【イチ桐】サンセットセンチメンタル「桐生さん、今日の夕飯何すか?」
夕暮れ時の異人町。食材でいっぱいになったエコバッグを肩から提げ、春日は隣を歩く桐生の顔を覗き込む。
「そうだな……」
問い掛けられた側の桐生は酒とつまみの入ったエコバッグを背負い直すと、数秒悩んだように視線を宙にやり。やがてオレンジ色に染まった空までそれが上がっていくと、思いついたと言わんばかりに春日の方へと顔を戻して口を開いた。
「久しぶりにカレーにするか」
「おっ! カレーっすか! やったぜ! 俺桐生さんのカレー好きなんだよなー!」
野菜大きめなのが好きなんすよー! などと子供のようにはしゃいで続ける春日にお前も手伝えよ? と小さく笑いながら返すと、春日はもちろんっす! と拳を握って見せ、桐生は再び口元を綻ばせた。
春日のアパートに桐生が住むようになってからどれくらい経っただろうか。
こうして一緒に買い出しに出ることも日常になり、あの狭いキッチンで肩を並べるのにも随分前に慣れた。テラスで開けっぴろげになっている風呂に入ること。ベンチに寄り掛かりながら星を眺めること。窮屈なパイプベッドに寄り添って眠ること。ソファに二人並んで朝食をとること。
全てが新鮮に感じられた春日との同棲も、もはや当たり前の毎日になっていた。
そんな日々がずっと続けば良い。このまま春日と二人で、年を取って――
「おっ」
そんな桐生の足元にぽよんぽよんと青色のゴムボールが転がってきて。すぐさま春日が声を上げてしゃがみ込むと、ボールを手にして立ち上がり、道路を挟んで向かい側に並んだ子供達の方へと体ごと向けた。
「危ないからそこにいろよー! 今持ってってやるから!」
ボールを小脇に抱え、公園の中から出ないようにと手で制止しながら。春日は左右の安全を確認すると、ちらりと桐生の方へと振り返って来るのに、桐生は待ってるとだけ告げ、春日もそれに頷いた。
「すぐ戻りますんで!」
「焦んなくていいから、行ってこい」
「うっす!」
言うなり春日は小走りで子供達の元へ駆け寄り。小さな背丈に合わせるように目の前でしゃがみ込むと、ほらよとボールを手渡している姿に桐生はほんの微かに目元を綻ばせた。
『ありがとうおじちゃん!』
『いいってことよ! でもそっかぁ……俺もうおじちゃんって呼ばれる歳かぁ……出来ればお兄さんって呼ばれたいんだけどなぁ……』
『ええー? だっておじちゃんはおじちゃんだよ。ねー?』
『うん! チリチリのおじちゃん!』
『おいおい皆しておじちゃんって言わないでくれよ……ってかチリチリは関係ないだろ!? うう……おじちゃんショックで泣いちゃう……』
などと言いながら泣き真似する春日に、おじちゃんが泣いちゃったー! などと言いながらよしよしと女の子は頭を撫でてやり。続いて別の男の子にもポンポンと肩を叩かれるのに、春日はガバリと顔を上げ。
『うおぉぉ……! おじちゃん、皆が励ましてくれたから元気出てきたぜー!』
『わーい!』
『やったー!』
と騒いでいるのを見て、結局呼び方はおじちゃんでいいんだなと桐生は内心笑ったものだが、子供達に囲まれながら楽しげに笑う春日を見てチクリと胸が痛んだのもまた事実だった。
春日は老若男女誰にでも好かれる男だが、特に子供には人気が高いように感じられた。春日自身も子供には慣れているというか、打ち解けるまでに時間が掛からないというか――
もし春日に子供が出来たなら。想像するまでもなくきっと良い父親になるだろうと、春日が子供と接しているのを見る度に桐生の中での思いが大きくなっていた。
真っ直ぐな愛情を注ぎ、大切に育て。少しばかり熱いところもあるかもしれないが、きっと今繰り広げられていることのように、笑顔の絶えない生活を送っていくのだろう。自慢の子供だと幸せそうに笑う姿が目に浮かぶ。
