Day2お題「雪」 赤井がアメリカへと旅立った。FBIの上層部からの指示で、急遽、アメリカで起きている凶悪事件の解決のために呼び戻されたのだ。組織が壊滅し、残党処理に明け暮れる昨今。残党の動きもけっして軽視はできない状況だが、アメリカで起きている事件は日本でも連日報道されるほどの大事件となっている。
一刻の猶予もないことは、降谷にもよくわかっていた。これ以上、犠牲者を増やしてはならないと、日本に滞在中の赤井にお呼びがかかったのも理解できる。
最後に赤井と会ったのは、とある喫茶店だ。初めて二人でその喫茶店に行ったのは、ひどく寒い日。電車が止まり、運行が再開するまでの滞在場所として選んだ場所だ。赤井が気に入ったこともあり、仕事帰りや休憩したいときに、その喫茶店には二人でよく訪れるようになっていた。
降谷は以前からたまに訪れている店だったが、赤井と一緒に行くようになってから、喫茶店のマスターに顔を覚えられるほど通うことになった。
赤井がアメリカへ発つ日。その喫茶店で、降谷は赤井にしばしの別れを告げられていた。
「降谷君、実は今からアメリカへ行くことになった」
「そ、それは……随分と急ですね」
「今朝決まったことだからな」
「今朝……」
「夕方の便で発つよ」
コーヒーカップを持つ、赤井の無骨な左手が目に入る。あの日から、赤井の手を意識しない日はない。
手から伝ってくる赤井の体温を思い出すのと同時に、引き金を引く赤井の指を思い浮かべる。ライフルを撃つこの手を、今すぐ必要としている人たちがアメリカにたくさんいる。激励の言葉を以って、赤井を見送るべきだと降谷は思った。しかし、心の中にふと訪れたのは、“さみしい”という感情。
「……いつ、戻って来れるんですか?」
思わず口にしてしまった言葉に、降谷は自分の口元を手で覆う。これではまるで、赤井に早く帰ってきてほしいと言っているようなものだ。「あ、いえ、今のは……」と誤魔化す言葉を捻り出そうとしている間に、赤井は微笑んで言った。
「それはまだわからんが、すぐに解決させて帰って来るよ」
「そ、うですか……」
「毎日君の顔を見ていないと、落ち着かないんでね」
視界の中心にいた赤井の左手が、自分の手に触れてきた。
コーヒーカップに添えていた自分の手は、あの日のように冷めてなどいない。今、赤井が自分の手に触れてくる理由は何もないはずだ。戯れに触れてきたわけでもないだろう。赤井のことが、よくわからなくなってくる。
「落ち着かないって……なんですか、それは」
振り返ってみれば、ほぼ毎日、何かしら理由をつけて、赤井は自分に会いに来ていた。見てほしい資料があるだとか、相談したいことがあるだとか。そこまでして自分に会いに来る本当の理由が“落ち着かない”とは、いったいどういうことなのだろう。
ふと脳裏に“ある答え”が思い浮かんだが、降谷はすぐにその思考を頭から追い出した。意識してしまえば最後、自分が自分でなくなってしまいそうな気がした。
なんとなく赤井の顔を正面から見ることができなくて、降谷は赤井から顔を逸らす。すると、赤井はどこか困ったような、苦笑いを含んだ声音で言った。
「まさか君がここまで頑なだとは……」
「僕が、なんですって?」
その問いには答えず、降谷に触れている左手に、赤井は力を込めはじめる。
別れを惜しむように。互いの体温を確かめ合うように。そして、今ここで明かされることのない“答え”を仄めかすように。赤井の手が確かな意思をもって、自分の手に触れている。
「アメリカから帰ってきたら、君に伝えたいことがある」
降谷は大きく目を見開いた。胸の高鳴りを意識しながらも、赤井のいないこれからの日々を想い、静かに目を伏せる。
あの日と同じように、赤井の手は温かく、心地よかった。
ほぼ毎日会っていた人物が唐突に居なくなり、降谷は落ち着かない日々を送っていた。赤井がいないという違和感の中。降谷が赤井のことを考えない日は一日もなかった。
赤井がアメリカへ発ってしばらく経ったある日。
もうすぐ春を迎える頃合いだというのに、東都の気候は、唐突に冬へと逆戻りした。雪の降る予報は出ていなかったはずだが、夜の九時を過ぎると、雨混じりの雪が降りはじめた。雨がしだいに雪へと変わりゆく様は、あの日の出来事を降谷に思い出させる。
コンビニの前で互いに抱擁しあう恋人たち。冷たい自分の手に触れてきた、赤井の手。窓越しに、ふわりふわりと宙に漂う雪の姿を眺めながら、赤井の手の温もりを思い出す。
「これは……雪が本格的に降り始める前に、帰った方が良さそうですね」
風見の声に、降谷は我に返る。風見をはじめとした部下たちに、今日はもう帰宅するようにと指示を出し、降谷も帰り支度をはじめた。
外に出ると、雪の姿がより鮮明に降谷の視界に入ってきた。雪の混じった強い風が頬を撫でてゆく。まだ積もるほどの雪は降っていない。コンクリートの上に雪が落ちて、すっととけてゆくのが見えた。
警察庁の玄関を抜けて駐車場に向かう途中。スマホが鳴った。ポケットからスマホごと手を出すと、冷たい外気が、肌から熱を奪いに来る。
スマホの画面を見れば、発信元は赤井だった。電話に出るかどうか迷ったのは一瞬。気づけばスマホの画面をスライドし、スマホを耳に当てていた。
「……もしもし」
『……降谷君。もしや仕事中だったかな』
「いえ……ちょうど帰ろうとしていたところです。あなたは?」
『大雪で捜査が中止になってね。今は本部で待機中だよ』
「……そうですか。あなたの国ほどではありませんが、ちょうどこちらも先程から雪が降りはじめたんですよ」
『……そうか。今日は寒がってはいないかな』
笑みを含んだ赤井の声音。
息を吸うと、降谷の身体の中に冷たい空気がすぅっと入って来る。
あの日のことを思い出しながら、「あなたと違って防寒対策はしっかりしています。あなたが気にすることは何もありません」と、心の中ではそんな言葉が浮かんでいたが、実際に口から零れ落ちたのは違う言葉だった。
「……寒いです」
『……降谷君?』
「もう手袋はいらないと思っていたので、家に置いてきてしまったんです。だから、手がすごく冷たい……」
まるで、赤井のせいでこうなっている、とでも言っているような声音になってしまった。
『今、どこにいる?』
「外です。ちょうど駐車場に向かっているところで……」
『早く車の中に入って暖房をつけるんだ。以前のように、君を温めることが今の俺にはできないからな』
「……ええ。わかっていますよ」
冷静な声音を作って、そうこたえる。降谷が愛車のもとへ速足で歩きはじめると、赤井が言った。
『本当は今すぐにでも君に逢いに行きたいよ』
甘く優しい赤井の声。その声に、泣きたくなるほど、赤井が恋しくなる。
赤井の言葉ひとつで、こんなにも感情を揺さぶられてしまう。そんな自身の変化に、思考がまだ追いついていかない。自分で思っていた以上に、自分は赤井がいなくてさみしいのだ。
本音を誤魔化すように。いつものように可愛らしさの欠片もない言葉で言い返すこともできたが、降谷はそれをしなかった。今ここで、己の本心を紡ぐことに、迷いはなかった。
「早く帰ってきてください。……あなたがいないと寒いんです」
電話の向こうで、赤井が息を呑む気配が伝わってくる。降谷は急に気恥ずかしくなり、慌てて電話を切った。