2話 朝日が差し込む頃、ノアは島の裏手にある洞窟の前へと向かう、その傍らには神官の姿があった。
聖騎士として認められるための試練。それは、この洞窟の最奥にあるという“聖騎士の証”を手に入れること――そう、聞かされていた。だが、その"証"が何を指すのか、誰も明言しない。
剣なのか、神聖な宝なのか、それともまったく別の何なのか――分かるのは、それを手に入れた者だけなのだろう。
そして、試練を終えた者たちは、決して"最奥で何があったのか"を同じようには語らなかった。
越えられなかった者も、同じだった。彼らは無言で洞窟を後にし、試練について多くを語ることはなかったという。
だが、その顔には、静かな恐れが滲んでいた。
まるで"何か"に直面し、自らの心に敗れたかのように――。
一方、試練を乗り越えた者たちは、口々に違うことを言う。
「光に包まれ、何かを授けられた気がする」
「自分の心を覗かれるような感覚があった」
――特訓をつけてくれた、あの聖騎士もそうだった。
「何を見たのか、よく思い出せない。が、確かに何かを得た気がする」
そう言って、朗らかに笑っていた。
「ここから先は、おひとりで進むことになります」
神官の言葉に、ノアは静かに頷いた。
剣の柄を握る手に、自然と力がこもる。
この洞窟の奥には何が待っているのか。試練を乗り越えた者たちが多くを語ることはなかった。ただ、戻らぬ者がいるという噂は聞いたことがある。
それでも、足を止めるわけにはいかない。ノアは決意を胸に、薄暗い洞窟へと足を踏み入れた。
洞窟の中は、しんと静まり返っていた。
遠くから、水が滴る音が響く。ひんやりとした空気が肌をなぞるたびに、暗闇の中に何かが潜んでいるような錯覚を覚える。
不安がないと言えば嘘になる。
今にも岩陰から魔物が飛び出してきそうな気がして、剣を握る手が少し汗ばんだ。
――前へ。
その想いだけを支えに、ノアは一歩、また一歩と歩を進める。
突然、岩陰から異形の影が這い出してきた。
長い体に短い四肢、目はなく、異様に裂けた口だけが獲物の気配を捉える。魔物はノアの存在を察知すると、血肉を求めるような低い唸りを上げた。
「……っ!」
跳びかかる魔物に対し、ノアは即座に剣を抜く。
動きこそ鈍いが、力強い顎と異常に発達した筋肉を持つこの魔物を甘く見てはいけない――そう、戦いの経験が教えてくれる。
飛びかかる瞬間、体勢が崩れたその刹那――
「はあっ!」
鋭く振り抜かれた剣が、魔物の首を断ち切った。
倒れ伏す魔物。剣に付いた血を払い、一度だけ亡骸を振り返る。そして再び、前へ進んだ。
幾度となく魔物の襲撃を退けながら洞窟を進み続ける。
やがて、ノアの前に広がるのは少しばかり開けた空間だった。
「……行き止まり?」
周囲を見渡すが、先へ進む道は見当たらない。
洞窟の岩壁にそっと手を這わせると、わずかに異なる感触が指先に伝わった。そこには、古びた紋章が刻まれていた。
ノアがためらいがちにその紋章へ触れた瞬間――
突如、眩暈に似た感覚に襲われ、視界が歪んだ。
次に目を開けたとき、そこは洞窟とは違う、光に満ちた空間だった。
『お前の覚悟を我が前に示せ……』
どこからともなく、重く響く声が届く。
「覚悟……?」
ノアは剣を構え、声の主を探した。
「あなたは何者です? 姿をあらわしなさい!」
その瞬間――空間が震えた。
中心で風が渦を巻き、次第に輝き巨大化していく。
眩い光の中から現れたのは、一頭の巨大な竜だった。
銀色の鱗が淡く光を反射し、流れる白いたてがみが風にたなびく。 その姿はどこか荘厳で、ただの猛獣とは一線を画していた。
「……これが、本物の竜……」
ノアは、知らず知らずのうちに息を呑んでいた。
竜の存在は、書物で何度も読んでいた。神話や歴史の中に記される、強大なる存在――しかし、それが目の前に現れた今、知識だけでは到底追いつかない圧倒的な現実がそこにあった。
空気そのものが変わったかのような、異質な威圧感。この世の理を見通すかのような、深い眼差し。
ノアの全身が震えた。それは恐怖ではない。畏敬――かつて触れたことのない、崇高な存在への敬意だった。
『覚悟を示し、光の力を手に入れてみせよ』
その言葉とともに、竜が翼を広げた。空気を裂くような轟音が響く。
次の瞬間――
「くっ……!」
巨体を活かした爪撃が、ノアを襲った。
反射的に剣を構え、一撃を弾く。受け止めた瞬間、強烈な衝撃が腕を痺れさせた。
「……っ!」
吹き飛ばされそうになる身体を踏ん張り、即座に反撃を試みる。
低く身をかがめ、竜の懐に潜り込むように駆ける。そして渾身の力で剣を振り上げた――が。
「なっ……!?」
鋼すら断ち切るはずの刃が、竜の鱗に弾かれた。火花が散り、次の瞬間――刃が砕け、空しく破片が舞った。
(これじゃ……傷一つ、つけられない……?)
