ」
     顔が熱い。降谷はどうにも照れくさくなってしまい、赤井から視線を逸らした。
     自分たちの関係に嘘はつきたくない。その想いには、寄り添いたいと思う。立場の問題を除けば、誰にも反対される筋合いはない。
     しかし、周囲の人間に知られてしまうのは抵抗があった。知られてしまうのが嫌なのではない。ただ、周囲の人間に知られたとき、どう反応すればよいのかわからないのだ。
    「あなたの考えはわかりました。でも、自ら進んでバラすようなマネはしないでくださいよ。FBIだとか公安だとかは置いておいて、僕はまだ心の整理が――」
     言い終えぬうちに、コンコンコン、と病室のドアをノックする音が聞こえた。降谷の入院は極秘扱いで、部屋の前には見張りの警察官もいる。見張りが入室を許可したということは、来訪者は自分の関係者ということだ。
     降谷は慌てて赤井の手を離そうとするが、どんなに力をこめても赤井は手を離そうとしない。仕方なく、降谷は赤井の手ごと掛け布団の下へと隠した。
    「はい、どうぞ」
     ドアの向こうにいる誰かに告げると、ゆっくりとドアが開く。病室に入ってきたのは、今回の作戦の功労者――コナンだ。赤井が促し、コナンは赤井の隣にある椅子に座る。コナンの頭には包帯が巻かれていた。入院着を着ているので、コナンも自分と同じく入院しているのだろう。
    「安室さんの意識が戻ったって聞いて……元気そうでよかった」
    「それはこちらのセリフだよ。部屋で寝てなくて大丈夫かい?」
    「僕はもう大丈夫。念のため検査で入院していただけだから……明日には退院できることになったんだ」
    「そうか……よかった。君にもしものことがあったら、蘭さんに顔向けできないところだったよ」
     彼女の名を口にしただけで、コナンは動揺をみせた。コナンが彼女に向けている感情はわかりやすい。コナンは話題を逸らすように言った。
    「そ、そういえば、赤井さんはずっと安室さんの病室にいるの? 看護師さん達が噂してたけど……」
    「噂」
     声を上げた降谷を無視して、赤井は言う。
    「あぁ。彼が逃げ出さないよう見張っておこうと思ってね」
     赤井にぐいと手を引っ張られる。突然のことで抵抗する間もなく、繋がれた自分たちの手がコナンの眼前に晒されてしまった。
     コナンはびっくりしたように目を見開いている。
     赤井はコナンに見せびらかすように、繋がった自分たちの手を揺らした。いい歳をした大人が恋人繋ぎをしている――言い逃れはできない状況だ。
    「赤井……貴様っ!」
     離せ、と降谷が上下にばたばたと手を動かしても、赤井の手も一緒になって動くだけ。コナンの目には、じゃれあっているようにしか見えていないのだろう。ハハハとコナンが力なく笑う声が聞こえる。赤井は憎たらしくなるくらい楽しそうな笑みを浮かべて言った。
    「……降谷君、ボウヤには話しておくべきじゃないか?」


    <3>


     実は、赤井と恋人同士になったんだ。
     コナンに一言そう告げて、降谷は掛け布団で顔を隠す。
     なぜ赤井に恋愛感情を抱いたのか。どのような経緯を経て恋人同士になったのか。人に説明をするのは得意なはずなのに、言葉が出てこない。赤井がかかわると、いつもの自分ならばできていたことが、急にできなくなってしまう。
     顔だけではなく耳まで熱い。平静な表情ひとつ、うまく作り出せない。
     口を閉ざした降谷のかわりに、赤井が口を開いた。
    「降谷君とは色々あったが……つい先日、彼が気持ちを打ち明けてくれてね」
    「やっぱり、安室さんは赤井さんのことを好きだったんだね」
    「ホォ――ボウヤは気づいていたのか」
     二人の会話に、降谷は飛び上がるように上半身を起こす。
    「どういうことだい、コナン君」
     降谷の慌てた様子に、コナンが頬を搔きながら言った。
    「だって、安室さんは赤井さんがかかわるとすぐ無茶するし、冷静じゃなくなるでしょ。僕も――俺も、蘭がかかわるとそうだから、もしかしたらって――でも、二人が手を繋ぐまでの仲になっているとは思わなくて、すごくびっくりしたよ」
     コナンの視線が、恋人繋ぎをしている自分たちの手に注がれる。
    「これは、赤井が勝手に……!」
     離せ、と降谷が上下にばたばたと手を動かす。赤井の手は一緒になって動くだけで、けっして離れてはいかない。繋ぎ合った手と手。赤井の親指に自分の親指を撫でられて、降谷は肩を震わせた。
     睨みつけると、赤井は楽しそうな笑みを浮かべる。自分たちのその様子を見ていたコナンは、「二人とも、よかったね」と笑った。
     その後、しばらくは作戦終了後の動きについてコナンを交え話を進めた。組織のメンバーは世界中に散らばっている。主要メンバーの八割が逮捕されたことも、おそらく世界中に話が広がっていることだろう。
     報復を企むか。新たな組織が組まれるか。公安やFBIをはじめ、各国の捜査機関も残党の動きを注視している。だが、今はまだ表立った動きはない、というのが実情のようだ。何か進展があればすぐに報告し合おうと、三人で約束を取り交わす。
     一時間程、話をしたところで、コナンが病室の時計を見て言った。
    「そろそろ僕は部屋に戻るね」
     時は夕刻。コナン――新一の恋人である蘭が、見舞いに来る時間なのかもしれない。
    「蘭さんによろしくね、コナン君」
    「またな、ボウヤ」
     手を振ってコナンを見送る。コナンが部屋を出て行くと、再び二人だけの時間が訪れる。結局、コナンが部屋にいる間中、自分たちは手を繋ぎ合ったままだった。
    「まったく……あなたはいつまで手を繋いでいるつもりなんですか?」
    「そうだな……君が俺から離れないと確信できるまで、だろうな」
     濃いみどり色の瞳に見つめられる。窓外から射し込む夕陽のせいか、どこか寂し気な色を含んでいるようにも見える。
    「……もしかして、不安にさせてますか?」
    「不安、か……」
     赤井が言葉の意味を噛み締めるように呟く。
    「確かに僕は、作戦終了後にあなたから逃げ回ることを考えていました。でも僕はここにいます。――この状況で逃げ回っても、あなたからは逃げられないだろうし……」
    「それは良い判断だ。だが、君の手を離せない理由はそれだけじゃない」
    「……え?」
    「心地良いんだ。君の体温が……」
     そっと、赤井が自分の手を持ち上げる。降谷の手の甲に、赤井の頬が触れた。愛おしいものに触れるように、赤井が頬擦りをする。
     あの赤井に、こんな風に触れられる日が来ようとは。降谷は混乱した。手の指にキスされるのとはまた違う。これが赤井の愛の乞い方なのだろうか。
     赤井は瞳を閉じて、降谷の手の温もりを感じ取ろうとしている。降谷もまた、赤井の頬の感触を、伝う温もりを、追いかけた。
     どれくらいそうしていただろうか。ドアの向こう側から話し声が聞こえて、我に返る。病室の外にいる見張りの警察官と会話するその声は、風見のものだ。
     会話が終わり、コンコンコン、と病室のドアをノックする音がする。赤井が名残惜しそうに手を下ろした。
    「入っていいぞ」
     降谷の返答に、風見が部屋の中へと入って来る。部屋の中に赤井がいて驚いたようだが、一礼するとすぐに降谷へと視線を戻した。
    「降谷さん、お身体の具合はどうですか?」
    「問題ない。状況はどうだ?」
    「はい、詳細はこちらに……」
     隣に別組織の人間――FBI捜査官である赤井がいるからだろう。風見は口頭では説明せず、鞄から書類やファイル、記憶媒体を取り出しはじめる。降谷はそれらを受け取ろうとして、赤井と手を繋いだままであることを思い出した。風見の視線が、落ち着きなく降谷と赤井を行き来する。
     降谷は全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
    「これは違うからな! 赤井とは恋人同士でもなんでもないから!」
    「ふっ、降谷さん」
     風見が目を丸くする。焦るあまり余計なことを言ってしまった。これではまるで、自分たちは恋人同士だと暴露しているようなものだ。
    「降谷君、君自身がバラしてどうする」
     赤井が愉快そうに微笑んだ。


