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    鶴田樹

    @ayanenonoca

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    鶴田樹

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    落ち穂拾いの夜は明けぬ(グロ描写あり版)

    配慮版とグロ描写あり版はほとんど違いがありません。グロ描写ありの方に2、3文加筆してあるだけですので、どうぞ無理なく配慮版をお読みください。

    落ち穂拾いの夜は明けぬ(グロ描写あり版)「もうこれ以上苦しまないでほしいから」と言った桑名のその歪な笑顔がなにより俺を苦しめていると桑名は気づいていただろうか。

    「納得できない。俺は別れたくない。」

    絞り出した言葉はこどもが駄々を捏ねているように映ったのだろうか、桑名は困ったように眉を下げる。

    それじゃあまるで俺がわがまま言ってるみたいじゃねぇか。わがままじゃねぇだろこれは。俺達は付き合ってて、愛し合ってて、たまたまこういう任務に行き当たったってだけで、俺達の関係性にはなんの問題もない。

    たとえそれが、俺達のどちらかがこの時代の人間と所帯を持って、子を設けることが任務の成功条件だったとしても。

    なんでこんなことになっちまうんだよ。
    俺は遠征班を組まれた時を思い出す。

    指定された遠征先は『織豊の記憶』。難易度の低い遠征だった。必要レベルはカンスト刀の俺達2人を足せば十分に満たせるものだった。だから俺達はふたりっきりで、そう気負わずに本丸を出た。

    ふたりっきりだからって、デート気分になったらダメだって、ちゃんと気を引き締めていたつもりだった。ふたりきりの宿で人目をはばからずにキスできる。そんな期待をほんの少しポケットの中に温めてたけど、それくらいにとどめてたつもりだ。

    与えられた任務を遂行するのだって簡単だった。遠征の必要レベルが示すとおり、対峙した時間遡行軍は容易く倒せた。慎重な桑名が念の為周辺に敵が残っていないかを確認して、明日改めてターゲットの無事を確認したら本丸に戻ろうと提案して、俺もそれがいいと同意した。いつものプラン、いつもの流れ。なんのトラブルもない遠征。

    だけど俺達は知らなかった。遠征レベルとは倒すべき時間遡行軍の力量だけを示すもので、その時代に起こる出来事への精神的な負荷については一切考慮されていないことを。

    そしていつもどおりの遠征がいつもどおりの遠征じゃなくなったことを知らせたのはこんのすけの一報だった。

    「この時間軸で、ある歴史的人物が存在するための条件が欠落していることがわかりました。木下藤吉郎の父となる人物が流行り病で命を落としてしまったようなのです。」

    俺達はお互いの顔を見合わせた。

    木下藤吉郎。後の名を豊臣秀吉。誰もが名を知る天下人だ。

    それが存在しないとなれば、この世界がどうなるか。こんなに大きく正史を逸脱する出来事が起きてこの時間軸が許されるはずがない。

    時空閉鎖の4文字が思考をよぎる。

    「もーちっと情報がほしいな。こんのすけ、政府と連絡取り合って情報集めてくんねーか?」

    「速報をお伝えするために走ってきたのにそんな殺生な……はぐぅ……」

    いつも俺に油揚げをねだりに来るこんのすけは、今回もご褒美に期待していたのかもしれない。それでも悠長に油揚げを探して買い与える時間的な余裕はなかった。

    「摂政どころか関白殿下になる人を欠くわけにはいかないよ。尾張に向かおう。時間遡行軍に知られる前に早めに手を打たないと。」

    桑名の的確な判断を受けて俺達は急いで尾張へと向かった。木下藤吉郎の出生地の中村と母の出生地の御器所(ごきそ)村に別れて向かい、それぞれの調査結果を報告する。

    「中村の木下弥右衛門はこんのすけの言うとおり死んじまってた。」

    「お母さんの『なか』はまだ生きてる。歴史は、表面上の正史はまだ繋げるよ」

    「母親は生きてるったってこっからあの大偉業を成し遂げろってのかよ」

    「これが1回目の正史なら、確かに不可能かもね」

    そうだ。俺達はすでにこの男の行く末を知っている。どういう手段で上役に取り入り、どういう成果を上げたか。どういう処世術をもって武将達の懐へ潜り込んだか。そしてどのように乱世をまとめ上げ、治世したか。

    そのどれもがあまりにも有名で、俺達だって知っているほどだ。その知識が任務の難易度をほんの少しだけ下げていた。

    それからある歴史的事実も。

    父親不詳。


    幸運なことに豊臣秀吉の父に関しては諸説ある。しかも後の大政所である『なか』と比べて歴史の表舞台に姿を現すことはほとんどなく、いつ死んだかも定かではない。

    暴論だが、父親は誰でもいいのだ。コントロールしやすい誰かと『なか』の間に子をもうけ、木下藤吉郎、後の豊臣秀吉として天下人にまで育て上げればいい。

    と掻い摘んで言うのは簡単だが、木下藤吉郎は農村で生まれ、己の才覚と処世術で天下人まで成り上がった男。事実は小説より奇なりというが、こんな奇跡のような出世を遂げるのはゼロベースの今からすれば目が眩みそうな大仕事だ。やはり人選には最も気を配る必要がある。

    農民の中から適正のありそうな者を探す時間は、正直ない。

    「僕がなかに近づくよ。農民として暮らして、伴侶になる。」

    桑名はさもそうするのが当然のように提案した。確かに俺が考えうる中でもそれが一番手っ取り早くはある。だけど俺は桑名の迅速な判断にブレーキをかけた。

    「伴侶って……俺達が誰かを引き合せるんじゃ駄目なのかよ。木下藤吉郎の父には諸説ある。誰だってよくねーか?」

    「こんな重大なことを?この戦国の世で誰が信頼できる?」

    「それなら俺が父親になる。」

    「何言ってんの。豊前に農民の何がわかるの。農家のことなら僕の方が適任でしょ。それに引き際だって僕のほうがうまく見極められる。野分の日に田んぼの様子を見に行けばいい。そういうこと、豊前には考えつかないでしょ。農民がどういう思考でどういう日常を過ごすのか。」

