あけぼの その瞬間、斑は己の耳を疑った。
「わ、わたしを食べてください……」
己の記憶の整合性を確かめるように腕の中のあんずを見つめ返すと、うるうるとした瞳がせつなく細められるので、どうやら聞き間違いではないらしいと斑は悟る。
ハロウィンの日の早朝、昇る太陽を背に斑は事務所の中で見かけたあんずに向かって『トリックオアトリート』と声をかけると、すぐさま逃げられないように彼女の身体を腕ごと抱きしめた。そこまでは定石。もし誰かに目撃されても、ハロウィンではしゃいでいる若者がハメを外したのだと思われるだろうし、評判が少し落ちても構わない。むしろそれくらいがちょうど良いとまで考えていた。
だが彼女の返事が良くなかった。否、斑にとって都合が良すぎるのだ。よりにもよって、男に『食べてください』などと。
「あんずさん」
「はい」
斑は抱きしめていた腕をほどくと、あんずの両肩をガシッと掴み、顔を真正面から突き合わせた。あんずも、緊張を隠せない様子でその目をじっと見つめ返す。
「考え直した方がいい。その返事は誤解を生む」
「………」
あんずが他の人間にも同じことを言うつもりだと考えた斑は、優しい声であんずを諭した。
「君のことだから、きっと他のみんなにもそう言って驚かせるつもりだろう? いやあ、俺も驚いた。あんずさんはちゃあんと、女の子だったんだなあって」
「……っ」
剣呑な目つきのあんずは次第ににうつむくようになり、斑は泣きそうになってる彼女の雰囲気に気づかない。
「たしかにあんずさんは俺にとってお菓子のように甘い存在だし、俺は君を甘やかしたいと思っている。けれど、それはいただけない」
「み、三毛縞先輩の……」
あんずが顔を上げる。文句を言おうとしている顔だ。続きを遮るように言葉にかぶせて斑は言った。
「さて、お菓子をくれなかったあんずさんには、どんなイタズラをしようかなあ」
「……え?」
「きょとんとした顔もかわいいなあ!」
言われた意味に気づいたあんずは、顔を真っ赤にして斑の腕を振りほどいた。
「わ、わー! 来ないでください!」
「イタズラじゃなくてお仕置きが必要かなあ♪」
結果的にあんずの思惑通りなのだが、いいように丸めこまれたとふてくされるあんずの表情を斑が微笑ましそうに見るまで、あと少し。ハロウィンはこれからだ。