君と手を繋ぐ幸せは君の手の形をしている。
握り締めるには脆くて柔い手は、私を優しく包み込み温かい気持ちにしてくれる。
「ファントム、これより君の護衛に着任した」
「ああ、君が・・・オペレーター・ファントム。今日からどうぞよろしく」
私がロドスに就任してから暗殺以外に初めて与えられた仕事は、つい数日前にチェルノボーグから救い出された”ドクター”の長期的な護衛任務だった。
どうやらこの製薬会社は、暗殺者である私を組織の重役の護衛に採用するほどの人材難らしい。
”ドクター”は長い眠りから目覚めたばかりの記憶喪失の患者と言う立場ではあるが、あまり治療や休む暇を与えられず日々艦内や戦場を走り回る。
そんな彼が表舞台に舞い戻った事で、命を狙われる機会が増えるだろうと予測したミス・ケルシーの采配で、隠密行動に長けた私に白羽の矢が立てられた。
ナイフを握ることのない、指揮者の手が真っ直ぐと私に伸ばされる。
この男はこんな汚れた暗殺者にも握手のために手を差し出すのかと、自嘲めいた笑みがこぼれる。
それが彼との最初の出会いだった。
最初こそ彼の人間性が解らずただ黙々とドクターの護衛をする日々だったが、彼は一度戦場から遠ざかれば、優しく穏やかな人だった。
日々戦場に出向き、帰艦すればデスクワークに追われ、ミス・アーミヤから働け、働けと催促されているが、たまの休息には勉強の為と本を読み耽り、オペレーターから寄せられる相談に親身に寄り添い、病棟の子供達にせがまれれば絵本の読み聞かせをする、そんな毎日を送っていた。
神出鬼没のミス・クリスティーンもそんな彼の隣は心地が良いようで、ふらりと現れては彼の膝の上を陣取り小さく寝息を立てている。
ドクターはいかなる時も他人の為に自分の時間を割くことを苦には思わないのか、ただの護衛である私の事もよく気にかけてくれた。
目が冴えて眠れない彼と悪夢に魘された私で、深夜に二人で紅茶を淹れて飲む事もあった。
ぽつりぽつりと、今日の食堂のあのメニューは美味しかったね、今日は病棟の子供達に似顔絵を描いてもらったんだ、そんな取り留めのない会話を交わす。それは私にとっては穏やかで、柔らかく温かい時間だった。
何回目かの月夜の茶会で、私は過去の自分の罪を明かした、他人に話すにはどうにも後ろ暗い話をなぜだか私は彼に聞いて欲しかった。
話終えた後の気まずい静寂を最初に破ったのはドクターだった、突然彼がそっと伸ばした手が私の手を握りしめたのだ。
いつも厚い手袋に隠されている素肌が月明かりに晒される。突然の接触に驚きつつ、私はその骨が浮き、青白くひどく不健康に見える彼の手をじっと見つめていた。
初めて触れた彼の手は、見た目とは裏腹にとても温かく、彼の人柄がそのままそこに現れているようだった。
ロドスという仮住まいの中で、常に他人の関わり合う事を拒む私にとって人肌の温かさはとうの昔に捨て去り、もう与えられるべきではないと切り捨てたものだった。久々に感じた生きている人間の肌の温もりは、その捨てた筈の物を思い出させる。
しかし私の手は多くの命を奪い、血で汚れている。その拭い切れない罪が形となり、じわじわと彼の青白い手を侵食しているような錯覚を起こした。
「触るな、君の手が汚れてしまう」
「どうして?君を汚れてるなんて思わないし、特別恐ろしいとも思わないよ。・・・過去に起きたことが覆すことのできない事実だとしても、自分の罪と向き合って贖おうとする君は、すごく強い人だと思うよ」
だから大丈夫だよ、ファントム。そう言ってまた私の手を優しく握り直した。その私を慈しむ声に、その言葉の嘘偽りのない様子に、その手の優しい温度に、毒気を抜かれた私はすっかり彼に恋をしてしまっていた。
作戦終了の合図が戦場に響き渡る。事前に入手していたデータ以上に敵の数が多く、防衛ラインはおろか無関係な人家にまで被害が及びそうになったが、ロドスのオペレーターとドクターの指揮の尽力により戦線崩壊は免れた。
