恋心を忘れる魔法薬を飲んで7年分の記憶を失うジェイドの話【最終話】 ラウンジのシフトへ向かう前、放課後の魔法薬学室で、ジェイドは日課となったきのこの観察記録を付けていた。
記憶を失ったばかりの頃はなぜ自分がそんなものに興味を持っていたのか理解できなかったが、熱心に育てていたものを放置するのも忍びないと観察を続ける内にすっかりその虜になってしまった。
本日も発育状況は良好。
きのこを持ち帰るとフロイドは嫌がるが、そろそろ食べ頃だなとジェイドは満足げにうっとりと微笑む。
そして記録を終えた日誌を閉じると、その瞬間朝のことを思い出してジェイドは小さなため息を吐いた。
あんな事を言うつもりじゃなかった。
アズールの側に居られるならそれ以上何も望まないと言ったのは自分なのに、理解してくれなくてもいいと言いながら、許して欲しいだなんて。
呆れられたに決まっていると、ジェイドは深い自己嫌悪に沈み込んでいく。
本当にそれだけでいいと思っていた。
アズールが僕の気持ちを理解できなくても、受け入れてもらえなくても、僕がアズールを好きだという事実だけでいいと。
アズールが同じ気待ちを返してくれなくても構わない。
アズールが僕をそばに置きたいと望んでくれるなら、それ以上に大切な事なんてないと思っていたのに。
「欲が出たんでしょうか……」
フロイドとアズールの言葉を聞いて記憶を取り戻そうと決意して、三人で同じベッドで眠った夜、ジェイドは本当にこれが最初で最後と決めてワガママを言った。
アズールはジェイドのワガママを拒絶する事なく受け入れて、その両手を広げてくれた。
そして抱き合えた幸福を、ジェイドは一生大切に抱えて生きていこうと思ったのだ。
でも、満たされれば欲が出る。
触れる事を許されればもっと触れたくなって、通じないと思っていた想いが通じる事を願ってしまう。
アズールに恋した自分を哀れだと思ったことはないとあんな風に啖呵を切ったのに、こんな風に欲にまみれる自分はやっぱり哀れなのかもしれないとジェイドは自分を嘲笑った。
ジェイドは実験着のポケットからスマートフォンを取り出し、ロックを解除してアルバムを開く。
薬を飲む前の自分が全て消去してしまったらしく、そこに記憶を失う以前の写真はない。
だからそこに並ぶのはほとんど今のジェイドが撮ったものなのだが、ジェイドはその中からたった一枚だけロックされた写真を選んだ。
間違って消さないようにロックをかけたそれだけは、ジェイドが撮ったのではなくフロイドが撮って送ってくれたものだ。
そして画面いっぱいに映し出されたその写真をじっと見つめていると、自己嫌悪に沈み込んでいたジェイドの頬がほんの少しだけ緩む。
同じベッドで眠った翌朝、アズールの腕の中で目覚めたジェイドはパニックだった。
「抱きしめてもいいですか」と言ったのは自分だが、ほんのわずかな間抱き合っただけですぐに離したはずの体が、目覚めてもまだ触れ合っているなんて。
一緒に眠っていたことだけでも信じられないのに、目覚めた瞬間ぴたりとくっついていたその体がアズールのものだとは考えもつかなかった。
しかし「おはよー」と聞こえたフロイドの声は隣からではなく上から降ってきた。
であれば、今自分が腕を回しているこの細い体は間違いなくアズールのそれである。
そう気付いた時、ジェイドは本当に心臓が止まるかと思った。
驚いてショック死するというのはきっと本当にある事なのだろうとジェイドはその時はじめて実感した。
ジェイドはにこにこと見下ろしてくるフロイドに視線だけを向け、口をぱくぱくさせてどうして起こしてくれなかったのかと訴える。
少しでも身動きしてしまえばアズールが目を覚ましてしまうかもしれないと怖くて、起こしてしまわないように声も出せず。
それなのにフロイドはそんな事などお構いなしに平常運転だ。
「すげーしあわせそうに寝てたから起こさない方がいいかなと思って。くっついて寝てんの可愛かったから写真撮っといたよ」
ニカッと笑ってそう言いはなったフロイドに、今度こそ悲鳴を上げそうになるのをジェイドは必死に堪えた。
そしてなんとかアズールを起こさないようにそろりと体を離し、ベッドを抜け出した瞬間「フロイド!」と珍しく慌てた声で片割れを呼ぶ。
「どうして起こしてくれなかったんですか!それに寝ている間に写真を撮るなんて…!」
「よく撮れてるよ。見る?」
「………見ます」
恋する人にしがみついて眠っていたなんて、あまりの羞恥と幸福と罪悪感と、いろいろな感情が綯い交ぜになって混乱していたが、結局欲望には抗えない。
ジェイドは未だ無防備に寝息を立てる愛しい人にそっと目をやり、それからフロイドが差し出したスマートフォンの画面に視線を移す。
そしてそこに写っているアズールと自分を見てジェイドは目を見開いた。
ジェイドの長い腕はアズールの細い体にしがみつく様にぎゅうと巻きつき、アズールの手が、ジェイドの頭に優しく添えられている。
それを見た瞬間、ジェイドの脳裏には昨日の夜の記憶がありありと浮かんだ。
最初で最後のワガママ。
君を抱きしめていいですかと、なけなしの勇気を振り絞って口にした願いを、アズールが受け入れてくれたことがうれしかった。
そして腕を伸ばし、アズールを強く抱きしめてその胸に顔を埋め、アズールの美しい手で髪を撫でられた夜の幸福。
それだけで胸がいっぱいになって、込み上げる思いがなんなのかもうジェイド自身にも分からなかった。
眠る前に解除薬を飲んだことを思い出したのは、それがすっかりひと段落してからの事だった。
やっと冷静を取り戻したジェイドに、フロイドが「そういえば」と切り出してジェイドはハッと気付く。
