Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    mae

    🦵🧔

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 12

    mae

    ☆quiet follow

    兄者と弟が元審神者の女性の見舞いに行く話
    ※カップリングなし
    ※独自の設定あり

    九月、国道20号にて 目的の病院は、坂道を登りきる手前の小道を右折すると現れた。病院にしては小振りな三階建ての造りで、医療依存度の高い患者が長期利用をするところなのだという。白く清潔なはずの外壁はくすんで影が落ち、陰鬱とした空気を漂わせている。周囲の痩せ細った木々が、寂しさに拍車をかけていた。
     膝丸は、駐車場と書かれた看板が指す先へハンドルを切った。数台の車が停まる空き地が、その病院の駐車場らしかった。目を凝らせば申し訳程度に紐と石で区画されている。その一区画に停車して運転席から外へ出ると、ひんやりとした風が頬を掠めた。まだ九月も始まったばかりだというのに、冬の到来を予期させるような風だった。
     駐車場の奥は、何も見えなかった。覗き込むと切り立った崖のようになっていて、降りた一帯には落葉樹林が広がっている。木々の隙間に時折民家が連なり、林が途切れた先には役目を終えた田畑の姿が遠くまで続いた。視線を上げると、堀のように続く山々の縁が青く浮かんでいる。
    「涼しいね」
     助手席のドアを閉めた髭切が、両腕を擦る仕草をした。長袖のシャツの上に薄手のジャケットを着ている膝丸と違い、髭切は肩にカーディガンをのせているだけで、その下は半袖のTシャツ一枚だけなのだった。
     正午を過ぎて少し経つ今は、気温が一番高いはずである。夕方になればもっと冷えるだろう。
    「寒いか?」
    「平気。おまえは?」
    「平気だ」
     山間部という立地と、休日というせいもあってか、あたりはひどく静かだった。人も車も見当たらず、獣の気配さえない。何も通らない道路を、膝丸は小走りで、髭切は悠長に渡る。病院の目の前までやってきた。
     外から覗き込んだ院内のエントランスは真っ暗だった。細い電灯が心許なさそうに点滅しているのがかろうじて見える。その電灯は、奥へと続く廊下の先まで伸びているようである。
     メインエントランス以外に入り口はなさそうだ。膝丸が髭切と視線を交えてから自動ドアに近付くと、ドアの手前に看板が立っていることに気が付いた。虫食いのように剥げた文字を、髭切が読み上げる。
    「『来客はこちらから』」
     矢印の先は自動ドアである。真っ暗だが、開くのだろうか。膝丸は懐からメモを取り出す。
    「書付によると、三階だ」
    「直接行っていいって言っていたよね……、あ、開いた」
     勝手に開いたドアの先へ、髭切は躊躇なく進んでいく。膝丸もその後をゆっくりと追った。


     この来訪は、唐突に決まった。
     とある日、膝丸が朝の馬番を済ませて部屋に戻ると、洋装を整えている髭切の姿があったのだ。洋装といってもいつもの戦装束ではなくて、一昔前の、着物から移り変わったあとに流行ったような軽い装いだ。髭切はちょうど、ゆるめのスラックスに足を突っ込んでいるところで、その隣には加州清光と乱藤四郎の姿があった。
    「何をしているのだ?」
    「着替えだよ」
    「それは、見ればわかるのだが」
     膝丸が首を傾げていると、加州が髭切に、話していないのかと問い、髭切はそういえばそうかも、と的を得ない返答をした。これは兄者よりも加州と話したほうが早そうであると体を向き直せば、乱が髭切の髪を整えながら、遠征に行くんだってと助け舟を出した。
    「遠征? 兄者は、非番ではなかったか。急用か?」
    「非番だからだよ、ええと……」
    「膝丸だ、兄者。休日出勤というやつか? 何故兄者に?」
    「いやいや、そうじゃなくてね」
    「きちんと振替の非番はもらえるのだろうな?」
    「だから、えーっと……」
     言葉を詰まらせる髭切に対して、あーもう! とシビレを切らせたのは加州で、つまり髭切は休みを使っていわゆる現代遠征で私用を済ませる予定がある、ということだった。加州と乱が事の詳細を膝丸へ語ろうとすれば、髭切がすかさず、おまえも行くかいと尋ねてしまったので、膝丸は反射的に承諾し、この薄ら寒い病院へ向かうとも知らずに髭切とのランデブーを決行することになったのであった。
     膝丸は、遅めの盆休みとしててっきり京の北野あたりを回るのかと思っていたのだが、髭切が降り立つ先に指定したのは縁もゆかりもない地方都市のレンタカー屋の前であった。膝丸が困惑している間に髭切は手慣れた様子でレンタカーの手配をし、膝丸の所有する免許証を提出し、膝丸を運転席へと座らせて、カーナビの行く先を設定した。
     そこで初めて膝丸は、自身と兄髭切が、山間に建つ病院へと向かうらしいことを認知したのだった。