作戦終了後は、ドクターも医療部に混じりトリアージの指示を飛ばし戦場を駆け回っていた。
事前に予測されていた以上の被害が出ており、編成部隊のうち約4割の人間が重症状態となってしまった。
ロドスへと帰艦し、全てのオペレーターの医療部への到着を見届けるとドクターは一人、いつもより早い足取りで執務室へと向かう。
着いて早々にジャケットを乱雑に投げ捨てると、携帯しているタブレットを起動し、PRTSにより記録された先程の作戦内容を繰り返し、繰り返し再生し続ける。
疲労が溜まっているにも関わらず、一向に休む気配がない彼に「休め」と声をかけようとしたその時、タブレットの画面にいくつもの水滴が滴っているのが見えた。
疑問に思い彼を見やると、そこには声を上げず、画面を食い入るように見つめながら涙を流すドクターがいた。
悔しいのか、悲しいのか涙を拭う事もせずただひたすら画面上のデータを反芻している。
その痛々しい様子に、私は姿を現し彼を慰めるべきか否かを暫く迷っていた。
手を伸ばしては戻しをしばらく繰り返し、ふとこの慰めが彼にとっては余計な気遣いではないかと考え、見守るだけに留めた。
ぼろぼろと零れ落ちる水滴を眺めながらドクターがただ一人で声を上げずに泣く様を見て、それを悲しいと思う反面彼に対する言い様のない庇護欲が込み上げた。
泣きながらのタブレットとの睨み合いは暫く続き、そんな状態で彼の体力の限界が来たのか、デスクに尽き伏してそのまま眠りについた。私はおもむろに涙の跡が残る頬を一度撫で、彼を自室のベッドへ運び、しばらく寝顔を眺め部屋を後にした。
「ファントム氏、いつも言っていますが定期的に医療部へ顔を出してくださいね」
「・・・・・・診察、感謝する」
とある日、散々と勧告を無視していたツケが回り、私はドクターに半ば引きずられるような形で定期検診に連れられた。
煩わしいいくつかの検査を終え、もう用はないとばかりに素早くいつもの服装に着替え、医療部の面々の苦言と不満げな視線を尻目に部屋を後にする。
恋心を自覚した後も私の成すべき事は変わらないままで、常にドクターの後ろに控え、彼の身の安全を守り続ける。
いつの間にか護衛の任務は私にとっては仕事としてではなく、自分自身が彼の為にしたい事として意識の中に位置づけられていた。
優しくて温かい彼の事を、どんな敵からも、脅威からも、悪意からも、何もかもから守り抜きたかった。
彼の事を考えると自然と気持ちが逸る、会いたい、側にいたい一秒でも長く、そう思うと段々と歩くスピードも早くなる。ドクターならこの時間帯であれば購買部に居るだろうと予想し、扉に手を掛けて足を踏み入れようとした瞬間、
「うっそぉ!ドクター、好きな人いるの?!」
ミス・クロージャの声だった。
ドクターに好きな人、予想だにしていなかった話題にドアの前で立ち尽くす。
音を立てぬようそっと扉の前に陣取り、二人の会話を聞き逃すまいと集中して耳を澄ます。
「ちょ、声が大きい!」
「あ~んごめん、いやぁドクターについに好きな人ができるなんて!春が来たね!それでお相手は誰なの?」
「黙秘」
「え~、じゃあオペレーター?それともここの職員?」
「それも黙秘」
「ケチ!男か女の子かだけ教えてよ!」
「それも答えない、クロージャってば特定しようとしないでよ」
「相手が分かればあたしだってドクターに協力するんだしさ、両思い目指そうよ!」
「え?・・・・・・私その人に告白する気はないよ」
「ええっ?なんで?どうして!?」
「私なんかに告白されたって迷惑なだけだろう?」
「なんでそこでネガティブ発動しちゃうかな~?」
「いや、本当に私の気持ちを伝える気はさらさらないんだ。結ばれようとか何かのゴールを求めてる訳じゃなくて、その人の幸せを遠くから願ってるぐらいの距離感で丁度良いんだよ」
無機質な扉の向こうから聞こえるのは紛れもないドクターの声で。私の意識は凍り付く。
誰だ、誰を想っている?それは今どこにいる?