    「それはそうだけどよ、子をもうけるってのはそーゆーことするってことだろ。お前はそれでいいのかよ」

    「きっと蜻蛉切様ならそうなさるから。それが任務ならやり遂げるだけだよ」

    「嘘をつき続けることに罪悪感とかねーのかよ」

    「豊前はその場凌ぎの嘘は上手だけど本質的な部分に嘘はつけないよね。適任とは言えない。」

    「それでも俺は……!!」

    「ぐだぐだ言わんで!!」

    もう決定事項なのだと桑名の据わった目が告げている。それだけの覚悟も決めたのだと。桑名がこんな目をする時、桑名自身と本多の刀としての2つの矜持を背負っていることを、つまりどうしたって覆らない決定なのだということを俺は嫌というほど知っている。桑名は譲らない。それでも俺は食い下がった。この任務を桑名にだけはさせたくなかったから。

    「でも無理だろ。豊臣秀吉がしてきたこと、お前だってわかってんだろ。桑名の子にンなことできる訳がねぇ。お前の子は絶対に優しい子に決まってる」

    何かと無理やり理由を並べ立ててみたが、俺が一番心配だったのはそのことだった。

    桑名の口元がぐっと結ばれる。

    「教えるんだよ、そして確実に遂行させる。本人の資質がどうであれ成さなければいけないんだ。正しい歴史のために。歴史を守るためには起きた出来事をそのままなぞるしかないんだ。」

    五公五民も。

    刀狩り令も。

    朝鮮出兵も。

    それから兵糧攻めも。

    兵糧攻めについてはいくつもの凄惨な記録が残っている。あまりにも城内の食料が枯渇したあまり壁の中に塗りこんである藁まで食べたとか、当時は四つ足と呼ばれ、食べることを忌避されていた牛馬や豚まで食べたとか、これだけでも当時の倫理観念に照らせば十分に惨たらしいが事実はさらにその惨さを上回る。

    日本史上、数少ない『人肉が食された』という記録があるほどに壮絶だった『飢え殺し』。それがこの鳥取城の戦いだ。その末路は飢えに耐えかね自ら撃ち殺されに行くものがいただけでなく、撃ち殺された者の肉を食らいに生者が群がったことや、その味ゆえか栄養ゆえか死体の脳が真っ先に奪われたことまでが記述に残っている。まさに生き地獄そのものだ。

    天下人の器というものがそのようなあまりにむごい戦の手法を取るだけの胆力があるということなのかは正直俺にはわからない。むしろ民を飢えさせずにいかに戦うかにこそ器が発揮されると豊前自身は思っている。

    そして豊前以上にそう思っているのは本多忠政の元で治世のいろはを学んで育った桑名自身のはずなのだ。

    桑名にはこんな任務はさせられない。

    火事を知らせる梵鐘よりも遥かに早く甲高く頭の中で警鐘が鳴っていた。

    「駄目だ。桑名にはさせられない。絶対にだ。」

    「ううん、すべて僕の手で確実に史実を積み上げる。起こったことを全部なぞるんだ。それを教えるのに父親より適切なポジションがある?それに僕には豊前に頼みたいことがある。これは僕じゃなくて豊前にしかできないこと。豊前には早馬になってほしい。早馬はとっても重要なんだ。豊臣秀吉を天下人たらしめるのに中国大返しは絶対に失敗することはできないからね。」

    本当に、豊前にしか頼めないことなんだよ。お願い。

    やるべき任務があって、そのやり方はわかってて、『適材適所』な二人がいて。なにもかもが順調なのにひとつのことが邪魔をする。

    俺達の、恋人という関係性がこの任務にとって唯一『邪魔』な要素だった。

    だとしたら次に桑名が言いそうなことは。

    「別れるだけは言うな。」

    「ううん、言うよ。僕達は別れるべきだ。」

    「納得できねぇよ。」

    「納得できなくても、今別れておいた方がいい。」

    「イヤだ」

    「イヤでも、ね?」

    俺はいやいやとなおも頭を振った。俺もそれ以上なにも言わなかったけど、桑名もそれ以上なにも言わなかった。

    俺は桑名の頑固なところを知ってるし、桑名も俺の負けず嫌いなところを知ってる。この問題は一筋縄ではいかず、今の俺達に別れる別れないの痴話喧嘩に費やせるような時間はない。

    そうして俺達の恋人という関係は俺の意固地な未練の糸だけで繋がった脆いものとなった。とっくに桑名は手放していて、俺だけがだらだらと縋りついている、そんなみじめったらしい関係。

    それでも桑名は俺と付き合っている事実を忘れてはいないようで、俺は折に触れて別れを切り出す桑名に毎回いやだと言い続けた。

    桑名が木下姓を名乗り豪農になってなかを娶る前日も。

    なかが第一子の女の子を授かった日にも。

    そして木下藤吉郎が生まれた日にも。

    今ならまだ間に合うから別れようと、何度も、何度も。

    その度に俺の中で不満が膨れていく。今ならまだ間に合うって何にだよ。

    俺達が置かれる状況が変わっても俺の桑名への気持ちは少しも変わらない。

    変わらず好きだし、愛しているし、支えたいと思ってる。桑名がなにかに疲れた時に羽を休めるとまり木になれるような存在でいたいと手を伸ばし続けていたいし、今までそうしてきたつもりだ。

    俺はしんどい任務が終わってお前が帰ってきた時に気持ちを休められる場所でいたいんだよ。そのためならなんだってする。なのに桑名は「もうこれ以上苦しまないでほしいから」なんて言う。

    は?なんだそれ。いつ俺が苦しんでるなんてお前に言った?俺はお前のことで苦しいことなんかひとつもない。

    むしろ「もうこれ以上苦しまないでほしいから」と言った桑名のその歪な笑顔がなにより俺を苦しめていると桑名は気づいていただろうか。

    悲しみと苛立ちがぐちゃぐちゃに混ざり合って心の中でどす黒い色になっていくのがわかった。

    俺のこの胸の内がどす黒く染まる理由勘違いしているような口ぶりに「そうじゃねぇんだよ」と拳を壁に叩きつける。

    「どうして聞き分けてくれんの」

    そりゃあこんな辛い任務だからこそ二人で乗り越えていきたいからだろ。乗り越えた先に、また穏やかな毎日が待ってるって、そう信じてるから。

    だけど今になってみれば、この時にはもう俺達に見えている景色は完全にズレちまってたんだ。


    桑名は驚くべきことに本当に木下藤吉郎を太閤豊臣秀吉にまで育て上げた。

    その道程や方法は生半なものではなかった。

    桑名は息子に農作業の傍ら、兵法を教え、城作りを教え、人心掌握術を教えた。藤吉郎を励まし、その才覚を褒めそやし、農業を捨てて天下に打って出るだけの野望を植え付けた。