     慣れない運転は、膝丸を慎重にさせた。運転免許は、ある時審神者の同行で必要になり取得したものであったが、本丸で使用することは殆どない。したがって運転の経験も、多くはない。それに今回は、助手席に兄が同乗している。これほど気張ることも久しぶりである。ハンドルを握る手には力が入り、背中は妙に汗ばんでいた。
     髭切は膝丸の様子を気にかけることなく外の景色を楽しんでいる。目的地へは一時間ほどあるらしい。市街地を抜けて山道へ入ると、あっという間に人や車の気配はなくなった。あたりを背丈の数倍はある木々が囲む。あるいは田畑か、時折思い出したように民家が建っている程度だった。
     車が追尾してこない状況は、いくらか膝丸の心を軽くした。運転にも慣れてこようかというところで、膝丸はやっと、この目的の先に何があるのかを、髭切に問えたのだった。


     エントランスの内部は、外から見たとおりひどく静かだったが、エレベーターで三階まで辿り着くと、生きものたちの気配をいたるところに感じられた。エレベーターホールを抜けて廊下へ出ると、のんびりと歩行する患者や、慌ただしく動き回る看護師の姿が目に入る。独特のにおいは消毒液だろうか。手入れ部屋のそれとは異なる、無機質で清潔なにおいだった。
     三階の廊下は、自然光は入らないものの電灯の多さと声や動向の賑やかさでエントランスよりも明るい印象を受けた。人が大勢いるというのは、それだけで熱が発生するのだ。
     入り口で消毒を済ませ、ナース・ステーションと書かれた受付で記名する。看護師に理由を告げるとストラップの付いた名札を渡されたので、それを首から下げた。
    「303、305、306……あった」
     髭切が立ち止まった部屋の名札は一枚で、部屋の主はどうやら一人のようであった。一人部屋か。中からは話し声がわずかに聞こえる。髭切が扉を三度叩くと、その扉は滑らかに開いた。
     姿を現したのは、妙齢の女性である。一般人の。
    「あ、ああ〜、こんにちは。よくお越しくださいましたね。どうぞこちらに。おばあちゃん、来たよ!」
     女性は柔らかな笑みを浮かべて髭切と膝丸へ挨拶をし、振り向いて快活な声で呼びかけるが、どこからも返事はない。入り口からは、カーテンに隠されて病室の大半が確認できない。ベッドの足元だけが見える。
     病室は外部に面しているのか、大判の窓からは溢れんばかりの柔らかい光が差し込み、優しく室内を照らしていた。膝丸にはこの病室が、エントランスや廊下よりもずっと明るく清潔に見えたが、実際そう見えるように設計されているのだろうとも思われた。
     髭切と膝丸は、促されて病室へ足を踏み入れた。さっきまで寝てたから元気ですよ、と女性がカーテンをめくると、光が反射する医療ベッドに横たわっていたのは、老齢の女性であった。
     腕からは管が伸び、瞼は下がり、頬は痩せこけていたが、瞳だけは爛々と輝いている。
    「おばあちゃん、来たよ。生徒さん」
     女性が耳元で囁くと、老齢の女性の視線がこちらを捉えた。膝丸が立ちすくむ隣を髭切はさっそうと抜けてその女性に近づき、同じように耳元で囁いた。
    「お久しぶりです、先生」
    「あ? タケシか?」
    「やだ、タケシはおばあちゃんの息子でしょ!」
     妙齢の女性はおかしそうに、ごめんなさい、と笑ってみせた。