消さなくては、殺さなくては、彼から遠ざけなければ・・・突然突きつけられた事実に私はすっかり冷静さを失っており、ついには無意識の内にいつも足元に携えた得物をホルスターから引き抜いていた。ただ私の頭の中には姿も名前も知らない誰かを彼から排除する意識に占領されていた。
購買部を後にしたドクターへ、診察は今終わったと嘘を吐いて合流する。先ほどのミス・クロージャとの会話に触れるべきか悩んだがついに話すことができないまま今日の就業時間を迎えた。
そしてそのまま夜が明けても、姿の知らぬドクターの想い人への明確な殺意を胸の中から消すことはできなかった。
購買部での一件から数日、私の中にはまだ黒い感情が燻っていた。未だに特定ができない彼の想い人と言う存在が私の神経をどんどんと摩耗させていた。
だが今日も変わらず、私は彼の背中を見つめその身を守る為に息を潜め傍らに立ち続ける。
私がこの手を伸ばせばすぐ届く距離にい居る筈なのに、思うがままに彼に触れる事は叶わない。それに手が届いた所で彼が応えてくれる事はないと言う事はとうに解っていた。
焦燥感が胸を苛み、ただひたすらに彼への恋情だけが雪のように降り積もって行く。
彼に初めて会った日、子供達と楽しそうに笑う横顔、作戦中の感情を失った凪いだ瞳、月夜の茶会の時間、彼の素肌の温度その全てが私にとってのドクターとの思い出だった。君に触れたい、声が聞きたい、取り留めのない話をして楽しげに緩んだ顔が見たい。
私の愛する彼の全てが、他の誰かのものになるなんて耐え難かった。会いたい、愛してる、側に居てくれ、どうか私の伸ばした手を握ってくれ。
もう、限界だった。
深夜2時、勝手知ったる足取りでドクターの部屋を訪ねる。この時間ならば眠っているかと思ったが、今日は夜更かしをしていたようだった。
「こんばんは、急にどうしたの?」
突然の来訪に驚くそぶりも見せず、ドクターはノックもせず部屋に現れた私をすんなりと招き入れソファーへと案内した。
彼の話し声はいつも通りの数多くのオペレーターに向けるような優しく、穏やかな声をしていた。
私は大勢いる部下の一人、ただそれだけの存在だ、私が彼の想い人であれば反応は違うのだろうか。
姿の見えない誰かと自分を比較し、苛立ちが込み上げる。そんな私の不機嫌そうな雰囲気を感じ取ったのか彼が心配そうに眉根を寄せる。
「何かあった? 怖い顔してるよ」
「・・・・・・」
「お茶でも飲む?君ほどじゃないけどマシなレベルで淹れられるようになったし、もらい物だけどスミレの砂糖漬けもあるよ?」
気遣うような視線、柔らかな声、私の好きな彼の全て。
ああ、君は優しい、その優しさを今から裏切る私にはきっと罰が下されるのだろう、それでも私はもう何もかもをただ待つことは出来なかった。
私はおもむろに彼の前に跪き、祈るように頭を垂れる。
「ファントム・・・?」
「ドクターどうか私を救ってくれ・・・」
そのまま彼の膝元へ縋り付いた私をドクターは驚いた様子で静かに見つめていた。
私は、ドクターをどうしても諦める事は出来なかった、この想いを伝えてしまえば今までの私に与えられた幸福は消え去ってしまう、それは私が最も恐れる事だった。
人の心を操る事などできない、ましてや彼の想い人をこの手で殺したとして、私を愛してくれる事などある訳がない。解っているはずなのに、彼が私の想いに応えてくれる、そんな都合の良い事を往生際の悪い私は夢見ていた。
