非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(5)【黑限】 無限が目を覚ましたのは1時間後だ。
寝ているからといって置いて出る気にはならず、猫の姿に戻って無限に寄り添い、微睡みながら首元に丸まっていた。
「ねこ」
呟きが聞こえて背中を撫でられ、無限が起きたと知る。大きく伸びをして足の先から尻尾の先まで万全にストレッチして、ベッドから飛び降りながら人の容に変化した。もぞもぞと無限が起き上がり、小黒を心許ない顔つきで見上げてくる。
「起きた?」
「ん。厠所(かわや)に行きたい」
『そういえば』
無限は朝から一度もトイレへ行っていない。人の子たちの間で暮らした日々から時間が空いて、気にもしていなかった。遠慮していたのか、それとも水分が足りていないのか。
「こっちだよ」
無限をトイレへ連れて行き、ウォシュレットの使い方を教える。初めてあからさまに驚いた表情(かお)を見せたが、そうでもあろう。無限が用を足している間にキッチンへ行き、湯冷ましを作るために湯を沸かす。しばらくして水の流れる音が聞こえ、狐につままれたような顔の無限がキッチンへ入ってきた。
「ちゃんと使えた?」
「うん」
『俺も』
初めて人間のホテルに泊まった夜を思い出す。興味の赴くままに水場をいじり回してびしょ濡れになり、エアコンが快適に効いている部屋でマットレスのベッドに寝た。悪い奴じゃないけど、良い人でもない。そう言い放った幼い自分を、懐かしく微笑う。
「はいこれ、湯冷まし。咽喉乾いたろ、ごめん」
「咽喉?」
疑問形で受け取ったマグカップを口へ運び、一口飲んだと見るや息も吐かずに空にしてしまった。
「本当だ。乾いてた、咽喉」
他人事のような口ぶりに笑ってしまうが、目まぐるしさに乾きを覚える暇もなかったのかもしれない。
「もっと飲む?」
「うん」
再度半分まで湯冷ましを注いだマグカップをゆっくりと傾けていく無限を見守る。このまま部屋で休ませてやるべきとも思うが、当初の目的だった買い物が果たせていない。食べ物だけならコンシェルジュに頼めばいいが、服はそうもいかないだろう。
「あのさ、無限。疲れたと思うんだけど、ちょっとだけ買い物行っていいかな。着替えと食べ物」
「食べ物。行く」
間髪入れない返答に、また笑う。小黒の無限は食い道楽も着道楽も相当なものだが、この歳の頃はやはり食い気ばかりらしい。
「でも自分で歩く。抱っこばっかりで、脚が萎えそうだ」
「うーん。じゃあ明日からは考えるから、今日は俺に抱っこされてて」
「本当に?」
「本当。約束する」
なにより、明日になれば無限が元に戻る方法もわかるかもしれず、あるいは一晩寝て起きれば霊果の効能が解けているかもしれない。
「……わかった」
「謝謝。そうだ、念のためにこいつらも」
無限の片手に二体揃って乗るサイズの小さな黑咻たちを、尻尾を振って呼び出す。
「ハイン」
「ショッ」
「ちっちゃい」
「外だからね。無限の髪の中に隠しておいて」
「髪?」
「ハイン」
顎の長さで揺れる藍い絹糸の髪の中へ黑咻たちが入り込み、くすぐったげに無限が笑う。
「あったかい」
「お守り代わり。じゃあ行こっか」
抱き上げた途端に無限が笑顔を消し、ふいとそっぽを向いた。
秋の日はすでに黄昏を迎え、街路樹と空が同じ彩に街を染めている。
夕刻が近づいて人通りの増えた中を、歩いて数分の大型ショッピングモールへ向かうが、行き交う通行人が増えた分だけ無限へ向けられる視線も増えた。
「ほら。みんな見てる。下ろしてくれ」
「無限はさ、住んでるとこで人に見られたりしなかったの?」
430年前で出会った若い無限はどうだったろう。あの時はただ夢中で、周囲の反応など気にしていなかった。
「誰も見たりしない。余所から人がくれば気にするが、村の人たちはみんな知り合いだ」
「あー、なる。でも今日は抱っこしててもいいって言ったじゃん。明日からは考える」
「……」
不満げではあるが、約束は約束らしい。
『ちっちゃい時は律儀だったんだ』
長じた無限は嘘も方便として悪びれず、必要があれば約束も破る。元に戻れることが大前提とはいえ、無邪気な子供の無限を知れたのは小黒にとってはむしろ僥倖だ。
