没落貴族の小黒が大貴族の無限に買われる話(1) 遠い親戚であり後見人の鄭氏が羅家を訪ねてきたのは、小黒が16歳の誕生日からちょうど3ヶ月後の寒さの盛りです。
掃除こそ行き届いているものの、年月による傷みは隠せない客庁へ通しました。貴族としては領地も持たない傍流ながら戸部で七品の官を務めているとやら、鄭氏は口利きなどで金回りもよく、たっぷりと綿の入った袷の長衣に毛皮の裏打ちのある外套と帽子で暖かく装っています。片や小黒は長く続く名門・羅伯爵家の嫡男ながら、数代前の祖先の放蕩で領地の多くを失い、今や残るものは都城(みやこ)の家屋敷とわずかの家宝ばかり、うらぶれた邸宅の中は外と変わらぬ寒さにも関わらず、古ぼけて薄くなった単衣を重ね着するほかありません。もっとも、小黒の若い肉体は溌剌として熱を帯び、寒さを寒さと感じもしませんが。
「羅小黒、今日はいい話を持ってきた。これ以上ない出世だぞ」
鄭氏は卓子に置かれた蓋碗を笑顔で手に取り、茶葉など入っていないことを承知しつつ、それでも礼儀正しく蓋と椀の間から白湯を啜ります。
「青嶺公無限大人がお前を見初められたそうだ。正室にとお望みでな。形を調えるために、明後日先方のお屋敷で見合いだ」
「はあ?」
寝耳に水あるいは青天の霹靂、思わず呆けた声が漏れました。
「なんだ、不満でもあるのか。無限大人といえば宮廷の位にこそ就いておられぬものの、相談役として我が君の覚えもめでたく、肥沃にして広大な領地を有される大貴族で大富豪。お前と歳は離れているが若々しくも見目麗しく、代われるものなら私が代わりたいほどだわ」
「いや待って待って、誰だよ無限て。知んねーし」
「はあ?」
呆けた声を出すのは、今度は鄭氏の方です。
「お前、無限大人を知らんのか?」
「そう言ってるだろ。誰だよ、無限て」
「まったく、没落して久しいとはいえ、仮にも羅家の子息が無限大人を知らぬとは。世情に疎いにもほどがある、お前の代での再興など叶わぬところだったな。まあいい。ともかく、今日明日でお前の仕度を調えて、明後日は無限大人のお屋敷で見合いだ。これで私にも運が向いてきた。後で人を寄越すから、その者の指示に従うように。私は役所へ戻る、委細はまた明日な」
「ちょっと待てって! 見合いするなんて一言も」
「自分が選べる立場だと思っているのか。私は頼みに来たんじゃない、伝えに来たんだ」
一方的に話を終えた鄭氏は裾を払って立ち上がり、半ば朽ちた羅家の門をくぐって去っていきました。
「見合い? 正室? なんだよ、それ」
「あの、若さま」
取り残された客庁で呆然と呟いた小黒の背に、控えめな声がかけられます。振り向くと、父祖の代から長く羅家に仕えている侍女の紫羅蘭が立っていました。侍女といっても、ろくに財産もない上に両親(ふたおや)を早く亡くした小黒が賃金を払えるわけもなく、それどころか植物を育てるのが上手な紫羅蘭が庭で育てる花を売って、2人の日々の費えとしています。苦笑して立ち上がった小黒は、自身より少し背の低い紫羅蘭の前に立ちました。
「それ、若さまってほんとにやめてよ。主家どころか、俺の方が紫羅蘭の世話になってんのに」
「私には若さまは若さまですもの。あの、今の鄭禄さまのお話、聞こえてしまって。差し出がましいとは思ったのですが」
「え……ああ。なんか俺に、縁組の話だってさ。大金持ちの公爵さまが貧乏伯爵家に何の用があるんだか」
自虐の言葉ではありますが、家名と爵位が欲しい裕福だけれど下位の貴族や新興の家ならともかく、名門とはいえ落ちぶれた伯爵家に、富豪の大貴族が何用なのでしょう。少しもわかりません。
「お話、お請けになるんですか?」