    そして桑名に似て恵まれた顔立ちが目立たぬように、髪を抜かせ、前歯の一本を折りさえもした。それは美少年好きの織田信長に仕えるにあたり、美少年小姓として寵愛されては歴史が変わってしまうからで、桑名はその見た目を『猿』や『ハゲ鼠』と揶揄されるようなものにしただけでなく、息子の性格を剽軽なものに矯め、その方が出世の役に立つからと息子に納得させた。

    息子は面白いほどに出世の道を辿る自分に酔っていただろうか。それとも起こる事実を予言していたかのような父に畏怖の念を抱いていただろうか。次第に故郷を省みなくなり、いや、もうその頃には故郷の父母を気にかける余裕のないほど彼は織田信長のお気に入りとして多忙を極めていた。

    頃合いを見て消えるから、と言ったとおり、桑名は木下藤吉郎の活躍が軌道に乗ったことを確認して村を去った。
    台風の夜だったから、増水した川に流されたであろうことはすぐに村中に知れ渡った。

    一つの区切りを終えた桑名は、淡々としていた。しばらくの間は俺が木下藤吉郎の動向を探ると提案したけれど、これからは自分も内通者として動かないといけないから休んでいる暇はないと一蹴された。

    事実この頃には本当に多くの武将が綿密な情報戦と心理戦を張っていて、少しでも歴史的事実と違う出来事が起こりそうな動きがあれば火消しに奔走しなければならなかった。


    そうして慌ただしく過ごしている間に月日が流れた。

    慶長3年8月18日。

    俺達がこの地に降り立ってから実に65年もの歳月が過ぎていた。

    豊臣秀吉の死を見届けた俺達は本丸に連絡を入れ、転送装置の起動を待っていた。

    天下人の最期はあっけなかった。それと同時に史実通りの日に息を引き取ったことに驚きもした。本来ならこちらで天寿を引き取るつもりだった。桑名の子を、俺の手で殺すつもりだった。桑名は桑名で桑名自身で彼に引導を渡すと決意しているようで、俺は桑名に先んじて事を成せるようにと平然とした態度の裏で神経を研ぎ澄ませていた。

    けれど俺達が手を下すまでもなく、豊臣秀吉は盛大な花見の後急に体調が急変し、あれよあれよという間に身罷った。

    まるで俺達がなにもしなくても歴史はあるべきところへ辿り着いていたのだと嘲笑うかのように。

    だけどそんなことはどうでもいい。事実、豊臣秀吉は予定日に天寿を全うした。それは俺達の任務の終わりを意味していた。

    「長かったな」

    俺は本丸に戻れる安堵感に浸っていた。もう随分と本丸の仲間に会っていない。こんなに遠征先で長い時間を過ごしたのは豊前にとって初めてのことだった。そしてそれは桑名も同じはずだったのに。

    「長かった…?うん、そうかもしれない」

    桑名の受け答えがどこかおかしい。

    いつも理路整然と話す桑名の返事が精彩を欠いていて、なにより声の様子が弱々しく震えていて普通じゃない。

    「桑名?」

    「任務、これで終わったんだよね。もうやり残したこと、ないよね」

    「あぁ、だから俺達は本丸に帰れる。桑名だって自分の畑行きたいだろ?」

    「はた…、け」

    「そうだよ、畑」

    「そっか、僕…僕の畑があるんやった」

    放心するのも無理はない。それだけ過酷な任務だった。特に桑名には。

    俺達の目の前に現れた転送装置に桑名の手を引いて乗り込み、転送先が本丸であることを確認して転送のコマンドを押す。まばゆい光に包まれて、その光が消えると二振りは65年ぶりの本丸の転送部屋にいた。

    「ほら、着いたぜ、桑名」

    背中をぱんと叩くも桑名は覇気なくよろける。すげー参ってるな。それも当然か。俺は桑名の重い体を支えて「とりあえず部屋に戻っか。報告は俺がしておくからさ」と声をかける。

    魂を抜かれたかのように焦点が定まらず揺れている桑名の瞳が、それでいて尋常じゃない雰囲気を醸し出している。それなのに桑名は「いい、僕が行く。僕にこの任務の全責任がある」と言って聞かなかった。

    そして遅すぎる桑名の帰りを二人の部屋で待っていると、豊前江、と障子越しに審神者から声をかけられた。審神者を部屋へ招き入れると彼らの主は厳かにこう告げた。

    桑名をしばらく別室で療養させると。

    「やっぱり桑名どっかおかしいのか?手入れはできねーのか?」

    審神者に問うも、審神者の返事と表情は渋い。「本体に傷がなければ手入れはできない。それから」

    今回の任務の内容は他の刀には伏せてほしい。特に蜻蛉切と村正には。

    桑名は本多の名に泥を塗らないようにと思う一心で任務を全うした。その気持ちを守ってあげないといけない。そして

    「人の身はね、張り詰めていたところに優しくされることで気持ちが決壊してしまったり、心が折れてしまうことがあるんだよ。」

    桑名が今、あの二振りからすべてを知った上で心から労われたら気持ちの糸が解けて折れてしまうかもしれない。だから普通の遠征だったことにしておいてほしい。桑名を守るために。お願いできるかな。

    気持ちが張り詰めていたところに優しく寄り添われると気持ちが折れてしまう。

    審神者が言ったことを何度も反芻してぐちゃぐちゃの考えの中に落とし込んでいく。

    だからだったのか?俺がいることで心が折れそうになるから俺に近くにいてほしくなかったのか?何度も別れようっていったのか?

    俺は桑名の支えになるつもりで本当はお前の首を締めてたのか?