どんなに言葉を尽くしても、行動で示しても、彼の命令を忠実に守ったとしても彼に愛されなくては意味がない。ただ指を咥えて見ていては、私が愛する人は姿も見えぬ誰かに奪われてしまう、失ってしまう。
嫌だ、嫌だ、苦しい、どうか誰も、例え君であっても私からドクターを奪わないでくれ。
「・・・泣いてるの?」
手が、私の好きな優しい手が頬を撫でる。指摘されて初めて私は自分が涙を流していることに気づいた。彼が私に触れてくれた事を嬉しいと思う反面、これは不特定多数の人間に分け隔てなく与えられる優しさや気遣いなのだと気づく。
君に選ばれたかった、君に愛して欲しかった。
だが私は何も持ってない、病に冒され、人を殺し、今も悪夢に囚われ続けているこの愚かな男は、優しい君がただひたすらこちらを振り向いてくれるようにと願うだけで何も成していなかったのだ。
そんな自身の浅ましさと情けなさに嫌気が差し、これ以上私の顔を見られたくなくて彼の膝に顔を埋める。
「ねえ、こっちを向いて。俯いていては君の声が聞こえないよ」
「見ないで・・・くれ・・・」
私を軽蔑する彼の表情を見たくはなかった。それでもこの体温が体から消えるのが恐ろしかった。
焼けるような焦れったさが胸を支配し、私は彼の膝に顔を埋め一秒でも長くここへ留めていたくてその足をきつく抱きしめた。
「ファントムこっち向いて、ね?」
諭すような声が上から降ってくる、答えたい、答えたくない。そんな矛盾が体の内で暴れてのたうち回り、その衝動が私の口を開かせた。
「・・・私は、君を愛している」
ああ、ついに私の手で幕引きとなってしまった。言わずに仕舞い込むと決めた想いなはずなのに、一度口から溢れてしまえばもう制御は出来なかった。
「愛しているんだ、何よりも、誰よりも。だが私は罪人だ、だから君の側にいる事は許されない」
「・・・・・・・・・」
「・・・すまない、君に想い人がいる事は知っている。素より君に伝える事はない思いだった」
彼の足元に纏わりつくように絡めた腕をほどき、ドクターから距離を取るように立ち上がり数歩後ろへ下がる、私の体から途端に消えるドクターの体温がどうにも悲しく胸がじくじくと痛みだす。
だがこれ以上はいけない、逃げる彼を捕まえて、私の欲で縛りつけて閉じ込めて私と二人きりの世界へ連れて行きたくなってしまう。そんな私の我が儘と欲に彼を巻き込む訳には行かないのだ。
「私はもう、君の側にはいられない。護衛の仕事もどうか他の人間を任命してくれ」
嘘だ。本当は永遠に側に居たい、ドクターの命を他の人間になんて預けたくはない。そうやって彼を想う度にまた縋りたくなってしまう。ドクターに向けて伸ばしかけた手を硬く握りしめ、ただひたすらにもう触れまいと耐えていた。今この時でも、彼を諦め切れないのに護衛と言う彼の側に居られる資格まで奪われてしまうのなら、私はどこに行けばいいのだろう。私の世界にはドクターしか居ないのに、ただ一人きりの世界でこれからどうやって息をすればいいのだろう。
二人の間に漂う静寂は、私にとって死刑宣告をされる前の罪人のような気分にさせた。そして、最初に静寂を破ったのはドクターだった。
「なんで君が、勝手に私の気持ちを決めるんだ」
私を見上げたドクターは泣いていた。
以前、人の目を避けて自室で一人泣いていた彼が、今私の目の前ではらはらと涙を溢している。
「どうして、君が泣く」