眉をひそめて、紫羅蘭が問いました。その優しい愛らしい顔を見つめ、荒れた手へ視線を落とし、裾の擦り切れた単衣を一瞥して、小黒は腹を括りました。大金持ちの貴族と婚姻を結べば、暮らし向きが楽になるどころではありません。紫羅蘭はもちろん侍女として連れていきますし、そうすれば婚家で何不自由のない生活をさせてやれます。
「鄭禄の小父が言ってたろ、俺に選択権ないって。それに、そんな金持ちのとこに縁付くなら支度金だってなんだってたっぷりもらえるだろうから、家名だってこのボロ屋敷だって残せるしさ」
「でも、だって。無限大人て、50歳を過ぎてるってお聞きします。若さまはまだ16じゃないですか」
「そういや、歳が離れてるって言ってたっけ。つか、よくそんなの知ってるね」
「若さまが疎いんです」
紫羅蘭にまではっきりと言い切られて、今度は小黒が眉をひそめました。
「まあさ、俺にもできることがあって良かったんじゃね。仕官するにも元服まで2年あるし、どっかに潜り込めるようなツテもないし」
紫羅蘭の庭仕事を手伝ってはいますが、少しでも早く自分で金を稼げるようになりたいと思っています。羅家は武門の家柄で、費えがないため師には学べずとも、小黒は1人で鍛練を重ねてきました。腕に自信はあるつもりですが、万一鄭禄の口利きで下っ端の武官に就けたとして、平和な御世では出世は難しいでしょう。
『そうだよ』
仕事と思えば、無限大人への輿入れとやらは随分割がいいのではないでしょうか。案じ顔の紫羅蘭に、明るく笑顔を向けました。
「心配してくれてありがと。でも話聞いた感じだと別に悪い奴じゃなさそうだし、ほんとに俺を見初めただけかも」
「そうです、だって若さま、お姿だってすらりとしてお顔立ちだって愛らしく整っていて」
「いや、笑うとこじゃね?」
軽口で和ませようとしましたが、紫羅蘭に真顔で言い募られて苦笑します。
「ハイン」
ふっと、どこからともなく現れた小さな黒い毛玉が高く囀り、小黒の頭の上に乗りました。
「黑咻」
「ショッ」
差し出した小黒の掌へ、軽やかに飛び移ってきます。大きさは、小ぶりの橙子ほどでしょうか。手も足もない真ん丸の体は柔らかく短い毛でふわふわと覆われ、頭の上には摘まんで引っ張ったような小さな耳、身体の大半を占める大きく瞪った目の不思議な生き物を、羅家では代々黑咻と呼んでいます。羅家に嫡子が産まれると同時にこの世に現れ、それからずっとその子と一緒に居るのです。永く羅家の守り神と思われていたようですが、それなら家の没落も小黒の両親が早く亡くなりもしなかったでしょうから、いつも一緒に居てくれる小さな兄弟のようなものと、小黒はそう思っています。
「鄭禄が来たから隠れてたのか? もう帰ったよ」
「ハイ」
耳と耳の間を指先で撫でると、黑咻は気持ち良さそうに目を細めました。
「そうだよな。お前も居るし、紫羅蘭もさ。3人で一緒に行こう。もう寒い思いなんかしなくてよくなる」
「っ、そんなの!」
小黒の手を取らんばかりに、紫羅蘭が身を乗り出します。
「意に染まないなら、やめてください。私のことは気になさらないで」
「別に、家の都合で見合いで輿入れなんか当たり前だろ」
「だからって、亡くなった旦那さまより年上の方となんて」
小黒は父親が22歳の時の子供ですから、相手が50歳を越えているのなら、紫羅蘭のいう通り親子以上の歳の差です。
「あのさ、ほんとに大丈夫。俺が女の子だったらまた違ったかもだけど、仕官みたいなもんだよ。もしかして、会ったら無限大人のこと好きになるかもしんないし」
それでもやはり紫羅蘭は釈然としない面持ちですが、鄭禄が言っていた通り、いずれにしても小黒に選択権はありません。
「ありがとう、大好きだよ姐々(ねえさん)」
手を取ると、紫羅蘭の大きな目からぽろぽろと涙が溢れます。
「私、一緒に参りますから。絶対に若さまをお守りします」
「うん」
しゃくりあげる紫羅蘭に、小黒の口元が優しく綻びました。
つづく