ジェイドは自分の中に何か変化は起こっていないだろうかと必死に記憶を探るけれど、結果、眠る前の自分と何も変わっていない事に気付いただけだった。
その朝の事を思い出しながらもう一度じっと写真を見つめ、ジェイドはスッと写真から目を逸らした。
あの時は、この一枚があるだけで十分だと思えた。
例え想いが通じなくても、アズールに同じ気持ちを返してはもらえなくても、その写真を見るだけでジェイドは抱き合えた瞬間の幸福を思い出すことができる。
でも今は、こんなものがあるからいけないのかもしれないと思う。
ほんのひと時の幸福にしがみついているから欲が出る。
抱き合うことを許してくれたなら、いつかそれ以上のことも許されるのではないかと淡い期待を抱いてしまう。
そんな事は絶対にあり得ないのだから、いっそこんなものがなければ、思い出もいつかは消えてなくなるかもしれない。
叶わない想いをずっと抱えたまま不毛な期待を持ち続けるなんて、それはアズールの言う通り、あまりにも哀れではないか。
自分の恋をそんな風に思いたくなかった。
自分さえ信じていれば、例え報われなくてもこの愛は愚かでも哀れでもないと思っていた。
ただアズールをすきでいる事さえ、惨めだなんてそんな事知りたくもなかった。
ジェイドは写真にかけていたロックを解除し、震える指先でゴミ箱のアイコンをタップする。
画面には「Delete」と「Cancel」の文字が表示され、Deleteを押せば、その写真は消える。
そしてそれと一緒に、あの夜の幸福も消してしまえたら。
「あれ、ジェイド」
名前を呼ばれたのは、今まさにdeleteを押そうとしたその瞬間だった。
ジェイドは何事もなかったようにスマートフォンを実験着のポケットにしまい、声のした方を振り向く。
「こんにちはトレイさん。部活のご用事ですか?」
「あぁ、ちょっと薬品を取りにな。ジェイドはきのこの観察か?ほんとに熱心だな」
「えぇ、そろそろ食べ頃なんです。そうだトレイさん、キッシュの具材にいかがですか?寮へ持ち帰るとフロイドが怒ってしまうので……」
しくしく、とわざとらしい泣きまねをするジェイドにトレイはハハっと笑い、「毒キノコでなければいいんだけどな」と原木を覗き込む。
「まさか、これは至って普通の食用きのこですのでご心配なく」
「『これは』なぁ……」
本当かどうか全くもって疑わしい。
嘘を吐いて揶揄っているのではないかとジェイドの横顔を覗き込めば、思いの外暗いその表情にトレイはすこし首をひねる。
「元気ないな」
「……いえ、もうラウンジに行かなければならない時間だなと思って」
「行きたくないのか?」
「そういうわけでは」
「その割に憂鬱そうだけど」
記憶を失ったばかりの頃こそ、無邪気に好奇心を剥き出しにして幼さを見せていたジェイドも、今ではすっかり元のジェイドと見分けが付かないくらいに落ち着いている。
だからジェイドが人前であからさまに表情を悟らせるようなことは無くなっていたのに、今トレイの目の前にいるジェイドは明らかに落ち込んでいるように見えた。
「何かあったのか?」
「いえ何も」
何かあったと言えばあったが、なかったと言えばなかった。
アズールとジェイドの関係がこれ以上進展する事はあり得ないのだから、何も起こりようがないのだ。
しかしどちらにせよ、他寮のトレイに話すような事はひとつもない。
「アズールのことか?」
それなのに、ズバリと言われてジェイドはつい反応してしまった。
パッと顔を上げて目を見開けば、トレイが「やっぱりな」と困ったように片眉を下げる。
自分で切り出したくせにどうしてそっちが困った顔をするのか。
批難する様な気持ちでジェイドはトレイをじとりと睨む。
「……どうして分かったんですか」
「いや、お前がそんな顔するなんてアズールがフロイドの事くらいしかないだろ」
「そんな顔とは」
「ははっ、鏡でも見てみたらどうだ?」
「……結構です」
「悪い悪い、そんなに怒るなよ。別に揶揄うつもりじゃないんだ」
「ではどういうおつもりで?トレイさんは他寮の後輩にまで常に気を配ってらっしゃるんですか。ふ…っ、ずいぶんお優しいことですね」
ジェイドらしくもなく、絡む様な口調になったのをトレイはすこし面白いなと思う。
元に戻った様に見えてやはりどこかまだ少し幼いジェイドに、つい世話を焼きたくなってしまうのは長男の性なのかもしれない。
「誰でもってわけじゃないさ。成り行きを聞いてただけに気になってな。それにお前がそんな浮かない顔してるから」
「……そんな顔してますか」
「あぁ。誰かに話を聞いてほしいって言ってる様に見えるぞ」
それは口から出まかせに過ぎなかったのだが、本来のジェイドよりすこし幼いジェイドはトレイのその言葉を真に受けて目を開いた。
まさか、僕は誰かに話を聞いてもらいたかったんだろうか。
「俺で良ければ聞くくらいはできるぞ。いいアドバイスはしてやれないと思うが」
そう言ってははっと笑うトレイを見ると、くさくさしていたジェイドの心もすこしだけ和んだような気がした。
アドバイスしてやろうと前のめりになって意気込んで来られでもしたら即刻立ち去っていた所だが、吐き出すだけなら、してみてもいいかもしれないと思う。
「僕、記憶を取り戻すことにしたんです」
「そうなのか」
「はい。それでアズールが解除薬を作ってくれたのですがやはり効かなくて」
「うん」
きっともっと聞きたい事はあるだろうに、自分からは何も聞かず相槌だけを打ってくれるトレイにジェイドは自然と口が動いてしまう。