守りたいはずなのに、私はドクター泣かせてしまった、傷つけてしまった。細い肩が震えている様を見下ろしながら、やはりこの気持ちは伝えるべきではなかったのだと、後悔の念が押し寄せる。
静かな部屋に、ドクターのすすり泣く声が響く。
「ドクターすまなかった。もう私が言った事など忘れていい。悪い夢だったと思っていてくれ」
「ちが・・・違うんだ、ファントム。嫌だ、行かないで・・・」
ゆらゆらと弱々しく揺れる手が私の外套を掴む。軽い力で握られているはずのその手を振りほどく事はなぜか出来なかった。
「ドクター、なぜ・・・」
「泣いてるのは、嫌だからとかそんな事じゃないんだ」
「しかし・・・・・・」
「君が私を好きって言ってくれたのが、嬉しくて泣いてるんだよ」
今、彼はなんと言った?
自分にとっての都合の良い幻聴が聞こえ、私は自分の耳を疑う。
「何を、言って・・・」
「なんで私が好きな人がいるって知ってるかはあえて聞かないけど、私が好きな人は君だよ。ファントム」
「う、そだ」
「嘘なんかじゃないよ、もう、私だって言うつもりなかったのに・・・」
掴まれたままの外套をドクターの元へ引かれ、再び私の体はソファーへと沈む。
「ドクター、私を気遣って無理に優しくなどしなくて良い。確かに優しさは君の美徳だ、でもだからと言って私のような罪人の想いに応えてはいけない」
最早私は自分が何を言っているのか解らなくなっていた。
想いに応えて欲しいと縋り付いていたのに、いざ彼からの答えを聞いてもそれを信じられず遠ざけるような言葉が口から飛び出す。
「まだそんな事言ってるの・・・?」
炎が静かに燃え上がるように、彼の瞳には怒りが籠もっていた、彼は泣きながら私に向かって怒っていた。
こんなに感情を顕にする彼を見たのは初めてで、私はつい狼狽えてしまう。
「前に話した事忘れたの?君を汚いとか、罪人だなんて思ってないって。忘れた上に勝手に私の気持ち決めないで・・・」
そのまま小さく嗚咽を上げて泣く彼を見ていると、もう触れてはいけないと決めた筈なのに、はらはらと溢れる涙が美しくて思わず彼の頬に手を伸ばす。そのまま涙が伝う頬に手を這わせると、また瞳から溢れた一滴が私の手を濡らす。
ドクターはその手に自身の手を重ね、ただひたすらに真っ直ぐこちらを見つめていた。
「好きだよ、ファントム。君が好きなんだ、何者であっても、どんな罪を犯したとしても」
「ドクター・・・」
「私の気持ち、疑わないで」
私が触れた掌にドクターが頬を擦り寄せ、濡れた瞳が先程と同様に逸らされる事なく私を射貫く。
私の中にはもう、彼を疑う気持ちも、自分の中にある後ろめたさも無かった、ただ身震いする程の歓喜だけがそこにあった。
「君が私の初恋なんだ」
「初、恋・・・」
「私は恋をするなんて初めての事だから勝手がわからない、資料やマニュアルだって無い。君に手を伸ばしたいけどどうしたら良いかなんて検討もつかなかった」
彼の涙混じりの穏やかな声を静かに聞きながら私はその言葉の続きを待っていた。
「私は自分に自信なんて全然無い。記憶喪失だし、正体不明だし戸籍ないし、人としての良い部分なんて全くなくて・・・ああもう自分のダメな部分なんて言い出したらキリがないんだ」
「・・・自分を傷つけるような言葉は、どうか言わないで欲しい」
「ありがとう。でもそんな駄目な私が君に恋した。優しくて強くて私を静かに見守ってくれる君を」
