没落貴族の小黒が大貴族の無限に買われる話(3) 紫檀の卓子を挟み、釈然としないまま睨むようにして見つめますが、無限は相変わらず涼やかに蓋椀を取り上げました。蓋の縁で茶葉を除け、わずかに蓋をずらして口をつける、流れるような仕草も伏し目がちに茶を飲む半分しか見えない顔も、憎らしいくらいに優雅で美しいと感じてしまいます。
「……やっぱりみんなで俺のことからかってんじゃねーの」
目の前の青年が47歳の青嶺公爵無限大人であるなど信じられないと言い張った小黒に、案内をしてくれた家令を始めとする幾人かの家臣たちを無限が呼んで、己が何者であるかを証言させました。生真面目な顔をしながらも家臣たちにどこか苦笑いの気配があったのは、小黒の誤解もさもありなんといったところだったのでしょうか。
曰く、若い頃から武術の修練を積んで気を練り上げてきたせいか、いつ頃からか容姿(すがたかたち)が少しも変わらない。確かに武術の達人と言われている師匠たちには若々しい外見を保つ者が多くいますが、それでも無限は若々しいどころでありません。話が本当なら、まるで仙人です。
「どうして面識もない子供を家中総出で揶揄うんだ。そんなに酔狂じゃない」
理由もなにも、金持ちの酔狂に理由などないでしょう。そもそも、その『面識もない子供』を見初めただとかなんだとか、それこそ酔狂ではないのでしょうか。そこで、自分がこの場所に居る理由を思い出しました。
「そうだ、それ。あんたが本当に無限大人なら、なんだって面識もない子供に正室になれとか言ってきたんだよ」
鄭禄から無限に対した時の言葉遣いも教えられてきましたが、こんな出会い方となっては今さらですし、覚悟を決めてきたとはいえ、破談になったところで小黒にはどちらでもいいことです。ぞんざいな喋り方を改めもせずに、単刀直入に切り出しました。
「この間、城内を歩いていてお前を見かけた。見目良く育ちそうだし、羅伯爵家の嫡子と知ってな。都合がいい」
「はあ?」
羅家の屋敷こそ貴族の邸宅の集まる一角にありますが、小黒が日頃出入りする場所は庶民の暮らす下町です。いいところ、小白の住む豪商・羅家の店舗兼邸宅のある目抜き通りでしょうか。しかし、しばらく小白は訪ねていませんし、どちらにせよ大貴族の主が自ら歩いて回るような場所ではありません。それに、羅伯爵家の嫡子であるとなにが都合いいのでしょう。
知らずと眉根に皺を寄せますが、無限は気にする風もなく自分の茶器へ湯をつぎ足します。
「鄭禄から聞いたと思うが、この見合いは形を調えるだけのものだ。正室として、私に輿入れしてもらう。費用(かかり)は全てこちらで支度するし、同じ屋敷に住んではもらうが私と同じ邸(やかた)に居る必要はない。この屋敷にも領地の屋敷にも邸がいくらも余っているから、好きなところを選べばいい。羅家の屋敷を手入れしたいなら金は出すし、管理人(あずかり)を置けばいい。それから、恋人を作りたいなら好きにしていい」
無限が蕩々と並べる題目は小黒にとってあまりに都合がよく、しかし無限にはどんな利点があるのか少しもわかりません。
「なにそれ。やっぱ俺のことからかってんの?」
「そんなに酔狂じゃないとさっき言った。言い寄ってくる者が多くて面倒なんだ」
「は?」
「私が独り身なのは鄭禄から聞いたな。なにが目当てか言い寄ってくる者が多くて面倒な思いをしている。正室を立てれば、少なくとも青嶺公爵家の正室の座が欲しいものは寄りつかなくなるだろ」
「……はあ」
「お前は見目良いし、今は小柄だがその骨格ならいずれ背も伸びる。羅伯爵の家名も肩書きとしては充分だ。それに、青嶺公爵の私が落ちぶれた羅伯爵の嫡子を正室にしたところで、なんの利点もない。それなら、周囲からは私がまさにお前を見初めたと思われる」
