4話蒼穹を滑るように飛ぶ飛行艇は、陽光を受けて白銀の船体を輝かせていた。風は穏やかで、海の波紋を映すかのようにゆるやかに揺れる。潮の香りがかすかに漂い、遠くに浮かぶ小島が陽炎のように揺らめいて見えた。ノアは甲板の手すりにもたれ、眼下に広がる世界を見つめていた。
エルグランド――かつて創世神イースが天地を創り、金と銀のエンシェントドラゴンが空を翔けたと伝えられる世界。広大な海が大地を呑み込み、その波間に、世界の理を知る者たちの記憶が眠っている。この航路では、稀に水竜が優雅に泳ぐ姿が見られるとされ、それを一目見ようと多くの乗客が甲板に集っていた。
「何だ、あれは!」
誰かの叫びが、潮風を裂いた。
ざわめきが広がる。ノアも顔を上げ、視線を向けた。
遠く、黒い影が空を裂くように迫っていた。
雲ではない。
それは蠢く闇。ひとつ、またひとつと塊が連なり、瞬く間に巨大な影へと変わる。漆黒の翼がはためき、鋭い鳴き声が空を震わせる。やがて、その正体が明瞭になった。
――魔物。
それも、群れを成す無数の魔物が、飛行艇へと向かってくる。
乗客の悲鳴が弾けた。
「一体どこからこんな数が……!」
「このままでは追いつかれる!」
「エンジンの出力を最大まで上げろ!」
甲板を駆ける足音が鳴り響く。恐怖に駆られた者たちが次々と船室へ逃げ込む。だが、ノアはすでに剣を抜き、静かに息を整えていた。
心を鎮めろ。
彼女の指は柄を握り締める。
微かな震えを、剣に伝えてはならない。
若き聖騎士の後に続き、戦える者は武器を構えた。 そうでない者は必死に身を伏せ、嵐が過ぎるのを待つように祈る。
――逃げ道はない。
ならば、戦うのみ。
ノアは剣を掲げると、一歩を踏み出した。
戦いの幕が開く。
魔物の大群は暗雲のように船を包み込み、甲板へと降り立つ。咆哮が轟き、鋭利な爪が空を裂き、獰猛な牙が無差別に喰らいつく。
ノアは刃を薙いだ。
血飛沫が弧を描き、紫黒の雫が甲板を染める。
次の瞬間、魔物の一体が飛びかかった。爪が閃き、ノアは紙一重で身を捻る。剣を逆手に持ち替え、喉元へ突き立てた。
叫びが夜気を揺らす。
しかし、終わりは見えない。
次から次へと魔物が押し寄せ、甲板は混沌と化していく。
視界の端で、人々が傷つき、倒れていくのが見えた。
――どこから、これほどの魔物が?
ノアは歯を食いしばる。
だが、考える暇はない。ただ、剣を振るうことだけが生き残る術。
疲労が蓄積する。
剣を握る指が痺れ、肩が重くなる。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
紫の血に塗れた甲板の上で、彼女は戦い続けた。
そして――限界が訪れる。
膝が震え、ついに地に落ちた。
次の瞬間、魔物が金切り声を上げ、爪を振り上げる。
終わりの気配が迫る。
その時――
船体が激しく揺れ鋼鉄の悲鳴が響く。
エンジンの咆哮が空気を震わせる。
「墜ちる……!」
誰かが叫ぶのが聞こえた。 ノアは視界が傾くのを感じた。
甲板が崩れ、バランスを崩した隙を狙われ弾き飛ばされる。 暗闇が視界を覆う。
限界まで酷使された身体は、もはや動くことを拒絶していた。全身に広がる痛みが徐々に薄れ、意識が遠のく。視界が暗闇に深く沈む。
すべてが闇へと飲み込まれる刹那――
『 』
声が聞こえた。
かすかに、どこか懐かしいような、それでいて遥か遠い響き。
それは、大地を護る者たちの記憶か。 それとも、天空を駆ける龍の遺した祝福か。
ノアの胸に、微かな光が灯る。
その瞬間、光は熱を帯び、彼女の全身を包み込んだ。まるで封じられていた何かが解き放たれるかのように、身体の輪郭が揺らぎ、崩れ、変化していく。
パールホワイトの毛並みが銀光を放ち、頭部には二本の七色に輝くクリスタルのような角が生まれる。
深海のように澄んだ紺碧の瞳が、光を宿して細く変わる。
背には半透明の光の美しい羽翼が広がり、長く優雅な尾が静かに揺れた。
ノアの身体は、美しき竜へと変貌を遂げた。
意識の彼方で本能だけが働き、巨大な翼から放たれる波動が船体を包み込み、ゆっくりと大地へと導いていく。
そのまま、ノアは意識を手放したまま、飛行艇と共に最寄りのイオス大陸へと墜ちていった。
抑えきれなかった着地の衝撃が大地を揺るがせた。
飛行艇は半ば埋もれながらも、辛うじて崩壊を免れていた。船内には負傷した乗客たちの呻き声が響き、甲板では血に濡れた者たちが互いを支え合いながら立ち上がっていた。
叫び声と泣き声が入り混じり、誰もが混乱と恐怖に包まれていた。その傍らで、ノアの姿が静かに横たわる。
竜の姿はほどけるように消え、気を失った少女の身体が冷たい地に沈んでいた。
喧噪の中、漆黒の影がその傍らに降り立つ。
黒翼を持つ青年が、地に伏したノアを感情の欠片もない眼差しで見下ろした。
彼は軽々とノアを抱き上げると、その翼を広げ、陽光の下、静かに翼をはためかせると、北方へと飛び去っていった。
だが、負傷者の悲鳴と混乱の中、その姿に気づく者はほとんどいなかった。