     膝丸は、老齢の女性とは初対面であるが、彼女は審神者である。正確には、審神者であった。髭切と膝丸の所属する本丸は審神者の引き継ぎがなされた本丸なのである。
     彼女は長らく本丸の運営に勤しんでいたのだが、加齢による体力と気力の低下を理由に審神者業を引退し、家族のいる俗世へ戻った。彼女が白米のように小さくつやつやとしていた頃から所属刀剣としてその力を振るっていた髭切と違い、膝丸は彼女から引き継がれた新しい審神者の代に、初めて顕現されたのだった。
     審神者の職を辞した審神者、そして老いた審神者を見るのは、膝丸にとってこれが初めての体験である。
     政府との取り決めで、この女性が審神者であったことは伏せられている。長期に渡り遠方で教師をしていたことにされており、髭切と膝丸はその元教え子として、今日の見舞いを許された。
     元審神者は、タケシ、と髭切を呼んだ。それを聞いて髭切は微笑み、膝丸は困惑した。その困惑を受け取った女性が申し訳無さそうに眉を下げる。
    「ごめんなさい、せっかく来てくださったのに……。おばあちゃん、元気なんだけど、ちょっとボケちゃってて。よく間違えるんです」
    「いえ……少し、話しても?」
    「もちろん。ごゆっくりなさって。私出てますから」
     そう言って女性は部屋を出た。静かに扉を閉まりきるのを、髭切は最後まで見届けた。ぱたりと控え目な音が響く。扉の向こうでは看護師が患者を呼ぶ声が聞こえる。少しだけ開いた窓からは小鳥のさえずりが漏れ出していた。言葉のない室内で、膝丸はどう対応すれば良いのかを考えたが、髭切の様子をじっと眺めることしかできなかった。
     髭切が、ゆっくりと元審神者に近づいていく。視線を合わせるようにかがみ、彼女のしわだらけの耳に触れ、短く切りそろえられた髪を撫でた。膝丸は、髭切と元審神者の対面が、数十年振りであると聞いている。人の時間はあっという間に過ぎてしまうから、何もかも様変わりしていることだろう。
     ふっと、笑む声がした。髭切が、先程と同じように微笑んだ。
    「何故とぼけたふりをしているの?」
     落ち着いた声だったが、太刀を突き立てるような物言いであった。膝丸は目を見開いた。彼女の瞳が髭切を捉える。
     賑やかだったあたりが、しん、と水を打ったように静まった気がした。膝丸が思わず姿勢を正すのと同時に、アハ、と高い笑い声が耳を貫いた。髭切の肩が揺れている。
     弾けたように響くのは、兄髭切と、元審神者の笑い声だった。
    「あはは、やっぱり、わかる?」
    「そりゃあ、わかるよ、主のことだもの。……あ、元主か。まあ、いいよね。久しいね」
    「本当に、久しぶり」
     呆然とする膝丸をよそに、二人はしばし笑いあった。元審神者は、実に快活な表情を見せた。先程ベッドの上で的はずれな名を口にしたときの表情とはまるで違った。
     彼女が合図すると、髭切が腕を伸ばし彼女の上体を起こそうとするので、膝丸も駆け寄り、手を貸す。
    「ありがとう。あのね、悪気があったわけじゃなくて、この歳になるとボケたふりした方が楽なんだよ。いろいろ聞かれても、困るしさ。おじいちゃんたちもよくやってたでしょ」
     おじいちゃんて、三日月とかね、と言って彼女は笑った。
    「あれ、なんでやるんだろうと思ってたけど、わかるもんだね」
    「タケシ、似ているかい? 僕に」
    「似てるわけないよ! スッポンだよ、スッポン。髭切と比べたらさ」
     スッポンだってかわいいけどね。そう言ってひとしきり笑った。
     膝丸はこの笑顔が、先程出ていった女性と似ていることに気が付いた。親族なのだろうか。じっと見つめていると、元審神者の瞳は膝丸を捉えた。
    「膝丸?」
     今の審神者の他に、膝丸をそんなふうに呼ぶ人間を、膝丸は知らなかった。心の臓がわし掴まれたように脈打つ感覚は、顕現した直後の胸の高鳴りに似ていた。桜が舞うときの高揚感にも。これが審神者の持つ力なのだろうか。
     膝丸は小さく呼吸をして背筋を伸ばし、いかにも、と答えた。
    「源氏の重宝、膝丸だ。兄者の弟だ」
    「似ているね」
    「……そうか」
    「そうだろう?」
     膝丸が答えるのと同時に髭切の声がした。髭切の答えに驚いた膝丸が視線を上げると、いつの間にかベッドに腰掛けた髭切が、彼女に微笑んでいる。
     髭切は膝丸の肩へ手を伸ばした。
    「これが、僕の弟だよ。君が連れてこられなかった」
    「あ、兄者!」
    「いいのいいの。それ私の口癖だったから。私が連れてこられなかった膝丸ね。きてくれてうれしいよ。それにしても、髭切は変わらないねえ」
    「君もね」
     そういって髭切は元審神者の頭に手を伸ばした。ぱさぱさと動く短い髪は灰がかっている。彼女はそれを払うように手を動かせたいようだったが、うまく動いていなかった。薄い唇と指先は細かく震えている。緊張でも感動でもない、本態性振戦の症状だろう。彼女が目を伏せる。
    「私は、変わったよ。おばあちゃんになっちゃった」
    「変わらないよ。君はずっと変わらない」
     ね、と言いながら、髭切は頭から手を離した。膝丸にはそれが慰めではなく本心なのだとわかる。髭切から見れば、きっとすべてがそうなのだろう。
    「そういえば、土産あるよ」
     髭切は膝丸へ目配せをし、本丸から持参したいくつかの菓子類を彼女へ贈った。