「……」
「もちろん、正室の義務は果たしてもらう。正室を伴うべき公の場には必ず私と共に出るように。人前では『らぶらぶ』に見えるように振る舞ってもらう」
「らぶらぶ? って?」
「愛し合って、とても親密な夫婦や恋人同士を表現する異国の言葉だ」
「は なにそれ、気持ちわるっ! あんたとそんなことすんのかよ!」
「公の場なんだからあからさまじゃなくていい。さりげなく触れ合ったり、視線を交わしたり」
途中で口を噤み、小黒の顔をじっと見つめてきます。先ほどから心証は最悪ですが、顔立ちが整っているだけに見つめられるとなんだか落ち着きません。
「なっ、なに」
「そうだな、お前のような子供ではそんな機微は無理か。元服するまで婚礼以外で人前には出さないから、それまでに少し学んでおけ」
「っ、何をえらそ」
偉そうに、と言いかけて、無限がこの国で実質的に皇帝の次の地位にあることを思い出します。
「つか、あんたの正室になるとか一言も言ってねえし!」
つまり、モテて仕方のない目の前の男が自分を虫除け要員として迎えようとしていることと、彼の望みに自分が最適であることは理解しました。それだけで面識もない子供を大金をかけて正室に迎えようなど、酔狂を通り越してとぼけていると思いますが、それも青嶺公の資力には端金であり、小黒の立場の弱さならば正室に立てたところで後からどうとでも出来ます。元より金で買われるようなものと、そのつもりで来ましたが、あまりに侮られて馬鹿にされていると思います。
「別に断ってもかまわない。お前が一番意に適うが、断るなら他に誰かを探す」
「~~~~~~~~~~~~!!!!!!!」
ちっぽけな小黒などがなにをわめき立てても、痛くも痒くも腹立たしくもないのでしょう。無限は表情も口調もなにひとつ変わりません。憤懣と無力な自分への悔しさと、士官のつもりで来たものをこの程度のやり取りで逃げ出しそうになっていた不甲斐なさと、その他にも幾つもの感情が綯い交ぜになって、紫檀に螺鈿と透かし彫りの施された贅沢な椅子を蹴って立ち上がりました。
「断らない!! あんたの正室になればいいんだろ!!」
「好(ハオ)。さっき伝えた内容は書面にも認めた。自分で確かめろ」
短冊に畳んだ書き付けを無限に差し出されて、思わずたじろぎます。
「う……字、読めない……」
「そうか。では誰か信用できる者にでも読んでもらえ」
曲がりなりにも伯爵家の子息が字を読めないなど馬鹿にされるかと思いましたが、やはり無限は気にする風もありません。
「これで話はまとまったな。輿入れの日取りは改めて決めるが、詳しいことは鄭禄に伝える。門まで送ろう」
「えっ」
所作の一つ一つが舞とも見える物腰で無限が立ち上がり、門扇を開けました。小黒も慌てて後ろへ続きます。外へ出ると、出入り口の左右に若い男性の召使いが跪いて拱手していました。身分の低い者たちでしょうが、暖かそうに厚着をして、傍らには火鉢まであります。供として付いてきた紫羅蘭も、客のように外院の一室へ案内されていました。
来る時にも通った九曲橋を渡りながら、無限の背で揺れている長く藍(あお)く艶やかな髪を見つめます。後ろ姿すら、47歳には見えません。腹を立てるほどでもない数ならぬ者かもしれませんが、それでも小黒の無礼を咎め立てもしないのも、自ら案内に立つのも、先ほど見た召使いたちへの厚遇も随分と変わっています。
前後になって無言で広い庭を横切り、紫羅蘭の待つ外院へ歩きながら、無限を見かける使用人たちが口元に微笑を浮かべて深く拱手します。どうやら慕われている主であるようですが、気を許すつもりは少しもありません。
『だって俺のこと金で殴ってきたようなもんじゃん』