だが、自分とこのまま一緒にいれば……春日にそんな未来はやって来ないのだ。
「すんません、お待たせしました! って……桐生さん?」
「ん? あ、ああ……すまん」
つい物思いに耽ってしまったと取り繕うが、春日はぎゅっと眉を寄せて桐生をじっと見つめ。その視線にどうしたと問い掛けてみれば、春日はこれでもかと大げさに肩と落とすと同時に溜息を零した。
「桐生さん、まあーた一人で何か良からぬこと考えてたでしょ」
「何のことだ」
「何のことだ、じゃないっすよ。ったくわかりやすいんだから。隠しても無駄ですからね? さ、何考えてたのか教えてください」
じゃないと俺ここから動きませんからねっ。
ふんすっと鼻を鳴らして腕を組むと、春日は電柱に寄り掛かってじっと桐生に視線を送り。言葉通り動きそうもない様子に今度は桐生の方が溜息を零すと、軽く舌打ちをして春日から目を逸らし、オレンジから紫に変わりつつある夕闇の空を眺めながら観念したようにぽつりと零した。
「お前、子供好きか?」
「へ? 子供っすか? んまあ、好きか嫌いかって言われたら好きかもしれないっすね」
「そうか」
「…………えっ、終わり!?」
いやそれだけであんな顔しないっすよね? と春日が続けるのに、桐生は顔を戻さないまま眉間の皺を深めて。この先を言いたくないのは今も変わらなかったが、このままでいてもいずれぶち当たるのは時間の問題だろうと静かに目を閉じた。
「お前はきっと、良い父親になる」
明るくて、幸せな、そんな家庭の父親に。
「桐生さん、急にどうしたんすか?」
「子供との接し方も上手いし、お前だったら真っ直ぐ向き合って育てるだろうってのもわかる」
「桐生……さん?」
「だから」
ゆっくりと瞼を持ち上げ、視界に入るグラデーションに胸が苦しくなる。だが、こういう時こそ笑った方が良いのだろうと目元を緩め、小さく笑顔を作って。ゆるりと春日の方へと顔を向けた桐生の笑顔は、何とも寂しげなものだった。
「俺はお前と一緒にいちゃいけねぇんじゃねぇかって、思うんだ」
春日の未来を思うなら。春日の幸せを望むなら――
このまま寄り添って年を取っていきたいなどと、ずっと一緒にいたいなどと思うことはただの我が侭で。春日の輝かしい未来を奪っているだけなのではないかと、何処かでずっと怖かった。
「え……何、言ってんすか……」
「俺とこのまま一緒にいても、男の俺にはお前の子を産んでやることも出来ない。二人でジジイになって、それで終わりだ。だったら、誰か別の女と結婚して、子供作って、幸せな家庭をきず……」
「いい加減にしろよ!」
黒いシャツの胸ぐらを思い切り掴まれて。桐生の肩からするりとバッグの紐が落ち、ガシャンと酒の缶が音を立ててコンクリートに転がっていく。目の前の春日は日が傾き掛けた今でもはっきりとわかるほどに顔を真っ赤に染めていて。ギリリと奥歯を噛み締めながら拳を振り上げていたが、その手をわなわなと震わせた数秒後に静かに下ろし。次いで胸元からも手を離した後、ぎゅっと桐生の両肩を掴んできた。
「桐生さん。アンタが悩んでた気持ちはよくわかった。一人で悩ませてすまねぇとも思う。でもな、これだけは言わせてくれや」
目を逸らすことなく、真っ直ぐに見つめてくる春日。その大きな瞳の中に自分が映り込んでいるのがわかるほどに、春日の視線は強く揺るぎないものだった。
「俺の幸せは、俺が決める。アンタじゃねぇ」
その様相は、かつて自分に死ぬことを許さないと言ってきたあの日と、よく似ている気がした。
「俺の人生をどうするかは俺の勝手だ。何をもって幸せとするのかも俺だけがわかることだ。アンタには、わからねぇよ」
「…………」
転がったビールの缶が一つ足に当たるのを感じながら、桐生は何も返せずにただ春日を見つめ返すばかりだった。
「……だからよ。アンタにもわかるように教えてやる」
耳かっぽじってよーく聞けよ!
