番外編:逸風 若水ほど手放しに「好き」だとは言えないまでも、人間は嫌いではない。任務やプライベートで人間(じんかん)へ降りるのは、楽しみですらある。
館の幹部と龍游市幹部との二ヶ月に一度の定例ミーティングに随員として同行し、まだ陽が高い内に解散となった後は、上司でもあり友人でもある冠萱と買い物と食事のために地上へ残った。広い龍游の中心部に位置する市庁舎の最寄り駅から、地下鉄に乗って二駅の繁華街へ向かう。若水から情報を仕入れておいた新規開店の餐庁で遅めの昼食をゆっくりと終えてから、買い物に出た。
メインストリートの両サイドには老舗の百貨店やハイブランドの旗艦店、大型のショッピングモールが建ち並び、秋冬物の新作ファッションが溢れかえっている。街路樹が色づく葉を広げる石畳の歩道を歩きながら、メンズのディスプレイのショーウインドウを流し見ていった。
「アウターとか、別にそんなに着ないんですけどね。つい毎年欲しくなっちゃうな」
「だったら街で暮らしてみるのはどうだ? 一度も暮らしたことないんだろう?」
「それで館まで通勤ですか? うーん、そうですねえ。期間限定で暮らしてみるのもいいかなあ」
「水(シュイ)に入り浸られそうだけどな」
「人間が好きなのに、自分じゃ街で暮らさないんですよね」
笑い合った瞬間、背後から名を呼ばれた気がして足を止める。冠萱と目を見合わせ、同時に振り向いた。雑踏の中で、抜きん出た長身の人影。手を上げ、行き交う人の間を縫ってくる。
黒革のシングルライダースと白いTシャツ、チャコールグレーの細身のデニム、白いレザーのスニーカー。上背があるばかりでなく、しなやかで腰の位置の高い際立つスタイルの持ち主だ。すれ違う通行人が、あるいはさりげなくあるいはあからさまに、幾人も視線を投げていく。
「目立ってるな」
「目立ってますね」
ある意味では人間(じんかん)に完全に馴染んでいるとも、浮いているとも言える。
逸風や冠萱の親しい友人でもあり、その若さにも関わらず総本部付き上席執行人の一席を占める執行人、黒猫の妖精の小黒。人間の伴侶と共に龍游に暮らして、二年にもなるだろうか。任務でもプライベートでも顔を合わせる機会は多いが、こんな風に街中で出くわすのは初めてだ。
「冠萱さん、逸風。やっぱり」
「小黒大人」
小黒が任務であるのかプライベートであるのか判らず、敬称で呼びかけると同時に、冠萱と共にさりげなく拱手した。人間(じんかん)ではとっくに廃れた挨拶だ。しかし、目の前まで来た小黒が苦笑する。
「やだな、やめてよ。今日はプライベート。二人は?」
「うん、僕たちも。今日は幹部ミーティングでお伴だったんだ。もう終わったから、今はフリー」
「そっか、おつかれ。あのさ、二人とちゃんと会うの初めてだったよね。紹介したかったんだ。ね、無限」
『えっ』
振り向きながらの、小黒の呼びかけにぎくりとした。心の準備をする間もなく、差し伸べた小黒の手に促されて、長身の影からもう一つの人影が現れる。小黒より十センチほど身長の低い、二十代半ばの風貌の青年。ブルーグレーのアラン編みのカーディガンとヘザーグレーのハイネック、ライトグレーのデニム、ベージュのアンクルブーツ。長い髪は三つ編みにして、肩から前に流してある。
「っ」
冠萱と同時に息を呑んだのは、その人物の容姿のためだ。
六年前に一度顔を見ているとはいえ、その折は照明を落とした部屋で瞼を閉ざして眠り込んでもいれば、逸風も冠萱も極力視線を逸らしていた。
明るい街の中で見る無限の、その美貌。
白磁の肌、意志的な眉と碧い眸を浮かべた大きな二重の目、通った鼻筋に小さな鼻、描いたような唇は花の色を映し、綻ぶ直前の蕾のように柔らかそうだ。なにより、一つ一つがそれだけで美しい造形が、神仙の業であるかの如き類い稀なる絶妙さを持って、顎の小さな卵形の面輪の中へ配置されている。美形なら妖精たちを散々に見慣れている目を、抗いがたく奪われた。
しかし即座に、逸風の脳裏を六年前の事件の記憶が過ぎる。任務とはいえ、問答無用に小黒と無限を引き離し、無限からは記憶さえ奪った。なにより逸風はもう一つ、小黒に永遠に恨まれても文句の言えない行為を行っている。一気に血の気が引いたが、顔に出ていないことを願うばかりだ。小黒の方はどう思っているのか、少しも屈託がない。
「紹介するね。僕のパートナーの無限。無限、冠萱さんと逸風。僕の友達で、仕事の仲間」
小黒の言い回しで冠萱と逸風の正体を察したのだろう。固まる二人へ、無限が微笑んだ。
「您好(はじめまして)、無限です。うちの子がお世話になってます」
「您好、冠萱と申します。小黒大人は優秀な方で、大変助けていただいております」
「您好、逸風です」
さすがと言うべきか冠萱は動じる素振りもないが、逸風は短い挨拶を噛まないように精一杯に気を遣った。
「だからさ無限、その『うちの子』ってのさあ」
「じゃあどこの子だ」
「無限ちの子だけど……っと、あっ、ごめん、呼び止めて。挨拶したかっただけなんだ。じゃあまた、館で」
「ああ、また」
無限と肩を並べて離れていく小黒に冠萱が微笑み、逸風はその隣で手を振る。
遠ざかる二つの背中を見送って、大きく息を吐き出した。
「行こうか」
苦笑いする冠萱に促されて、再び歩き出す。