「ここだよ、地下におっきいスーパーもあるから食べ物も買ってこ」
信号を渡った目の前に、一区画を占める広いショッピングモールが現れた。石畳と噴水の開放的なアプローチを奥へ進み、良く手入れされた観葉植物が青々と茂るグリーンウォールと水の流れを閉じ込めたアクアウォールで設えられたファサードから、自動運転のガラスの回転ドアを通り抜ける。吹き抜けになったエントランスフロアの通路の中央には、緩やかにうねる小さな流れと伝統的な意匠の組格子の手すりを備えた木の遊歩道が設えられ、その周囲には天然の樹木が配されている。公園とも見紛う開放的な空間の上空には、連絡通路やエスカレーターがアートの趣で縦横に巡っている。
「ちょっと、ささっと服買っちゃうね。そしたら食べ物買いに行こ」
まずは上質な子供服が揃う3階フロアへ上がった。広大なフロアの半分にベビー服とベビー用品やマタニティの関連商品、残りの半分に子供服や子供向けの商品・玩具が取り揃えられている。子供の頃に無限と一緒に何度か訪れたが、そもそも時装には疎い無限が誰に聞いてきたのだろうか。
「俺が選んでいい?」
「なんでもいい」
さすがにこの場所ならばと無限を下ろし、ブランドごとに区画分けされた一角で、シンプルなデザインのハイネックニットを手に取った。薄手の柔らかく上質な手触りはカシミアだろう。試着のための声をかける前に、若い女性のショップスタッフが来た。
「お嬢様の服をお探しですか? あら、小さいのにお綺麗なお嬢さま」
後半は、思わず口に出てしまったといった呟きだ。
「美少女でしょ。でも男の子なんです」
「えっ……申し訳ありません、失礼いたしました」
「どういたしまして」
表情を変えない無限がどう思っているのかは知れないが、店員の慌てた謝罪にはほかに答えようもない。
1時間昼寝をしていたからと油断していたせいで、件の2時間のスパンで眠りに落ちた無限が危うく売り場で倒れそうになったアクシデントもありながら、下着とナイトウェア、トップスとボトムをそれぞれ数着、ライトアウターから靴までの一式を短時間に手際よく買い揃えた。大量の荷物は人気のない場所で霊域に放り込んで、ようやく地下へのエスカレーターに乗る。
「さっき」
「ん?」
ワンフロアの天井が高いせいで、3階とはいえ実質5階層分に相当する吹き抜けを恐れ気もなく見下ろし、ぽつりと無限が口を開く。
「女性(にょしょう)と間違えられただろう」
「ああ、うん。ごめん、気にしてた?」
大人の無限も古装やオーバーサイズの服を着ている時は頻繁に女性に間違えられるが、今さら気にもしない。
「気にしてない。私はよく母さまに似ていると言われるから、やっぱりそうなんだと思って」
「へえ」
「さっきも厠所で驚いた。壁が全部ガラスになっていて、あれは鏡なのか? 私の顔が母さまにとても似ていた」
「え、自分の顔見たことなかったの?」
「川や水面に映るからなんとなくは知ってた。でも、あんな風に見たことない。この世界はガラスがたくさんあるから、時々私の顔が映って少し気になってた」
では、ホテルのトイレから出てきた時の狐につままれた表情は、ウォシュレットよりも鏡に映った自分の顔に驚いていたものか。
「じゃあ無限のお母さんって超美女なんだ。お父さんは? お父さんもイケメン……じゃなくって男前?」
「父さまは大きくて腕や胸に毛がたくさん生えてて力持ちですごく優しくて、熊みたいな方だ」
「熊??」
「武術は苦手だって仰ってたけど、父さまはとても賢くて、19才で探花になられたんだ」
「探花って、科挙で三番目の成績で合格した人だっけ?」
「うん」
「すごいね。科挙って合格するだけでもめちゃくちゃ大変なんだろ。じゃあ役人なんだ?」
ふと、この会話の登場人物たちが、無限に従って毎年清明に訪う墓に眠るその人たちであると気づく。言葉にし難い、奇妙な感覚だ。
「役人じゃない。父さまは」
言いさす途中で、地下1階のフロアについた。エスカレーターを下りた目の前が、すぐに高級スーパーの入り口になっている。5基並んだターンスタイルのゲートの向こうに、山に積まれた瑞々しい野菜や果物が見える。
「市場?」