根掘り葉掘り聞かれていたらきっと嫌気がさしていただろうに、何も聞かれないからこそ続きを話さなければと勝手に言葉が口をついて出る。
「でも、記憶を取り戻す前に、僕は自分が忘却薬を飲んだ理由が分かってしまったんです」
その時初めてトレイがすこし目を開いた。
そんなトレイの反応を見て、ジェイドは「あぁ」と気付く。
「僕がアズールへの恋心を忘れるために薬を飲んだこと、トレイさんはご存知だったんですね」
「……悪い、記憶を失くした日のお前に会って話を聞いた時、なんとなくな」
「フフ、別にあなたが謝ることではありません」
きっと自分が幼稚だったのだろうとジェイドは笑う。
あの日は何もかもが新鮮で本当に楽しかった。
突然できた足、海の中の寮、陸の空気、変わらずに隣にいる片割れ、熱すぎる紅茶、初めて見るアズールの笑顔。
何もかもがキラキラと輝いて、これから始まる新しい毎日に期待しかなかった。
聞かれたことにもなんでも素直に答えて、警戒心が無さすぎると注意された事も今となっては笑い話だ。
だからそんな警戒心のない自分がベラベラと話してしまった事から色々と察知されてしまったのは仕方のない事だと思う。
「意外だな」
「はい?」
「ジェイドはもっと嫌がるかと思ってたよ」
「何をです?」
「なんて言うかほら、ジェイドはあまり他人に自分を見せたがらないから、アズールを好きだって事も知られたくなかったかと」
「あぁ……、なるほど。そうですね、どちらかと言えば知られたくはないですが、知られてしまっても別に構いません」
「そうなのか?」
「えぇ。構わないと言うか、どうでもいいんです」
ジェイドはトレイに向けていた視線をふいと外し、どこを見るでもなくぼんやりと窓の外に目をやった。
「誰になんと思われようと全く気にならないので」
「はは、なるほどな」
「でも、アズールとフロイドだけは別です」
ジェイドの脳裏に、アズールとフロイドの笑顔が浮かぶ。
しかしふたりの表情がふいに強張って、くるりと背を向けそのまま離れていく。
そんな姿を想像するだけで、ジェイドの胸はぎゅっと締め付けられる様に苦しくなる。
「ふたりに必要とされないことだけは、ひどくおそろしい」
トレイは何も言わなかった。
簡単に「分かるよ」などとは言えないし、ジェイドが理解して欲しいと思っている様にも見えなかった。
「今朝、アズールと少し口論になってしまって」
ジェイドは焦点を結んでいなかった視線を窓の外から手元へ落とし、朝の出来事を反芻する様にぽつりぽつりと話し出す。
「……口論と言うより、僕が一方的に不満を漏らしただけですが」
いやにまじまじと見つめられていたかと思うと、ふっと目を逸らされて黙ってはいられなかった。
「なんでもない」と言うアズールを追求しなければ、あんな事にはならなかったのに。
「自分に恋をするなんて哀れだと、……僕が可哀想だと言われて、抑えがきかなくて」
トレイは相変わらず何も言わなかったけれど、心の中では「あぁ」と頭を抱えていた。
アズールのやつ、不器用にも程がある。
「アズールが自分に価値がないように言うことが我慢できなくて、でもなんと言えばアズールに伝わるのかもわからなくて」
俯いたまま苦い表情を浮かべるジェイドを見れば、その時のジェイドがどれだけ苦しかったかトレイにも分かる。
沈着冷静で常にうっすらと笑みを浮かべているあのジェイドが、自分の前で取り繕うことも忘れてその端正な顔をこんな風に歪めるなんて。
「僕は、色々と間違えてしまったんだと思います」
まるで懺悔でもするように、ジェイドは縋るような気持ちで吐き出していた。
「アズールのそばに居られればそれだけでいいと思っていたのに、それ以上何も望まないと言いながら、僕の気持ちを許して欲しいと……」
ジェイドはひどく後悔しているように鎮痛な面持ちで、見ているだけでも痛ましいそんな姿にトレイまで胸が痛くなる。
「許して欲しいなんて、望むことすらおこがましいのに」
そう呟いたジェイドに、トレイはずいぶん前に抱いていた印象を思い出す。
アズールとフロイドに振り回されてばかりの、謙虚で真面目で大人しくて苦労性のジェイド。
リドルには早々に眼鏡を買い替えろと忠告されてしまったが、なんだ案外的外れでもないじゃないかと思う。
アズールとフロイドに厭われることを恐れて、自分の願望すらおこがましいと言い捨てるジェイドは痛々しいほどにいじらしい。
しかしやはり、いじらしいだけのジェイドなんてジェイドらしくない。
「きっとアズールは僕のことをうっとおしいと思ったでしょうね」と言うジェイドに、トレイは「そんな事はないと思うぞ」と言い切った。
「いいんです。慰めていただきたいわけではないので」
「いや慰めてるわけじゃない。本当にそう思ってるだけだよ」
「え……?」
いやにはっきりと言うトレイにジェイドの方が戸惑う。
副寮長のトレイとアズールは交流がないわけではないが、そこまで親しい間柄ではない。
友人と呼ぶには程遠く、それなのにトレイが何をもってそんな風に断言するのかジェイドには分からない。
「そうだジェイド、やっぱりそのきのこをもらうよ。代わりにと言っちゃなんだけど昨日試作したタルトがあるんだが食べに来ないか?」
「え……、今からですか?せっかくですが僕本当にもうラウンジに行かなければならないので」
「それじゃあテイクアウトにするよ。アズールとフロイドの分も詰めてやるからさ。うちの寮まで取りに行ったって10分もかからない。多少シフトに遅れた所で大した問題はないよ。フロイドの気まぐれに比べれば可愛いものだろ?」
「ふふっ、それは確かに」
「いつもアズールとフロイドに振り回されてるんだからご褒美にタルトくらい食べたってバチは当たらないさ」
