煙社降臨節暦 第一夜/鬼水 白い箱の中の小さなケーキは装飾的で、イチゴの赤が食えるのはまあ分かる、でもクリームソーダも当たり前になったというのに白い生クリームの波模様や、クリームを飾る色とりどりの粒が食べ物であるということが夢のようで、こんな髪も白くなった中年一匹、ケーキひとつで頬を赤らめる年頃では決してないのに何故だか胸が締めつけられるのだ。
がらんとして電灯ばかり明るい茶の間の真ん中、水木はケーキの白い箱を開けたまま動けない。母が亡くなって久しい。あの子が出て行ってからも。男は血の繋がらないその子を我が子として育てたのだが、悲しいかな、子どもの名前は水木家の戸籍に連なることもなく、ある日出て行ってしまった。
出て行った、という明確な別れがあった訳ではなかった。あの年の秋、台風が勢いを持ったまま上陸し下方の川が氾濫した。消防団に呼ばれ町民皆で土嚢を積んで、泥だらけのまま帰ろうとしたあの時、不意に雨風の音も川の轟音も静まりかえって、透明な水の上を渡るあの子を見た気がした。うちに帰るとあの子はいなかった。来た道を引き返し、氾濫する川沿いを名前を呼びながら探し回ったが見つからなかった。異変に気づいた消防団員に止められなければ、あの子を探してそのまま水に入っていたかもしれない。
日々の折々水木は、居眠りの目覚めや、強烈な西日に目を焼かれ立ちくらみに襲われる一瞬に、これは夢ではないか、と足下の抜けたような心地になることがある。俺はあの子を探して氾濫する川にはまりこみ、泥水に溺れる一瞬、この夢を見ているだけなのではないだろうか。
肉体はすぐに水木を現実に引きずり戻す。古傷の痛みは南方での記憶、終戦を経た地続きにここに立っているのだと教えてくれる。
だがあの時、雨の中ひとりぼっちで佇む俺の中の何かが冷たくなってしまった。
そこが、疼く。箱の中の小さなクリスマスケーキを見つめていると喪失が疼いて、冷たくなってしまった部分さえもやはり生きているのだと教える。軋む。軋む音。
水木はケーキの箱を閉じると、電灯を消して床に入った。今年の冬は冷える。隙間風がマッチの火を消してしまい、煙草はのまぬまま灰皿に横たえた。
夢を見た。
懐かしい面影が煙草を吸っている。それは俺のだぞ、と手を伸ばすと「いいじゃないですか」と面影は姿を変えた。(ゲゲ郎……)と遠くに自分の声がこだました。だが水木の耳には聞こえていない。年若く細い首に手を伸ばす。
「帰ってきたのか、おまえ」
「もっといい煙草を飲みましょうよ」
ちゃんちゃんこの内側の隠しから取り出したピースが枕元に置かれる。水木はマッチを擦る。左目を長い前髪に隠した横顔が青白い火の明かりに浮かび上がる。口の上に白い髭、いいや、生クリーム。
「ありがとう、おとうさん」
夢から覚める。
覚めたから夢を見ていたのだと分かる。だが何の夢を見ていたのか。水木は横になったまま早鐘のように打つ胸の上へてのひらを置いた。深く息を吐く。冷たい朝の匂いがする。陽はまだ昇っていない。枕元に手を伸ばすと新品の煙草の箱に触れた。深く煙りをひと飲み。熱い煙が目玉の裏側から焼く。盛大に吐き出す。なんとか目覚めた。
ちゃぶ台の上、ケーキの箱が開いていた。空っぽになっていた。