「そう。晩ご飯はルームサービスにするけど、飲み物とかお菓子とか買ってこ。果物も。ココアも」
「ここあ」
聞き慣れないその響きが気になっていたのか、小黒が「美味しい」と言ったからか、自分からは一度もなにも欲しがっていない無限が気にする素振りだ。
「いいよ、欲しい物あったら言って。はい」
ゲートを通って、無限を下ろす。自分から小黒と手を繋ぎ、目を輝かせて周囲を見回しながら歩き出した。青果コーナーで柿とリンゴとバナナをカゴに入れ、飲料コーナーで牛乳とミネラルウォーターを追加する。
「これだよ、ココア」
ココア色の丸缶を無限に渡し、砂糖はカゴに入れた。
「あとはお菓子、っと」
主に輸入の外国製の菓子が並ぶコーナーに行くが、英語を始めとする外国語で表記された紙やプラスチックのパッケージでは、色とりどりの美しさには惹かれても、食べ物として認識しづらいらしい。
「そうだよな、匂いもしないし。ココア買ったけど、チョコとかも食べてみる? あとは飴ちゃんとマシュマロと」
無限は小黒が望めば甘い物もなにもかも制限なしに全て食べさせてくれたが、普通の人間の子供である無限にはどうなのだろうか。
「あれ、小黒が買ってくれたやつ」
無限が、自分では手の届かない棚の高い場所に吊り下げられているカラフルなクマのグミを指差した。
「気に入った? 買う?」
「うん」
「じゃあはい」
3袋まとめて手に取り、1袋を無限へ渡す。
『そっか、歯ブラシも買わなきゃな。他に要る物あるかな』
買った物が無駄になってくれればそれが一番良く、まずは不便のないように調えておきたい。
重く大きなレジ袋をぶら下げてホテルへ帰り着いたのは部屋を出てから3時間後、夕暮れだった空には夜の帳が落ち、高層階の部屋から眺める龍游は、光の川そのものの高速を戴いて街全体が明るく煌めいている。
「すごい。星が全部天から地に降ってきたみたいだ」
夕食に頼んだルームサービスを待ちながら、もう何度目かの眠りから目覚めた無限が窓辺に立って呟く。
天満星(あまみつほし)の風情の地上に引き替え、白っぽく霞む夜空には月がぼんやりとした銀に滲むばかりだ。
「ここ、龍游の真ん中だからね。明るすぎて星はあんまり見えないんだよな。山の方に行けば星もいっぱい見えるよ」
「星はいつでも見られるけど、こんなの見たことない」
「そっか。じゃあこうする?」
指輪の金属を飛ばして、カードスイッチからカードキーを引き抜いた。室内の照明全てが一気に消え、映り込みが消えてクリアになったカーテンウォールに、龍游の夜景がなお目映く浮かぶ。
「わ」
小さな歓声で鼻の先が触れるほどに身を乗り出す横顔に、口元が綻んだ。
「いいかもね、この眺め。珍しくないけど、やっぱり綺麗だ」
無限の隣へしゃがみ、夜景を並んで眺める。
冠萱がなぜ言葉と一緒に現代の知識もインプットしなかったのかと幾分疑問だったが、出会う全てに新鮮に驚き感動する、この気持ちを無限に楽しませたかったのだろうか。
『ほんと、チビの時から怖い物知らず』
小黒を始めとするバックアップの存在で余裕を持っていられるのかもしれないが、見慣れぬ世界の全てに好奇を露わにして、自らの内に取り入れることを恐れない。それは、小黒の知る靭やかな無限そのものだ。
「小黒、あれは? 赤い光が暗くなったり明るくなったりしてる」
「あれは航空障害灯。昼に見たろ、飛行機って。あれが夜飛ぶ時に、危なくないようにって」
「夜も飛ぶのか? 鳥は飛ばない」
「はは、そうだね。飛行機は生き物じゃないからなあ」
「あっちは? 色んな色がきらきらしてる」
「あれはネオンかな。あの辺に広告派手な飯店あったかも」
「飯店?」
「ご飯食べるとこ。明日行ってみる? でも海鮮だったかな。蟹は今から来るんだよな」
「蟹?」
「そう、大閘蟹ってやつ。ここのホテルの餐厅、美味いんだって。蟹以外もいっぱい頼んだけど」
「……!」
「なにその顔、食いしんぼ」
「違う、これは」
笑った小黒に無限が言い返す途中で、夕食の到着を告げるチャイムが鳴った。
男同士でもあり疚しいところは一つもないが、「今夜だけ」と他の誰でもない自分自身に言い聞かせて一緒に風呂に入る。なにしろ無限は、シャワーの使い方もボディシャンプーやシャンプーも知らない。