    ぐるぐるぐるぐる考えてるうちに辺りはもう真っ暗になっていた。今日は夜戦部隊は出ないのか外は静まり返っている。

    俺は部屋の障子を閉めて、一つため息をついた。

    俺は桑名と恋に落ちてから寝ても醒めても桑名のことばっかり考えちまう。

    今も桑名、晩飯食ったのかななんて桑名のことばっかり。

    あぁ、桑名に会いてぇな。

    あんなに桑名が精神的に疲労困憊してるってわかってんのに会いたいなんて俺はとんでもねーエゴ野郎だ。

    自分の好きばっかり優先して、桑名の気持ちは突っぱね続けた。

    さっき主が言ってたこと、俺は考えつきもしなかった。

    自分の気持ちに酔ってたから。

    でも今なら桑名の気持ちをちゃんと受け止められる。何を言われてもちゃんと桑名の気持ちはそうなんだって理解する覚悟がある。

    それが「別れてほしい」というものでも。それが俺なりの愛でけじめだ。

    心が決まった。いや、決めた。

    納得できない気持ちは全部飲み下して腹に落とした。

    後はもう、『そのこと』を告げに行くだけだ。



    桑名の療養部屋は鳴狐と同田貫の部屋に挟まれた空き部屋だった。

    「桑名、いるか」と声をかけると「僕ならここだけど」と煮え切らない返事が障子越しに届く。

    「入ってもいいか?」とまた問えば、桑名は黙り込む。

    「入る、ごめん」

    謝りながら部屋に入ると桑名は明かりもつけずに窓の側で外を見つめていた。

    どこかぼんやりと虚無に意識を囚われているかのような桑名の視線は俺が知らないものだった。いつもならば森羅万象すべてのものを見落とさないようにきらきらと見開かれている目。長い前髪で隠れていてもその輝きは褪せることがない。それが今は虚ろで遠い。

    こんな桑名に話すべきことなんだろうか。一瞬気持ちにブレーキがかかったのは自分の別れたくない気持ちが強かったからなのかもしれない。

    でも告げなきゃいけないんだ、別れを。そうしないと桑名が折れてしまうかもしれないのだから。


    「桑名、俺……」

    それでも覚悟して準備して来た言葉は喉につっかえて言い出せなかった。


    お前と別れる。

    たったそれだけのことが言えない。


    それくらい、たったこれだけの言葉を堰き止めてしまうくらい、やっぱり俺は桑名のことが好きだった。好きな気持ちが胸いっぱいに込み上げてきて、俺達の恋の終わりを阻んでいた。

    「うっ、ぐ……」

    涙が馬鹿みたいに熱く目尻を濡らす。こらえてもこらえきれない雫がぽたりぽたりと暗闇の中に静かなおとを立てる。

    「ふ……」

    こんなにも声すら出せないくらいに辛い思いがある。それを今俺は初めて経験していた。

    桑名も同じように歯を噛み締めて自分の運命を呪った夜があったのだろうか。込み上げる涙で自分の手すら見えなくて、それ以上に見えない未来に不安を抱えた日がどれだけあっただろう。

    そして何より自分のせいで飢えて死んでいく無数の人々の命の行く末に思いを馳せて慟哭した日々がどれだけあっただろう。

    「豊前」

    それはもう二度と口を開かないのかと思っていた桑名の声だった。

    ぽつりと呟くような小さなものだったけど、それは確かにこの世界で唯一、誰よりも大好きで、愛してやまない人が自分を呼ぶ声だった。

    「ぅっ……く…くわ、なぁ」

    しゃくりあげながらも大好きな人の名前で返事をする。

    桑名は窓の外に視線を向けたままだ。

    でも何かを言おうとしている、そんな空気が伝わってくる。その空気にそっと桑名は言葉をのせた。

    「豊前が僕のことずっと好きでいてくれたこと、本当にありがたいと思ってる。だけど僕はもう豊前に好きでいてもらう資格がないんだ」

    ありがたいと思っている

    だけど

    資格が

    桑名が口にしたことをもう一度口にしないと頭に入ってこなかった。

    耳で聞いただけでは理解できなくて、自分の気持ちに圧迫されて、何も受け付けない自分の脳みそが憎かった。

    「資格なんかなくったって俺は桑名が好きだよ」

    振り絞った言葉はもはや懇願そのものだった。

    だからこれまで通り好きでいさせてほしいと浅ましいエゴが後ろ髪を引く。

    けれど桑名は、急に態度を豹変させて叩きつけるように叫んだ。

    「ああ、もう。なんて言えば伝わるんだろう!僕は自分が嫌いになっちゃったんだよ、こんな自分が愛されていることがおぞましいんだ。僕はもう君と微笑み合っていられた頃の僕じゃない。それなのに豊前が向けてくれる眼差しはいつも優しくて愛しさに溢れてて、僕はこんな怪物になってしまったのに。」

    お前は怪物なんかじゃねーだろと反論しかけた言葉は桑名に遮られる。

    「豊前の優しさに耐えられないんだよ。僕には豊前が僕に同情して優しくしてくれてるみたいに映るから…!!」

    あぁ、すれ違いの根幹はここだったのか。桑名の悲痛な叫びがなぜかすとんと腹落ちした。

    だからずっと、あんなことを。

    桑名はずっと任務だからと自分自身に言い聞かせながらも、非道な所業を遂行するたびに負い目に感じていたんだ。だから俺の気持ちは桑名の目には『同情』として映っていた。俺の愛も、すべて。

    桑名はまだ窓の外を見ていた。相変わらず俺の方など一切見ないままひとり芝居の稽古のように言葉を紡ぐ。

    「ごめん、さすがに言い過ぎた。僕、ちょっと疲れちゃったんだと思う。だから休みたい。しばらくは何も考えずに土だけいじっていたいんだ。落ち着いて気持ちと考えを整理をしたい。これは僕のわがまま。聞いてくれる?」

    あぁ、俺達は刀なのにどうして人間の真似事みたいな感情を植え付けられちまったんだろう。

    刀の姿だったときには俺達はモノでどんな手段で振るわれたって心は痛まなかった。自分が戦の道具であることになんの疑問も呵責も感じず存在していられた。なのに俺達は刀剣男士として励起され、心あるものとして戦争に加担せざるをえなくなった。

    その末路がこれかよ。

    心あるものとして生まれてしまったから心が壊れたら使い物にならなくなる。それなら俺達に心が与えられた意味は?心あるものとして戦わなければいけない理由はなんだ?