    <4>


     一発殴ってやろうかとも思ったが、赤井がいつになく穏やかな表情をしているのでぐっと堪える。今は風見の持ってきた資料を受け取るのが先だ。「離せ」と手を揺らすと、ようやく赤井は手を離してくれた。
     風見と自分の会話を邪魔しないためだろう。赤井は、「俺はちょっと出てくるよ」と言って部屋を出て行った。降谷はほっと息を吐く。赤井が傍にいると、また自分らしからぬ言動をしてしまうかもしれない。これ以上、平静ではない自分を風見に見せたくなかった。
     風見から資料を受け取り、降谷は視線を落とす。資料に目を通している間、ずっと風見の視線を感じていた。風見は物言いたげな表情をしている。風見が真っ先に話したいのは、資料の中身についてではない。赤井と自分の関係についてだろう。
     このまま沈黙を貫くのも忍びない。降谷は資料に視線を落としたまま口を開いた。
    「……驚いただろう」
    「……は、はい。お二人はその、本当に、そのような関係に?」
     風見はひどく驚いているようだった。これまでの赤井と自分の関係を思えば、風見の反応は当然のことだ。
    「……ああ。自分でもまだ信じられないんだが、赤井とはいわゆる恋人同士になった」
     ベッド脇のサイドテーブルからノートパソコンを引き寄せ、記憶媒体を差し込む。ディスプレイに表示されたファイルを選択して、ひとつひとつ中身を開いていく。
    「そうでしたか……驚きましたが、いつかこうなるような予感はあったかもしれません」
    「……予感?」
     予想もしない言葉が返ってきて、今度は降谷の方が驚く。風見は言葉を選ぶようにして言った。
    「赤井捜査官はいつも降谷さんを目で追ってましたし、もう随分と前からですが……降谷さんは赤井捜査官に対して、何か特別な感情を抱いていると思っていました。それは憎しみという感情ひとつでは言い表すことのできない、うまく言葉にできないものだったのですが――今、ようやく、その答えに辿り着いたような気がします」
     赤井に恋愛感情を持っていることには気づかれていなかった。だが、赤井に向ける激情は、風見にも見抜かれていたのだろう。降谷は思わず苦笑する。
    「僕はそんなにわかりやすかったか?」
    「赤井捜査官限定ですよ。彼がかかわっているときだけ、降谷さんはいつもの降谷さんじゃなくなる――」
    「さっき、コナン君にも似たようなことを言われたよ。これじゃ、公安としても潜入捜査官としても失格だな」
    「降谷さんなら、それくらいの方が人間らしくて良いと思います」
    「君も言うようになったな、風見」
     降谷が笑うと、つられるようにして風見も笑った。
     そのあとは、資料の中身に対する指摘と、さらに調査が必要な事項について話をする。赤井に見せても問題ない資料だけを残し、あとは風見に返却した。
     風見に任せていたので心配はしていなかったが、愛犬の様子も伺う。ハロは変わりなく元気にしているようだが、やはり寂しがっているようだ。退院したらまず家に帰ろうと心に決める。
     一通り話し終えると、風見は腕時計に目をやって、資料を鞄にしまう。
    「では、今日はこの辺で失礼します。お大事になさってください」
    「ああ。ありがとう、風見」 
     一礼して、風見が退室する。入れ違いに、赤井が部屋に入ってきた。一緒に煙草の匂いも連れてやってくる。屋外の喫煙所で一服してきたのだろう。
    「風見君と話はできたかな」
    「……ええ。僕達の関係がこれ以上バレないよう、あなたも協力してくださいよ」
    「善処しよう」
     本当に協力する気はあるのかと問いただしたいところだが、今はやめておくことにした。
    「これは風見から受け取った資料です。あなたの意見も聞かせてくれませんか?」
     風見から受け取った資料の束を、赤井に差し出す。赤井はそれを丁寧な所作で受け取って、目を通しはじめた。その資料の中には、FBI側で掴んでいる情報もおそらく含まれているだろう。だが、赤井はずっとこの病室にいる。赤井まで情報が届いているかは不明だ。
    「……ずっとここにいて、大丈夫なんですか?」
     疑問が声になる。早くFBIのメンバーがいる場所へ戻った方がよいのでは? そう言うべきなのだろうが、自分の心は赤井をこの場所に引き留めたがっていた。降谷の心中を察したのだろう。赤井は椅子に座り、この場所から出て行くつもりがないことを態度でも示した。
    「ああ……問題はない。許可は得ているよ」
    「……そうですか」
    「心配は無用だ。俺が必要になったら、携帯を鳴らすように言ってある」
    「…………」
     この病室で、赤井の携帯は一度も鳴っていない。赤井のことだ。緊急時以外は電話をかけるな、と念押ししているのかもしれない。
     有事が起これば自分にも連絡が届く。今はまだ、赤井に傍にいてもらっても許される時間なのだと降谷は思うことにした。
    「ところで降谷君、この写真だが――」
     赤井の指した資料を覗き込む。自然と顔が近づいて胸が跳ね上がるが、そんなことを意識している場合ではない。フッと赤井が笑みを浮かべるのが見えたが、見て見ぬ振りをして写真の説明をする。なるほど、と赤井が頷くだけで嬉しさに胸が弾む。
     資料の中身を追いかけている間。気がつくと自分ばかりが喋っていることもあるが、時折、赤井の声が混じり合う。もちろん、自分が語る内容のすべてを、赤井が素直に聞き入れることはない。反論されることもある。けれど、会話を重ねることで視界が開けてゆくのは心地よい。
     赤井の存在は、暗闇を貫く眩しい光のようだ。ずっと、ずっと、追いかけ、惹かれ続けていた光だ。こんなに近く、目の前にその光があることが、今は奇跡のようにも感じる。
    「どうした? 降谷君」
     赤井の声で我に返る。いつしか無言になり、赤井を見つめてしまっていたようだ。
    「いいえ、なんでもありません」
     赤井から顔を逸らす。自分に注がれる強かな視線。赤井が微笑む気配。
     じわじわと顔が熱くなってゆくのを感じる。赤井が独り言を零すように言った。
    「こんなに顔を赤くして……君は本当に可愛いな」