     元審神者との接触は、いくつかの規定を守れば比較的容易に行うことができる。ただし守秘義務により、現本丸の情勢――新しい審神者に関することや所持刀剣の数等――を語ることはできない。
     髭切は、皆が元気だと端的に伝えたあとは、元審神者が俗世へ戻ってから今に至るまでの話に耳を傾けた。膝丸にとって彼女は見知らぬ審神者であったけれども、その数奇な人生は大変に興味深いものであった。
     気がつけば、もうすぐ日が傾きはじめる時間だ。
    「そろそろ、行こうかな」
     随分と話し込んでいたらしい。立ち上がり身体を伸ばす髭切の横で、膝丸は元審神者を慎重に横たわらせた。それを、彼女は優しい眼差しで眺めている。似ているね、と小さな声で呟き手を伸ばすので、膝丸は少し悩んでからその手を取った。乾いた皮膚は固く、骨の形がよくわかる手だった。その手を、可能な限り丁寧に、毛布の下へと置いた。
    「……ありがとう」
     言葉は、ふたりに向けられていた。髭切が口を開きかけたとき、病室の扉の開く音がする。ちょうど女性が戻ってきたのだった。膝丸が扉からベッドへ視線を戻すと、先程まで爛々としていた瞳は塞がれて、元審神者は老婆となり、すっかり眠ったふりをしてしまった。
     髭切と膝丸は小さく別れを告げ、部屋を空けてくれた彼女に礼を言い、その場を離れたのだった。

     山は日が暮れるのが早い。エントランスを出て車へ戻る頃には、東では夜が始まり、西ではかろうじて太陽の頭が覗けている状態だった。赤く染まる空はまるで燃えているようだ。
     駐車場の車は昼間に見た台数と同じだった。もしかすると従業員が停めているのかもしれない。崖の下の民家たちはすでに山の影で真っ暗になっており、ぽつりぽつりと小さく明かりが灯っているのが見えた。
    「やっぱり冷えるね」
     車に乗り込もうとする髭切が、両腕を擦る仕草をした。確かに、日が沈みかけると気温がいっきに下がったように感じる。膝丸は髭切の方へ回り込み、着ていたジャケットを脱いで、髭切の肩へ掛ける。そのまま恭しく助手席のドアを開けてみせると、髭切は、紳士だねと弟を茶化した。
    「紳士になったのだ。兄者がいるから」
     礼を言って車へ乗り込む髭切に微笑んでから、膝丸も運転席へと移り、シートベルトを引こうと手を伸ばす。
     髭切が、膝丸をじっと眺めている。薄い色の髪が、夕日を吸い込んで赤く染まっていた。長い睫毛の影が頬に落ちている。
    「遠回り、しない?」
     賑やかなラジオのボリュームを、髭切は聞こえなくなるまで落とした。膝丸の視界の端に、黒い車が颯爽と現れた。通り過ぎしな、ヘッドライトが髭切の視線を照らしたが、膝丸に髭切の表情はうまく見えなかった。バックミラーに、テールランプの赤い光だけが残る。

