非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(3)【黑限】 転送門で、龍游中心部に位置する会館の地上オフィスへ転送される。待っていたオフィスの責任者に車に乗せられ、送られた先は車で20分ほどの五ツ星ホテルだ。チェックインは済ませてあると言われてフロントで別れ、心得たようなベルボーイと代る。エレベーターは最上階で止まり、ソールが沈むカーペットの敷かれた廊下の突き当たりの部屋へと案内され、ベルボーイが恭しく開いたドアの内側へ入った。
「おっ、スイートじゃん。さすが師父」
一目では部屋数もわからない広さのスイートは、首席執行人である無限に相応しいよう手配されたものだろう。紫檀と黒の落ち着いたトーンで統一された、モダンシノワズリの品のいいインテリアで設えられている。無限を促し、さっそく室内を見て回る。
100インチのテレビと倣古の重厚なテーブルセットが置かれたリビングにはキッチンを備えたダイニングと書斎が隣接し、ベッドルームはツインとシングルがそれぞれ1室、シャワーブースが別になったバスルームの浴槽は広々として、トイレと洗面台はそれぞれ独立している。
「いいね、ここ。うちより広いかも」
返事を期待して話しかけ、後ろに立つ無限が自身の無限ではないことを思い出す。
「あ、えっと、ごめん、疲れたろ。とりあえず休もっか」
小さく顎を引いた無限とリビングへ戻って、ソファに座らせた。ミネラルウォーターを注いだ電気ケトルをセットし、残りをグラスに注いだ。
「お湯沸かしてるから、あったかいのはちょっと待ってね。色々買い物も行かなきゃな」
受け取ったグラスを口に運び、自分には関係のない独り言ととらえているのか、無限はどこかぼんやりとしたままだ。
「疲れた? 寝る?」
突然電池切れを起こすと、逸風の説明を思い出す。
「……いす」
「ん?」
「椅子がふかふかしてる」
「ああ。ソファっていうんだ。そっか、昔の椅子ってみんな木だもんな」
顔を上げて、無限がカーテンウォールの外へ視線を向けた。山間に忽然と出現する大都会・龍游の都心部が眼下に広がり、水蒸気の尾を引く旅客機が高く秋の空を横切っていく。
「あんなに高い石の塔が、たくさん建ってる。あれは大きな鳥? 妖精?」
「あれは飛行機。乗り物だよ。人が乗ってる」
「乗り物? でも空を飛んでる」
「そうそう。空を飛ぶ乗り物」
「乗り物……空を飛ぶ……?」
「うん。すごく速くて、海の向こうだって朝出て昼に着いちゃうよ」
「速かった、ここに来る時に乗った乗り物も。馬よりずっと速くて、馬も牛も引いてないのに動いてた」
「あれは車。他にもさ、いっぱいすれ違ったろ。自転車とかバイクとか」
乗り物に子供らしい興味が向いたかと、それで少しでも気が紛れるならと思ったが、そうではないらしい。
「……未来(のち)の世なんだ、ここは、本当に」
手にしたグラスへ、無限が静かに視線を落とす。
「っ」
ほぼ無限専用の龍游会館最頂楼の貴賓室は、何百年前も以前に作られた当時の家具がそのまま置かれている。あの房間では感じなかった違和感を、コンクリートとアスファルトと金属の光景に感じているのだろう。俯いた美しい顔に表情はないが、ただ一人小黒だけが読みとれる感情がそこにある。
「無限」
ソファに座る無限の足元へ跪き、膝の上で握りしめられている手を取った。
「俺が元に戻す。絶対戻すよ。信じて」
願いと祈りをこめた真摯な言葉に少年の目が見開かれ、唇がごく緩やかな弧を描く。
「小黒は優しいんだな。さっき会ったみなも。大きな妖精は怖いのかと思っていた」
「えっ、怖くないよ 大きな妖精? って?」
「小さな妖精は可愛らしくて時々一緒に遊ぶけど、大きな妖精は近づいてはいけないって、いつも乳母やに言われている」
「乳母や」
無限が普通の人間としての生を送っていた時代は妖精が妖精として人間(じんかん)に暮らしていたと聞いているが、翻って当時の無限自身については漠然としか知らない。思いがけないやんごとなき単語を鸚鵡返しにしたが、無限は理由を尋ね返されたと思ったらしい。