    <5>


     仕事以外で、こんなに長く赤井と一緒に過ごしたことはなかったような気がする。
     病院に運ばれて四日目。まだ身体を満足に動かせる状態ではないが、赤井がいてくれたおかげで不自由さはあまり感じなかった。
     自由に動けない降谷のかわりに、赤井はよく尽くしてくれた。「プリンが食べたい」と呟いたとき、売店まで買いに行ってくれたこともあった。あれにはさすがに驚いた。あの赤井秀一をパシリ扱いできる人間なんて、自分くらいのものではないだろうか。
     降谷は赤井の献身に、素直に感謝していた。と同時に、赤井のことをひどく心配もしていた。
     赤井は特別に許可を得ているので、病院が定めた面会時間を過ぎても、消灯時間を過ぎても、降谷の病室に滞在することができる。しかし、まさか、降谷が眠っている間もずっと病室にいるとは思わなかったのだ。
     自分が眠ったあと、赤井は病室を出てどこかで休んでいるのだと思っていた。だが、たまたま夜中に目を覚ましてしまったとき、降谷は見てしまったのだ。ベッドの隣にある、けっして座り心地が良いとはいえない椅子に腰かけ、ただ目を閉じて朝を待っているだけの赤井を。
     まともな睡眠をとっていないことは、彼の目の下にあるクマの濃さにも現れはじめている。
    「赤井、あなた……僕が眠っている間もずっとここにいるんでしょう。仮眠室を手配しますから、今日はそこでゆっくり休んでください」
    「断る」
     降谷の提案は瞬時に拒否された。だが、ここで折れてしまうわけにはいかない。このままではいずれ、赤井の身体が壊れてしまう。
    「もし敵襲を心配しているのなら、見張りをもっと増やします。もちろん僕が自ら部屋を出て行くこともしません。だから――」
    「君の言わんとしていることはわかる。頭の中でも理解はしている。ただ、俺が君と離れたくないんだよ、降谷君……」
     まるで明日にでも離れ離れになる恋人に向けるような言葉だ。実際、作戦中にもしものことがあれば、永遠に離れ離れになっていた可能性もあった。それを思うと、赤井の想いを無下にすることはできそうにない。
     降谷は胸が締めつけられるような心地になる。自分たちは、近い将来、どうなっているかもわからない身だ。赤井の言葉に、今ここで過ごす日々が、どんなに尊いものであるかを教えられる。
     自分たちが離れ離れにならずに、赤井を休ませてあげられる方法はないだろうか。
     降谷はベッドの広さを確かめた。密着する必要はあるが、かろうじて二人で横になれる広さはある。
    「じゃあ……僕と一緒に寝ますか? 二人だと狭いかもしれませんが、椅子に座っているよりはマシなはずです」
     良い案だと降谷は思ったが、赤井にとってはそうではなかったようで、ぐっと眉をひそめている。
    「それは……やめておこう」
    「やっぱりこのベッドじゃ狭すぎますかね……」
    「サイズの問題じゃない」
    「僕、寝相はそんなに悪い方ではないと思うのですが……」
    「君の寝相が悪くても俺は気にしない」
     赤井は明確な答えを寄越さない。いったい何をそんなに気にしているのだろうか。
    「……じゃあ、何が問題なんですか?」
    「本当に、わからないのか……」
     一方で、赤井はどこか困惑したような表情を浮かべている。彼がいったい何を考えているのか、降谷にはまったくわからない。
    「何か不都合があるのなら教えてください。僕はただ、あなたにちゃんと休んでほしいだけなんです」
    「いや……これは俺の問題だから、君が気にする必要はない」
    「もしかして……赤井、寝相が悪いんですか? それくらい僕は気にしませんよ」
    「……そ、そうか」
     赤井が苦笑いを浮かべている。赤井の表情に少し引っかかりを覚えたが、今は赤井を休ませることが最優先事項だ。
    「とにかく、あなたに問題があっても僕は気にしませんから。あなたは今すぐにここで休んでください。あ……その前に、部屋の前にいる見張りに、朝まで誰も部屋に入れないよう伝えてきてくれませんか? 他人に聞かれてはいけない話をするとか、適当な理由をつけて……。部屋に誰か入ってきたら、あなたが目を覚ましてしまいますからね」
    「……了解」
     渋々といった様子で、赤井が部屋を出て行く。赤井が見張りと話している間、降谷はベッドの端に寄り、赤井が寝るための場所を確保した。枕は赤井に譲ろうか。そんなことを考えながら、赤井を迎え入れるために掛け布団をめくる。そこでようやく、自分が赤井にとんでもない提案をしてしまったことに降谷は気がついた。


    <6>


     病室のドアが開き、赤井が部屋の中へと戻って来る。掛け布団をめくったまま固まっていると、赤井が顔を覗き込んできた。
    「どうした? 降谷君」
     具合が悪くなったのかと心配してくれているようだったので、慌てて否定する。
    「なんでもありません! あ、空いてるところにどうぞ」
    「ああ……では、失礼するよ」
     赤井が靴を脱ぎ、ベッドの上に身体を横たえる。こちらを気遣ってか、赤井は自分に背を向けるように横向きになった。降谷は赤井に枕を譲り、掛け布団を赤井の上にかける。
    「ありがとう」
    「いえ……寝苦しくありませんか?」
    「いや、ちょうどいいよ」
    「そう……ですか」
     赤井を見つめていると、病室内の灯りが消えたので、時計に目をやる。ちょうど消灯時間になったようだ。
     降谷もまた赤井に背を向けて寝ようとしたが、怪我の具合から横向きになるのが難しい。しかたなく、ベッドの端ぎりぎりまで身体を動かし、仰向けになった。
     ちらりと赤井を見るが、赤井は背中を向けて寝ているので、表情も何もわからない。
     ただ、赤井は病院着ではなく、普段通りの服装をしているので、窮屈そうにも見える。せめて服をくつろげてはどうかと提案しようとして、降谷は口を噤んだ。
     これまで通りの関係だったら、同じベッドの上で寝ようが、服をくつろげようが、何も問題はない。しかし、自分たちは恋人同士になった。ひとつのベッドをともにすることは、恋人同士の行為を連想させる。赤井がなかなかこのベッドの上で寝ることを承諾しなかったのは、きっとそういうことを意識していたからなのだろう。
     掛け布団をめくったそのときに、自分がとんでもない提案をしてしまったことに気づくなんて、我ながら遅すぎる。
     今更謝るのも妙な感じがして、降谷は赤井の背中を見ながら思案に耽っていた。
     そういう意図はなかったとはいえ、同じベッドの上で一緒に寝ようと赤井に言ってしまったのだ。思い出して急に恥ずかしくなる。
    「……降谷君」
    「は、はいっ」
     突然名を呼ばれたので、飛び上がるように驚いてしまった。赤井が、こちらに背を向けたまま言う。
    「眠れそうか?」
    「はい、それは、その……大丈夫です」
     本当は目が冴えてしまってまったく眠気がない状態だが、大丈夫ということにしておく。
    「……そうか」
    「赤井は? 赤井は、大丈夫ですか?」
    「そうだな……恋人が隣にいて何もできないのは正直堪えるよ」
    「えっ」
    「……そう警戒しないでくれ。君は病人だ。今は何もせんよ」
    「今は、って……」
     自分が病人でなくなったら、どうするのだろう。頭の中が混乱する。赤井が突然こちらを振り返るので、視線を逸らす間もなく、赤井と目が合ってしまった。慌てて掛け布団で顔を隠す。
    「これはこれは……随分と可愛らしいことをするんだな、君は」
    「消灯時間はとっくに過ぎてるぞ。静かにしろ、FBI」
    「では、声をおさえて会話しようか」
     赤井が囁くような声で言う。まるで内緒話をするかのような声音だ。赤井が近づいてくる気配がして、降谷は掛け布団をぎゅっと握りしめる。
    「僕は話すことなんてありません。いい加減もう寝てください」
     布団の中にいるせいか、視界が暗いせいか。赤井の声も、自分の心臓の音も、いつもより強かに響いて聞こえる。
    「寝る前にひとつだけ、君にしたいことがあるんだが……」
    「僕にしたいこと?」
    「ああ。だから、君の顔を見せてくれないか?」
     おそるおそる掛け布団を下に下げていく。目の下まで下げたところで赤井と目が合った。
     慌てて掛け布団を上に持ち上げようとすると、赤井の左手がそれを邪魔する。
    「ちょっ、あかっ……」
     抵抗ひとつできず、されるがまま。赤井の唇が自分の額に届き、降谷は思わず目をぎゅっと閉じてしまう。
     額にキスされたのだとわかり、降谷は自分の顔が瞬く間に赤くなるのを感じた。
    「おやすみのキスだ。……おやすみ、降谷君」
    「お……やすみ、なさい……」