「でも、トレイさんの部活の方はよろしいんですか?」
「あぁ、俺は急ぎじゃないから問題ない。そうと決まれば早く行こう」
急に強引に態度を変えたトレイに戸惑いつつも、単純にトレイのタルトは魅力的だ。
最初の日にお茶会に招待されて以降何度かトレイに焼き菓子をもらったことがあるが、タルトはお茶会の日以来だ。
またあの美味しいタルトが食べられるのかと思うと沈んでいた心もほんの少し上向いて、我ながら単純だなと思いながらジェイドは結局トレイに従ってしまう。
そして一緒に魔法薬学室を出て鏡舎に向かう道すがら、トレイがふと思いついたように「あぁ」と言った。
「やっぱり遅れる連絡くらいはしておいた方がいいかもな。理由が分からないとアズールが怒るかもしれないし、ハーツラビュルで俺からタルトを受け取ったらすぐに向かうってちゃんと伝えておけよ」
「あぁ、そうですね。ありがとうございますそうします」
そう言われてジェイドは素直にスマートフォンを取り出し、アズールにメッセージを送る姿をトレイはにこにこと見守っていた。
にこにこと言うか、通りのすがりの一般生徒にはそれが、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて見えた事をジェイドは知らない。
寮服に着替えていつものようにコートを羽織りすっかり支配人の顔になったアズールは、開店前のモストロラウンジの入口に仁王立ちになって腕を組み、ひっきりなしに指をトントンと叩き続けていた。
そして出勤してきたスタッフ達は、機嫌最悪の支配人の逆鱗に触れぬよう気配を消してその横をそそくさと通り過ぎていく。
「遅い……!」
今日は早番だと言うのに、ジェイドがまだ姿を現さない。
とは言えまだ始業には早く、一般のスタッフもちらほらと集まり始めたくらいの時間ではあるが、いつも早めに出勤してくるジェイドがこの時間になっても現れないのは珍しい。
全く、シフトにはちゃんと出ると言っていた癖にどこで油を売っているんだ。
いつもの様に早く来てくれたら、ラウンジが始まる前にきちんと謝ろうと思っていたのに……。
そう思い出して、アズールはイライラと忙しなく動かしていた指をぴたりと止めた。
普段は遅刻することなどないジェイドがいつもより遅いというだけで、僕はなぜこんなにもイラついているんだろう。
それに謝ろうと思っていたと言うのに、今顔を見たらきっと文句を言ってしまったに違いない。
そう気付いてアズールはその顔をくしゃりと歪めた。
怒りたいわけじゃないのに。
ジェイドの事を考えるとどうにも感情がコントロールできない。
結局昼間思い出した記憶の正体も分からず、アズールの中には余計モヤモヤが広がっただけだった。
どんなに記憶を探っても浮かんだ言葉以外には何も思いだせない。
記憶の中のジェイドの幼さから、辛うじてそれがエレメンタリースクールの頃だということが分かるだけで、どうしてジェイドとそんな話をするに至ったのかも全く分からなかった。
だってその頃のジェイドとアズールに全く接点などなかった。
いやクラスメイトであるという点では確かに接点があったのだけれど、その頃のジェイドの目には自分など決して映っていなかっただろうとアズールは思う。
だってその頃のアズールと言えば、本当にグズでのろまで何もできない泣き虫だったのだ。
そんな自分のことを、優秀なウツボのジェイドが気にかけるはずもない。
アズールは小さくため息を吐き、いつまでもこうしていても仕方ないと踵を返してVIPルームに戻ることにした。
そして歩き始めた所で、寮服の内ポケットに入れたスマートフォンが振動する。
ジェイドかもしれないと急いでポケットを探り、アズールはスマホを手に取ってパッと通知に目を走らせる。
それは思った通りにジェイドからだった。
そしてその内容をザッと確認した瞬間、アズールはカッと頭に血が上るのを感じた。
なんで。
どうしてよりによってトレイさんと一緒なんだ。
キノコのお世話で遅れますと言われた方がまだマシだった。
それか急に山に登りたくなったので今日は休みますだとか、ジェイドが絶対にしなそうな事を言われてもきっと呆れるだけで済んだはずだ。
それなのになぜ、ジェイドはのんきにタルトなんかを取りにわざわざハーツラビュルまで向かっているのだ。
人の良さそうな顔をして食えない男の甘い言葉に簡単に釣られてノコノコついて行くなんて、しかもそれはラウンジのシフトに遅刻してまですることなのか。
アズールの中にふつふつと怒りが湧き上がり、そう言えば最初からジェイドは彼によく懐いていたなと思い返す。
リドルにジェイドのフォローを頼んだのはアズール自身だが、トレイにジェイドを任せたのはリドルだ。
いくら記憶を失くしていたとは言え、本来なら警戒心の強いジェイドがよくも見ず知らずの人間とふたりきりになる事を許したものだなと思う。
そして自分達の元に帰ってくるなりハーツラビュルのお茶会に行きたいだなんて。
その日のことを思い出してアズールはまたはらわたの煮えくりかえるような思いがした。
あの日ジェイドはモストロラウンジに来る事を楽しみにしていたのに、あっさりと手のひらを返されアズールがどれだけショックを受けたか。
そうだあの時もそうだった。
トレイさんにもらった菓子が美味しかっただとかなんとか、甘いものなんかに釣られて結局僕より食い意地の方が大事なのか。
それに帰ってきた時だって。
ラウンジの場所が分からないだとか言ってわざわざトレイさんに付き添われて、そんなもの他寮生だって訪れるカフェなんだから場所なんてちゃんとわかるようになってるに決まってるだろう。