「うん。大きな妖精には攫われてしまうからって」
「ああ。あ~。そうだな、そうかも」
共存の道を探りながら、妖精たちの意識も人間の社会の変化に合わせて柔軟にブラッシュアップしていっている。人間の社会がもっと荒れていた時代には、妖精たちももっと本能に忠実に生きていたはずだ。この美しい少年を目の前にすれば、千差万別の理由で我が物とにせんとする妖精は多かっただろう。そこまで考えて、気づく。
「あっ もしかして俺が攫ったとか思ってる」
「よくわからない。でも返してくれるんだろう?」
「正直だね 戻すよ、俺、絶対戻すから! 攫ったんじゃない、ほんとに」
慌てて否定する背中に、キッチンからばちんと何かが弾ける大きな音が聞こえて、沸かしていた電気ケトルを思い出す。
「お湯沸いた。待ってて」
見るともなく外へ目を向けた無限を置いて、キッチンへ戻った。作り付けの棚にはマグカップと一緒に紅茶とコーヒーが置かれているが、幼い無限にはカフェインが強いだろうか。結局砂糖湯を作って、自分のコーヒーと一緒にリビングへ運んだ。
『買い出し行かなきゃな』
着替えや、子供の喜ぶ食べ物や飲み物も必要だろう。
「おまたせ。はい」
「謝謝您(ありがとうございます)」
礼を言って受け取ったマグカップは無限の手に大きく、折っていた袖を戻して手を包み、落とさないようにと熱いカップに添えて両手で支えた。口を寄せて、カップに半分ほどの砂糖湯にふう、ふう、と音にならない吐息を吹きかける。
『うあー、かっわいいいいいいいいいいいい~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!』
胸を押さえて踞りたい衝動を堪えて、いたって平静な笑顔を向けた。
「ごめん、熱かった? 少し冷ます?」
「大丈夫だ。自分で出来る」
静かに傾けていくマグカップの縁から一口中身を舐めて、無限の顔が輝いた。
「甜い」
「砂糖湯でごめん。ココアとか作りたかったんだけど、置いてなくて」
「ここあ?」
どんな物かは分からずとも、文脈で美味い物と判断したのだろう。無限が興味津々に繰り返す。
『さすが食いしんぼ』
本質はなにも変わっていないと、愛おしくも可笑しい。
「うん、ココア。無限の服とか買わなきゃいけないし、その時に一緒に買おうか。美味いから無限に飲ませたい。あとは無限が欲しい物。なんでも」
「欲しい物……は……」
言いさして、口を噤んだ。
「小黒、さっきの」
「ん?」
「小黒が、私を攫った話」
「いや攫ってないからね」
「私は」
ふと言葉が切れ、無限の手からマグカップが滑り落ちる。
「!」
極太から細みのものまで太さにバリエーションをつけた複数のバングルとリングとして身に着けている金属の、太さと厚みのある右手のインデックスリングを飛ばしてカップを保持し、前のめりに倒れてきた無限の身体を受け止めた。
「師父」
素早くも慎重に小さな身体を起し、瞼を閉ざしている無限を注視する。
すう、と聞こえてきた先ほどとは違う深い呼吸の音は、寝息だ。
「へ」
薄い胸がゆっくりと上下し、穏やかな呼吸が繰り返される。
「はあ~~~~~~~~~~~」
安堵に一気に力が抜けて、無限を抱えたまま毛足の長いラグへ臀を落とした。背筋を冷たい汗が流れ、自身の顔と手もまた冷たくなっているのを自覚する。
「なんだよも~、電池切れって」
逸風から聞かされていたが、こんなにも唐突なものとは思いもしなかった。
『時間』
スウェットのポケットへ突っ込んだスマートフォンを取り出して、時間を確かめる。午前10:00を回ったところだ。
『さっき寝ちゃったの、8時くらいだったよな』
おおよそ、2時間。活動量か時間の経過か、電池切れに規則性があるなら、より無限に注意を払ってやれる。
「ふう」