    <7>


     額にキスをされてしまったせいで、消灯時間が過ぎてしばらくしても、降谷は胸がドキドキして眠れなかった。
     赤井は再び自分に背を向けてしまったので、寝ているのか起きているのかもわからない。自分ばかりがドキドキさせられているような気がして、どことなく悔しい気持ちも沸き起こる。しかし、赤井の背中を見ているうちに、心地の良い安堵感に包まれて、気づけば瞼を下ろしていた。
     次に目を覚ましたときには朝になっていた。寝覚めはいつもよりすっきりとしている。赤井が隣にいる方が熟睡できるなんて、自分はいったいどうしてしまったのだろう。
     ベッドの上に赤井はいなかった。ベッドの上どころか、部屋の中にもいない。いったいどこへ行ってしまったのだろうか。
     しばらく経つと、朝の検診の時間になった。すっかり顔馴染みとなった女性の看護師が部屋に入って来る。
     世間話が好きなおばちゃん、という表現の似合う看護師だ。朝の検温やらをしている時間は、自然と看護師とのおしゃべりタイムになる。
     赤井がどこに行ったのか、目の前にいる看護師は知っているだろうか。訊いても変に思われないだろうか。そんなことを考えていると、看護師がふっと微笑んで言った。
    「さっき、赤井さんを外の喫煙室で見かけたわよ。そろそろ戻ってくるんじゃないかしら……」
    「そう……ですか」
     こちらから質問していないのに、なぜ自分のほしいこたえがわかっているのだろう。赤井がそばにいなくて、寂しそうな顔でもしていたのだろうか。赤井を探すような仕草でもしてしまったのだろうか。正解はわからないけれど、まるで心の内を読まれてしまったようで恥ずかしい。
    「もうすぐ退院予定日だけど、この調子なら予定通り退院できそうね。若いから回復も早いわぁ」
    「いえいえ、回復が順調なのは皆さんのおかげですよ」
     看護師は笑みを絶やさずに言った。
    「退院は嬉しいけど、赤井さんと降谷さんのツーショットを見れなくなるのは寂しいわねぇ」
    「ツーショット」
     思いがけない看護師の言葉に、つい驚きの声を上げてしまう。
     看護師の言うことに深い意味はないかもしれない。だが、看護師の笑みには何か含みがある。
     もしかして看護師に、いや、もしかすると病院中に、自分たちの関係がバレていたりするのだろうか。そんな恐ろしい想像までしてしまう。もちろん、看護師にそれを問う度胸はない。
     看護師の笑顔に視線を逸らせずにいると、ちょうど赤井が部屋に戻ってきた。
    「降谷君、起きていたのか……」
    「ええ、朝の検診の時間なので……」
    「あら、赤井さん、おはようございます」
    「おはようございます」
     看護師と挨拶を交わした赤井は、いつも通りベッドの横にある椅子に腰を下ろした。
     看護師の視線が赤井へと注がれる。先程の話に戻りはしないか心配だったが、看護師はムフッと小さく笑って、降谷に視線を戻した。検診も無事に終わり、看護師が部屋から出て行く。詰めていた息を吐き出すように、降谷は言った。
    「まったく……あなたのせいですからね」
    「ん?」
    「あなたがずっと僕と一緒にいるから……僕達、一緒にいるのが当たり前みたいに思われているんですよ」
    「それは好都合だ」
     窓の外から差し込んだ光が、笑みを浮かべる赤井の横顔を照らす。赤井がきらきら輝いているように見えて、降谷はどうしようもなく胸がドキドキした。このあと血圧の測定が控えていなくてよかったと苦笑する。
    「何が好都合だ……」
     言葉に不満を含ませてはみるけれど、自分の声はどうしようもなく甘い。
     表情も、声も、仕草も、何もかも。自分のすべてが、赤井を愛しく思う感情を隠せなくなってきたような気がする。
    「そうだ、降谷君。ひとつ忘れていたことが……」
    「なんですか?」
     赤井が椅子から腰を上げて、自分に近づいてくる。急に近づいてきたので、反射的に攻撃を避けるような体勢をとってしまった。
     赤井はひとつ笑って、自分の腕を掴んでくる。反撃する隙もなく、赤井の唇が額に降りてきたので、降谷は思わず目を瞑ってしまった。
     ほんの一瞬触れて、赤井の唇は去ってゆく。
    「おはようのキスだ」
     赤井の言葉に昨夜の出来事を思い出す。降谷は自分の顔が真っ赤になっているのを自覚しながら、赤井を睨みつけた。