トレイさんもトレイさんで、手土産のお礼をなんて言いながら僕に牽制をかけに来たんじゃないのか。
一度芽生えた猜疑心は止めどなくアズールの心を乱して、その思考はどんどん見当違いな方向に暴走していく。
あっという間に昇りつめた怒りと猜疑心がアズールの中でとぐろを巻いてその心を埋め尽くす。
ジェイドを責めたいんじゃないのに、ジェイドの想いを受け入れられない自分にそんな資格なんてないのに、心を真っ黒に塗りつぶすようなその感情をアズールにはどうすることも出来ない。
「すこし空けます」とスタッフに告げて、モストロラウンジのドアを出た瞬間アズールは忙しなく大股に歩き始めた。
普段ならそんなみっともない歩き方はしない。
寮長らしく威厳を持って悠然と、背筋を伸ばしてゆったりと歩くことを意識しているが今はそんな余裕などなかった。
大股に進む足はどんどん速くなり、途中からはほとんど駆け足になっていた。
いつだったか、ジェイドに足音だけで分かると言われた時は本当に気持ちの悪い奴だなと思ったけれど、ジェイドはそれだけ自分のことを気にかけてくれていたのだなと思うと今はすこしだけうれしい気がした。
なぜそんな事が嬉しいのか自分でもわからない。
ついに頭がおかしくなったのかもしれないなと自嘲しながら、アズールはひたすらに足を動かしてオクタヴィネルの鏡をくぐった。
そして鏡舎にたどり着いてもジェイドの姿はなく、ここまで会わなかったのだからまだハーツラビュルにいるに違いないとアズールは迷わずそちらに向かって行った。
「ありがとうございましたトレイさん、それでは僕はこれで失礼致します」
「俺も部活に戻るから鏡舎まで一緒に行くよ」
「そうでしたね、ではご一緒しましょう」
トレイがタルトを詰めてくれた箱を片手にジェイドは上機嫌だった。
次のなんでもない日のパーティに向けて初めて作った試作品だというそれは、素人の学生が作ったとは思えないほど見た目にも美しくとても美味しそうだった。
試作品とは言えきっと寮生達はみんな食べたがるだろうに、「本当に僕が頂いていいんですか」と言うと、「うちの寮生達だと感想が乏しくてな」とトレイが笑う。
曰く何を食べさせても「おいしい!」しか返ってこないので試作のし甲斐がないのだと。
「だから舌の肥えたお前たちに率直な感想をもらえると助かるよ」
「なるほど、それでは忌憚なく意見を言わせて頂きますね。アズールは僕よりずっと味覚に優れていますからきっと参考になると思います」
「あぁ楽しみにしてるよ。……ま、アズールが食べてくれるかは分からないがな」
そう言ってトレイがまた片眉を下げて笑ったのを、ジェイドはきょとんとして見ていた。
トレイが作ったプロ顔負けのタルトならきっと喜んで食べてくれると思うが、アズールはカロリーを厳密に計算しているからそういう意味で言ったのだろうかと考えながらジェイドはトレイと肩を並べて歩いた。
そしてハーツラビュルから鏡舎へ繋がる鏡の前まで来た所で、先に鏡舎側から出てくる人影があって二人は立ち止まる。
そして完全に姿を現したその人を見て、ジェイドは思わず「え」と声を上げた。
「アズール、どうなさったのですか」
「……お前が遅いから迎えに来たんですよ。全く、もうすぐ開店だと言うのに何をしてるんだ」
「申し訳ありません、先程連絡した通りなのですが」
「それは分かってます!もういいから帰りますよジェイド」
アズールは終始不機嫌に、トレイの方を見ようともしなかった。
たった十分やそこらシフトに遅れるだけで、わざわざ寮長が他寮まで迎えに来るなんて滑稽だとアズール自身が一番分かっている。
だからこそアズールはトレイの顔が見られず、いつものように鷹揚に振る舞う余裕もない。
今はただ一刻も早く、ジェイドをトレイの前から連れ去りたかった。
そんなアズールに戸惑うジェイドをよそに、トレイはわざとゆっくり含みを持たせて「ジェイド」と呼んだ。
「はい?」
「さっき言ったことよろしくな」
さっき言ったこと?とジェイドは頭の中で一瞬クエスチョンマークを浮かべるが、タルトの感想のことだろうかと納得して「わかりました」とにっこりと笑う。
するとトレイが「いい返事を待ってるよ」と同じように笑みを返し、タルトの感想の件にしてはおかしな言い方をするなとすこし疑問には思いつつ、それ以外に思い当たることもないのでジェイドは心得たように頷いた。
「かしこまりました。きっといいお返事が出来るかと」
「はは、そうだとうれしいよ」
自分の目の前で、自分を無視して、見つめ合って笑い合うふたりにアズールの中でまた怒りが込み上げる。
「さっき言ったこと」ってなんだ。
「いい返事」ってなんだ。
ジェイドは僕の片腕なのに、どうして僕の知らない所で僕の知らない話をするんだよ。
それにどうして、お前は僕以外にそんな風に笑うんだ。
全てが理不尽な怒りだということはわかっていた。
ジェイドがどこで誰と話していようとアズールにそれを咎める権利などない。
ジェイドが楽しそうに友人達と交流するのを、ジェイドがうれしそうに笑うのを、アズールが止めていい理由なんてないのに。
それなのに、「元気出せよ」とトレイがジェイドの頭に手を伸ばしたのを、アズールはもう見ていられなかった。
トレイの手がジェイドに触れそうになった寸前、アズールは力加減など一切考えず強引にジェイドの腕を引き、全く身構えていなかったその大きな体がぐらりと傾ぐ。
その場に倒れることはなんとか止まったものの、無防備に立っていたジェイドの手をするりと抜けた真白い箱は宙を舞い、そのまま落ちてぐしゃりとひしゃげた。
