さよならワールドエンド石畳の廊下を踏みしめる、地響きのような音が鳴っていた。人などよりもずっと大きくて質量のあるカラクリが、迷う素振りもなく鈍い動きで城の奥へと進む音。だが図体の大きさから想像できない程度には器用なようで、普段はアコーディオンを抱えているはずの腕で今は一人の男をしっかりと抱えている。
キコ、キコ、キコ。カラクリの足が進むたびに人工関節は小気味良い音でリズムを歌う。けれどその足取りのたびに逃げ場をひとつ潰されるようで、私はその軽快なリズムを聞くたびに体を縮めることしかできなかった。
「……下ろして、くれ」
『アナタニ指示権限ハアリマセン。⬛︎⬛︎様ノ回収ハクリムゾンソリティアカラノゴ命令デス』
少しノイズ混じりの機械音声はそう告げる。そうして、相変わらず一切歩みを緩めぬままただ城の中へと戻って行った。
「……私は、ルシアンの……」
最後までその言葉を言い切ることは出来なかった。心の中の何かが邪魔をするようで。
私はルシアンのなんだろう。ドクターという役目を羽織った私は、ファントムにとっては指揮官だったけれど。じゃあファントムを連れ出すためにここに来て、そうして失敗して捕まっている私は?
そんな私の悩みも葛藤も心無きカラクリに察せられることはなく、その大道具は指示された通りに荷物を主人の居室へ運んで行くだけのようだ。
まだ逃げられるだろうか。だけどこのカラクリは、ひとたび戦闘形態へ移行すればこの腕で簡単に石の柱を砕けるのだ。それこそ、骨と皮ばかりの人ひとりなど指だけで潰せてしまう。
──このカラクリが暴れる姿を見た。鍛えられた戦闘員ですら跳ね除けられ、押し潰されそうな程の膂力だった。今もこの大道具の気が変わったら、あるいは誤作動を起こしたら。
あるいは。
『間モナク到着デス。クリムゾンソリティアガ中デオ待チデス』
あるいは、かの「クリムゾンソリティア」がひとつ言葉を告げれば。その瞬間に自分の命は終わるのだ。それが分かっているから、結局私は大道具の腕の中で荷物のように従順に運ばれる事しかできなかった。
『オ届ケニアガリマシタ』
「……っ」
大きな大きな扉を二つ潜り、三つ目の扉の前でそのカラクリは静止する。ここから先に入ることは許されていないらしい。そして扉が開くとともにふわりと流れた甘い香りに恐る恐る顔を上げると、やはり扉の向こうには赤い装束の主演が静かに立っていた。
「下がれ」
カラクリが静かに荷物を引き渡すと、もう用はないとでも言うように赤い男は暇を告げる。そのすげなさに文句ひとつ言わず、カラクリはくるりと私たちに背を向けていた。
扉が一つ閉まる。更に扉の向こうでもう一つ。三つ目の扉の閉まる音はもう聞こえなかった。この部屋は防音も防衛も行き届いた、城の一番奥にある牢獄だから。
「──少し長い散策だったな」
じっとりと這い寄るような声に、私は肩を震わせることしか出来なかった。だけど私の真後ろに立つ男は、私が黙りこくっていることも気にせずにその手を伸ばしてくる。そうしていつも通り私を優しく抱き上げると、その真っ暗な金目でじっとこちらを見つめて来るのだ。
「何か、面白いものは見つかったか?」
「……下ろし、て」
「今はその望みを聞くことは出来ない。ああ……すっかり顔が煤まみれだ。まずは湯浴みをしなければ」
与えられた真っ白な衣装は煤やら埃やらですっかり黒くなっていた。それこそ腕も顔も足も。それは私がここから必死に抜け出して、手あたり次第に隠れ通路に飛び込んだせい。けれど大きな煙突から一つ下の階層になんとか下りた時に、私はあのカラクリに見つかってしまったのだ。
「下ろして、一人で入れる」
「私も先ほど戻ったばかりだ。散策の結果は体を清めた後にでも……ゆっくりと聞かせて欲しい」
彼は美しい顔が汚れることなど気にもしないで、その頬を私に優しく擦り寄せていた。触れた瞬間に頬から体中に彼の熱と優しさが滲んで、それだけで必死に耐えていたはずの緊張が勝手に緩んでどこかに行ってしまう。
どこか甘えているような姿も柔らかな温度も、その全てが残酷なほどに私の記憶と重なっていた。例えばそれは、私が夜遅くまで仕事をしていた時に心配そうに傍に来てくれた日の優しさ。あるいは、彼が悪夢から覚めた時におずおずと私に抱きついて、そして安心して笑ってくれた時の幸福だった。
「──……何か、あったのか」
「……ひとりで、行けるから。だから、おろし、て……」