息が荒くなる。焦燥が胸を締めつける。
『刃を振るうだけでは届かぬぞ……お前の覚悟、今ここに示せ』
だが、竜は待ってはくれない。巨竜の尾が振り下ろされる。
土が震え、空気が圧縮される。全身が本能的に危険を訴える――避けろ、生きろ、と。
だが、ノアはその声を無視した。
痛みも、恐怖も、今はどうでもいい。
前に進めるなら、それでいい。
「――たとえ剣が折れようと、私は戦う。大切な人を、この手で守るために……!!」
踏み込む。死の予感に心臓が高鳴る。だが、衝撃は来なかった。
目を開けると、竜は尾を振り下ろす寸前で動きを止めていた。その瞳は、まるで地底湖の水面のように静かだった。
『お前のその覚悟を認めよう……私の力をお前に与えよう。受け取るが良い……』
竜の輪郭がぼやけ、やがてノアに同化するように消えてゆく。
その瞬間、ノアの体を温かな光が包み込んだ。砕け散った鎧の破片が、宙を舞いながら形を変えていく。
まるで、純粋なる光の意志が、彼女を守るように――
いつの間にか身にまとったのは、白銀に輝く新たな鎧だった。
風を感じた。
周囲を包んでいた光が消え、目を開けると、ノアは洞窟の前に立っていた。
待機していた神官は、ノアの姿を見た瞬間、そっと息を呑んだ。
「……なるほど……」
変わった。目の前にいる彼女は、先ほどまでのノアではない。
その身にまとう気配――揺るぎない意志、研ぎ澄まされた存在感。もはや、言葉など必要なかった。
神官は静かに微笑み、優しく頷く。
「――見事です。あなたは、聖騎士として認められました。」
そう告げた後、ふっと表情を和らげた。
「……大変でしたね。よくここまで頑張りました。」
神官の言葉を聞きながら、ノアは静かに息を整えた。
試練を乗り越えた――確かにそうなのだろう。だが、それ以上のことを話す気にはなれなかった。
語ろうと思えば、言葉にできるはずなのに……なぜか、それは”すべきではない”と感じる。
まるで、語った瞬間に、その意味が薄れてしまうような気がして――。ノアはそっと口を引き結び
「……ありがとうございます」
ただ、それだけを告げた。それだけで十分だった。
「さあ、戻りましょう。皆があなたの帰りを待っていますよ。」
神官と共に神殿へ戻ると、ネイキッドがものすごい勢いで駆け寄ってきた。
「俺はお前なら必ずやれるって信じてたぜ!」
彼の大声を聞き、長老だけでなく祈りを捧げにやって来ていた村の者たちまで集まり、空気が割れんばかりの大きな歓声と拍手が神殿に響き渡った。
嬉しくて、少し照れくさくて――そして同時に、一抹の寂しさが胸をかすめる。
試練を乗り越え聖騎士の称号を手に入れる。それは、ノアのストーリアへの帰還をも意味していた。
潮風が頬を撫でる。
ノアは空を仰ぎ、静かに瞳を閉じた。