「あ、」
ジェイドは一瞬驚きに目を見開き、それからすぐに落ちた箱に駆け寄る。
そして急いで箱を開いてみれば、美しい宝石のようだった色とりどりのフルーツのタルトは、箱の中で転がってぐちゃぐちゃに崩れてしまっていた。
タルトを見て泣きたくなる日が来るとは思ってもみなかった。
ジェイドも、アズールも。
「タルトを食べに来ないか」なんて突然何を言い出すのかと思ったのに、そのタルトを見た時には落ち込んでいたジェイドの気分もすっかり上向いていた。
美しくて美味しそうなタルトを見ただけでそんな風に気分が変わるなんて、僕はずいぶん単純なんだなと思いながら、ジェイドはアズールの事を考えていた。
アズールがオクタヴィネル寮に作り上げたモストロラウンジ。
アズールは実家がリストランテだから飲食店に馴染みがあっただけだなんて言っていたけれど、あの美しいラウンジは到底それだけで作り上げられるものではないとジェイドは思う。
アズールがこだわって選び抜いた什器に、それを彩る見た目にも美しいドリンクや料理の数々。
限られた一般開放日を除けば客は全員がむさ苦しい高校生男子だと言うのに、一切の妥協を許さず美しく装飾を施され洗練された店内。
料理を楽しむのに味はもちろん大切だけれど、商売として客に提供する為には空間そのものも大切なのだ。
美しい空間で美しい食器に並べられた美味しい食事。客はその全ての対価に代金を支払い、満足して帰っていく姿をアズールが時折うれしそうに眺めているのをジェイドは知っている。
美しく美味しい食事は往々にして人の欲を満たし、時に落ち込んでいた心を回復させてくれる。
詰まる所、悪どい守銭奴と思われているアズールも、自分が作り上げたラウンジで食を通して客を満足させる事に喜びを感じているのだ。
そうでなければあんな場所は作れない。
そういうアズールなのに、だからこそ、ジェイドはぐちゃぐちゃに崩れてしまったタルトにひどく悲しくなる。
ものづくりの大変さも、そこから得られるよろこびも、アズールはぜんぶ知っているのに。
崩れてしまったそれを見ていられず箱の蓋を閉じながら、ジェイドは小さくため息を吐いた。
アズールとフロイドにもと、せっかくトレイが3ピースのタルトを詰めてくれたのに、全部台無しだ。
「……申し訳ありませんトレイさん。タルトは僕が責任をもって頂きますので」
「いいんだ気にするな。また今度違うのを作ってやるからそれはこっちで処分するよ」
「いえ、形が崩れてしまっても味は変わりませんから。トレイさんがお嫌でなければこのまま僕に持ち帰らせて下さい」
「食べてもらえるなら俺はうれしいが……、本当に気にしなくていいからな」
「はい、ありがとうございます」
ジェイドは蓋を閉じ直した箱を今度はしっかりと両手で抱え、立ち上がってトレイに深く礼をした。
「行きましょうアズール」
ジェイドにそう言われて、自分のしたことに呆けていたアズールもやっと我に返る。
「……申し訳ありませんトレイさん。このお詫びは後日必ず」
「本当にいいんだって!アズールもそんなに気にしないでくれ」
「いえそうはいきません。せっかく頂いたタルトを台無しにして申し訳ありませんでした。今日は時間がないのでこれで失礼しますが、日を改めてまた伺います」
「はは…、本当にいいのに」
しかしこれ以上言っても無駄だろうなと諦めてトレイは鏡を抜ける二人を見送った。
校舎に戻るつもりだったので一緒に行っても良かったのだが、さすがにこれ以上ふたりの間に割って入るわけにもいかない。
「うーん……、ちょっと意地悪しすぎたか」
すこしアズールを煽ってやるくらいのつもりだったのに、全くもって予想外の展開になってしまったことにトレイも多少の罪悪感を覚える。
しかしその一方で、無自覚なアズールにはいい薬になったかもしれないなとも思う。
だって最初にジェイドをラウンジへ送って行った日のアズールときたら。
トレイはその日の事を思い出して堪えきれずあははと笑った。
本当に何の裏もなくただお礼を言いに行ったトレイに、いつも以上に余裕たっぷりな態度を装いながら、しかしあからさまな警戒心を隠すこともできずに威嚇してきたアズール。
トレイに1ミリもそんなつもりはなかったのに、まるで「ジェイドは絶対に渡しませんよ」とでも言うように。
「あはは……っ!」
ああ見えてアズールも案外可愛いところがあるじゃないかとトレイはまたひとり笑う。
今日だって、最後のアレだけは予想外とは言え面白いくらいトレイの思った通りの行動に出てくれた。
ひとしきりくっくと笑ったところで、トレイはふと最後に見た二人のもの悲しい後ろ姿を思い出す。
やっぱり少しやり過ぎたかもしれない。
これをきっかけにアズールが素直になってくれればいいけど、どうか悪い方には転びませんようにとトレイは心の中でとりあえず祈った。
トレイがそんな風にいい加減に祈っていた事などつゆ知らず、鏡舎を抜けてオクタヴィネルに戻ったジェイドは、そこに誰もいないことを確認してアズールの方へ向き直った。
「アズール、私用でシフトに遅れた事は本当に申し訳ありません。ですが、」
自分の非を詫びながら、しかし間髪入れず言葉を続けたジェイドにアズールはびくりとして背筋を伸ばす。
批難されるのだということは分かっていた。
だって自分はそれだけの事をした。
「一体どうしたと言うのですかあなたらしくもない」
苦々しくその顔を歪めるジェイドの両手には、ひしゃげた白い箱がまだしっかりと抱えられている。
そうしたのはアズール自身だと言うのに、今はジェイドに大切に抱えられたその箱すらアズールには憎く見えた。