    疑問と怒りとやるせなさに滾る脳が支配される。桑名に対する感情ではない。自分という存在の根幹に対して生まれた強い感情は行き場を失ってぐるぐるとうねる。

    だが今は、自分の感情なんかより桑名の方が大事だ。

    桑名を愛しているから。

    ずっとそばにいたいと願っているから。

    だから、と選んだ道は自分の気持ちとは正反対のものだけれど。

    多くのものを背負い込みすぎた桑名に今の俺が重荷というのなら、俺にできることは桑名をそっとしておくことだけだ。それは俺にとって耐え難いほど辛いことだけど。桑名が負った心の傷の深さを考えればそうする他なかった。

    だから今は、

    「くわなと……別れる。」

    桑名の心の傷が癒えるまでと。

    そう信じたくて涙が止まらなかった。




    主が言ったことは正しかったのかもしれない。本丸に帰ってきた翌日から、桑名は緩やかに壊れていった。

    歩くごとにネジがひとつ、またひとつと落ちていくみたいに、徐々に桑名の言動から整合性が零れ落ちていく。

    朝畑に向かったはずなのに、夕方を過ぎても帰ってこなくて、仲間が呼びに行ったら土ひとつついていない内番姿で立ち尽くしていたとか、本の1か所を延々と呟いては爪に血が滲むまで指で机を掻いたりとか。そういった日常生活のなかの異常が増えていく。

    桑名の不自然さに本丸の男士たちも徐々に気づき始めた。そして主は、もう隠しておくこともできないと男士達にあることを告げた。

    桑名は人間でいうところの『鬱』状態に陥っていると。

    遠征先での出来事がきっかけで心を病んでしまったのだと。

    それに対し「桑名江は鬱になるような軟弱な男ではない」と大声で言い切ったのは大包平だった。広間を割らんばかりの覇気を持って発言した大包平を大典太光世が横目でジロリと睨む。

    大包平の覇気と大典太の霊力がぶつかり合い、拮抗して広間はビリビリと揺れた。しかし大包平はそんな張り詰めた空気すらそよ風にすぎないとでも言わんばかりに続ける。

    「俺は桑名江を気骨のある刀剣男士だと認めている。それだけの男が心を病むのならそれなりの理由があるのだろう。ここにいる皆で総力を上げて桑名江の治癒に尽力すべきではないか。」

    もちろん反対するモノなどいるはずがなかった。

    「しかし心の病となれば闇雲な策では却って逆効果になるかもしれん。主!!治療法に関する書籍を集めてくれ。こちらで必要事項をまとめて周知する。」

    大包平の提案に従い、本丸内でバックアップ体制が敷かれることになった。大包平は鬱になるのは軟弱者だというのは間違った考えだったという訂正と謝罪とともに、調べた内容から今後の対応と桑名を見守り、必要ならば世話をする具体的な方針と人員配置を発表した。

    「長期戦になる。誰も無理をするな。気にかかることや負担に思うことがあればすぐ俺に言ってこい。」

    長期戦という言葉に本丸の半数ほどの刀が唾を飲み込んだ。65年もの歳月をかけてできた心の傷。一体癒えるまでにどれだけの時間を要するのか。それは誰にもわからなかった。

    その日から本丸は桑名のケアを中心に運営されていった。字の多いものが苦手で、かつ本件のことを直接知っている俺は桑名の身の回りの世話をする男士のサポートとして厨当番や馬当番を代わることになった。

    桑名から意図的に遠ざけられた俺が桑名の姿を見れることはほとんどない。あれだけ畑に出ていた桑名が部屋に篭りがちになり、健康だった刃体は不調を訴えることが多くなり、食事も療養部屋で一人で食べるのが当たり前になっていた。

    桑名がそんな状態なのにできることは何もない。その事実が苦しくて悔しくて情けなかった。

    俺達が帰ってきてから季節は2つ歩を進めた。陽射しがギラギラと照りつける夏が枯れ、実りの季節が過ぎて、朝夕の肌寒さが際立つようになってきた。陽が翳っている日は日中でも気温が上がらず底冷えがする日もある。

    桑名が回復する兆しは、まだない。

    それでも皆できることを精一杯やっている。今自分にできることは自分に与えられた仕事を全うすること。桑名だってそうやって自分を叱咤してあの辛い任務をやり遂げたのだ。民草を飢えさせることに絶対の拒絶を示す桑名が史実どおりに『兵糧攻め』という非情な策を使ってまで。それに比べたらこれくらいの胸の痛みはちっちゃいもんだ。それにウジウジ悩むより身体を動かすほうが余計なことを考えなくて済む。だから俺は今、自分に与えられた目の前の仕事をするのみ、なんだけど……。

    なんかいつもより体温低くねーか?

    今ブラッシングしている馬はお腹の大きいお母さん馬だ。種付けしてから10ヶ月経つ。いやまだ10ヶ月しか経ってないと言った方が正確だ。馬の妊娠は11ヶ月続く。もしお産が迫っているとしたら通常よりかなり早い。だけど乳房も張っているし射乳した跡もある。額を首元にあててみるとやはり体温がほんの少しだけ低い気がする。首筋や肩の血管も筋張っている。いつもこんなんだったっけ。これはもしかしたら、早産になるのか?

    母馬を動揺させないように平常心を保ったままブラッシングを終えてから、書庫に駆け込んだ。ここには今までの馬当番が残した日誌がある。前回の出産の記録は……。あった。この時も前日から体温が1度低下とある。乳頭にヤニがついていたら注意とも。

    直腸体温計で正確な体温を計っておいた方がいいな。それから馬の出産に詳しいモノに手を貸してもらわないと。前回の出産時の記録を残したのは桑名だ。でも今は桑名には頼れない。その前の出産はいつだった?

    1冊1冊確認している暇はない。こういう時に頼りになるのは頭じゃなくてむしろ足だ。桑名も認めてくれてた俺の取り柄。俺は桑名が書いた出産時の記録を抱えて大広間へと疾走った。

    「馬のお産が近いかもしれねーんだ。誰か今まで立ち会ったことあるヤツに一緒に来てほしい。俺だけじゃ判断できねぇ、頼む!」

    走り回りながら、大声で声をかけながらなんとか仲間を集めたかったけど、馬当番に絶対の自信を持つ刀なんてあまりいない。みな自分のやり方が合っているのかわからないまま探り探りやっていることは馬当番の時の会話でもなんとなく察せられていた。それに今回はただの馬当番じゃない。お産なのだ。それでも平野や厚、秋田などが率先して手伝いに来てくれて、骨喰も心配して厩舎を覗いてくれた。