    <8> -赤井Side-


     退院予定日前夜。赤井は今夜も、降谷と同じベッドで眠ることになった。
     消灯時間になるのと同時に、病室の外にいる見張りに、朝まで誰も部屋に入れないよう伝達する。これは降谷の指示通りなのだが、見張りの表情を見るに、あらぬ疑いをかけられているような気もする。だが、この指示をするのは初めてではないので、気に留めないことにした。行為自体はなくとも、同衾している事実はある。疑われようが誤解されようが言い訳のしようもない。
     靴を脱いでベッドの上に乗り上げると、降谷は緊張したような表情を浮かべた。病人には何もしないと言っているのに、こんなにも意識している彼の姿を見ると、いっそのこと襲ってしまおうかなどと考えてしまう。もちろん実際に行動に移すようなことはしないが、ほんの少しそういう雰囲気を匂わせるくらいなら許されるのではないだろうか。もちろん、降谷が嫌がる素振りをひとつでも見せたらすぐにでもやめるつもりでいるのだが。
     ベッドの上に身体を横たえて、赤井は降谷の名を呼んだ。
    「降谷君……」
    「……なんですか?」
    「おやすみのキスを……」
     身体を降谷に近づけると、ギシッとベッドの軋む音がする。
     降谷の耳は敏感なのだろうか。その音が緊張をより掻き立ててしまったようで、降谷はぎゅっと目を閉じてしまった。赤井は降谷の前髪にそっと触れて額を露わにすると、なだらかな肌にそっと唇を押し当てた。
     呼吸が触れ合うほどの距離の中にいるせいで、降谷が息を詰めているのがわかってしまい、思わず笑みが零れ落ちてしまう。目を閉じている彼をそのまま見下ろしていると、降谷がおそるおそるといった様子で目を開いた。
     近距離で目が合う。降谷の瞳は揺らいでいるが、まっすぐに自分を見つめてくるところが彼らしい。
     本人にそのつもりはないかもしれないが、押し殺していた情欲が掻き立てられてしまうほどには、降谷の瞳は扇情的な色を湛えている。
     このまま唇にキスをしてしまおうか。
     そう思ったが、欲望に正直になろうとしたところを見透かされてしまい、降谷の両手で口を塞がれてしまう。
    「ここは病院ですよ。そ、そ、そういう行為はダメです、絶対に!」
     降谷が今にも泣きだしそうなほどに顔を真っ赤にして言う。赤井はそっと降谷から離れて、降谷の隣に身体を横たえた。
    「病院でなければ、いいのかな?」
    「そ、それは……」
     言い淀みはするが、否定の言葉はない。これが降谷なりの自分への愛情表現なのだろう。今はこれで十分だと思うべきなのかもしれない。
    「明日、君が退院できるのが待ち遠しいよ」
     返事はないが、降谷が自分に背を向ける。きっと恥ずかしがっているのだろう。髪の隙間から見える耳が、ほんのり赤く染まっているようにも見えた。今、話しかけてしまうとベッドの上から追い出されかねないので、静かに過ごすことにする。
     消灯時間が過ぎているということもあり、部屋の外から微かな物音が聞こえることはあるものの、病室には静寂が広がっていた。
     本来、敵の動きやすい夜は気の休まる時間ではない。だが今は、いや、降谷の入院に寄り添っている間ずっと、自分たちは穏やかな時間を過ごしていたのではないかと赤井は思う。
     仕事以外の会話もたくさんした。話もせず黙ったまま、ただそばにいるだけの時間も過ごした。降谷の新しい顔をたくさん知った。手を繋いだり、額にキスをしたり、ほんの少しだけ恋人同士らしいこともした。
     この先、どんな未来が待っていたとしても、この日々を忘れることはきっとないだろう。降谷にとっても、そうであったらいい。そう願いながら、赤井は降谷の背中を見つめ、そっと目を閉じた。


    <9>


     朝までにはまだ遠い時間。時計を見れば、午前二時を過ぎている。ふと背中に温もりを感じて、赤井は目を覚ました。そっと後ろを振り返ると、降谷のつむじが見える。いったい何が起こっているのかと背後を観察すると、自分の背中に降谷が額をピッタリくっつけているようだった。
     起きているのか寝ているのかはわからない。小さな声で、そっと名前を呼んでみることにする。
    「……降谷君?」
    「!」
     ほんの一瞬だったが降谷の身体が自分の声に反応した。どうやら起きているようだ。しかも、降谷の両手が自分の背中にしがみついているようにも見える。降谷の方からこうして接触してくるのは珍しい。
     約一週間の入院生活を経て、降谷は自分との触れ合いを受け入れてくれるようになってきた。だが、降谷自らそのような行動を起こすのは見たことがないような気がする。もしかして、同じベッドで眠るようになってから時折こうしてくっついてきていたのだろうか。そんな期待もしたくなるが、相手を起こすリスクを背負ってまで降谷が接触してくるとは考えにくい。
     つまり、退院前夜である今日が、初めてである可能性が高いといえるだろう。それも、自分が起きることも見越した上で。
     降谷の手の指がそろりそろりと自分の背中から離れていく気配がする。すべてが離れてしまわないうちに、赤井は降谷に言った。
    「できれば、俺から離れないでいてくれると嬉しい」
    「……」
     降谷がピタリと動きをとめる。従順な降谷に、笑みが零れるのを堪えきれない。
    「それから、君を抱きしめたいんだが……良いだろうか?」
    「……いい、ですよ」
     降谷の返事をすべて聞き終えぬうちに、赤井は勢いよく背後を振り返り、降谷を抱きしめた。赤井の胸の中には降谷がすっぽりとおさまってしまう。降谷のつむじにそっとキスをすると、驚いたように降谷は身体を震わせた。降谷の仕草ひとつひとつが、愛しくてしかたがない。降谷が逃げ出さないように、さらに強く抱きしめる。
    「君から触れてくれて、嬉しいよ」
    「……迷惑じゃありませんでしたか? 起こしちゃったでしょう?」
     降谷の息が胸に触れてくすぐったい。赤井は降谷の髪を撫でながら言った。
    「迷惑なわけがない。君が触れたいと思ったときに、いつでも触れてくれ。俺達は恋人同士なんだから……」
    「うん」
     まるで子どものようにあどけない返事が聞こえてくる。降谷を抱きつぶしたい衝動に駆られるが、降谷に攻撃を仕掛けたと勘違いされては困るので、ぐっと我慢した。
    「……今日は随分と素直だな」
    「……明日には退院かと思うと、なんだかさみしくなってしまって」
    「君が退院しても、俺は君のそばにいるつもりだが?」
    「でも、今みたいに四六時中一緒にいるわけにはいかないでしょう?」
     降谷は退院したあとも、しばらくは家で静養するよう、上からの指示が降りている。彼のことだから、おとなしく静養してくれるとは思っていないが、まさか自分の目が届かない場所にでも行くつもりなのだろうか。
    「君はしばらく自宅待機になっていただろう」
    「まぁ、そうですけど……って、え? もしかしてあなた……僕の家に来るつもりですか?」
    「……そのつもりだが? 今の君は身体の回復が最優先だからな。君が家から出ないよう、俺が見張り役になろう。……迷惑、かな?」
     降谷が先程自分にしたのと同じ質問をする。降谷が顔を上げようとするので、そっと腕の力を緩めた。降谷と目が合う。彼の顔には、「嬉しい」と書いてあったが、余程嬉しかったのか、降谷は憎まれ口を叩いた。
    「退院したら、離してもらえると思っていたんですけどねぇ……」