無意識に溜息を吐くと無限を抱えたまま苦もなく立ち上がり、ベッドルームへ運んだ。体重を柔らかに受け止めてくれるマットレスと肌触りのいいシーツで調えられたベッドに寝かせ、その横に腰を下ろす。無限の寝顔は健やかに心安く見えるが、実際には子供の精神(こころ)と身体の内側でなにが起きているのだろうか。起きてから、まだたった4時間しか経っていないとは信じられない気分だ。
『なんか……賢いっつーか落ち着いてるよな。師父だからかな』
人ならざる身として人の子の心情は想像するしかないが、この幼さでこんな風にすんなりと状況を受け入れられるものなのだろうか。
『小白だって初めて会った頃から相当肝据わってたけど、こんなんなったら絶対「帰りたい」ってギャン泣きだったろうし』
あるいは妖精がまだ人と身近だった時代には、少々の不思議は当たり前のものだったのだろうか。
『そうだ、小白たちにも電話しなきゃ』
幼馴染みで親友の小白と山新の2人はそれぞれに実家を出て、同じあの街でルームシェアをしている。頻繁に連絡を取り合って互いのマンションを行き来もすれば、待ち合わせて食事もする。黙ったまま長期の不在は、心配させるだろう。
『早く老君から連絡来ないかな』
眠る無限の頭を静かに撫でたタイミングでスマートフォンが着信を告げ、疚しいことなど一つもないが、見ていたような不意打ちに思わず取り落としけかた。
「っわ、と」
液晶に表示された名前は若水。冠萱が連絡を取ってくれたのだろう。
「喂」
「小黒? 私。今部屋の前に来てるから開けて」
「えっ、マジで? はやっ。ちょっと待って」
通話を切って立ち上がり、尾の一振りで黑咻を2体呼び出した。
「師父見てて。なにかあったらすぐに俺呼んで」
1体は付添いのため、1体は連絡要員だ。
「ショッ!」
「ハイン」
無限を守るように胸の上と枕元に陣取って、黑咻たちが嬉しそうに返事をする。
広いスウィートを横切って入り口まで迎えに出た若水は変化でいつもより身長が高く、オーバーサイズのアイボリーのニットに淡いピンクのデニムのスキニーと足下は白のデッキシューズ、狐の耳も尾も隠した姿は十代半ばの人間の少女そのままだ。
「来てくれたんだ、ありがと。任務中だったんだろ?」
「無限さまの一大事って聞いたから後処理は鳩老に頼んで私だけ先に来たの。容疑人の護送に行って、ちょうど帰ってきたところだったんだ」
「そっか。えーとさ」
唇の前に人差し指を立てて、声を潜めてほしいとゼスチャーする。
「師父の一大事って、内容聞いた?」
「聞いた。無限さまがちっちゃくなっちゃったんでしょ? どこどこ?」
「今は疲れて寝てる。いやあのさ、見た目だけじゃなくて中身も。子供に戻っちゃってるんだ」
日頃と変わらず明るい若水に、どこまで話が伝わっているのか不安になる。
「中身? 子供?」
「うん。今の師父は450年前の人。本人は8才って言ってて、数えだから6才か7才かな」
「そうなの? 小黒が手が欲しいかもしれないから早く行って、話は直接聞けって言われて……じゃあ小黒のことも覚えてないの?」
「覚えてないっていうか、最初から知らないっていうか」
苦笑いするが、若水は眉を顰めた。
「そうなんだ。小黒、大丈夫?」
「ん? う~ん……うん。なんかまだ、そこまで考えてらんない」
「そっかあ……」
若水に問われて、初めて気づく。
異種族の赤の他人に取り巻かれている稚い無限のメンタルばかりが心配だったが、小黒自身も情人(こいびと)に完全に忘れ去られている状態だ。目の前に居ても、今の無限には手が届かない。
「それで、なんでそうなっちゃったの? ごめんね、なんか皆せかせかしてて、ちゃんと話聞けてなくて。もしかしなくても、おおごと?」
「ああ、まあ、せかせかもするよね。ごめん、立ち話で。中入ってよ」
「じゃあ失礼しまーす」
室内へ入った若水が、ぐるりと一周首を巡らす。
「さすが無限さま。すごいね、スウィート。私の部屋より全然広い」
「この立場の人がいきなり消えちゃったってことなんだよなあ、今。ソファどうぞ。紅茶でいい?」
