水溶性のラブレターにまつわる後日談 深海にまで熱が届きそうな熱帯夜の午前2時。ピュア・ノワールの封筒の中身は、まだ僕だけしか知らない。
※※※
拝啓 アズール
このような形で僕たちが今までやりとりをすることは滅多にありませんでしたね。でも、今回はどうしても手紙という形で貴方にお伝えしたいことがありまして、筆をとりました。この手紙で、最近の僕の態度についての釈明をさせてください。僕が貴方を避けたり、ミスが増えてきたことを、さぞや訝しく思っていることでしょう。絶対に僕が出るようにと言われていたアズールとの打ち合わせも、代わりにフロイドに行ってもらいましたし、数ヶ月前から約束していた市場調査の約束も僕は当日になって、キャンセルしてしまいました。貴方は、それはもう怒っていましたね。無理もありません。約束を違えることは、信用を失うことですから。結局、市場調査はリドルさんと行かれたのでしたっけ。リドルさんの勉強時間をなんとか少しでも削ろうとする貴方の涙ぐましい努力が伺えて、僕は感服いたしました。行かれたカフェやレストラン、雑貨屋はいかがでしたか?リドルさんとの時間が貴方にとって有意義な時間になっていることを願います。
他に、ラウンジへの無断欠勤の件でも、僕は貴方から長時間の叱責を受けました。注文の聞き違え、会計ミス、発注ミス、備品の破壊、賄いのつまみ食い、メニューにない材料、主にキノコの混入なども含めて、あのときは色々なことをまとめてご指導いただきましたね。
さて、この数ヶ月のがたがたに崩れた僕をみて、貴方からの信用は地に落ちていることでしょう。でも、僕がこうなった理由は貴方にあります。
こんなはずではなかったんです。先日、長時間叱責されている間も、まくしたててくる貴方の顔がどんどん近づいてくるので、正気でいられず、内容がほとんど頭に入ってきませんでした。途中でアズールがキノコの名前を間違えたので、訂正して差し上げたら更に貴方がかんかんに怒っていたことだけは覚えているのですが。
つまり、僕は貴方に対して今まで通りではいられなくなっているということです。完璧で有能な秘書兼補佐兼副寮長としてふるまえなくなりつつあります。貴方と一緒にいるときは、心臓がうるさくてまともにものも考えられないんです。こんなことでは困ると思いまして、僕なりに解決策を考えてみました。それがこの手紙です。貴方がどう取り扱っても、僕は貴方の決定を受け入れます。
【レター小説セットでは、この部分の紙だけ水に溶ける紙を使っています】
驚かれるかもしれませんが、アズール、僕はあなたを愛しています。これ以上ないほどに。これは最初で最後の僕からのラブレターです。
最後のこの紙だけ、水分に反応して溶ける紙でできています。僕からのこの感情が、今後のアズールにとって不要なものであると判断したときには、どうぞこの紙を溶かしてください。紙が溶けたら、僕の貴方に向けている感情ごと消え去るように、特別な魔法をかけてあります。
この感情が不要な場合……、もし慈悲をかけていただけるならこの紙を飲み込んでください。口に含んで僕の愛をあなたの胃の中に溶かしてくだされば、報われようというものです。僕の愛ごとき、そうたいしたカロリーにもならないでしょうから。
臆病なウツボの人魚 ジェイド・リーチ
ジェイドが手紙を書いて、中身をあまり読み返すことなく、黒の封筒にしっかりと封蝋を押して、届けるべき人の元へと渡るように魔法で手配したのは、日中のことだった。今日はラウンジもないので、全ての予定を早々に済ませた。アズールが手紙を読んだかどうか、気が気ではないが、読めばなんらかのリアクションがあるはずだから、それを待つことにしていた。特にアズールからの呼び出しもなく、まだ読んでいないのかもしれないな、と思いながら、寝るために部屋に戻ると、自分の机の上に見慣れぬ白い封筒が置かれていた。
差出人の名前も宛名もなかったけれど、封蝋の刻印を見て、すぐに誰からの手紙か察した。純白のそれは、ジェイドにとって特別な位置にいる、手紙の宛先である彼が正式な手順をきっちり踏みたいときや、気合いの入った取引の時に好んで使う上等な紙の色だった。染みひとつない白を使うときの彼は、真剣に勝負をかけているときなのだと、長い付き合いの中から自然と察するようになっていた。わざわざ自室の机に置いてあるのだから、間違いなくこれは自分宛だろう。返信がもうきたのだろうか。
心の準備が整わないけれど、思い切って封を開けて読んだ内容に、僕は無言になった。
無言になった僕は、戻ってきたフロイドに、うわ、ジェイドなんでキレてんの?と言われるような顔をしていたようだ。別に怒ってはいない。脳内の思考に全てを持っていかれて、表情がかちこちに固まって無になっているだけだ。