時計の秒針の音がはっきりと聞こえる程の静寂の中で、彼から告げられた愛の言葉に心臓が痛むほど高鳴り、鼓動が体中に響く。
「私達、相手の事を好きだと思いながら、こうしてすれ違って、悩んで、勘違いして、側にいる資格なんて無いってお互い思ってたんだね」
「私は、欲深い人間だ。私の世界はドクターしかいない、君に想い人がいると知った時に私が一番に考えたのはその人間を殺してしまいたいと言う衝動だった」
「勘違いなのに?」
「私を好きだとは検討もつかなかった、仮に君の想い人が私ではなく、私が衝動のままにその人間を殺したとしても君は私を愛する事などない、知っているのに殺意は抑えきれなかった。それだけ君を愛しているんだ」
「そんな風に考えていたなんて知らなかった・・・」
「幻滅しただろうか?こんな男だと知って君は私をもう愛せないだろうか?」
自分の口から出た問に思わず絶望してしまう、それは嫌だ、とてもじゃないが耐えられない。彼から嫌われるのだけは今すぐここで自死してしまいたくなるほど恐ろしい事だった。
「だから勝手に決めないでってば、どんな君でも好きだよって言ったでしょう?・・・試すような事言わないの」
「それは、私の際限の無い欲を知らないからだ。君を愛しているからこそ、君には私だけを見て、私だけを想って、私と一緒に生きて欲しい。君の全てを私のものにさせて欲しい」
仕方がない、とばかりに溜め息をついたドクターの顔を見つめながら私は、彼に向かって心に抱えていた欲を流れるようにつらつらと晒す。
「私は欲深い男だ、だがそれほど君を愛しているんだ」
「・・・・・・私に欲がないなんて決めつけないで、私だってずっと君が欲しかった。ずっと好きだったんだから」
呆れ顔ではなく、心底嬉しいと言わんばかりに彼が私を見つめる。
「君を幸せにする。どうか、どうか私の唯一の人になって欲しい」
「ふふ、告白を飛ばしてプロポーズされたみたい・・・ああ、目覚めてから今までで今日が一番幸せだ」
優しく微笑む彼の姿が光輝くように見えて、私は思わず目を眇めた、重く苦しい私の恋路に長い長い夜が明けるような気持ちだった。
彼が言った言葉のどれもが夢のように幸せで、それが消えてしまうのが恐ろしくて、ドクターの細い体を私の元に引き寄せて彼を抱きしめる。
ずっと求めていた、長く側にいたいと願った人が私の腕の中に居てくれる、歓びに胸を高鳴らせたまま目線を下げれば、私の腕の中に居る彼と目が合う、まだ涙で潤んだ彼の色素の薄い瞳にただ私の姿だけが映っていた。それがたまらなく嬉しくて、何度も何度も愛していると囁き、涙の跡が少し残る頬に今度は手ではなく唇を寄せる。
そうした私の突飛な行動に、小さな悲鳴を上げたかと思うと耳まで顔を赤く染めたドクターが「心の準備が・・・」「刺激が強すぎる・・・」などと呟きながら弱々しい力で2、3回私の胸元を殴り、しばらく身悶えしたかと思うと恥ずかしそうに私の腕の中にまた収まった。
後日
仕事の息抜きにと、甲板へと二人で出かける。燦々と輝く陽光が、雲の切れ間から絶え間無く降り注ぎ私達を照らす。
歩きながらぽつりぽつりと世間話をしていたが、話題はいつの間にか私が彼を好きになったきっかけの話になっていた。
「えっ、そんなに前から私の事を?」
「ああ、伝えるのはこんなにも後になってしまったがな」
「そうか・・・いや、すごく嬉しいよ。前から君に想ってもらえていたなんて・・・」
