お題「昔の話」 長い長い片想いを終えて。降谷は赤井と恋人同士になった。
無自覚だった期間もあったけれど、出逢ってからずっと、降谷は赤井に恋をしていた。片想いの日々を振り返れば、恥ずかしさで逃げ出したくなるような記憶もある。その記憶の中のひとつに、今もなお、降谷の心の中にずっと引っかかり続けているものがあった。
赤井は知らない、降谷だけが知っている“ある日の出来事”。
もちろん誰にも打ち明けるつもりはなかったが、赤井との関係が変わったことを機に、降谷は赤井に話してみようかと思いはじめていた。
一生この片想いが続くと思っていた頃。その気持ちごと墓場まで持っていくつもりだった“ある日の出来事”の記憶。それは偶然起きたものではなく、降谷自身が引き起こした出来事だった。
週末。降谷は赤井の愛車に乗り、ドライブを楽しんでいた。ふたりきりで一緒の時間を過ごしたかっただけなので、目的地も特に決めていなかった。運転席に座る赤井を隣に見ながら、降谷は話をするタイミングをずっと窺っていた。さりげなく話を切り出そう、と思案していたが、赤井の微笑によってそれは決壊する。
「何か話したいことでもあるのかな?」
そう言いながら、ハンドルをすっと撫でる赤井に、降谷の胸がどきりと鳴る。こちらの動向を見抜かれてしまったことにほんの少し悔しさを覚えながらも、話を振ってくれた赤井に応える形で、降谷は話しはじめた。
「実は僕……あなたに秘密にしていたことがあるんです」
「秘密?」
「はい。……今だから言えることなんですけど、聞いてくれますか?」
「もちろんだよ、降谷君」
「あなたが組織に潜入していた頃……つまりあなたが“ライ”と呼ばれていた頃の話なんですけど……」
降谷が組織に潜入し、組織のやり方にだんだんと馴染みはじめてきた頃。ライとバーボンが一緒に暮らしていた時期があった。それは、ある人物の監視を上から命じられたときのことだ。いつものように、決まった時間に集合し任務をこなして解散する、というわけにはいかず、朝から晩まで一日中、バーボンはライと一緒にいた。
監視対象の住むマンションの向かいにあるマンションで、対象の動きを見逃さないよう、バーボンはライと交代で監視を続けていた。
外出したり、食事を作ったり、シャワーを浴びたり。監視は交代制なので行動にはほぼ制限がなく不自由のない生活はできたが、部屋にいる間は、常にライがそばにいるような状態だった。
今思えば、複数部屋があったのだから、監視している時間以外は、それぞれ別の部屋にいてもよかったのではないかと思う。だが、なぜか二人で一緒の部屋にいることが暗黙の了解となっていた。それは睡眠を取るときも例外ではない。
ライは頼りになる仲間だと思ってはいながらも、組織に属する人間であることに変わりはない。そんな人間の前で、無防備に寝ることはできない。自分が寝る時間になっても、バーボンは横になって身体を休めるだけで、意識を手離したりしないよう注意していた。
ところが、そんな自分と異なり、ライは自身が寝る時間になると、驚くほど熟睡していたのである。それも、一日二日の話ではない。一緒に暮らすようになってからずっとだ。
ライの分厚い胸が呼吸で上下するのを見ながら、バーボンは信じられない気持ちで胸がいっぱいになっていた。隣で寝ても大丈夫と思えるほど、自分はライに信用されているのだろうか。そう思わせられる度に、バーボンは胸が熱くなるのを抑えることができなくなっていた。
そして、一緒に暮らすようになってから一週間ほどが経った頃。
ほんの少しのイタズラ心で、バーボンは眠るライの顔の前でひらひらと手を振ってみた。気配に敏感なライのことだ。すぐに目を開けるだろうと思ったが、ライは目を瞑ったまま、気持ちよさそうに眠っている。これは自分が声をかけない限り起きないのではないか。そう思うのと同時に、ひた隠しにしていた恋心がぴょこりと顔を出した。
音を立てないよう、呼吸すらも止めて、バーボンはライに近づき、ほんの一瞬だけ、自分の唇をライのそれにくっつけた。感触を味わう間もなく、バーボンは慌ててライから離れる。ライを起こしてしまうのではないかと思えるほど、胸がドキドキと大きな音を立てていた。
ところが、バーボンの心配をよそに、ライは結局、交代の時間になるまで一度も目を覚ますことはなかった。
振り返ってみれば、この頃に、かすかに芽生えた恋心が花開き、狂おしいほど咲き乱れるようになったような気がする。
降谷が秘密を語り終えると、赤井が優しい笑みを湛えたまま言った。
「……君からあの頃の話が聞けるとはな」
「……あの、怒ってますか?」
「…………いいや、君に怒るなんてあり得ない」
しばらくの間のあと、赤井がこたえた。
「じゃあ、今の間はなんです?」
降谷が詰め寄ると、赤井はひとつ苦笑をして言った。
「……実は俺にも、君に秘密にしていたことがあってね」
「あなたも」
「ああ。聞いてくれるかな」
「もちろん、聞きます! 教えてください!」
「君への秘密は二つある」
「二つ」
自分よりも多いではないか! と、降谷はなぜか悔しい気持ちになった。いつでもなんでも、自分より赤井の方が上だと、おもしろくないのだ。
「一つ目は……あの日、俺は起きていた」
信じられない言葉が赤井の口から紡がれて、降谷は背筋が凍るような心地がした。
「ま……まさか、僕がキスしたことにも気づいて……」
「ああ、あまりにも短すぎて、もっとちゃんと味わいたいと思ったくらいだよ」
ウィンクを寄越してきた赤井に、降谷の神経は逆撫でされる。
「狸寝入りしてたのか、貴様……」
本気で怒っているぞ、という気持ちを、超絶に低い声で表現してみたが、赤井は物ともしない。赤井は構わず続けた。
「そして二つ目は……あの日、俺と交代で君が眠ったあと、俺は君にキスをした」
「なっ……」
「あの日、君はよく眠っていたからな」
「…………」
あの日。キスをしても起きなかったライを見て、バーボンも気を張るのをやめたのだ。自分をここまで信用してくれている人物が、自分に何か危害を加えるわけがない。そう自分に言い聞かせると、これまで眠っていなかった分、疲れが一気に押し寄せてきたのだ。
ライと交代してすぐ、バーボンは倒れ込むように眠りについた。監視をするようになってからはじめて、バーボンはぐっすりと朝まで眠ることができたのだ。
もしや、こうなることを見越して、ライはあえて熟睡している振りをしていたというのだろうか。いや、ライ――赤井のことだから、熟睡していても、自身に近づく気配を察知して、そのときだけ目を覚ましていたのかもしれない。どちらにせよ、降谷にとってはおもしろくない昔話を知ってしまった。
だが、昔話はこれだけでは終わらなかった。
「ところで降谷君」
「今度はなんですか」
投げやりな声音で言うと、赤井は幸せそうな笑みを浮かべて言った。
「もうひとつ、君に秘密にしていたことがあった」
「まだあったんですか」
降谷が声を荒げるのと同時に、赤信号に捕まり車が停止する。赤井はまっすぐこちらを見て言った。まるで、獲物を目の前にした獣のような眼差しで。
「三つ目は……あの日、君にキスをされてから、絶対に君を俺のものにすると決めたんだよ」