    <10>


     もともと一人用のベッドということもあり、二人で寝るのに十分な広さはない。だが、赤井は降谷を抱きしめてぴったり密着し合っていたので、寝るのに不都合はなかった。不都合どころか、寝心地は抜群だった。相性もいいのだろう。赤井は朝までぐっすりと降谷を抱きしめたまま眠っていた。
     そして朝。降谷がバシバシと叩いてきたことで、赤井は目を覚ました。朝の検診の時間が迫っていたようで、降谷はかなり慌てている様子だった。
    「赤井、起きてください! そろそろ検診の時間なので看護師さんが来てしまいます!」
     まだまだ降谷を抱きしめていたかったが、自分たちが同じベッドの上で寝ているのを他の人間に見られるわけにはいかない。赤井は降谷を抱きしめる力を緩めて、上体を起こした。降谷も上体を起こしたので、ちょうど座ったまま見つめ合う形になる。
     あまりにも可愛らしい顔が目の前にあるので、赤井は堪えきれず、降谷の額にキスをした。習慣化したいと思っている、おはようのキスだ。
    「……おはよう、降谷君」
    「こんなことやってる場合じゃないんですよ!」
     降谷が本気で怒りかけているので、赤井は素早くベッドから降り、服に入った皺を伸ばしながら椅子へと腰かけた。降谷を見れば、身体をベッドの中央に移動させ、ひとりで眠ってましたよ感を出そうと必死だ。行動ひとつとっても愛らしい。
     そこへちょうど病室に看護師が入って来た。挨拶を交わし合い、降谷が看護師と会話しているのを静かに見守った。今日が退院日なので、朝の検診もこれが最後になる。降谷は丁寧に看護師に礼を言っていた。
     ふと看護師の視線を感じて、赤井は看護師を見返す。看護師はこちらを一瞬見ただけで話しかけてくることはせず、ひとつ会釈をして病室から出て行った。一方で降谷は、何かとんでもないことに気づいたような顔をしている。隠せていたはずの秘密がバレてしまった、とでもいうような表情だ。
    「降谷君、何があった?」
    「……あなたの髪に寝癖がついてます。それから……髭も伸びてます」
    「……ぬかったな」
    「……ええ」
     これはもう、この部屋の、それもベッドの上で自分が寝ていたことを証明してしまったようなものだ。どこか別の場所で眠っていたのであれば、朝の身支度をしてから降谷の病室へ向かうものだし、仮にこの部屋で夜を明かしていたとしても、椅子に腰かけて眠っていたのであれば寝癖はつかない。
     自分たちらしくもない失態をしてしまったと思ったが、後悔する気持ちは微塵もなかった。自分が降谷の特別なのだと周囲に示せたようで気分は良い。降谷に言うと怒られそうなので、口にはしないが。
    「……赤井、ちょっとこっち来て」
    「……あ、ああ」
     なぜか降谷からのお咎めはない。おいでおいで、と降谷が手を振るので、赤井はベッドの上に腰かける。降谷はサイドテーブルの上に置いてあったポーチのようなものから櫛を取り出した。お泊りセットの中に入っているような簡易的な櫛だ。
    「頭、下げて」
     言われた通りに頭を下げると、降谷が手に持っている櫛が自分の髪に触れてきた。熱烈なパンチを繰り出してくる手とは思えないくらい、自分の髪を梳く降谷の手つきは優しい。まるで自分が子どもに戻ったかのような心地になり、急に恥ずかしさがこみあげてくる。自分の中にこんな気持ちがまだ残っていたとは驚きだ。
    「ふ、降谷君、髪くらい自分で梳けるが……」
    「そんなことはわかってます。ただ、僕がしてあげたくなっただけです。……はい、これでひとまず大丈夫でしょう」
     自分の髪は癖があるので扱いづらいのだが、降谷は難なく自分の髪を整え上げた。降谷がポーチから剃刀を取り出すのを見て、赤井は目を見開く。さすがに髭を剃ることまで降谷に任せるのは抵抗があった。
    「降谷君、髭は自分で剃ってくるよ」
    「そうですか? じゃあ、これかしてあげます」
     少し残念そうな表情を浮かべる降谷に、ぐっと胸を掴まれ揺さぶられているような心地になる。
     このまま降谷に任せてしまいたい気持ちと闘いながら、赤井は降谷から剃刀を受け取った。
    「ありがとう……」
     ひょっとして降谷は、親密な関係にある相手を甘やかしたくなる性格をしているのだろうか。降谷のとんでもない一面を知ってしまったと思いながら、赤井は名残惜しい気持ちを抱え病室を出た。


    <11>


     赤井が病室に戻ると、降谷は自身の荷物をバッグの中に詰め込み、片づけをはじめていた。このあと検査と医師による診察があり、それが終われば無事に退院だ。スムーズに退院手続きができるよう、今のうちに帰り支度をしているのだろう。降谷は段取りが良いので手助けなどは必要ないだろうが、念のため問いかける。
    「何か手伝うことはあるか?」
    「大丈夫です。もうすぐ終わるところなので……」
     病室を見渡しても、降谷の私物は見当たらない。思った通り、自分が病室を離れている間のわずかな時間でほとんど片づけを終えてしまっていたらしい。
    「……そうか。これ、ありがとう。助かったよ」
     借りていた剃刀を降谷に返す。
    「いえ……」
     降谷は剃刀を受け取って、ポーチの中に仕舞った。降谷の視線が一瞬こちらへと向けられたが、すぐに離れてゆく。どことなく、不自然な動きだと思った。
    「……降谷君」
    「……なんですか?」
    「こちらを向いてくれないか?」
     赤井がそう告げると、降谷は手の動きを止めて、恐る恐るといった様子でこちらを向いた。表情がさだまっていない。何者にも演じ切れていない彼の表情を見るのは、心から高揚を覚える。
    「……急にどうしたんですか?」
     降谷の瞳が揺らいでいる。視線を逸らしたいという意識の底に、必死に自分に食らいつこうとする意地が見えたような気がした。
    「君の様子が少し妙だったんでね。俺が病室の外に出ている間、何かあったんだろう?」
     そう問いかけると、降谷はひとつ息を吐いた。選択肢は、正直に告げるか、それとも隠すか。降谷の決断は、潔かった。
    「何もありませんよ。ただ……」
    「ただ?」
    「恥ずかしいことをしてしまったな、と思って……」
    「恥ずかしいこと?」
     そのまま視線を合わせ続けるのは限界だったのか、降谷は自分に背を向け、すでに整理されているはずのバッグの中身をあれこれ弄り回しはじめた。何かしていないと、心が落ち着かないのかもしれない。
    「僕は世話焼きな一面を持っている自覚はあるんですが、あなたが相手だと、世話焼きを超えてなんでもやってあげたくなってしまうみたいです。あなたがなんでもひとりでできることはわかっているんですが、何かしてあげたくなってしまうというか……僕自身も今まで気づいていなかったことです」
     櫛で髪を梳いたり、髭を剃ろうとしたことを言っているのだろう。髭剃りは断ってしまったので、余計なことをしてしまったと気にしてしまっているのかもしれない。降谷に誤解されたままではいけないと、赤井の心は急いた。
    「君の好きなようにしてほしい」
    「……え?」
    「俺は君に構われている時間が好きなんでね」
    「でもあなたさっき……」
    「どうにも照れくさくてな。慣れるまでは大目に見てくれないか」
    「あなたが照れるなんてことあるんですか……」
    「ああ、君限定だがな」
     病室のドアがノックされる音がする。「どうぞ」と降谷が声を上げると、馴染みの看護師が顔を覗かせた。退院前最後の検査と診察の時間が来たようだ。
     このまま病室に残り降谷の帰りを待っていれば良いのだが、どうにも今は降谷と離れがたかった。看護師と一緒に病室を出る降谷を、赤井も静かに追いかける。
    「僕、子どもじゃないので一人で行けますよ」とでも言われるかと思ったが、一瞬だけこちらを振り向いた降谷の瞳が、片時も離れたくないと懇願するような色をしていた。
     自分たちは互いに、離れたくないと思っている。それがわかっただけでもう、心が昂って仕方がない。
     もちろん検査室や診察室の中まで入って行くことはできないが、少しでも彼のそばにいられればと、赤井はそれぞれの部屋の前で待つことにした。


