引き戸を開けた瞬間に、ソースの焦げる強烈な匂いがぶつかってきた。
江澄は「こんばんはー」と店内に入ると、びっくりしている藍曦臣に来い来いと手招く。
「だから、言ったんだよ。今日にしておいてよかっただろ」
「ええ、いえ、そうですね……」
半ば放心している藍曦臣をテーブルの奥側に座らせて、江澄は上着を壁のハンガーにかけた。
「あとはもうホテルに帰るだけだし、匂いは、ホテルがどうにかしてくれるだろ」
「それは、どうでしょう。……そんなですか」
「パンツにまで染みつくからな」
江澄はにやりと笑って藍曦臣にメニューを差し出した。
店員がやってきて水を置く。
「久しぶりですね」「まあな」と江澄が言葉を交わす。
その間にも、ジュウゥゥゥ、とソースの焦げる音が店内に響いている。
「とりあえず俺は生中で」
「お連れ様は?」
「私は烏龍茶を」
「はい、ちょっとお待ちください」
店員は鉄板に火を入れると、カウンターへと戻っていった。
藍曦臣は興味深げにメニューを眺めている。こういう店にはあまり縁がないのだろうな、と思いながらも、江澄は我知らずに口元が緩んでいた。
「食いたいものは?」
「ええと、そうですね……、いろいろありすぎて……」
「決まらないか? じゃあ、とりあえず一つ頼むか」
「ええ、お任せします」
お決まりですか、とすかさず店員がビールと烏龍茶を持ってくる。
江澄は「もちめんたいチーズもんじゃ」と、ついでに「キムチと枝豆」も頼んだ。
「枝豆ですか?」
「箸休めにあったほうがいいぞ」
藍曦臣はいまいちピンと来ていないようだったが、江澄が言うならとうなずいた。
もんじゃはそれほど待たずにやってきた。
店員がテーブルに置いたどんぶりを見て、藍曦臣はぎょっとした。
どんぶりの縁までなみなみと注がれた薄茶色の汁と、どっさりのったキャベツ。それから細かくさいたイカと、干しエビがかぶさり、さらに危ういバランスで一番上にのせられているのは、いくつもの四角いもちと一腹の大きな明太子。
「焼きます?」
「いい、いい、できるの知ってるくせに」
「久しぶりなんでどうですかね」
「このやろ、見てろよ」
ははは、と笑いながら去っていく店員に、江澄も笑顔である。
しかし、藍曦臣はそれどころではない。触れれば崩れそうなバランスのどんぶりに、これを焼くとはいったいどんな技術が必要なのかとおののいている。
「曦臣、へらをかしてくれ」
江澄が指さしたのは藍曦臣の手元にある大きな金属のへらだった。
はい、とそれを手渡すと、江澄はまず器用に二枚のへらでもちをはさんで、鉄板の端に置いた。
「もちは時間かけて、ゆっくり焼かないと火が通らないから」
それから大きな明太子を持ち上げて、鉄板の中央は避けて置く。最後にスプーンでキャベツやら、エビやらを鉄板に移す。
ガチッ、ガチン、と音を立てて、江澄はまずへらで明太子を切った。
それからキャベツと混ぜ合わせ、さらに細かくくだいていく。
藍曦臣はようやく、店内のさわがしさの原因を知った。ざわざわしているだけでなく、なにやら音が響いていたのはこれのせいだったのか。
藍曦臣がじっと江澄の手元を見つめていると、ふはっ、と吹き出す声がした。顔を上げると、江澄がおかしそうに手の甲で口元を抑えている。
「やってみるか?」とへらを差し出され、藍曦臣は慌てて首を振った。自分が手を出しては、せっかくのおいしいものが台無しになるかもしれない。
「土手作るくらいなら失敗しないから」
「土手、とはどういう?」
「こう、具を円くして、ドーナツみたいに」
手際よく、江澄がへらを動かして具の形を変えていく。
「今度、来たときにやってみます」
「そうだな」
江澄はかたわらのもちをひっくり返してから、次にどんぶりを手に取った。
スプーンで中身を何度もかき混ぜて、それを土手の中央に流し込む。
ジュウゥゥゥ、と良い音がする。
藍曦臣は入店したときに聞こえた音だと思いいたり、ぶわりとソースの匂いがふくれあがるのを感じた。
「しばらく待つぞ」
「はい」
枝豆があったのはこのためか、と藍曦臣はつやつやとした青い豆をつまんだ。烏龍茶がおいしいのは、いつのまにかのどが渇いていたせいだろう。
江澄はビールを飲みながら、ときどきスプーンで汁をかき回した。そのたびに汁はとろりとしていく。
「そろそろだな」と江澄が言ったときには、ジョッキの中身はすでに半分になっていた。
「次はどうするんです?」
「全部混ぜるんだよ」
「おもちも?」
「そう、もちもこうやって全部混ぜて」
江澄は豪快にへらで具材を持ち上げて、ジャッ、ジャッ、と混ぜていく。初めはとろとろとはみ出していた汁が、次第に具材にまとわりついて離れなくなる。
そうなったら今度は具を平たく伸ばして、その上にパリパリの麺とチーズを散らす。
熱せられたチーズはあっという間に溶けていく。
「ほら」と江澄に渡されたのは、手の内に収まりそうなほど小さなへらだった。
江澄は「はがしっていうんだよ」と言い、その小さなへらで生地の端、焦げはじめたところを切って引き寄せて、そのまま食べた。
「熱いから、気をつけろよ」
「はあ」
藍曦臣は見よう見まねで同じようにして、一口切り分けてから、そっと口に運ぶ。
熱かった。
慌てて烏龍茶を飲むと、江澄が眉を寄せて「大丈夫か?」と尋ねた。
「へ、平気です。ちょっとびっくりしました」
「一度、皿に分けるか」
「いえ、本当に、大丈夫です。次は注意しますので」
藍曦臣は今度もはがしで、もちのあるところを狙って食べた。
ソースの香りが強い。けれど、なんとも複雑な味わいがする。塩辛いのに、おいしい。
「ここがうまいんだ」
江澄がはがしで指し示したのは汁が焦げて張り付いているところだった。
はがしで、それこそ文字通りはがし取って食べる。
パリパリの生地は少し苦くて、それなのにしっかり出汁の味がした。
江澄と藍曦臣は黙々ともんじゃ焼きを食べ進めた。チーズのかかっているところは、また少し味が変わって、コクが出ておいしい。
けれど、それも三分の二を過ぎたあたりから、江澄の進みが遅くなった。
「だから言っただろ。箸休め」
「そういうことでしたか」
たしかに、同じ味を食べ続けていると、少々飽きてくるのかもしれない。藍曦臣は初めての味にまだまだ飽きることはなかったが、江澄はビールをおかわりして、ポテトバターを追加していた。
「次はなににする?」
「気になっているのは海鮮もんじゃです」
「サイズはハーフにしておくか。それと、烏龍茶?」
気が付けば藍曦臣のグラスは空になっていた。
藍曦臣はやけにのどが渇いていた。この次も烏龍茶のほうがいいだろう。藍曦臣がうなずくと、江澄はカウンターに向かって「すみませーん」と声をかけた。
藍曦臣は残り少なくなった鉄板の上のもんじゃをはがしで切り分けて口に運んだ。生地はしっかり焼けて、初めとはまた食感が変わっていた。