「僕には、あなたの考えてらっしゃることがわかりません」
ジェイドが手の中の箱をいっそう大切そうにぎゅっと抱え込んだように見えて、アズールは思わずパッと視線を逸らした。
自分のしたことの浅はかさは重々承知しているつもりなのに、この期に及んで「僕よりトレイさんにもらったそのタルトの方が大切なのか」という幼稚な感情が湧いてしまう自分に嫌気がさす。
しかしアズールがそんな風に考えている事など微塵も知らないジェイドには、アズールが咎められて不貞腐れているようにしか見えなかった。
勝手にやって来てタルトを台無しにした挙句、「僕は悪くない」とばかりに目を逸らすアズール。
ジェイドは、せっかく美しいタルトで満たされていた心がひび割れてぼろぼろと崩れ落ちて行くような気がした。
「……あなたが僕を仕事上で必要としてくださるなら僕はいくらでもそれに応えます。でもそれ以外の所で……、理解できないのなら放っておいて下さればいいんです。なのにどうしてわざわざ僕を迎えに来てまでこんな事をするのですか」
どうしてと言われても、アズール自身が聞きたかった。
自分はどうしてこんな行動に出てしまったのか、それはアズール自身にもわからない。
しかしアズールが答えをくれないせいで、ジェイドはますます追い詰められて行く。
こんな事は言いたくないのに言わずにはいられない。
「僕が遅れると言った事がそんなに気に入りませんか」
考えられる理由はそれくらいしか浮かばなかった。
アズールにとって自分は便利な駒でしかない。
自分の能力を認められて側に置いてもらえるのは嬉しいが、アズールにとってはそれだけだ。
仕事を言い渡せば喜んでブンブンと尻尾を振るような、便利な駒だから重宝されているに過ぎない。
だからこそ、飼い犬に勝手な事をされるのが我慢ならなかったのかもしれない。
「フロイドは連絡もなく突然休む日もあるのに、僕はきちんと連絡をしてもたったの十分遅れることすら許せませんか」
何も言えず黙り込んでいたアズールも、ようやく「それは違う」とハッとする。
フロイドではなくジェイドだから許せなかったんじゃない。
そうではなくて、
「あなたは一体、僕に何を求めているんです」
アズールが口を開くよりも前に、強い口調でそう詰め寄られてアズールはまた口を噤んだ。
何を求めてる?
僕は、ジェイドに何を求めているんだ。
「完璧に支配して思い通りに動かすことですか?僕があなたのそばに置いて欲しいと望んだのだから、僕には何をしてもいいと思ってらっしゃるんですか」
違う。
そんな事は思ってない。
ジェイドを支配して思い通りに動かしたいなんて、そんな事を考えたことは一度もない。
でも、じゃあ何を望んでいるのだと考えると、アズールには適切な言葉が何ひとつ思い浮かばなかった。
「アズール……!なにかおっしゃってください」
切羽詰まったようなジェイドのその言葉に、アズールがようやく絞り出したのはあまりにも予想外のものだった。
「だってお前が、トレイさんと一緒にいるなんて言うから」
アズールがそう言った後たっぷりと時間を空けてから、ジェイドはスンと表情をそぎ落とし「は?」と低い声を出した。
「僕とトレイさんが一緒だとなんだと言うんです。そんな事あなたになんの関係もないでしょう」
「関係ないことはないでしょう……!」
「はて……、一体どんな関係が?」
ジェイドは揶揄うようなつもりもなく、ほんとうに理解できなくて首を傾げた。
そうして改めて聞かれると、アズール自身にもなんの関係があるのかよく分からない。
関係は分からないが、ジェイドとトレイが二人でいるのはとにかく嫌だ。
「ただ……、僕が嫌なだけです」
「嫌?」
「お前とトレイさんが親しくしていると何故かモヤモヤするんです。連絡を受けた時から気が気じゃなくて……、気付いたら足が動いていました」
「なぜ」
「そんなの知りませんよ!分かっていたら僕だってこんなにモヤモヤしない!」
半ば逆ギレのように喚き散らしてしまい、アズールはまた自己嫌悪に陥る。
最近、ジェイドの事となると本当に理性を欠いてわけが分からなくなる。
どうしてこんなにジェイドの事が気になってしまうんだろう。
少しシフトに遅れたくらいでわざわざ他寮まで足を運んで連れ戻しに行くなんて正気の沙汰じゃない。
でも、居ても立っても居られなかったのだ。
ジェイドがトレイと一緒にいると思うと、どうしても胸がざわついて。
まだ自分の気持ちを上手く消化できないアズールの前で、ジェイドは「ふむ」と口元に手を当てる。
「アズール、それではまるであなたがトレイさんに嫉妬しているように聞こえます」
俯いていたアズールは反射的に顔を上げて目を見開いた。
「は……っ、はぁ!?嫉妬??そんなわけないだろう!!」
「落ち着いて下さい。そのように聞こえると言っただけです。あなたが僕に関してそういった感情を持つはずがないことは分かっています」
「そ…、そうですか……」
余りにも全力で否定してしまった事にジェイドが多少イラついた様子ではあったが、しかし淡々と言い切るその姿は傷付いている風でもない。
それはつまり、アズールが自分を恋愛対象として見ることは絶対にないと、ジェイドが確信しているからなのだろうと気付いてアズールは消沈した。
しかし次の瞬間、そんな自分に気付いてアズールはパニックになる。
なぜ、ジェイドが諦念している事に僕が落ち込む必要があるのか。
ジェイドが完全に諦めてくれているなら願ったりではないか。
そのはずなのに、ジェイドがとっくに諦めているのだと分かった途端見限られたような気がしてひどくさみしい。
さみしい?
なぜ??
