DomSub
「こちらへおいで。”お座り”はできるね?」
問い掛けの体はしているが、藍渙の眦はきつく江澄に逆らうことを赦さない。普段通りの優しい笑みですら底知れず恐ろしいものに感じて江澄は身を震わせた。恐怖と悦びが渦巻く体を未だ動かせずにいる。
焦れた藍曦臣が薄紅色の唇を微かに動かした。
「もう一度言ったほうがいいの?君はいい子だから従えると思っていたのだけど」
────あぁ、もはや屈してしまいたい。
江澄はこらえ切れぬ欲求に自分の身体の手綱を握れなくなった。辛うじて閉じている口腔は唾液で満たされているし、美しい藤色の瞳は支配者を前にどろりと溶けた。未知の感覚を恐れる心は逃亡を望んでいるのに、支配を望む本能が曦臣の前に下肢を投げさせた。
それは本能?
この世には男と女で区別する性以外に、制者と順者と呼ばれるものが存在する。端的に言えば、相手を支配し守りたいと望む者と庇護されることで安堵とする者で別れるのだ。個人の性的嗜好と片付けるのは簡単だが、己が所有する区分の欲求を満たさねば体調を崩してしまう。そのため、大抵の人間は違う適性を持つ相手を恋人にするか、欲求を満たせる擬似伴侶が存在する。制者は命令を用いて順者を従わせ、順者はその命令を守ったことへの褒美を与えられ欲求を満たす。命令の範囲は人によって異なるため、軽く済むような事や非道と非難したくなるものまで幅広い。
江澄は生粋の制者であった。人を束ねる立場に就くことを約束されてもいたし、苛烈な性格では例え生活に必要なことといえども、他人に跪くなど矜持が許さない。
といっても、身内以外に交流もないため実際に他人と行為をしたことはない。体が未熟のためその欲求が強く無かったためともいえる。
「見ろ、江澄!あの二人パートナーだったんだな」
魏無羨が江家の師弟を指差す。視線の先には気の強い姉御肌の師姉の元に普段から鍛錬を共にする師弟が姿勢を落としているところだった。所謂”お座り”と呼ばれる命令に従い、床に太腿の内をぺたりと伏せていた。
「じろじろ見るな、気色悪い。大体、男が屈服するなんて……」
「性と支配の欲求は別だろう!それに江おじさん達はどうなんだよ。俺はあの虞夫人が順者とも思えないから、江おじさんが」
「やめろ!母さんたちのそんな話考えたくもない」
「はいはい。お前は潔癖すぎるよ。体調崩しても知らないぞ」
「そんな馬鹿な事しない。お前こそどうなんだよ?」
「俺か?俺は知っての通りどっちつかずだから、その欲求が現れたときに周りの人間によって対応するさ」
己の区分を明かすなど禁句と言われる地域もあるが、雲夢の人々は奔放なたちだった。暑さに火照る体を湖で冷やすため羞恥が他と比べて少ないことも原因かもしれない。人との距離感が近いのだ。子を成すわけでもなし、体調の万全を期すためこのような話題はよく机上に並べられた。
「何を見ている?」
「あ、バレた」
その師姉は嫡男である江澄と江宗主お気に入りの魏無羨に対して不遜な物言いをした。順者を己の庇護の元で満たしたい欲求を持つため、威嚇として周囲に対して敵意を剥き出しにしているのだ。獣のように唸るその声を耳にすると、順者は勿論、発した者よりも弱い制者は屈してしまう。
「直ぐに立ち去るさ。さ、行こう江澄」
江澄は飄々としている魏無羨の手に引かれるまま、その場を立ち去る。仙力でさえも劣らないためこちらに影響は全くなかった。
あの頃は、
江澄は、眩む視界のまま屈するものかとどこぞの宗主を睨んだ。後頭部は刺されるような鮮烈な痛みを訴え眼内は点滅していたが、ここで弱さを見せる訳にもいかず、余程意地で立っているようなものだ。
温氏を討伐し次に恐るべき夷陵老祖を滅ぼした事で仙門百家は弱小の門でさえ調子づいていた。例えば、江澄を貶め権力を握ろうとしてみたり。四大世家の一つである江家の主が若造で、尚且つ悪が江家出身というものだから、どうにか没落させようと力を尽くす者が少なからず存在した。
そんな折、酒席で歳と態度ばかりが大きいある宗主が江澄に威嚇を浴びせた。
むかしはこんなもの屁でも無かったのに、江澄はどうしてか従いそうになった。ここで屈しては欲求を表に見せることも厭わない恥知らずが、江晩吟を負かしたのは俺であり、雲夢は俺の物だなどど言い出しかねない。
射日の征から仙力の調子はむしろ良く、姉や元師兄の滅失による精神的な乱れも御せていた。だが、何故か抗えない。俺は人を支配する立場で、誰にも指示される謂れはない。それなのに、どうして。江澄は混乱の中、それでも眦を吊り上がらせる。浅い呼吸をしながらも紫電を鞭の形にし、件の宗主に近寄った。
無様にもその男は、苛烈な江澄の憤りを目にし体を後退させた。
「た、大変失礼を……!私としては害する意図も反抗するつもりもありませんで」
「御託はどうでもいい。問題なのはお前が俺を怒らせたということだ」