    「何が必要なんだろう。」

    「お産に必要なもの……相槌?祝詞??」

    「石切丸は遠征に出てる」

    「どうすればいいんだよ、なんもわっかんねー。」

    ガシガシと襟足を掻くが妙案なんて思いつかない。けれど産気付いているお母さん馬の近くで動揺や苛立ちを見せるのはよくないと「でもまー!できることやるしかねえよな!」と仲間に笑顔を見せた。

    そこに「あ、あの…!!」と厩舎に走り込んで来たのは五虎退だ。

    「ほ、本丸の緊急放送でお産のことみなさんにお知らせしました…!!おうまさんのことなんでもいいから豊前さんに教えてくださいって…か、勝手なことして、すみません、っ…!!」

    あの五虎退が緊急放送をしてくれた。それが五虎退にとってどれだけの勇気を必要とするものだったのか想像に難くない。

    「五虎退、ありがとうな!!本当に助かるよ」

    五虎退のふわふわの髪をわしゃわしゃと撫でる。五虎退は馬達に遠慮して厩舎の外で待機している虎くんと顔を見合わせて安堵の笑みを見せていた。

    風向きがいい方向に変わってきた。それに早速五虎退の放送を聞いて畑仕事をしていた堀川も厩舎に駆けつけてくれた。

    「ずっと前のお産ですけど、僕が朝、馬当番に行ったら馬房の中で赤ちゃんが産まれていたことがあったんです。お母さん馬だけでも出産できるはずです!」

    堀川の声の明るさとその内容にほっとする。ただ心配なのはお母さん馬の様子だ。さっきからそわそわした様子で立ったり座ったりを繰り返している。早産気味だとはいえ、もうお腹も大きく重たそうで息も荒い。時折聞こえる嘶きも苦しそうだ。その時。

    「あ。」

    破水、という言葉をその場にいるモノ達は知らなかった。だけどこれがお産の始まりであることは説明されなくてもわかった。寝藁を濡らすだいだいがかった水は色も臭いも小水ではない。

    お母さん馬は重苦しそうな動作で寝藁の上に腰を下ろすと足を投げ出して横になる。その時が近づいているのだ。お母さん馬の巨躯が荒い呼吸で大きく上下する。

    俺達は見守ることしかできないのか。

    緊張がじわりと鳩尾を締め上げる。その時だった。

    「お待たせぇ、ちょっと様子見せてねぇ」

    厩舎に現れたのは内番姿の桑名だった。体つきは以前より痩せて肉が落ちているけれど、口調は俺達が知ってる、いや、俺達がそうあってほしいと願っている桑名のものだった。

    「桑名!!」
    「桑名さん!!」

    桑名がここに来てくれたというだけで一気にエンジンがかかる。胸に熱いものが込み上げる。それから無限の信頼と安心感と、なんとしてでもお産を成功させるという強い意志が。

    「破水したんだね、外陰部も充血してる。今更だけど尻尾はタオルでまとめておこうね。汚れたり邪魔になったりするから。」

    桑名は破水で汚れた尻尾をタオルで拭いて、短くまとめてタオルで縛って固定した。緊急放送を聞いて準備してきたのだろう、縄と大きなタオルまである。準備がいい。桑名はビニール手袋を慣れた手つきで装着するとお母さん馬に話しかける。

    「いつでも自分のぺーすでいいからね、ここで応援してるから、なにも心配はいらないよぉ」

    桑名の優しい声にお母さん馬も嘶きで応える。そうだよな、桑名の声には、笑顔にはそれだけでみんなを安心させる力がある。ただここにいてくれるだけでも勇気づけられる。

    でも桑名はただここにいるためだけに厩舎に来たんじゃない。早速テキパキ周りに指示を出していく。その姿にほっとする。

    今は緊急事態だけど、ショック療法とでもいうべきか、おかげで桑名の通常モードスイッチが入った。俺はありがとうなと母馬の首筋を撫でる。そして無事に仔馬が産まれますようにと祈りの気持ちを込めて拳を握った。

    「隣の馬房に寝藁を多めに準備して、この子は心配性だからお母さん馬を緊張させないように待機する刃数は少なく。」

    桑名の指示は淀みない。どうしていいかオロオロして立ち尽くしていた俺とは全然違う。

    俺は桑名のすべてを尊敬の眼差しで見つめていた。桑名の積み重ねた知識が花開く。起きるか起こらないかわからないことでも、もしものために普段から知識を蓄えてどんなに切迫した事態でも冷静に膨大な知識の中から適切なものを選び取って正しく実行する。それが、秤に乗ってる命がたった一個だろうが何万もの命だろうが、やるべきことが簡単だろうが最難関だろうがひとつも間違えずに完遂してのける。それが桑名なんだ。

    それと同時に一つの事実に思い当たる。

    桑名がただいてくれるだけで心が軽くなってたのは桑名が頼もしかったからで、桑名にとって俺は頼もしい存在ではなかった。

    桑名の側にいる資格がなかったのは俺の方だったんだ。

    あの時、自ら別れを口にした時には気付けなかった事実が今はすとんと腑に落ちた。

    俺の中で、確かに桑名との別れが意味を持った瞬間だった。

    「それから…」

    ゴホッ、ゴホッ、と桑名が苦しそうに咳をする。遠征から帰ってきてから長い間あまり喋らない生活を続けていたのだ。急に大声を出せば当然弱った喉に負担がかかる。

    「俺が桑名から聞いて指示すっから。」

    すかさず俺は桑名の側に寄る。断られたら別の刀に頼もうと傷つく覚悟もしてたけど桑名は拒絶の意思を示さなかった。

    「豊前、ありがとう。助かるよ。」

    少し嗄れた声。だけど隣にいることは許してくれる声。

    本丸のひと振りの仲間としてなら桑名の側にいられる。長く桑名と会えない生活をしていた俺にはそれだけでも心から嬉しい。

    たとえ恋は失っても。

    俺の中に愛は生き続けてる。

    これからどれだけ長い刃生を送ることになっても色褪せずに、きっと。

    「うん。とりあえず今できることはここまで。あとはお母さんのタイミング待ちだね。」

    桑名は一通りの確認と準備を終えて、お母さん馬の横に座ると怖がらせないようにそっとたてがみを撫でる。

    お母さん馬がもう一度嘶く。何を言ったのかはわからなかったけど、桑名を信頼していると伝えたかったことだけは伝わってきた。



    馬房の中には桑名と俺だけが残ることになった。あとの刀は新しい寝藁を準備した隣の馬房でスタンバイすることになった。

    桑名の視線はお母さん馬に注がれている。呼吸の大きさ、体温、そしてなによりお腹とお尻を気にしている。

    お母さん馬のお腹が上下する間隔が早くなって、いよいよ赤ちゃんが出てくるのが空気感でわかった。

    お母さん馬の真っ直ぐに投げ出した脚がぐんと上に跳ねると、ずるり、と白いぶよぶよした水風船みたいなものが脚の間から出てきた。その白い水風船を握って形を確かめて、桑名はにっこりと微笑む。

