【イチ桐】逆に駄目です!「ん……懐かしいな……」
ソファでマンガを読みながら寛いでいた春日の元に、桐生の小さな声が聞こえてふと顔を上げる。ここまで読んだとザラついたページの右上に折り目を付けて分厚いそれを折り畳むと、春日はよいせと立ち上がり、ダンボールの前に座って服を持ち上げている桐生の元へ歩み寄った。
「それは?」
桐生が手にしていたのは白いシャツと臙脂色のネクタイ、そして濃いグレーのベスト。一見すると桐生らしくない組み合わせのそれに春日が後方から不思議そうにそれを覗き込んでいると、桐生はフッと笑みを零してそれを纏めて抱え込みながら立ち上がった。
ゆっくりと春日の方へと向き直った桐生の顔は、それこそ遠い昔を懐かしむような表情で。春日は桐生の手にしている服一式に目を落として返答を待った。
「こいつは俺が福岡にいた頃のものでな。もう何年前になるか……十年、は前になるだろうな。その頃俺はタクシーの運転手をしていたんだ」
「えっ……桐生さんが、タクシーの運ちゃん!?」
桐生の過去はまだ知らないことの方が多い春日だったが、自分から根掘り葉掘りと詮索するのは避けていた。桐生が話したくなった時に聞いて、徐々に知っていけば良い。そう思っていた春日だったが、ここに来てまた新しい話が聞けたことに、そしてその過去に春日は驚きを隠せずにいた。
「ああ。結局色々あって一年足らずで辞めることになっちまったが。当時の社長がいつでも戻って来られるようにと制服は俺にくれたんだ」
「そうだったんですね。へえ……桐生さんが会社勤め……しかもタクシーの運ちゃんやってたなんて。なんか、全然想像つかないっすね」
沖縄で養護施設を運営していたと聞いた時も驚いたものだが。聞けば聞くほど意外な過去が明らかになると春日が神妙な顔をしていると、桐生はそうだろうなと笑み混じりに返し、手にしていた制服に目を遣った。
「じゃあ、お前が当時の俺を想像出来るように……こいつを着てみるか」
「えっ?」
見た目はだいぶ老けたけどな、と笑う桐生に春日はぱちくりと瞬きしてものだが、ベッドに制服一式を置いた桐生は春日の返答を待つことなく黒いシャツのボタンをプチプチと外していき。あっという間に龍の刺青が露わになったかと思えば、白いシャツに袖を通し、きっちり上までボタンを締めていく姿に春日はつい言葉を失って見入ってしまった。
「おい。着替えてるのをずっと見てたら面白くねぇだろ。終わるまで後ろ向いてろ」
「へっ!? あっ、はい! すんません」
桐生に言われるなり慌てて背を向けた春日だが、するすると背後から聞こえてくる布擦れの音に妙にドキドキして。まあ、言うほど面白いもんでもねぇけどなと柔らかく呟く桐生の声に更にぎゅっと目を瞑ると、着替え終わったのか、相手の気配が自分の前にやって来るのに薄らと目を開けた。
「ああ、いや待て。もう少し目を瞑ってろ」
「は、はい……」
とりあえず水でいいか。そう呟いた桐生の言葉には何のことだろうと内心首を傾げたものだが。足音が向かった先でシンクの水を出す音が聞こえたのには、喉でも渇いたんだろうかと春日は目を閉じたまま眉を寄せるだけだった。
「よし。いいぞ」
コツンと聞こえた革靴の音。わざわざ靴まで履き替えてくれたのかと思いながら春日はゆっくりと瞼を持ち上げていく。
ぼんやりと見えた足元。そして次いでクリアになっていく視界に現れたのは、きっちりとボタンを締めたシャツにネクタイを締め、ベストもかっちりと着込んだ――オールバックスタイルの桐生だった。
「…………」
そんな姿に春日は言葉を返せず薄く口を開けたまま黙り込んでいると、桐生はきゅっとネクタイを締め直して口元に笑みを乗せた。髪は水で濡らしただけのラフなオールバックで、完璧にセットした時とは違ってパラパラといくつか前髪が落ちている。
「だから言ったろ。それほど面白いもんじゃねぇって」
洒落てるわけでもないしなと続ける桐生に、春日は口を閉じてんぐ……と唾を飲み込む。そして、ふるふると首を横に振って桐生ににじり寄り――
「いや……こりゃあ……駄目でしょうよ……」
桐生の両肩を掴んで改めてその姿を間近で見る。いつもの胸元を開けたシャツ姿とは違い、体の露出はほとんどない。タクシー会社の制服というだけあってデザインも派手というわけではないはずなのに……この感情は何なのだろうか。
「なんつーか……この格好で運ちゃんやってて声とか掛けられなかったんすか?」
「は?」
春日の問い掛けに桐生は片眉を吊り上げてから眉間に皺を作る。が、春日の方はといえば真剣……というより心配と焦りが滲んでいるような表情だった。
「だってこんなえっちなんですよ!? タクシーの中でヘンな奴にナンパされたりしたんじゃないすか!?」
「……何言ってんだお前……」
桐生の返ってきた声は呆れの色がこれでもかと混じっていたが。春日はぱっと見硬派で隙のなさそうな桐生の今の服装に、はぁ……と深く、長く溜息を零した。
「これだから桐生さんは……はあー……当時何事もなかったみたいで良かったっすよ」
「……この格好でそんな反応すんのはお前くらいなもんだろ……」
「いやいや! だってあの桐生さんがこんなきっちりネクタイまで締めて、ベストまで着ちゃってるんすよ! 胸元開いてるよりえっちっていうか……逆に駄目です!」
力説する春日に目の前の桐生はよくわからねぇな……とでも言いたそうな表情で。春日は更に落ち始めた桐生の髪を見ながら、そのラフなオールバックが追い打ちかけてくるんすよ! と言ったのに、桐生はいよいよ深い溜息を零すに至ってしまった。
「とにかく! ちょっと俺にはこの桐生さんは刺激が強いんで……あの……せめてネクタイ外してシャツのボタン開けさせてもらってもいいっすかね?」
何だろう。何がこんなに自分にヒットしたのかはよくわからなかったが、とにかくこの全体的なフォルムがいけないと春日は自分に言い聞かせると、ひとまずネクタイを外そうと臙脂色の結び目に両手を掛けた。
が、すぐにがしりとその手首を掴まれてしまい。
「桐生さん?」
「せっかくお前が気に入ってくれたんだ。このまま終わるのも勿体ねぇ」
「へ?」
春日の本能が告げる。スイッチの入った音がしたぞ、と。
「刺激が強いってことは、興奮したってことだよな?」
桐生の挑発的な笑みと、敢えて吐息たっぷりに囁いてくる声。ぎくりと肩を震わせると、春日はああ、いや……と後退しかけるが、手首を掴まれているせいでとてもじゃないが逃げられるような状況ではなかった。
そして、いつもとは違う格好の桐生に体が妙に反応してしまっているのも事実で――
「否定しないってことは……」
イイってことだな?
片方の腕を首に絡め、耳に唇を寄せて囁いてくる掠れた低い声。ぞくんと背中が粟立ち、吐息がかかった場所からじわりじわりと顔が熱くなってくる。
「もおお……」
そんな男の零した声はまるで泣き言のように上ずったもので。
「このタクシーの運ちゃん、えろすぎだろおおお……!!」
と部屋の中で声を上げた直後。首筋に口付けてくる桐生の感触に、春日はいよいよ観念してベストの上から腰を抱き寄せたのであった。