一晩寝て、朝になってようやく表情筋が弛んだ。もう一度手紙を読み返す。
Dear ジェイド
北の海ではありえない気温に晒されている毎日ですが、元気にしていますか。最近のお前の様子がおかしいので、気になって仕方がありません。ミスも多いし、明らかに僕を避けているだろう。もし、体調が優れないようならすぐに休むように。僕に対して何か思うところがあるのであれば、避けていないで直接言ってください。改善するよう努めます。僕もお前にはなんでもはっきりと言うことが多いですが、先日は強く叱りすぎましたね。申し訳ありませんでした。
さて、手紙を書いた本題にはいりましょうか。実を言うと、この手紙はあまりに俗っぽい内容なので、ひょっとするとお前に笑われるんじゃないかと思っています。
お前に避けられるようになってから、色々考えまして、自分の感情に関して重大かつ新たな気づきを得たので、その共有のための手紙です。
【レター小説セットではこの部分の紙だけ水に溶ける紙を使用しています】
「単刀直入に言うと、僕はお前を愛しています。お前が想像するよりも、おそらく大分真剣に。しかし、この思いが必ずしもハッピーエンドに向かわないことも僕はよくわかっているつもりです。この手紙の薄い紙は特別製で水に溶けます。溶けると同時に僕からお前への恋愛感情も無くなります。片思いなんて非生産的な行為は時間の無駄ですからね。もし、お前にとって迷惑になるようなら即刻この手紙は海に深く沈めてください。」
そうすれば、後腐れなく、気まずくなることもなく、この恋はなかったことになります。お互いの救済策として完璧でしょう。叶わない恋を抱えるのは人魚が最も不得意とするところですからね。
P.S. 明日、目覚めても僕がまだ貴方のことを好きでいたら、そのときは僕は僕の都合のいいように貴方の返事を受け取りますから、そのつもりで。
読み終わって、ため息を吐く。朝日がやけに眩しい。アズールが、僕のことを好いている。じわじわと染み入る言葉たちに、思わずふふっと笑ってしまった。同じタイミングで、同じ内容の手紙をお互いの手に渡るように仕込むなんて。ちなみに僕の書いたアズールへの手紙は、執務室の引き出しの一番上、アズール愛用のペンの補充用のインクが置いてあるところに忍ばせておいた。とにかくガリガリと仕事をこなす彼のインクの消費量は、常人の二倍にも三倍にもなる。一日一回は必ず開けるであろうその引き出しに、アズールの墨の色に包んだ僕の気持ちが置いてある。アズールは、読んだだろうか。
僕が手紙を書いていなかったら、貴方に会ったらなんにも覚えてないフリでもしてやるのに。僕のせいで焦る貴方をみるのは小気味良いから、しばらくしらばっくれているのも面白いだろう。勿論、僕が貴方からもらったものを海底に沈めたりする筈ないけれど。
いつもの彼らしく、どこかうっすらと余裕のある文面だったアズールと違って、報われないのではないかということが恐ろしくて、随分と熱烈な言葉をしたためてしまったことが今になって赤面するほど恥ずかしい。深夜にラブレターなんて書いたりするのではなかった。アズールはもう僕のあの気持ちを知っているのだ。そう思うと、このままアズールと顔を合わせずに今日を終えられたら、とさえ思う。シーツの中で丸まって、ジェイドはぐるりと寝返りを打つ。
朝が来てしまったから、万が一僕の手紙に気づいていなくても、アズールはもう僕の答えを知るだろう。夜を超えても例の感情はまだ、彼の中に生きている。
焦れたようなフロイドの声に呼ばれて仕方なく、ジェイドは白の隙間から身体を引っ張り出し、朝の支度をはじめたのだった。
朝になっても、アズールの恋心は消えていなかった。昨日のアズールは目が冴えてほとんど一睡もできなかったのだが、水面を通して窓から朝日が差してきた瞬間に小さくガッツポーズをした。寝ていない割に頭はすっきりはっきりとしている。軽やかな動作で制服に着替えて、隈を隠すメイクを念入りにして、いつもより丁寧に仕上げる。
昨日の夜のうちに、執務室の中にジェイドからの手紙を見つけていたけれど、もしかして自分が書いた手紙への返事だったらどうしよう、と緊張してしまって、どうしても手紙を開けられなかった。でも、今も自分がジェイドを愛しているということが、全ての答えだ。もう何も恐れることはない。滅多に手紙なんて寄越さない彼の美しい封蝋の封印を解いて、中身を確かめる。読んで、数十秒ほど固まって、今日つけようとしていたコロンを、より上等なものに変えようと決めた。以前、ジェイドが褒めてくれたとっておきの香りがするものに。