「……ちゃんと見たの初めてですけど、すっごい綺麗な人ですね、無限さん。人間であんな人、居るんだ」
「ああ、驚いた。自慢したかっただけだな、あれは」
「ですね。気配も凄かったですね」
「仙の器だって聞いてたけど、修行もしてなくてあれなら修行したら執行人にもなれそうだ」
霊力の強い小黒と精を交えているためもあるのだろうが、ぼんやりと薄い普通の人間の気とは違い、強く明確な輝きと清浄な秘色の光彩を持つ、その容姿同様に稀有の気配。容姿以上に無限がいかに特別な存在かを、声高に教えている。むしろその真価は妖精と神仙でなくてはわからない。
小黒と無限の取り合わせと相対する緊張感から解放されて、もう一度息を吐いた。
「でも紹介してくれる気、あったんですね。館に居た頃はスマホの画像も見せてくれなかったんだよなあ。これもう永遠に恨まれてて、腹の中じゃ赦してくれてないやつだってずっと思ってましたよ」
「小黒と仲良いじゃないか。あの時のことは任務だったし仕方ないってわかってくれてるだろう?」
「任務だったからって、わかってはくれてますけど。でも僕は、無限さんの裸見ちゃってるんで」
「…………………ああ」
返事が戻るまでのたっぷりの間に、眉を寄せた。
「その間、やめてください」
「うん、いや……今までエグい任務もそれなりにあったけど、小黒のあれはなかなか」
「わかります。ワースト上位ですよね」
二人の間に沈黙が落ち、冠萱が六年前のあの夜を反芻しているのがわかる。
業務も任務も全て中断し、直ちに転送の間へ集まるようにと館の一部の執行人に招集がかけられたのは、六年前の蒸し暑い夏の昼下がりだった。非番だった逸風もまた、事情も誰が招ばれているかもわからぬまま転送の間へ向かう。
待っていたのは、館長である潘靖とその側近である冠萱。逸風が真っ先に着き、続けて若水や鳩老を始めとする執行人たちが、やはり事情のわからぬ表情(かお)で入ってきた。何事が起きているのかと言を待つ執行人たちの前に潘靖が立ち、いつもと変わらぬ、冷静な態度で口を開く。
「皆、急にすまない。龍游に危険が確認された。小黒を迎えに行ってほしい。冠萱が指揮を執る」
小黒。
館の執行人たちに共有されている名だ。
龍游で人間に育てられている、ひとりぼっちの妖精の仔。
同じく龍游でフラワーショップを営む花精の紫羅蘭から館へ届けがあったのは、半年も遡る冬の頃だった。珍しい事例ではあったが、探査に優れた執行人を派遣して人間と妖精の二人暮らしが穏やかに営まれているのを確認し、紫羅蘭から「友人として少しずつ妖精について教える」との申し出を受けた上で静観する方針が立てられた。決して紫羅蘭に任せきっていたわけではなく、手の空いている執行人が入れ替わりながら小黒の様子を確かめには行っている。
それを急遽迎えに行けとは、何事が起きたのだろうか。小黒に危険が迫っているのか、それとも小黒自身が危険であるのか。小黒には金属性と転送の空間属性とが確認されているが、修行もせずに使える術でもなければ、なにかの間違いで発動したところで執行人が一人居れば片手で対応できる。大袈裟に、人数をかき集める必要はない。
誰しもが抱いただろう疑問に、冠萱が潘靖から説明を引き継いだ。
「後は私から説明するよ。小黒に霊域が二つ有ったんだ。空間属性を二つ持ってる。転送の他に領界があるらしい」
「領界? 霊域が二つだって? 間違いじゃないのか」
口を挟んだのは、小黒の属性を見立てた鳩老だ。
「間違いであってくれたら助かるんですけどね」
冠萱の返答に、場がざわついた。
霊域を二つ持つだけでも徒ならぬ上に、領界の術者。名は知っているが、この数百年は実際に目にしたと聞かない、極めて珍しい術だ。同時に、極めて危険な術でもある。発動すれば術者以外は解除できず、展開した領域一帯が術者の完全な支配下におかれる。使いこなせずとも、むしろ使いこなせなければ、より危険が高まると言えるだろう。まかり間違って龍游の街中で発動すれば、術者本人を含めた誰にも対処が出来ぬまま、内側に取り込んだ人間たちを領界の中で死なせかねない。そうとなれば本人に悪意があろうとなかろうと、現在の人間と妖精の危うい共存のバランスを負の方向へ大きく崩す結果になる。
己をろくに知らぬまま人と共に人の街で暮らす仔猫の妖精が、極めて特異な性質の持ち主だと誰が思っただろうか。
冠萱が、説明を続けた。
「小黒が領界を持ってるのは少し前にわかってね。こちらから無理なく接触するための計画を立ててたところだったんだ。でもつい先刻(さっき)、状況が変わった」
「えっ、どんな」
思わず訊き返すと冠萱が一瞬眉を寄せ、しかしすぐに平静な表情に戻る。
「皆には任務上必要な情報として伝える。小黒は身柄を確保した後は館で暮らすことになるから、この先は他言無用だ。一緒に暮らしてる人間と情を交わしたんだ。人間といっても、相手は仙の器の持ち主らしい。精を交えて、二人の結びつきと霊力が強くなってる。どちらかに何事かあった時に、術が簡単に発動しかねない。身を守ろうとするなら、領界が発動する可能性が一番高いと思う。だから小黒を保護しに行く」
与えられた情報をそれぞれに咀嚼しつつ、執行人たちが無言で頷いた。
つまりこれから、想いを確かめ合ったばかりの情人(こいびと)たちを引き裂きに行く。