    <12>


     検査も問題はなく、診察も無事に終わり、いよいよ退院の時間になった。降谷が受付で手続きをしている間、赤井は駐車場に停めておいた愛車へと向かう。自分たちの荷物は後部座席に乗せて、病院の玄関へと車で移動すると、ちょうど降谷が看護師たちと会話しているのが見えた。
     玄関前で停車すると、降谷の視線がすぐにこちらへと向けられる。降谷は看護師たちに深く会釈をし、こちらに向かって歩き出した。
     降谷は自然な所作で助手席へと乗り込む。まるで最初からそこが彼の定位置であったかのように、彼が自分の隣に座る姿はしっくりくる。
    「車、ありがとうございます」
    「これくらい構わんよ。帰る場所は同じだしな」
     降谷が部下に迎えを頼む前に、先手を打ったのは赤井だ。「俺の車で一緒に帰ろう」そう告げたときの降谷は、困惑と嬉しさを織り交ぜたような表情をしていた。そして今、自分の隣に座る降谷は、どこか緊張したような面持ちを見せている。
     赤井は降谷のシートベルトをかわりに締めてあげることにした。自然と身体が近づいて、吐息が触れ合うほどの距離になる。降谷が身体を強張らせるのがわかったが、気づかないフリをすることにした。
     静かにアクセルを踏み、病院の敷地から外に出ると、降谷の戸惑うような声が聞こえてくる。
    「本当に、僕の家で一緒に住むんですか?」
    「ああ。君の見張り役としてな」
    「僕の家、狭いですよ」
    「好都合だな。いつでも君が視界に入る」
    「……あなた、本当に僕を見張るつもりなんですか」
    「ああ。君が家から出ないようにな。……というのは建前で、ただ君と一緒にいたいだけだよ」
     しばらく静寂があった。降谷はこちらを見ずに窓の外を見ながら言った。
    「……まるで、同棲でもするみたいですね」
     思わずハンドルを握る手が動揺してしまう。
     赤井はハンドルを強く握りなおし、そっと降谷の方を見た。降谷がこちらを振り向くことはない。顔を見なくとも、彼がどんな表情をしているのか、手に取るようにわかるような気がした。
    「……そうだな」
     一瞬、降谷の肩が微かに揺れて、再び静寂が舞い降りた。一緒にいるのに何も話さない。けれど、お互いがお互いのことを考え、会話を必要としない時間が流れる。たまにはこういう雰囲気に浸かるのも悪くない。そんなことを考えていると、降谷が突然、慌てたような声を上げた。
    「赤井、大変です! スーパーに寄ってください! 家の冷蔵庫、何も入ってないんでした!」
     恋人同士の甘い時間もなんのその。彼は急に振り返り、必死にこちらの目を見て訴えかけてきた。いつでも、どこにいても、現実にすぐ帰ってきてしまう彼もまた、可愛らしいと思う。
    「フッ……了解」
     赤井は笑みを堪えきれないまま、ハンドルを切った。
     降谷の自宅近くにあるスーパーに辿り着くと、赤井は買い物カゴを持ち、降谷に付いて回る。いよいよ同棲カップルらしくなってきたと思い、気分は高揚した。


    <13>


     買い物の途中。苦手な食材はないか、食べたいものはあるか、などと複数質問を受けた。降谷はどうやら自分のために食事を作ってくれるつもりらしい。
     彼はまだ療養中の身なのだから、自分が作ると言ってみたが、「少しでも身体を動かさないと身体がなまってしまいますから、僕にも作らせてください」と押し切られてしまった。それに加え、降谷の手料理が食べたい気持ちが勝ってしまい、食事の用意は赤井と降谷が半々で受け持つことに決まった。
    「あとで当番表を作りましょう」
    「当番表?」
    「料理当番、ゴミ出し当番、掃除当番、それから……」
    「……君は家でおとなしく静養していてくれ」
    「でも……赤井、家事なんてできるんですか?」
    「ああ、一応、一通りのことはできる。だから君は身体を治すことを最優先に考えるんだ」
    「だからって、何もかもあなたに任せるわけには……」
     自分に迷惑をかけたくないという気持ちもあるのだろう。それに降谷は、家でじっとしているのはあまり好ましくないと考えている節がある。だが、少しでも無理をすればすぐに病院へと逆戻りだ。
    「君の世話をする楽しみを奪わないでくれ。それに、無理して身体を動かして、また入院するのは嫌だろう?」
     そう続けると、降谷はしぶしぶといった様子で頷いた。
    「わかりました。……お世話になります」
     声の調子から、てっきり納得のいかない表情を浮かべているのかと思ったが、降谷の表情は想像していた以上に穏やかだった。彼の心根はわからないが、降谷と一緒に住むことを認められていなければ、こうしたやり取りすらもできない。入院中ずっと感じ取っていたことだが、降谷が自分を受け入れつつある証を改めて見た気がして、胸がくすぐったくなった。
     外出の頻度を減らすためにと食料品をある程度買い溜めたので、荷物の量もそれなりに多くなった。
     降谷の家に着き、車から荷物を運び出す。降谷が荷物を持とうとするのを遮り、自分たちの荷物と買い物袋を両手に持つ。降谷は不満そうな表情を浮かべたが、今は重い荷物を持つのは身体に良くないと察したのか、おとなしく鍵を取り出して、部屋のドアを開けた。
     ドアを開けると、すぐ目の前に一匹の白い犬がいた。飼い主の帰りを待ち侘びていたのだろう。降谷の姿を見るやいなや、白い犬は勢いよく降谷に飛びついた。
    「ただいま、ハロ。ずっと留守番させちゃってごめんね」
    「アンアンッ!」
     降谷が抱き上げた白い犬は、尻尾を大きく振り、嬉しそうに降谷の頬をペロペロと舐めはじめた。降谷と犬の再会を微笑ましい気持ちで見守っていると、その白い犬はようやく自分の存在に気づいたようで、警戒するような表情を見せた。表情豊かな犬だなと思っていると、降谷が苦笑して言った。
    「ハロ。この男は、赤井っていうんだ。敵じゃない、味方だよ」
    「話では聞いていたが……会うのは初めてだな、ハロ君」
     両手が荷物で塞がっているので撫でてやることはできないが、そう告げると、まるで返事をするように一声鳴いた。
    「アンッ!」
    「ハロは賢い犬なので、きっとすぐにあなたにも懐きますよ。さぁ、どうぞ、入ってください」
     靴を脱いで家へと上がる。「おじゃまします」と告げると、「あなたが言うと違和感ありますね」と降谷は笑った。
     降谷の家の中に入るのは、もちろんこれが初めてだ。ほんの一歩、足を踏み入れただけで、感動と緊張が一気に押し寄せてくる。
    「ここで、君と一緒に暮らすんだな……」
     部屋の中を見渡しながら、思わず心の声を零してしまう。
     降谷は何も言わない。赤井が降谷を振り返ると、ハロの体に顔を埋めた彼の耳が、かわいそうなくらいに真っ赤になっていた。