ジェイドは自嘲気味な署名をしていたが、臆病なのは自分も同じだ。結果が分かってからでないと、封を開けられなかったのだから。あのジェイドが書いたとは思えない、健気な言葉の羅列全部を舌の上で転がすように何度も呟いて読み上げて、しっかり頭に叩き込むと、アズールは自室の金庫に手紙をしまった。何重にも保護魔法をかけて。
ジェイドに会ったら、開口一番、なんて声をかけようか。そんな想像にアズールの口角は知らず知らずのうちに上がる。ジェイドも自分と同じことをしていたなんて。にわかには信じられない。
アズールは、ばったりと自分と出くわした途端に笑顔のままで素早く後退り、どこかに姿をくらませてしまったジェイドを探し回った。探し人をなんとか捕まえたときには、もう放課後になっていた。
「っはぁ、はぁ、何も、そんなに露骨に逃げ回らなくてもいいでしょう」
息切れ混じりにアズールはジェイドの手をとり、しっかりと掴む。
「おやおや。逃げるなんて人聞きの悪い。アズールが少々間が悪かっただけでは?」
しれっと笑顔を崩さない男は一見なんにも動じていないように見える。しかし、掴んだ手首の脈がはやい。とくとくとくとく、とアズールのせいで忙しなく脈打っている。隠しきれない彼の動揺が愛おしい。掴んだまま、アズールは一言一句噛んで含めるようにジェイドに告げた。
「これで、晴れて僕たちは恋人同士になったわけですが。そういう認識でいいですね?ジェイド」
「ええ。そうなりますね。どうぞお手柔らかにお願いします」
噛み合うようで噛み合わない返しは、ジェイドの思考がまとまっていないことを示している。アズールは、ふ、と表情をゆるめて、柔らかくジェイドを抱きしめた。緊張しているらしい身体をぽんぽん、と何度か落ち着かせるように叩いてやる。そのうちに、おずおずとジェイドが手を伸ばしてきて、アズールのことを遠慮がちに抱きしめ返した。しばらく腕の中に収まっているうちに、落ち着いてきたらしいジェイドは、肩の力も抜けている。遠慮がちに体重をかけてきて、アズールの上半身にずしっと重みがくわわる。わかりづらいけれどおそらく彼なりに甘えているのだろう。彼の頭を抱き寄せて、耳元にちゅ、と軽く唇を落とすとびっくりしたように彼が震えたのがわかった。そのまま、口元にもキスを贈るが、彼は口を閉じて固まるばかりだ。
甘え下手な恋人を、これからたっぷり時間をかけてぐずぐずに甘やかしてやろう、なんてことをアズールが考えていると、照れ隠しなのかジェイドのいつもの嫌味ったらしい台詞が飛んできた。
「ふふ。それにしても、恋が実らなかったときのために、魔法の紙まで使ってガチガチに予防線を貼るなんて。いかにもアズールらしい発想です」
「そういうお前も同じことをしていただろう。……お前、僕があの手紙を飲み込んでしまっていたらどうするつもりだったんだ?」
「どうもしません」
アズールがジェイドの顔を覗き込むように至近距離から見上げると、晴れて恋仲となった男は食えない笑顔でやんわりと呟いた。
「ええ、どうもしませんとも」
聞き捨てならない言葉に、アズールは眦をわずかに吊り上げる。なだめるように、ジェイドから軽く頬にキスを返される。啄まれるようなキスがかわいくて、思わず絆されていると、また不穏なことを呟いてくる。
「いつかこの関係を終わりにしたいと思った時は、いただいた手紙を水に溶かせばいいんですよね」
「恋人同士になったばかりだというのに、終わりの時の話ですか……。まあ、一応そういうことになりますね。そうすれば、僕はお前に何ら特別な感情を持たなくなるでしょう。恋人関係は解消です」
「手紙を溶かして、僕に抱いてくださっているソレを全て失ったら、貴方はどんな態度になるのでしょうか。とても、気になります」
「はぁ……。今すぐにでも試してみたい、という顔をしていますね。
好奇心で人の恋を殺すんじゃない。……待て、お前なら本当にやりかねないな。悪ふざけでそんなことを言うなら、渡した手紙を返してください」
「ふふ、いやです♡ あれはもう僕のものです。それに、アズールだって、同じことでしょう。僕との関係が嫌になったら、溶かせばいい。僕から貴方への感情は無くなります。貴方が書いていたように、後腐れがなくて、便利でしょう」
ああもう、そろそろ黙れ、というように、やや不機嫌そうなアズールの顔が近づいてきて、言葉と唇を塞がれる。ジェイドは紙を溶かしてしまおうか、という自分の言動がアズールの機嫌を損ねたらしいことが嬉しくて嬉しくて、唇が触れ合う直前に、思わず、くすっと笑ってしまった。
(あんな紙切れが溶けたって、どうもしませんよ。だって、たとえ、貴方の手によってこの想いが消えたとしても、僕はまた貴方に焦がれるような恋をするのでしょうから)
口には出さないままに、ジェイドはそっと目を閉じて、今度はさきほどよりも上手に彼からの口づけを受け入れた。