このにこりともしない男が本当に良い人間なら、没落貴族の遺児を相手にそんな真似をするはずがありません。
無限はするすると歩いて垂花門を潜り月亮門を抜け、この寒い時期でも目に鮮やかな常緑の緑と赤い南天の配された小さな院子(にわ)を通って、幾つか並んだ房間の一つの門扇を開けました。客を迎えるための暖かな房内には小ぶりな卓子と椅子の一揃いが置かれて、茶と茶菓子まで支度されていますが、落ち着かない顔の紫羅蘭はどちらにも手を付けていません。
「若さま!」
小黒の顔を見るなりに立ち上がり、急ぎ足に寄せ木細工の床を横切ってきました。案じ顔を見れば、心が痛みます。
「ごめん、お待たせ」
「いえ、少しも。私、まるでお客様のように扱っていただいて」
言いかけながら小黒の後ろの無限に気づいて、息を呑みました。確かに、若い女性なら心を奪われる美貌でしょう。
「迎えにくるよう、鄭禄に遣いを出してある。ではまた、婚約者(いいなずけ)殿」
「ふん」
無限の方では紫羅蘭の様子も小黒の態度も意に介さず、ゆったりと房間を後にします。唖然としたまま、遠ざかっていく足音を紫羅蘭が視線で追っているのは、少々意外です。そんなにも無限が気になるのでしょうか。
「今の方は」
「あれが無限大人だよ。俺のこと婚約者って言ってたろ」
「えっ」
紫羅蘭が慌てて門扇を開けて、外へ出ました。すでに黄昏はじめた陽を横顔に受けて、無限が去っていった月亮門の方角を見つめます。
「なに? どうしたの?」
小黒の呼びかけで、それでも幾度も振り返りつつ戻ってきます。
「あの方です、以前お話した方。お金を盗られそうになった時、私を助けてくださった方です」
「うそ」
三月(みつき)前の、秋の終わりの話です。
花を育てるのが得意な紫羅蘭は、京城(みやこ)でも最上に美しく咲いた花を貴族や豪商の屋敷に納めて生計(たつき)を立てていますが、まとまった金子を持ちあるいているところに目を付けられ、食料を買いに行った市場近くの路地で数名の流氓(ごろつき)に囲まれました。ひどく腕の立つお武家様が通りかかって、助けてくださった――と、震えながら帰ってきた紫羅蘭からそう聞いています。動転してろくに礼も言えなかったと今でも気にしている、その相手があの無限だというのでしょうか。
「いや、いや、だって、歩いてるわけないだろ、そんなとこ。公爵だよ」
「でも間違いありません! あの美しいお顔立ち、笠の下に見ただけですけれど、間違えたりしませんっ」
そう言われてしまえば反論の余地もない唯一無二の美貌であることは、小黒も認めざるを得ません。それに、無限が市場の近くなどそんな下町に居たのなら、小黒を街中で見初めたとの話とも整合が取れます。
「あ……あら? でも、無限大人って50歳を過ぎてらっしゃっるって……えっ、え?? あの方、本当に無限大人???」
「あ~……うん、それはあとで話すよ。でもあいつが無限大人なのは間違いない。あと齢は47だって」
実のところ小黒もまだ半信半疑ですが、この屋敷の者たちの態度からすればどうしたってあの青年が無限なのでしょう。
「まあ……まあ……そうなんですか、あの方が……」
紫羅蘭の頬がほんのりと染まり、見る間に眸が潤みます。
「あんなに若々しくて……お美しくて……お強くてお優しい……」
夢見るように独りごちて、甘い溜息を吐き出しました。嫌な予感に顔を顰めた小黒の手を取り、しっかりと握りしめます。
「よかったですね、若さま。なんて素晴らしいご縁でしょう、おめでとうございます!」
満面の笑顔に、小黒はますます眉の間の皺を深くしました。
「めでたくなんかねーし!! あいつなんか、やなヤツ!!!!!!!!」
地団駄踏んで叫んだ声は、房間の高い天井へ虚しく吸い込まれて消えました。
了.