    <14>


     赤井が荷物を部屋に運び込み、冷蔵庫に食料品を入れている間、降谷はハロの餌を用意していた。
     台所にあるテーブルの下に、降谷が餌の入った皿を置く。腹を空かせていたのもあるのだろうが、久しぶりに飼い主から餌を与えられて嬉しいのだろう、ハロはよそ見ひとつせず勢いよく餌に食らいついていた。
     しばらくハロを眺めていた降谷だったが、何かを思い立ったように立ち上がる。降谷は台所の隣にある部屋へ入って行った。換気のために窓を開けるつもりなのだろう。降谷の後を、赤井は静かに追いかける。
     閉じ切ったカーテンを開けようとした降谷の手を、赤井はやんわりと掴んだ。まさか邪魔されるとは思っていなかったのだろう、こちらを振り返った降谷は驚いた表情をしている。
    「なんですか? 急に……」
     そう続ける降谷の身体を、赤井は正面から抱きしめた。降谷は一瞬大きく身体を震わせると、抵抗することもなく静止した。急に抱き締められて、思考が追いついていないのかもしれない。降谷にとっては突然の行動で驚いただろうが、赤井はずっとこうしたいと思っていた。
    「やっと……二人きりになれたな」
     入院中、病室で二人きりになる時間はあった。けれど、いつ誰が入って来るかもわからない状況だったので、本当の意味で二人きりにはなっていない。台所にいるハロは、餌を食べることに夢中で、しばらくこの部屋に入って来ることもないだろう。
     すなわち、今の自分たちは何をしようとも許される状況、ということだ。そのことを降谷も察したようで、彼から甘やかな緊張が伝わって来る。
    「赤井と二人きりなんて……なんか病院にいるときよりも照れますね」
    「……そうだな」
     降谷の両手がそっと自分の背中に回ったのがわかった。降谷の傷に触れないようにしながら、赤井は強く抱き締め返す。降谷の吐息が肩に触れる。降谷が肩に頬を摺り寄せてくるのがわかり、それにこたえるように赤井は降谷の頭を撫でた。
     二人同時に、思わず笑みが零れる。降谷はゆっくりと言葉を紡いだ。
    「作戦が始まる前、まさかこんなことになるとは予想もしていませんでした。この家に帰って来れるかどうかさえもわからない状態だった……それなのに、まさかこうしてあなたとこの家に帰って来ることになるなんて……僕のシナリオにはなかった展開ですよ」
    「シナリオ?」
    「――僕が描いていた未来予想です。そして僕の未来は、あなたが書き換えてしまった――本当に、あなたは何度僕の計画を狂わせれば気が済むんですかねぇ……」
     憎まれ口を叩いているようにも聞こえる言葉だが、彼から紡がれる声音は穏やかで、どこか嬉しそうだ。
    「それを言うなら、俺の未来も君が書き換えたようなものだ」
    「……え?」
    「君に告白されない限り、俺はずっと君への気持ちを隠し通すつもりだったからな」
     降谷の目を見て告げる。降谷は底抜けの笑顔を浮かべて言った。
    「そういえば、あなたはあなたで賭けをしていたんでしたね。あなたのシナリオを僕が書き換えたとは……気分が良いです!」
     どんな表情の彼も好きだが、こうして得意気な表情を浮かべる彼は特に愛らしい。降谷の頬にかかる髪を撫でると、彼が心地よさそうに目を閉じた。
     自分たちに言い聞かせるように、赤井は告げる。
    「これから先、シナリオは幾度も書き換わる。組織の動きによっては、今度こそ離れ離れになってしまうかもしれない……だが今は――この時が永遠に続けば良いと俺は思っているよ」
     降谷がはっとしたように目を見開く。
    「……僕も、そう思っています」
     震える声。笑顔なのに今にも泣きだしそうな顔。
     背中に回った降谷の手に力が込められて、胸を鷲掴みにされる。ぎゅっとしがみついてくる彼の必死さが、どこまでも愛おしい。
     赤井は降谷の顎に手をかけて、そっと囁いた。
    「病院でなければ、良いんだったかな」
    「……え?」
     降谷がキョトンと幼げな表情を浮かべる。彼にはまだ、雰囲気で察しろというのは難しいのかもしれない。
     返事を待たずに、赤井は降谷の顎をぐいっと引き寄せる。彼の抵抗が始まる前に、赤井は降谷の唇を掠め取った。初めて知った彼の唇の柔らかさに全身が上気する。
     降谷とキスをした高揚感に浸っていると、彼の顔がみるみるうちに赤色に染まってゆくのが見えた。
    「真っ赤だな」
     思わず感想を述べてしまうと、降谷にキッと睨みつけられてしまう。
    「赤井……貴様っ! 俺はまだ心の準備がっ……!」
     降谷は完全に平静を失っている。待てずに降谷の唇を奪ってしまったが、彼にはまた別のシナリオがあったのかもしれない。
     どうやら自分はまた、降谷のシナリオを書き換えてしまったようだ。


    <完>
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    Replies from the creator

    花月ゆき

    DONE秀零の日。
    記憶喪失&身体だけ縮んだ赤安(中学生)が、工藤邸に一緒に住んでいる設定(たまにコナン君が遊びに来る)です。
    ①https://poipiku.com/1436391/9417680.html
    ⑤https://poipiku.com/1436391/9895567.html
    記憶は心の底に④コナンSide

     一月十日。コナンは阿笠邸を訪れていた。目的は、赤井と降谷の解毒薬の進捗を聞くためだ。
    「……30%ってところかしらね」
    「……そうか。やっぱり、俺たちが飲まされた薬とは違うのか?」
    「ええ。成分は似ているけれど、同じものではなさそうよ。ああ、それから、薬によって記憶が失われたどうかはまだわからないわ」
     赤井と降谷は毒薬によって身体が縮み、今は中学生として日常を送っている。
     身体は健康そのものだが、なぜ、FBIとして、公安として、職務に復帰できないか。それは、二人が大人だった頃の記憶を失くしているからだ。
     コナンの脳裏には、“あの日”の光景がよみがえっていた。
     今すぐにでも倒壊しそうなビルの中。炎と煙で視界を遮られながらも、赤井と降谷とコナンは、組織が残したとされる機密データを探していた。このデータさえ手に入れることができれば、組織壊滅のための大きな足掛かりになる。なんとしてでも、この場で手に入れておきたいデータだった。
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