風がごうごうと音を立て、私の外套や彼の髪をはためかせる。髪の間から覗くドクターの耳は照れているのか赤く染まっていた。
「君は、いつから私を想ってくれていたんだ?」
「実は私・・・初めて君のプロファイルを見た時に一目惚れしてたんだ。でも私達は上司と部下の関係だから気持ちがバレちゃいけないしそもそも接点なんて無いし、と思ってたら君を私の護衛に任命するってケルシーから聞かされて・・・あの時の衝撃と言ったらもう!すごかったよ」
いつか見た天災が引き起こした巨大ハリケーンみたいな衝撃だったよ、と嬉しそうにはにかむ可愛いドクターを尻目に、私は"一目惚れ"と言う言葉に驚いて目を見張る。
「そんなに前からか」
「そう、でも一目惚れした後に君を更に好きだと思った決定打があってね」
「決定打?」
「これ言ってもいいのかな?・・・・・・怒らない?」
悪戯が見つかった子供のような可愛らしい様子に、自然と笑みが溢れる。私が無言でいる事を肯定と受け取ったのか意を決したように口を開く。
「・・・前に私の能力不足で負傷者を多く出してしまった大規模な作戦があっただろう?」
「あの龍門での作戦の事か」
「そう、その作戦の後・・・自分の能力不足が悔しくて、皆に申し訳なくって執務室で泣いてしまったんだ」
「あれは君の所為ではない、君は最善を尽くしていた」
ありがとう、と彼が困ったような顔で笑いながら礼を告げ話を再開する。
「泣いてたのが夜だからかな、月明かりに照らされて私の後ろに居る人の影が見えてね」
「・・・・・・影?」
「うん、影。その影が私に手を伸ばしては引っ込めて、伸ばしては引っ込めてを5往復ぐらいしてるのが見えたんだ、結局その後触れられる事は無かったけどね」
「・・・・・・」
「君が私を慰めようとしてくれてるんだって気づいたときに、私すごく嬉しかったんだ。」
「それは・・・・・・」
「あの時はありがとう、ただ見守ってくれただけでも充分嬉しかったよ・・・ふふ、これが私が君を更に好きになった決定打」
まさかあの時の様子がドクターに知られていたなんて夢にも思わず、己の隠密行動の未熟さに思わず溜め息を吐く。
「・・・ファントムごめん!やっぱり怒った?」
「いや、君に対して怒りを感じる事など無い。ただ自分の情けなさを恥じただけだ」
「情けない部分なんてどこにも無かったよ?私はあれがとても嬉しかったんだから」
己を恥じる私を尻目にドクターが本当に嬉しそうにあの日の事を話すので、もう忘れてくれなどとは彼には言えなかった。
「ねぇ、ファントム」
「・・・・・・なんだ」
「私、出会った日から今日までずっと君が好きだよ。もちろんこれからも」
「ああ、ドクター私も君を愛してる。ずっと君だけを、君だけが私の全てだ」
突風に煽られて飛んで行きそうなドクターの手を取り、しっかりと握り締めてまた歩き出す。
その握られた手を見つめながらドクターは幸せそうに私に向かって微笑む。とろけそうな程の愛しさが胸を支配し、過ぎた幸せに頬が情けなく赤く染まる。その顔を彼に見られまいと、彼の手を引いて歩き出せば、私の意図を察してかすぐ後ろから楽しそうな彼の小さな笑い声が聞こえ、私も釣られて笑い出す。
君は私の隣に居て、手を伸ばせばいつでも応えてくれる。この幸福はどこまで続くだろうか、この温もりはいつまでも私と共に在ってくれるだろうか。
もう離さないように、何処にも行かないように、また私は強く彼の手を握りしめた。
ああ、やはり幸せは君の手の形をしている。