「うん、ありがと。あとこれ、逸風から預かってきた。渡せばわかるからって。説明も入ってるって」
若水が肩に掛けているキャンバスのトートバッグを下ろし、そのまま丸ごと渡される。転送される時に駆け込みで一服分を渡された薬の追加だろう。
「ありがと。そうだ、薬も煎じないとな。怒られるかな、こんなとこで煮たら。霊域かな~」
若水に聞かせるでもなく独りごちると、下から案じ顔が見上げてくる。
「ね、ほんとに大丈夫?」
「なんで?」
「顔、すごく疲れてる」
「いや」
反射的に、顔に触れる。
妖精界に対しての大きな秘密である無限の不在とその対応・対策、翻って身近でささやかながら、一つずつ潰していかねば日々が立ちゆかなくなる身の回りの日用品の準備や無限の体調の管理、あるいは生薬をどこで煎じるかなどといった些末なことまで、4時間前に突然降って湧いた無数のタスク。体力にも実行力にも手際の良さにも自信はあるが、常ならばそれを笑いながら一緒にこなしてくれる大切な人がこの世界に居ない。幼い無限も本質的に無限以外の何者でもないが、それでも「小黒の無限」ではない。同じ時間と記憶を共有し、想いを分かち合うその人ではない。
『師父』
この世界にたった一人の恋しい人が、同じ空の下のどこにも居ない。
それが、あまりに重くのしかかるストレスになっていると、ようやく自覚した。
「いや、全然大丈夫。お茶淹れてくる」
笑顔を作って若水に背を向け、トートバッグを抱えてキッチンへ入った。
『まだたった4時間だし、老君にだって本部にだって連絡取ってるところだし、もしかしたら日本に訊かなくたって元に戻せるかもしんねーし』
400年前に跳ばされたあの時、目の前で小黒を見失った無限も同じ気持ちだったのだろうか。
『師父……師父なら』
出会ってからずっと背中を追い続けている師であれば、どうするだろう。
問わずとも知っている。
小黒を探し、止まらずに動き続け、取り戻す術を見出して命がけで迎えに来てくれた。
『俺も』
まして、無限ならば目の前に居る。力を貸してくれる者たちも居る。必ず、元に戻す。
「ハイン」
相槌を打つように、頭の上へ黑咻が現れた。
「ショッ、ショッ」
「師父起きた?」
「ハイン」
「わかった、ありがと」
マグカップにティーバッグでお茶を淹れ、ソファの若水に渡す。
「師父起きたみたいだから、ちょっと見てくる」
「うそっ! ちっちゃい無限さま私も会いたい!」
「一緒にこっち来るから待ってて」
鼻息荒く目を輝かせる若水に苦笑し、ベッドルームへ戻った。大きな窓からいっぱいに射す明るく暖かい陽射しを浴びて、無限がベッドの上に身を起こしている。揃えた掌の上で機嫌良く弾んでいる黑咻を、楽しげに見下ろしていた。
「起きた?」
「うん」
思いがけず向けられた愛らしい笑顔に、胸を鷲掴みにされる。
『うわっ』
目を細めたくなる眩さは、無限の髪や肌の上を滑る陽光のためばかりではない。
「黑咻気に入った?」
「可愛い、この子。さっきはもうひとり居た。小黒の友だち?」
「もうひとりはここに居るよ。無限が起きたって教えに来てくれたんだ」
頭の上の黑咻を指差す。
「こいつらは俺の友だちじゃなくて俺の尻尾」
「尻尾?」
「ほら」
顕わした長い尾を軽く振り上げた先端に、小黒の頭の上の黑咻が融合した。
「わ」
薄く口を開いた無限の前で、そのまま小黒自身も猫の姿へ戻った。そのまま、無限の膝へ飛び乗る。
「そんで、これが俺の真実(ほんとう)の容(かたち)」
本来の姿に戻るとなお強くなる感覚に、無限の匂いと体温が懐かしい。抑えきれずにゴロゴロと咽喉を鳴らしながら、無限の薄い胸へ頭を擦りつける。無限が、耳と耳の間から首筋を通って背中までを撫で下ろしてくれる。
「猫」
「うん。こんな風にもなれるよ」
無限の膝から跳躍し、大猫に変化しながら床へ降りた。天井までいっぱいに、自身の身体でみっしりと空間を埋める。
「は」
