惚れた弱みだと笑って ある日の夜。
ESビルの七階から、街を見下ろす二人がいた。
Double Faceの斑とこはくである。
社員はおろか、副所長のつむぎすら寮へ帰っているという貴重な夜で、ニューディメンションの事務所はDouble Faceの二人が動くのにうってつけの場所だった。
もちろん、情報ルームの機械にモニターされないように細工をしてからの合流である。
斑は窓の外に広がる夜景を見ながら神妙な面持ちで呟いた。
「あんずさんにさわりたい……」
「その発言はいろいろアウトやで斑はん」
間髪入れず返されたこはくの言葉に斑はぐっと何かを堪えるように渋い顔をした。なおも弱々しい声で話を続ける。
「高い高いも肩車もコミュニケーションの一環だったわけだが、それを封じるだけでこんなに堪えるなんてなあ……」
「今までどんなコミュニケーションの取り方しとったんや……」
斑は腕を組んでうんうん唸っていた。こはくに白い目で見られていることにもかまわない様子である。
「たとえさわることができたとしても、また同じように苦しむのは想像できるからなあ。いっそ思い出さずにいた方が楽なんだが……」
「それができたら苦労はせんわな」
本題を切り出そうとしない相方を適当にあしらいながら、こはくはある可能性に思い至る。
いやまさか、そんなことあるわけないだろう。秘密の会合の中身が悩み相談だなんて。
「何かいい案はないだろうか」
真面目に問いかける斑に、思わずため息が出た。
「プロデューサーはん、よく仮眠してはるから、そこを狙うか、もしくは代わりになる手触りのもの探すかやな」
「いや、それは……できないなあ」
「まあ、せやろな」
自業自得なのではないか、と、こはくは思う。あの夜以来、どうにもぎこちない空気が斑とあんずの間にあった。
あの夜——Valkyrieとの合同ライブが終わった後にあった出来事。コミュニケーションを封じるきっかけになった会話。
あの場にいなかった者に、同じ質問はできない。
何かあったのだと察知されることはあっても、自ら何かありましたと言うことはできなかった。少なくとも今はまだ。
「よし。じゃあ、こはくさん。この資料を仕分けようか」
斑は両手をパンと打って会話を強制終了させた。いったい何がよしなのか。ほんまに勝手やな、と呆れながら、口には出さず。こはくは足元を見た。そこにある箱を見て、首を傾げ訊ねた。
「なんなん、これ」
「一定の量が貯まったらやるよう言われている事務仕事だぞお!」
「誰に頼まれんの、これ」
「いやあ、たまに事務員もしているんだが、申し訳ないことに仕事を作ってもらってる感じなんだよなあ」
「あんずはんも律儀やねぇ」
「………」
「図星かいな」
箱の中を確認すると、どうやら、ニューディだけでなく他の事務所の仕事も含まれているらしい。
せっせと行き先別にトレーに入れている斑からは特に説明がない。仕方なく、こはくは渡された資料と斑の手元とを見比べ、見様見真似で手伝っていた。
ふと慌ただしく小走りをする音が聞こえたのでこはくが顔を上げると、すぐ近くに人の姿が見えた。
「……噂をすれば戻ってきたみたいやで」
こはくが気を効かせて小声で話しかけたのにも関わらず、斑は自身ありげに胸を張って返事をした。
「ふふん。そんなわかりやすい嘘にはひっかからないぞお。もうこの時間はお家で——」
「いや嘘ちゃうてほんまに後ろに」
「おっ、おつかれさまです……!」
事務所中にあんずのひっくり返った声が響いた。
彼女に背を向けたままで絶句する斑の顔を当人に見せてやりたい。こはくは内心そう思いながら、気まずい空気にならぬようにとあんずに声をかけた。
「おつかれさん、プロデューサーはん。そんなに慌ててどうかしたん?」
「あっ、えっと、忘れ物取りに来たんですけどまさか二人がいると思わなくて……びっくりしてそれで」
「なに忘れたん?」
「あっ、充電器……!」
あんずはバタバタと事務所内を移動して、コンセントからコードを引き抜きに向かった。
「………」
「貸し一つ」
だんまりを決め込むつもりらしい斑の気配を察して、こはくが鋭い目つきで条件を提示すればコクリと頷きが返ってくる。
やれやれ、と嘆息したところでデスクの向こうから急に腕が伸びてきた。そして巾着袋がトンと二人の間に置かれた。
「知らなかったから、ほかに用意がなくて、あの、これよかったら」
ざらざらと音を立てて見せた中身は金平糖だった。
あんずはちらちらと斑の様子を気にしつつ、こはくに話しかけた。
「うん。おおきに。一個だけいただくわ」
「……あんまり遅くならないようにね」
「ほんま、もうこんな時間や。プロデューサーはんこそ、気をつけて」
ペコペコとお辞儀をして、何度も振り返りながら彼女は事務所を出て行った。
「すまない」
言葉とは裏腹に、斑の声は弾んでいた。犬が尻尾を振って喜んでいるみたいだとこはくは思った。
「金平糖、ぎょうさん入ってるね」
そう言いながら一つ指で摘んで、口の中へ放り込む。その溶けるような甘さに思わず頬を緩めながら、ポリポリとサクサクの中間みたいな食感を楽しんだ。
「貴重なもんもらえたし、さっきのチャラにしてもええで」
ご機嫌になったこはくの態度は、しかし十秒と持たなかった。
「ん? なんの変哲もない金平糖に見えるが……お取り寄せ品なのかあ?」
「は? 本気で言っとる?」
怒髪天をつく勢いで鬼の形相になるこはくに、斑は慌てて謝った。
「わああごめんごめん! 本気でわからないんだ。どうしてありがたがるのか教えてほしい!」