そしてお願いだから、今はあの時と同じ優しさで抱きしめないで欲しい。腕の中の温かさがあまりに変わらないせいで私は君が彼だと錯覚して、錯覚すればするほどに私は私の失敗に潰されてしまうから。
この人はファントムじゃない。ファントムは、こんな風に私のことを閉じ込めたりなんてしない。私達の仲間を打ち倒しても、眉一つ動かさない人じゃないのに。
「……まさか怪我を」
もう声を出せなかった。喉の奥まで痛みにも似た悲しみがせり上がって、油断すればそれは水となって瞳からこぼれそうだったから。なのにこの人は、本当に本当に心配そうに私のことを見つめてしまうのだ。美しい金目は彼の方が痛みを覚えているように歪められて、腕の中の私を宝物みたいに抱きしめながら風のようにバスルームに駆けて行ってしまう。
弱弱しい抵抗にも意味はなく、結局私は汚れた衣装を全て奪われていた。そうして貧弱な体を隅々まで確認されて、結局そこに傷の一つもないことを確認して彼はやっと息を吐く。
「疲れたのだろう。今宵はゆっくりと休むと良い。私が傍に付いている」
痙攣のように首を振ることしか出来なかった。それは縦にも横にも動いたような、とても小さな合図にしかならなかったけど。彼は嬉しそうに私の頭を撫でると、あっという間に赤い衣装を脱ぎ捨てて私の手を取っていた。
むせ返るような薔薇の香りで体中を洗われて、付いた汚れも全部全部払われて。傷一つないぴかぴかの体にされた私は彼に抱きしめられたまま大きくて豪華なバスタブに沈んでいく。沸かしたてなのだろう湯舟に肩まで浸かると、彼は私を胸元に抱き寄せて嬉しそうに息を吐いていた。
「熱くはないか?」
「……少し、熱い」
「そうか……すまない、水を足そう」
「……いい。すぐ、上がるから」
抱き寄せられて頭を撫でられて身動き一つ取れないけれど。それでも私は最後の抵抗のように彼の胸元からほんの少し頭を浮かして耐えていた。このまま彼に全てを預けてしまったら、いつか私は二度とこの人から離れられなくなってしまいそうだったから。
「──……」
震える唇が音も無く何かを叫ぶ。それは彼の名前だっただろうか。だけど私は今、彼を何と呼べば良いのだろう。何と呼べば、彼はあの頃の顔で笑ってくれるのだろうか。
「……何があった?」
だけど私の声なき声も、彼の耳は簡単に受け止めてしまう。私すら輪郭を結べなかった言葉を聞いて、彼は俯く私の頬にそっとその手を添えていた。そうして上向かされた私は表情一つ作れないまま、ぐしゃぐしゃの顔で彼を見据えるしか無くなっていた。
「泣かないでくれ。君の瞳が悲しみに沈む姿を、見たくは無い」
私だって見たく無かった。あの頃と何も変わらない穏やかな声も、心から私を気遣うその優しさも。私だけに振り撒かれる優しさがロドスに居た頃の記憶と隙間なく重なるせいで、私は震える喉からこれしか呼べなくなってしまうのに。
「ファン、トム」
金色の目がじわりと揺れる。けれどそれを見て、私はやっと息ができたような気がした。そうだ、この人はファントムじゃない。この人は、この悪意に満ちた城で造られたまやかしの役だ。優しいあの人を操ってどうしようもなく苦しめているものだ。
私が倒さなければならない呪いだ。
「君は、私をそう呼ぶのか」
「……いい、違う。君はクリムゾンソリティアだ。ファントムは──」
「その役一つで君がまた笑ってくれるというのなら……これからは好きなだけそう呼ぶと良い」
また呼吸が止まる。絶望の優しさで喉を締められたように。跳ねるように顔を上げたら、そこにはやっぱり美しい彼がいた。安堵と幸福の混じった、どうしようもないほどに優しい笑顔を浮かべた人が。
まるで初めて一つの夜を分け合った時と、同じ顔の──
「おいで。冷えてしまうだろう」
「やめ、て」
「何故だ?ああ……私が『ファントム』であるのなら、君もまた名を変えるべきか」
「やめて、嫌だ、そんな事は望んでいない!」
「……おいで」
水面が渦巻くほどに暴れても、私の抵抗なんて彼には子どもの駄々にしかならないのだろう。磨き上げられたバスタブの縁に付いた手が滑って、転がりかけた私は一瞬で彼の腕の中に招かれていた。そうしてその胸元にぎゅっと頭を抱き寄せられて、腰に響くような低く甘い声は宝物を呼ぶように唇を震わせる。
「ドクター」
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