小黒を見上げて息を呑んだ表情に怯えさせたかと慌てかけたが、白い目元を火照らせて、無限が発したのは感嘆だ。
「すごい……大きいな。ふかふかだ」
ベッドから手を伸ばして、小黒の身体に触れる。
「ねえ、小黒。まだ会わせてくれないの?」
入り口からの声に振り返る。さして時間は経っていないが、2人がしばらくリビングへ戻りそうもない空気を察したのだろう。若水が立っていた。
「ごめんごめん。無限、俺の友達だよ。妖精の若水」
応じるように、若水が小黒の小山のような身体の横から顔を出す。
「っ」
息を呑む音が聞こえて、長い毛皮の少女の手に握りしめられた。
「~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!」
若水が声に出さずに悶えている気配が伝わってくるが、まったくの同感だ。無限を驚かさないように叫び出さずに堪えてくれていることに、感謝の念さえ湧いてくる。
「ふぅ。你好(はじめまして)、無限。私、若水。水(シュイ)って呼んでね」
さすがは訓練された執行人というべきか、一息吐き出すと無限の傍らに立ち、若水が澄ました笑顔で語りかける。自己紹介を終えると、十代半ばの人間の少女の姿から元の姿へ戻った。大きな狐の耳とふっさりと豊かな尻尾に、無限がどこか嬉しげに瞬く。
「ちっちゃいけど、水は力持ちなんだ。もしかしたら俺が仕事の時に時々代わってもらうかも。あっ、でもなるべく俺が一緒に居るよ」
今の無限にはどちらも同じ赤の他人の異種族だが、小黒自身の心情のためにそう付け加えた。黙って聞いていた無限がベッドを降り、ほとんど身長の変わらない若水に拱手する。
「您好(はじめまして)、若水。無限と申します。よろしくお願いいたします」
「あっ、えっ、はいっ、よろしくお願いしますっ」
年齢に関わらぬ折り目正しい挨拶に、若水が背筋を伸ばして拱手を返した。ちらりと見上げてくる表情を見なくとも、若水がなにを考えているかはわかる。
『賢いししっかりしてんだよな~。俺同じくらいの時、全然こんなじゃなかったよな』
むしろ小黒の知る無限の方がよほど天然な、と思う腰の辺りで着信を告げるメロディが流れはじめた。
「スマホ鳴ってない?」
「うん」
大猫からするりと人の姿に戻って、スウェットの尻ポケットに突っ込んでいるスマートフォンを取り出す。冠萱かと思えば、館長である潘靖自らの連絡だ。若水に目顔で合図して、リビングへ戻りながら話を聞く。曰く、諦聽が再び日本へ遣いに立ってくれているらしい。横浜までは、彼の地の中華街に設置されている転送門で転送できる。
「それがな、あちらの方々は年に一度、今の時期の1ヶ月間は出雲という街に集われるらしい。横浜から新幹線を使って半日かかると言っていた。返事はもうしばらく待ってくれ」
「わかった、ありがと」
「無限さまは?」
「さっきまでまた電池切れで寝てた」
「そうか。くれぐれもよろしく頼む」
「それ、言われるまでもないってやつ」
「そうだな。また連絡する」
「うん、謝謝(ありがと)」
通話を切って、大きく息を吐き出した。突然子供の姿になっていたように突然元の姿に戻る可能性も捨ててはいないが、再度の連絡を待つほかはない。ベッドルームでは、無限と若水が黑咻と遊んでいた。若水に、屈託無い笑顔を向けられる。
「おかえり」
「うん」
2人の傍らへ歩み寄り、無限の前へしゃがむ。
「あのさ、俺と一緒に買い物行く? それとも、疲れちゃった?」
目を覚ましたら一緒に買い出しに行くつもりでいたが、小黒にとってもそうであるように、まして無限にとってはなおさら目まぐるしいだろう。若水が居るのなら、護衛を頼んで1人で街へ出るべきかもしれない。小黒を見つめて、無限が髪を揺らしながら小首を傾げる。
「無限の欲しい物も、言ってくれたらちゃんと買ってくるし。黑咻と水(シュイ)と待ってる?」
「小黒と一緒に、街に行きたい」
思いがけずきっぱりとした、たったそれだけの言葉が思いがけないほどに。
小黒を、泣きたい気分にさせた。