     行くあてもない道を適当に走らせる。当然ながら街灯もないから山道は暗いかと思われたが、夕日が残る空は思いの外明るい。もとより不得意ではないことも幸いしてか、膝丸は運転にすっかり慣れた。髭切は窓の外ばかり眺めている。
     帰ろうと言われるまで、膝丸は車を走らせるつもりだった。細道を抜けて県道を走る。やはり人の気配はないが、時折反対車線を走る車とすれ違うようになった。車に設置されたカーナビはよほど古いのか、森の中を走っていることにされている。
     戻れなくならないように頭の中で地図を描きながら、兄者、と声を掛けると、髭切はやっと膝丸を見た。
    「……よかったか」
    「よかった?」
    「今日が」
    「ああ、うん」
    「よかったか?」
    「……よかったんじゃないかな」
     まるで他人事のように語るのは髭切の悪い癖だ。けれどそれをふたりとも、自覚していなかった。膝丸は密かに眉をひそませて、ハンドルを握り直した。兄者は、と言葉を紡ぐ。
    「はじめから、連れてくるつもりだったのだろう、俺を」
     また、車とすれ違う。すれ違う度に照らされる車内が落ち着かない。咳払いの音がする。
     朝の馬当番のあと、膝丸が部屋に戻ることを髭切は知っていた。習慣であるからだ。膝丸は毎度そうする。そして髭切が違う装いに着替える様子を見れば、有無を言わさずに付いてこようとすることだって容易に想像ができただろう。それを当日の、まるで偶然そうなったように実行する理由は、膝丸にはわかりかねることだ。
     膝丸が髭切の方へちらりと視線を流して、戻す。
    「俺を会わせるためか?」
     それとも、ただのドライバーか。そう尋ねると、髭切は口元を隠しながら笑った。
     そもそも膝丸には、この来訪の意味さえもわかっていなかった。目的は見舞いだ。それは、わかる。だが元審神者は、入院を始めて長いというから、面会に来ることは今更に感じられた。第一、レンタカーを利用して病院へ向かうというのも効率が悪い。本丸から俗世への移動箇所に限定はないから、病院の目の前に降り立つ方が無駄がない。最寄りのレンタカー屋から、片道最低一時間もかかるのだ。いくら非番で暇だからといっても、いたずらに時を過ごすことには抵抗がある。
    「前に」
     髭切は、肩にかかるジャケットに触れた。急カーブの多い山道を過ぎ、国道へ出たらしい今は途方もなく長い直線を走っている。新しい道はいつだってまっすぐだ。
    「約束、してね」
    「約束?」
    「顕現したら会わせるって」
     いつでもよかったんだよねと、髭切が小さく呟いた。いつでもよくてさ、と。
     髭切が窓の外へ目を向ける。病院を出る頃かろうじて明るかった空はいつの間にかすっかりと夜に沈み、溢れ出しそうなほどの星が爛々と輝いている。星はその命を終わらせるとき、一際大きく輝くのだという。星の瞬きは、元審神者の瞳に少しだけ似ている。
    「もう長くないね」
     窓の外へ視線を投げたままの髭切が、呟いた。
    「……日が。冬が来る」
    「ああ、冬が来るな」
    「ここの冬は、寒いのだろうね」
     すれ違う車のヘッドライトが眩しい。車が通り過ぎると、あたりは一段と暗く感じた。ラジオのない車内には、エンジンの稼働音だけが静かに響いている。また咳払いが聞こえた。
     いつまでもこうして走れたら、朝は来ないのだろうか。朝が来なければ、明日は来ず、寒さに震える冬も来ないのだろうか。
     それは髭切にとっていいことなのかもしれない。けれどそんなわけにもいかないのだ。いつか道は終わり、朝は来て、明日も、寒さを耐え忍ばなければならない冬も来る。それはずっと昔から続く理である。そうやってふたふりは今日まで紡がれてきた。
    「兄者」
     前方から視線を逸らさずに、膝丸は言う。
    「俺はいつでも上着を貸せるぞ」
     兄を支えるのが弟の役目だ、と続けた。膝丸には今日の髭切のすべてがわからなかったけれども、わからなくても、やるべきことは一つしかないのだと信じている。兄が冷えるねと言えば上着を貸すし、遠回りをしたいと言えば車を走らせるのだ。
     そんな膝丸の態度はあまりにも自信に満ちているように思えて、髭切は思わず笑んでしまった。事実膝丸は、少しばかり得意げである。
     窓の外は相も変わらず真っ暗だったが、林を抜けて川沿いを走っているのか、落ち窪んだ先に民家の明かりが並ぶのが見えた。それがずっと先まで続いているのを髭切は眺めた。帰り道とも違う向こう岸に、行くことはないだろうけれど、あちらは明るくて、温かくてよかった。
     髭切は息を付き、ゆっくりとシートに身を沈めた。膝丸、と静かに名を呼ぶと、膝丸が、どうした兄者と答える。
     星が瞬いている。帰ろうか、と髭切は優しく言った。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    🙏🙏🙏🙏🙏🙏😭😭🙏🙏🙏🙏🙏😭👏😭😭👏😭🙏😭🙏👏👏😢🍵🙏🙏🙏😭
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works