    「うん、ちゃんと前足だね。逆子じゃやくてよかった。順調順調。」

    まずは第一関門突破と呟きながら、時間を確認してメモを残す。前回のお産の時もそうしてたんだろう。俺はもしもの時はと厩舎に持ち込んでいたノートを開く。そこには読みやすい桑名の文字で時間とお産の途中経過が詳しく
    書かれていた。

    桑名の観察力はすごい。これだけつぶさに見ているから色んなことが見えてくるんだな。

    ページをめくると後産の注意点などまで書かれていた。羊膜が自然に剥がれやすいように羊膜をまとめておくことやお母さんの身体に羊膜が残っていると感染症の恐れがあるから広げて形を見てすべて排出されたことを確認すること。

    こんなこと本丸の誰が思いつけるだろう。感心している間に、小休止に入っていたように思われたお産が急に進み始める。お母さん馬がいきむのと同時に開いた後ろ脚が上がる。

    「上手にいきめてるよ。大丈夫。あ、お顔見えたよぉ!ほら!」

    白いぶよぶよがさっきより長くお尻から突き出ている。桑名が白いぶよぶよを左右に除けると二本の脚の上に仔馬の鼻先が見えていた。

    「すごい。生きてる。」

    思わず口に出ていた。

    今生まれようとしている生命の輪郭がくっきりと像を結んだ瞬間のなんとも言えない気持ちが胸に込み上げてくる。

    だけど桑名は「ううん……」と何かが気になっているようで仔馬の様子をしきりに気にしている。

    「肩が引っかかってて苦しそう。これは手伝って上げたほうがいいかも。」

    今回ばかりは俺も身体が動いた。桑名が持ってきていたロープを桑名に手渡すと桑名は慣れた手つきでロープを仔牛の前足に括りつける。

    「力任せに引っ張っても出てこないからお母さんがいきむタイミングで引っ張るよ。せーの、よいしょーー!」

    桑名のかけ声に合わせてロープを引っ張る。どれくらいの強さで引けばいいのかわからないから最初はこわごわと。だけど何度も桑名の声に合わせて引くうちに加減がわかってきた。

    冬の外気と体温で赤ちゃんの両足が出ているところからもうもうと湯気が立ち上っている。嘶く母親の鼻孔からも熱い息が噴き上がる。苦しそうで、でも今この一瞬に全力なお母さん馬の気持ちがビシビシ伝わってくる。

    「よかった、肩が出た。よし、豊前。最後にもう一回せーので引っ張るよぉ!せーのぉ!」

    ずるん、と白いぶよぶよの大きな袋が寝藁に吐き出される。

    ひとつの生命が誕生した。

    モノである俺達にもその尊さを感じる心がある。それを証明するように鼻の奥につんと込み上げるものがあった。

    しかし感動にただだだ浸っているのは俺だけで、桑名はすかさず仔馬の身体を包んでいる羊膜を外し、仔馬の鼻筋を上下に擦りはじめる。すると仔馬の鼻孔から詰まっていた羊水が排出された。これで息がしやすくなったはず、と桑名が仔馬の額を撫でる。

    「10ヶ月だけど身体はちゃんと成育してる。普通の仔馬と変わらないくらい目方もあるよ!」

    よかったね、と顔を見合わせたのも一瞬で、へその緒が切れたことに気づいた桑名は手早く消毒の処置をする。そのまま後産の準備に取り掛かる桑名の手際にひたすら感心しているとお母さん馬が仔馬の身体を舐め始めた。2頭の邪魔にならないように注意を払いつつ労いの気持ちを込めてお母さん馬の汗を拭くと、桑名はうんうん、それでいいよと頷いてくれる。

    「命ってすごいよね。どうやって生かすのかを本能でわかってる。お母さん馬はね、こうして仔馬の身体を舐めることで血流を促して仔馬が早く立てるようにしてあげるんだ。自然界では自分の足で走って逃げられないと命を落としてしまうからね。」

    桑名が命という言葉を口にした時、俺は食道が冷える心地がした。

    もしかしたらその言葉が、考えがトリガーとなって、また懊悩の底へと身を投げてしまうんじゃないかと心配になったからだ。

    「桑名にもあるだろ、生命を救いたいって本能が。それと知識と、知識を役立たせる両手がさ。」

    声が上ずったのは焦りのせいだった。桑名がまた静かに物思う人形に戻ってしまいそうで、どうかそうはならないでくれと思う気持ちが胸の奥をざわざわと波立たせる。

    いのちという言葉はたった3文字なのに、とてつもなく重い。

    「僕が救った命……。奪った命に対して、あまりに少なすぎるね。」

    そう考えちまうよな。わかってたのに他になんて言えばいいのか思いつかなかった。あの時だってそうだ。絶対に桑名にさせてはいけない任務だったのに阻止できなかった。もっと粘り強く引き止めなければいけなかったのにしなかった。その口惜しさが喉奥からせり上がってくる。

    「それでもひとつでも救える命があるなら全力で救うのが俺の知ってる桑名だろ。」

    咄嗟に桑名の両手を掴んだ。言葉だけじゃだめならと思ったけどそれ以外に方法を思いつけなかった。なによりこの命を救う手が、今にも桑名自身の首にかかって桑名自身の生命の灯を消してしまいそうで怖かった。

    決して命を軽んじたりしない桑名が自らの命を断ってしまうかもしれない。そう思わせるだけの悲壮感があの部屋には満ち満ちてた。

    桑名が飛び出してきてくれた療養部屋にお産の椿事を終えた桑名が自らの意思で帰ってしまえば、俺には二度とその手を取ることは敵わない。

    俺に桑名の隣にいる資格がなかったとしても、今この手を繋ぎ止められるのは俺だけだ。

    もう二度と、あんな思いはしたくないしさせたくない。

    一人で抱えさせなんかしない。

    桑名が万物に手を差し伸べるように俺もそうせずにはいられないから。

    「豊前……」

    痛いくらいの強さで掴んでいるはずなのに、桑名は俺の手を剥がそうとしなかった。

    「僕は、間違っちゃってたんだね。僕は豊前が差し伸べてくれた手を取るべきだった。僕には豊前が必要だったのに、自分で自分の首を締めるようなことして結果がこれなんて笑えないね」