「……貸し、二つ」
チャラじゃないのか、と思いつつも、野暮なことは言わないでおこうと、黙って話を聞く態度を見せた。そんな斑にため息を吐きながら、藍良から聞いたことがあると、前置きをしてこはくは言う。
「どうも、お気に入りのアイドルに渡すもんらしいよ。もらえる人は限られてるんやって。せやからわしは『貴重な』って言ったん」
「そうだったのかあ……」
聞かない方が良かったかもしれない、と斑は思った。話を聞かずにいたのなら、もしくは先に、大事なものではないと飲み込んでしまえていたのなら、幸せになれたのかもしれない。
でももう聞いてしまったから、後には引き返せない。それに、聞いて確かめてしまうのが性分だから、どのみちあり得ないのだと自嘲した。
「なんや、ほんまに知らんかったんや。でも、もらったことくらいは……いや待てどこ行くねん!」
こはくの言葉を最後まで聞かずに、斑はあんずを追いかけた。その手には金平糖がたくさん詰まった巾着が握られていた。
ロビーへ降りるまでもなく、あんずはまだそこにいた。このビルのエレベーターは遅いと、もっぱらの評判である。到着を待つその背中に、斑の影が覆い被さった。短い距離ではあったが、走ってきたせいで息は乱れていた。
それに気づいたのか振り向きかけたあんずの背後から、壁に埋め込まれた操作パネルに手をつく。
エレベーターが到着すれば、前に歩を進めれば逃げられる位置だ。大きな音を立てたつもりは斑にはなかったけれど、後に故障の原因を疑われるくらいには、壁に衝撃が走っていた。ビクッとあんずの身体が震えた。
「………」
軽やかな電子音が響きスッとドアが開く。要件を伝えようとしない斑を見向きもせず、あんずは左足を一歩前に踏み出し、それから、くるりと振り返った。
誰かを運んでいたはずのエレベーターも今は無人。黒子のように身を引いて、次の場所まで降りていった。
「なんでしょう」
ドアが閉まる微かな振動を確認してから、あんずは視線も合わせず訊ねた。斑も、彼女の足元を見て答える。
「お返し、こはくさんから」
巾着の中からひとつ、砂糖色の星を差し出した。
「……ありがとう、ございます」
素直に受け取った両手のひらに、さらに巾着袋そのものを置いた。あんずが目を見開いたような気がした。
「これは、受け取れない」
かわいそうに、肩が震えている。斑は目を細めてその姿を見下ろした。怒りか、悲しみか、激情を堪えて、あんずは何も言葉を発せずにいる。追い討ちをかけるようで悪いが、と、内心ひとりごちながら斑は続けた。
「君の大事なものだろう?」
そう言った瞬間、あんずは跳ね上がるように斑の顔を見た、何かを言いたそうな口をぎゅっと引き結んでいる。じっと見つめる空色の視線が痛くて、その鋭さに、思わず目を逸らした。
ほぼ睨んでいるのと同義の情熱に降参しそうになる。しばし黙り込んで、斑はエレベーターのボタンを操作する。
ゴウン、と再び中の箱とベルトが動き出す音。その手に隠し持っていたピンク色の金平糖を、人差し指と親指で摘んで、あんずの唇に添えた。
「それから、これは俺から」
「……! ……ッ!」
あんずが訴えかける何かを、斑は聞いていた。考えていることが顔に出やすい子だからと、知ったかぶりで、理解しているふりをして、頷きながら、大事なことから耳をふさいだ。
怒り尽くして疲れたのか、あんずは肩で息をしてぎゅっと目を閉じた。
なかなか口を開けてくれないので、体温で少しずつ角が取れていく。金平糖越しに唇と指でキスしているみたいだ。そう考えるが早いか、ピリ、と触れたところから電流が走った。
「あ」
観念したのか、あんずが食べるために開けた口から、ざらりと舌先が覗いて斑の指を湿らせた。反射的に手を引いて、口元を覆うけれど、声に出したのが斑であることは明白だった。
甘さにとろける表情が穏やかで安心した。そこが限界だった。
「んぐっ」
あんずは顔が何かにぶつかった衝撃を声で表した。まるで押しつぶされた小動物。顔だけじゃなく、全身打撲したみたいにジンジン痛む。距離を縮められて、抱きつかれたのだと気づくまで、少し時間を要していた。
ブランクがあったからかなあ、などと考えて、見えないのをいいことに斑は微笑む。
健康にいいものだってとりすぎると身体に悪い。損なうものなら、なおさら。
あんずの肩の力が緩んだところで斑はそっと腕を解いた。図ったように再び登場したエレベーターのドアが開くと、手を引いて中へ導いた。
「み、みけじまさ……」
「ごめん。まだ……」
斑はあんずに背を向けて、中でしか操作できないパネルに手早くタッチした。
離すまいと強く握られた手を振り解くのは容易い。握り返すべきなんだろうが、力を入れすぎている彼女の手を労る方が先決だった。操作を終えた斑はその手を両手で包んだ。
「また、ね」
先ほどまでの頑なさが嘘みたいに、素直に解放された手をひらひら振るとドアが閉まる。最後に見たのは、まだ諦め切ってはいない表情だった。
口の中の甘さを奥歯で噛み砕いた。
一階まで降下するのを見届けると、こはくが近づいてくる気配がある。今日だけで貸しをいくつ作っただろうか。
「ほんまにカタギの人なんやろか。斑はんが気づかへんなんて」
「さあなあ」
本職である人間の気配にさえ気づくのだ。斑があんずの接近に気づかないのはおかしいと、こはくは首を傾げていた。
「気づいてないふりをしていたのかもしれないぞお」
斑はポケットに手を入れたまま振り返ると、怪訝な表情のこはくに笑みを見せた。
「なんやそれ、意味わからん」