脱衣所を兼ねたパウダールームで下着とナイトウェアを説明し、並んで服を脱ぐ。
『うわ、華奢』
生活習慣の違いか武術を学んでいるからか子供にしては筋肉質ではあるが、筋肉が厚く発達した古傷だらけの無限とは、当然ながらまったく違う。触れるのすら憚られる、白磁の人形のようだ。
「耳と尻尾出していい? 無限、怖くないかな」
「朝も見たし、怖くない」
風呂に入るにあたって許可を求めたが、あっさりとした返答が戻る。
本来は自分の情人(こいびと)である、しかし今は外見も中身も違う、子供。どこを見ればいいのか視線のやり場に困りつつも、シャワーやシャンプーの使い方を教えながら小黒が無限の髪と身体を洗い、無限は自分に付けられた小さな黑咻たちを指先で洗う。丁寧に泡をすすいで、たっぷりと湯を貯めた大人二人でも入れる広い浴槽に先に入れた。自分の身体を洗い始めた小黒を、頭の上に黑咻たちを乗せた無限が浴槽の縁に手をかけて眺めている。
「尻尾、すごい。ここから生えてるんだな。触ってもいいか?」
「えっ、セクハラ」
「せくはら?」
「ごめん、なんでもない。いいよ、触って」
通じない冗談だったことを思い出し、無限の手が届くように尻尾を差し出す。
触ってもいいかとは言ったが、尻尾の先へ遠慮がちに指先で触れた。
「この子たち、ここから出てくるんだろう?」
「そう。俺の尻尾千切ってんの」
「千切る?」
「ほら」
尾の一降りで、一気に10体以上の黑咻を顕わした。
「ショッ!」
「ハイン」
「ショ」
「ヘイショ」
大小の黑咻が賑やかにバスルームを跳びはね、小黒の尻尾は三分の二に短くなった。
「痛くないのか?」
「痛くないよ。千切ってるって、嘘。戻れ」
呼びかけに応じて黑咻が戻り、尾の長さも元に戻る。無限の頭の上で、黑咻たちが楽しそうに笑っている。
「……妖精は、思っていたより怖くないんだな。小黒は親切だ」
「へ なに、俺のことまだ怖かったんだ?」
「小黒は途中から怖くなかった。でも妖精のことはよく知らないし」
「う~ん、でも今日会ったみんなは良い妖精だけど、妖精全部がそうじゃないから。そこは気をつけた方がいいかな。無限は俺が守るけど」
「守るって、妖精から? どうして? こんなにたくさん人が居るのに、妖精がわざわざ私だけになにかするのか?」
「そう、だよ。人間と一緒。無限、目立つから。綺麗なものが好きな妖精が攫いに来るかも」
トップシークレットとはいえ、長引けばどこまで隠し通せるかわからない。無限への意趣返しに殴りに来る、横恋慕の思いの丈を遂げに来る。その程度ならまだしも、霊力はそのままに非力な子供となった無限を喰らおうとする者が現れてもおかしくない。
「きれい……私は母さまに似てるから、そうなのかもしれないな。わかった」
「うん」
頭の天辺からシャワーをかけて、たっぷりとした泡を洗い流す。水属性の術で髪の水分を水球にして取り出し、捨てる。無限の髪を洗った時も、無限が洗った黑咻たちにも同じようにした。
「それ、面白い」
「水属性の術ね」
「私もできればいいのに」
「ああ。もしかしたら、出来るかも」
「本当に?」
「うん。練習してみる?」
「うん!」
目を丸くした無限が、大きく頷いた。
「じゃあ明日やってみよっか。俺も入れて」
「ん」
大きな身体を小さく丸めて、無限が場所を空けてくれた湯船に浸かった。
電池切れで寝落ちる瞬間と就寝のタイミングが重なり、無限はあっさりと寝てくれた。
『歯は磨けなかったけど、明日でいいや』
無限の傍に付いていたいが、今日一日は小黒にとってもひどく長かった。無限の見守り役の黑咻をさらに2体増やして、リビングへ行く。
『諦聽、日本の神サマに会えたかな。今日は無理か』
移動に、横浜から半日かかると言っていた。神獣とはいえ、異国の神への夜分の訪問は非礼だろう。
臀の沈むソファに座ってスマートフォンを取り出し、ロック画面を眺める。夏に遊びに行ったカンクンのヴィラで、無限と撮ったセルフィーだ。溜息を吐いて、液晶画面を額に押しつけた。
「師父……」
呟いた瞬間、スマートフォンが震えだして慌ててロックを解除する。
発信元は、潘靖。
「喂」
「私だ。無限さまはどうだ?」