江澄は頭に血が上りながらも一句一句を区切り、鶏頭でも分かるように丁寧に言葉を吐き捨てた。騒がしい室内に突如現れた緊迫感に周りの仙師も息を呑む。
「お前は、俺がお前よりも劣っていて、雲夢を取りまとめるのは相応しくないと言ったか?この程度で怯えているのに良くもそんな物言いができるものだな」
江澄は己が軽んじられている事に耐え難い屈辱を感じる。壊滅寸前の雲夢を建て直したのも、温狗共を前線で蹴散らしたのも己だという矜恃があった。何もかもを失った江澄は、矜恃でこの立場に君臨していると言ってもいい。
「失礼する」
しかし結局は多勢に無勢。鞭を打つことも叶わず非難する多数の目に飽いた江澄は退席する事にした。睨みつけた男は怯えきっていたし、同じように見下している人間に牽制も出来たことだろう。
江澄は憤るままに荒い足音を立てながら、用意された客室へ向う。苛立ちを隠さぬまま寝台に乱雑に体を横たえる。
件の宗主に威嚇を浴びせられてから、どうにも体調が悪い。頭痛と目眩は続いているし、耐え難い寒気を感じた。先程までは怒りで体が暑いくらいだったのに。江澄は疑問を感じつつ布団を手繰り寄せた。
それにしても本当に腹が立つ。怒りに身を浸していないと、体調の悪さに弱音が出そうだった。痛みで瞼をきつく閉じても視界に稲妻が飛ぶ。額から冷や汗が皮膚を割るようにたらりと落ちる感覚さえ、過敏になっているのか気色悪く思え、江澄は嘔吐いた。
ここで江澄は唐突に、銷魂症と呼ばれる症状を思い浮かべた。制者に従ったのに充分な褒美を得られなかったり、無理に行為を強いられた順者が陥るらしいものだ。病と定めてもおかしくないくらい、身体が不調になる。人により違いはあるものの、寒気や頭痛、目眩、吐き気、失語が主に現れる。
しかしその病の悪辣な点として特筆するならば、精神的に不安定になる事だ。閉塞感や絶望に首を絞められ、自ら命を経つ事例もある。
そこまで考えたところで、これまで以上に頭を誰かに掻き回されている感覚が江澄を襲った。剥き出しになっている神経を刃で切り裂かれるように鋭利で、毎秒新鮮に痛い。
呻きながら江澄は掌を握りしめた。掌に爪が食い込み血が出るほどに力を込める。そうでもしなければ、焦燥感に駆られて三毒に手を伸ばしそうだった。江澄は悲観と胸を掻きむしりたくなる程の寂寥感に襲われる。内から押し出されるように涙が止まらない。
息を吸っても吸っても一向に脳に酸素が回らない。江澄は喘ぐように浅い呼吸をした。
滝のような汗をかいている。江澄は不快感を覚えながら瞼を開けた。いつの間にやら気を失っていたらしい。時間経過か睡眠が功を成したのか体は多少動くようになっていた。
外に目を向ければまだ夜は深く、朝は遠いように思える。陽と共に快復が訪れるものでは無いが、どことなく憂鬱になり溜息を吐く。
そんな折り、扉を微かに叩く音がした。
「江宗主、先程騒ぎがあったようだけど。大丈夫?」
暖かな人の声である。江澄は少し落ち着いて、訪問者が誰とも分からなかったがその声を近くで聞こうと寝台を降りた。ぺたりぺたりと素足と木材とが張り付く音が静かな部屋を満たした。
「阿瑤が心配していました」
声の主は沢蕪君であった。当人は扉越しに会話するつもりだったのか、江澄が口を閉ざしたまま現れると大層驚いた。
───はしたなかっただろうか。窮屈でならなくて沓も脱いでしまっていた。脚を見せるなど身内でもない限りそこまで機会は無い。水浴びが日常的な雲夢では例外であったが。
江澄はこちらを見たまま微動だにしない藍曦臣を未だ纏まらない思考の中で不思議に思った。
「…………貴方は、順者だったの」
たっぷりの無言の後、確かめるでもなく藍曦臣は独りごちた。
「沢蕪君、何を言っているんです?わたしはずっと制者ですよ」
藍曦臣は江澄のくもりの無い眼を一瞥すると、憐れむように眦を下げた。それはほんの少しの間で江澄は見逃していたが、もしこれからする行為が憐憫と知れば江澄は舌を噛んだ事だろう。
藍曦臣は江澄の苛烈な性格を爪先程は理解していると自負していた。今日の騒ぎだって彼の性格が齎したものだろうと、弁明はあるかと訪れたつもりだった。
しかし江澄の体質を思えば、今日の相手方の行いが10割悪だった。順者がよく威嚇を耐えたものだと感心する。それも偏に、江澄の負けず嫌い表現するには可愛らしい、恐ろしい程の執着によるものだった。矜恃を折らないよう、他人に敗を屈しないよう力を尽くす様は、目を刺す夕陽のように苛烈である。常人には直視することも出来ず、例えその元が温かく包み込むような優しさを見せても分かるはずも無い。
藍曦臣は思わぬ問答に混乱する江澄を横目に、室内へ足を踏み入れた。そうして蟻も通さぬほど戸を閉めると厳重な洩不符を張った。これでただの吐息一つでさえもこの部屋を通り抜けられない。銷魂症に苦しむ江澄を救ってやりたかった。
「こちらへおいで。”お座り”はできるね?」