掴んだ肩をバシッと叩かれ、桐生が眉間に皺を寄せたのに、春日は目を瞑ってすう……と思い切り息を吸い込むと、同じだけ吐き出して。
目を開けた男からは先程までの怒りの色が消え、はにかむような笑顔が湛えられていた。
「俺は桐生さんと一緒にいる今が幸せだ。他に何か欲しいなんて思っちゃいねぇ。二人でジジイになって、それで終わり? 最っ高じゃねぇか!」
そう語る春日は、文字通り幸せそうで――
「俺ぁ桐生さんと一緒に、ずっと一緒にいて、最高のジジイコンビになりたいって思ってますよ」
最高で最強なジジイコンビってかっこよくないっすか?
けらけらと笑いながら続けた春日の言葉に、遂には桐生も眉尻を下げて小さく吹き出した。
「何だよ最強のジジイコンビって」
「言葉のままっすよ。ジジイになっても俺ぁ勇者やめるつもりないですからね!」
「おいおい本気かよ……」
「向かうところ敵なし、ってか? っていうの、ジジイになってもやりましょうよ」
俺は本気ですからね、と白い歯を見せて言ったかと思えば、春日は桐生の肩から手を離してすとんとしゃがみ込み。
「あー……ビールの缶ちょっと凹んじまったなー。ま、中身無事そうだから大丈夫か」
と転がった缶を掴みバッグへ戻していくのに、桐生も別の方へと転がった缶を拾い上げて春日に差し出した。
「これで全部だ」
「あざっす」
礼を言ってきた調子はいつも通りだったものの、春日が顔を上げずに缶を受け取ったのに桐生はどうしたんだと首を傾げる。が、春日はしゃがみ込んで俯いたまま固まってしまい。
「春日?」
名前を呼んで見下ろしていると、おずおずと上がってはこちらに向けられた顔は耳まで真っ赤になっていた。だが、その色は少し前の怒りの色とは全く違い、春日の視線も気まずそうにスススと横へ逸れて――
「いや、あの……今更っすけど、桐生さんが俺との将来を考えてそこまで悩んでくれてたのかと思ったら……ちょっと恥ずかしくなってきたっていうか……」
ある意味、プロポーズされたみたいなもんですよね……?
ちら、ちらと向けられる視線にじわじわじわ……と今度は桐生の体温が上昇し始め。
「いや……プロポーズ……じゃ、ねぇだろ……」
と言葉では否定したものの、言われてみれば春日とこの先もずっと一緒にいたいと将来を考えた末に生まれた悩みだったのは確かで。だが、まさかこんな形で伝わってしまうというのは桐生としても本意ではなく――
「なしだ。今のは……なしだ」
と春日が持っていたエコバッグを奪い取ると、桐生はくるりと背を向けて先に歩き出した。
「ちょ……桐生さん待って、そっち家と逆っすから! 動揺しすぎかよ!?」
「なに……?」
「ったくもー。可愛いすぎかっ!」
そう言って肩を組まれるのに、桐生はおい……と照れたように顔を逸らす。
「別に男同士肩組んで歩くのなんて普通でしょ。なーに照れてんすか、桐生さん?」
「照れてない」
「うっそだぁ。顔真っ赤じゃないすか」
「うるせぇ」
「っくく……はあーもうまじで今最高に幸せっす」
そう言って顔を近づけてくる春日に近いと釘を刺しながらも、桐生も釣られたように笑みを零し。
そんな二人が並んで歩いて行く背中を、先程の子供達は公園の入口から身を乗り出して、微笑ましそうに見送っていた。