    笑えないね、と言いながら桑名は力なく笑う。

    「僕は、あの任務で生じる『命の責任』を豊前には背負ってほしくなかったんだ。好きな人に一緒に苦しんでほしいなんて思わない、そう思ってた。
    でもそう思ってるうちに僕の中に認知の歪みが生まれてたんだ。僕には豊前が僕を心配してくれてる顔が、一緒に重責を背負って苦しんでる顔に見えてた。だから君を突き放した。」

    「だけどやっとさっき気付けたんだよ、あの顔は心配してる時の顔だったんだって。豊前がお母さん馬と仔馬を心配してる時、僕に向けてた表情と同じ顔してた。それを苦悩してる顔だって思ってたんだ、とんでもない勘違いだったね。」

    僕がお母さん馬のお産を補助したみたいに、豊前が僕に手を差し伸べてくれたのもそうせずにはいられなかったからだよね。それを視野が狭まっていた僕は拒んじゃった。それなのにずっと手を伸ばし続けてくれてありがとう。

    桑名は俺の肩に、とん、と額を預けた。それから俺の腰に手をまわす。桑名の体重はやっぱり減っているようだけど、俺にはそれよりこうして桑名が支えとして必要としてくれることが嬉しかった。

    「豊臣秀吉は凄まじい人だったね。時代の転換期には彼くらいの傑物でないと世をまとめ上げるなんてできなかったと思うけど。それでもやっぱり彼がしたことを肯定することはできない。特に鳥取城は僕にとってすごく辛かった。飢えていく人々の様子から目を逸らさずにいることも、降伏後に羽柴秀吉が善意で粥を振る舞って、その粥によって生きながらえた命が潰えてしまったことも。豊前、君が心配してくれてたとおり、僕にはすごく大きなダメージだった。」

    「つらかった……」

    桑名の双眸にあっという間に涙が溜まり、大粒の雫となって落ちていく。水晶のように美しいそれは桑名の澄んだ心と同じくらい透明だった。

    「つらかったよ、ぶぜん」

    肩をじわりと湿した涙はあたたかくて、腰に回された手はぎゅうっと強くTシャツを掴んでいる。

    「それでいいよ、ぜんぶ吐き出しちまえ。」

    俺は桑名の背中を撫でる。お母さん馬が仔馬を舐めるみたいに愛情深く。そしていつでも桑名のタイミングでまた立ち上がれるようにと願いを込めながら。しかしその時間は長くは続かず、ずびぃ!!と鼻を啜る音とともに桑名は俺の目を真っ直ぐに見た。

    「豊前、ありがとう。もう、大丈夫。みんなに声をかけよう。仔馬が立ち上がるのをみんなで応援しようって。」

    俺のTシャツの肩口が黒々と濡れるまで桑名は泣いて、一時的とはいえすっぱりと気持ちを切り替えている。

    目の前にやるべきことがある時の桑名は強い。その強さは諸刃の剣だけど、少なくとも今は桑名のそんな性格がありがたかった。

    「おーい、みんな、待たせちまったな!仔馬元気に産まれたぞ!」

    隣の馬房に声をかけると待機していた刀達が飛び出してきた。さっそく桑名の指示に従ってみんなでお産で汚れた寝藁を掃除して新しいものに替え、仔馬の周りに厚く敷き詰める。

    ふかふかになった寝藁の上で仔馬が四方に足を投げ出して不器用に四肢に力を入れている。

    『ぜ、全館の刀に連絡です。たった今新しいお馬さんが産まれました。今一生懸命立ち上がる練習をしています。できるだけ多くの刀で応援したいので厩舎に集まってください。五虎退でした、す、すみません……』

    五虎退の放送を聞いて本丸にいた刀が全員集まってきた。全員は厩舎に入りきれなかったけど、それでも気持ちは一つ。仔馬がぷるぷると震えながらも立ち上がり、母馬のお乳を吸えた時には空を割るような歓声がちいさな厩舎に響き渡った。





    「豊前、防具の紐解けてるよ」
    「おー!わりぃ!」
    「いってらっしゃい、気をつけてね」

    そう言って桑名は俺を送り出す。桑名が留守番なのは昨日遠征から帰ってきたばかりだからだ。その任務の内容は原市之進として生き、徳川慶喜を支え、江戸城の無血開城へと導くこと。あの時の遠征で、乱世の終わりを数え切れないほどの形なき墓標の上に築いた桑名は、昨日の遠征では歴史を正しくなぞることで数多の命を救った。当時の江戸の人口は町人と武家を合わせると100万人にもなり、この江戸で全面戦争が起こればそのうちのどれだけが命を落とすかという切迫した事態の中での無血開城は新しい時代の幕開けとして心から賞賛に値するものだった。

    もちろん桑名がここまで回復するまでの道のりは決して容易いものではなかった。それでもあのお産をきっかけに、桑名は吐き出して整理してを地道に繰り返しながら65年分の出来事を乗り越えた。それを本丸の刀達みんなで支えた。その甲斐あって桑名は出陣にも遠征にも出れるようになり、更には任務で心に傷を負った刀のケアを率先して受け持つほどに成長した。

    桑名は強い男だから、こうして回復できたことも当然なのかもしれない。だけど桑名はそれ以上に優しい刀だから、たくさん傷ついて自分自身を呪ったこともあったと思う。いろんな思いがあって、いろんな葛藤があって。でも最終的には桑名の命への尊敬の念が桑名の心を繋ぎ止めてくれたんじゃないかって俺は思ってる。

    そうして桑名は今日も笑っている。あの任務は僕にとってただ苦しいだけの思い出じゃなくなったって。いのちの意味を考えるいい機会だったって。

    俺はその慈愛に満ちた笑顔を桑名の隣で見ている。同じ空の下、同じ大地を踏みしめて、少し手を伸ばせば簡単に触れられる距離で。

    そして桑名の麦畑には、落ち穂を啄む雀たちのさえずりが平和の唄を奏でていた。



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