「元気元気。さっきモリモリ蟹食べてた」
「はは、あの方らしいな。それなら良かった。諦聽から連絡があった。現地に着いたそうだ。今日は遅いから明日お目通りを願うらしい。諦聽の連絡先は知ってるか?」
「うん、子供の頃によく小白と一緒に老君のとこ遊び行ってたから。直接連絡取っていいの?」
「いや、すまないが連絡はこちらを経由する。緊急の時のための確認だ。なにか困っていることはないか?」
「まあ、師父がちびっ子になってる以外は」
「そうか。こちらにはいつでも連絡をくれてかまわない。困りごとがあれば遠慮するな。明日また連絡するよ」
「ありがと、館長がわざわざ」
「一大事だからな。おやすみ」
「おやすみなさい」
苦笑の気配の潘靖との通話を切り、もう一度ロック画面へ視線を落とす。小黒と頬を寄せ、くすぐったげに無限が笑っている。今の稚い愛らしい無限も一緒に過ごしていて楽しいが、やはり元に戻ってほしい。
「う~。ビールくらいならいいかな……」
独りごちて、立ち上がる。酒はあまり強くないが、さすがに今夜は飲みたい気分だ。スーパーで、輸入ビールのショート缶を何本か買っておいた。キッチンへ行って冷蔵庫を開け、ビールを取り出す。プルタブを開けようとして、手の甲に黑咻が現れた。
「おっ?」
「ヘショッ! ショ!」
「えっ」
肩へ移動してきた黑咻と一緒に、そのままベッドルームへ転送する。
照明を落として部屋を出た時のままの暗闇と、くぐもった泣き声。
猫の目で危なげなく無限のベッドへ腰を下ろし、間接照明を点す。
「無限」
無限がすっぽりと潜りこんで丸く盛り上がっているデュベの上から、声を掛ける。
泣き声が止まったが、返事はない。
「無限。ごめんね、ちょっと開けるよ」
静かにめくっていくデュベの下に藍い髪が見え、丸い後頭部が見えてくる。泣き顔を手で隠してはいるが、白い耳殻が赤く染まって、首筋に汗の粒が浮いている。大きな手で、子供の小さな頭を撫でた。
「か……さま、と、父、さま、きっと、しんぱい、してる。うばや、も」
しゃくり上げながら、時間をかけて辿々しく言葉が継がれていく。新しく知る世界を楽しんでいるようにさえ見えたが、気丈に振る舞っていたのは不安に押しつぶされないためだったのだろうか。
「無限。無限、ごめん。ごめんね」
自分がこんな目に遭っている原因となった――と、思っている――妖精に触れられるのは嫌かとも思うが、放っておけない。ベッドを下りて跪き、泣いている無限の隠れた顔を覗く。
「無限、絶対に戻すよ。俺なんか嫌かもしんないけど、でも傍に居させて。俺にできること、なんでも」
「いや、じゃ……ない」
泣き腫らした目が、隠れていた手の下から出てくる。涙に満ちる碧い目が、深い泉の色で揺れている。
「しゃおへ、は、しごと、だったのだろ。悪い者を、つかまえようと、したって」
「う、そう、なんだけど」
仕方がなく害もないとはいえ、嘘を吐いている事実はやはり後ろめたい。
「それに、今日ずっと、親切に、してくれた。だから」
「そうだ、じゃあさ」
欺瞞に過ぎないが、それでも無限の気が紛れるならと、思いついたアイデアを提案してみる。
「俺、神さまと知り合いなんだ。無限は大きいから無理だけど、黑咻だったら神さまが無限の居た頃に送ってくれる。だから、明日神さまのとこに行ってさ。お母さんとお父さんに無限は無事だよって、伝えよう?」
「神さま……?」
「うん。老君って神さま」
「老君? 太上老君?」
「そう」
デュベから出て、無限がベッドに起き上がる。座り直して、じっと小黒を見つめてくる。
「本当に? でも、神さまにそんなお願い、怒られないだろうか」
「怒るわけない。明日一緒に頼みに行こう。ね?」
「……うん」
髪の先を揺らして頷き、潤んでいる目を擦る。
「リビング行っちゃってごめん。ずっとここに居るから、安心して寝て」
もう一度デュベに潜った無限の頭を撫でて、間接照明を完全な闇にはならないように加減して細く絞った。
「黑咻たちも居るからね。大丈夫だよ、おやすみ」
「ありがとう。おやすみ」
泣き疲れたものか、すっと閉ざした無限の瞼が痛々しく腫れている。
髪を撫で、今日だけでもう何度目かの大きな溜息を吐いてベッドへ突っ伏した。