煙社降臨節暦 第十一夜/ふどふゆ 小鳥のさえずりで目を覚ますっていうのはまんざら嘘でもないんだなってのは、あと数分の惰眠を貪りたい時耳元をそよ風が撫でるみたいに、起きて、って囁かれてみれば分かる。冬花はそれ以上オレを揺り起こしはしなくて、オレは枕から半分顔を上げて片目を開く。下着を脱ぎ捨てた冬花の後ろ姿がバスルームに消える。尻に小さな赤い腫れが見えた。ん、やっぱいたのか、虫。
昨日到着したホテルは手違いで予約していたのと別の部屋をあてがわれる。窓の向こうに見えるのは公園ではなく隣のホテルの壁で、オレは別に慣れてるし飲み込むこともできるが、せっかくふたりで旅行できるようになったのにこの待遇は腹立たしい。怒らないで、と夕食をつつきながら冬花は言った。
「今日から明王くんと同じ世界を生きるの。同じものを見て、同じ場所で眠るのよ。私、そのために飛行機に乗ったんだから」
「メニューは別な」
移してやったトマトはわざわざ皿に戻された。あーん、と口を開けてやる。
「…………」
「何だよ」
引いたか?
冬花は急に思い詰めた表情になり、椅子から立ち上がって身を乗り出した。キスが頬に触れた。意を決したような、必死で頑ななキスだった。
「……冬花」
「嬉しくて」
冬花はうつむいた。テーブルについた手が震えていた。
「ふざけてくれるのも、甘えてくれるのも、嬉しくて、びっくりしちゃって……」
オレは皿の上のものは残さず食ったし、トマトも平らげた。冷たく酸っぱいトマトの匂いが残ったままキスをすると、冬花は急に照れて俯いた。
「シャワー」
「いい」
「衛生面、大事です」
オレたちは歯磨きで妥協する。ホテルの狭い洗面台の小さな鏡の中、へし合うように歯を磨きベッドルームへ向かう。
シーツの上で、冬花の反応はいつも穏やかだ。大きな波が砕けず揺れるように、ゆるやかに上り、吐息と一緒に深く落ち着く。それはそれで気持ちが良い。
けど、昨夜は。
シャワーの音に揺られながら、オレは枕を抱き軽く目を伏せる。昨夜、泣いてたな。最後の方は泣かせたかもしれない。でも涙は冬花の内側から勝手にこぼれ出ていた。声も。噴水の水がてっぺんから次々に転がり落ちるみたいに。でも最後は……。記憶を辿りながら思い出す。あれ虫刺されじゃねーわ。オレだ。オレがつけた痕。そういえば痒そうでもなかったし。
ベッドから起き上がりインスタントコーヒーがカップを満たす頃、シャワーの音が止まる。
「おはよ」
バスルームからおずおずと出てきた顔に言う。
「おはようございます。眠れた?」
「お前は」
狭いテーブルにコーヒーを置く。朝日は差し込まないが、空が近いから窓の外もなんとなく明るい。バスローブ姿の冬花が照れながら近づいて来てカップに口をつける。
「私は、ぐっすり眠ったもの」
今日は部屋の下見に行く。ふたりで住む部屋だ。今までとは勝手が違う。そのうちもう一部屋とか必要になったりするんだろうか。まだうまく想像できない。
「明王くん」
シャツを着ていると冬花が呼んだ。
「今日は上までボタン留めてね」