恋愛感情を向けられていると知った時は本当に迷惑だと思ったのに、今はまるで、ジェイドに僕を好きでいて欲しいと望んでいるような──
「ジェ……っ、ジェイド!とにかくさっきの事は本当にすみませんでした。お詫びには僕が行きますのでお前はあまり気にしないで下さい」
「アズール?顔が赤いようですが大丈夫ですか……?」
「はっ!?そんなことないですが???」
そう言いながら、アズールは自分の顔が火照っているのをありありと自覚していた。
海の中にあるオクタヴィネルは真夏でも涼しいくらいの温度に保たれているのに、急激に体温が上がってひどく暑く感じる。
「本当に大丈夫ですか?」
そう言ってジェイドが少し屈み、その顔が急に近付いてアズールはひゅっと息を飲んだ。
火照っていた顔が、もっと熱くなる。
「だ…っ、大丈夫です問題ありません!さぁ早く行きましょう。もうとっくに開店していますよ!」
「……えぇそうですね」
ジェイドはまだ腑に落ちないながら、くるりと背を向けて歩き出したアズールに大人しく従う。
それにしても、僕とトレイさんが一緒にいるのが嫌だと言うのは一体どういう感情なのだろうとジェイドはまた首を傾げる。
優秀な部下を取られるのではないかと警戒しているんだろうか。
いやアズールともあろう人が僕ごときのことでそんな風に考えるはずもない。
だとしたら何故?
結局アズールにもジェイドにもその答えは分からず、今朝の言い合いもうやむやになったままふたりは揃ってモストロラウンジへと帰って行った。
モストロラウンジへ戻るなりアズールはVIPルームに引きこもり、一心不乱にデスクワークに勤しんでいた。
一瞬でも気を抜けば余計な事を考えてしまいそうで、溜まっていた書類の文字を追う事だけに集中する。
一旦入り込んでしまえばアズールの集中力は凄まじく、目の前の仕事にどこまでも没頭していく。
しかしどれだけ集中していてもそれが途切れる瞬間というのはあるもので、その切れ間が訪れるたびアズールはジェイドの事を考えてしまう。
ジェイドに好きでいて欲しいなんて、そんな感情は一体どこから湧いてきたのか。
それに、いつもよりほんの少しジェイドの顔が近くにきただけで、心臓が止まるかと思うほどドキドキした。
思い出してまたドッドッと激しくなる鼓動に、アズールは思わず両手で胸を抑える。
そんな事をしても高鳴る鼓動がおさまってくれるはずもないのに、今にも飛び出してきそうな心臓を、上から抑えつけずにはいられなかった。
なんで、どうして。
ジェイドが記憶を失ってからと言うもの、アズールはそればかりを考える。
今朝はジェイドの横顔をまじまじと見ていても何も感じなかったのに、その横顔を見つめながらジェイドとのキスについて考えていた事を思い出して、アズールは顔から火を噴きだしそうな程恥ずかしくなる。
朝はなんとも思わなかったのに、なんで。
別に唇を合わせるくらいの事なんでもないと考えていたのはつい今日のことだ。
ジェイドの事は嫌いじゃないし、抱き合うのも唇を合わせるのも大差ないと思っていた。
それなのに、今はそれをすこし想像しただけで心臓が破裂してしまいそうなほどに早鐘を打つ。
なんで、なんでなんで。
この一日で色々な事があり過ぎてアズールははずっと混乱したままだ。
昼間急に浮かび上がった謎の記憶についても解明できていないし、ジェイドとトレイが親しくする事にどうしてあんなに胸がざわつくのかも分からない。
その上ジェイドの顔を思い出しただけで顔が火照ってしまう意味もアズールには全くわからない。
全然何もわからない。
分からない事だらけで、もう何に混乱しているのかさえ分からない。
とにかくぐちゃぐちゃな頭の中をアズールは懸命に整理しようと試みる。
いやどう考えても全てはあの正体不明の記憶のせいだ。
それしか思い当たらない。
あの妙な記憶を思い出してから僕はおかしくなった。
やっぱり、あの記憶がなんなのか分からない限り前には進めない気がする。
そう思い至ってアズールは昼間思い出した記憶の断片を探る。
母と祖母にかけられた言葉、あれはまるで僕を慰めるためにかけられた言葉のようだった。
でもなぜ、どうして、いつそんな事を?
それを辿ろうとするとやはり何も思い出せず、その前後が完璧な空白であったかのように頭が真っ白になる。
この状態はどう考えても不自然だ。
まるで、記憶を意図的に消去でもしたかのように。
「え、」
その可能性を、アズールは今の今までただの一度も考えたことはなかった。
だってあり得ないだろうこの僕が。
過去の僕が、自分の記憶を消したとでも言うのか?
ゼロではないその可能性に気付いて、アズールは全身が粟立つのを感じた。
いやまさか、だって何のために。
勘のいいアズールなら直ぐに気付きそうなその答えを、思い出したくないとばかりに無意識に先延ばしにする。
それでも体の奥底から泡のように湧き上がってくるその記憶の断片を、アズールは止める事ができない。
───本当にいいのねアズール。でもこの薬が効くのは一度だけ。もしもう一度……………をしてしまったら、その時は……………………できないよ。
「え?」
それは昼間思い出したのとは別の記憶だ。
まるで白昼夢を見ているかのように、大好きな祖母が幼い自分をぎゅっと抱きしめる姿が鮮明に浮かぶ。
「なんだこれ……?」
こんな事は覚えてない。
まだ丸々と太っていた頃の醜い自分。
そのアズールが、優しく抱きしめてくれる祖母にしがみついてすがる。
「こんなこと……、一体いつ」
浮かび上がった記憶だけは鮮明で、しかしやはりその前後は空白だった。
それに今思い出した記憶の祖母の言葉には欠けがある。
「……なにをしたら、なにができないって言うんだ」
と言うか、薬とは。
記憶の謎を解き明かそうとしたはずが、また更に謎が増えてアズールはますます混乱する。
一体なんだって言うんだ。
僕の中でなにが起こってる。
……いや過去の僕に、一体何があったんだ。
アズールはさっきまで胸を抑えていた手で今度は頭を抱えこんだ。
さっきはジェイドの事を思って高鳴っていた胸が、今度は別の意味で鼓動を速くする。
どういう事だ?
どうしてこんなに急に忘れていた記憶をいくつも思い出す。
というかこれは本当に過去にあった事なのか。
捻じ曲げられた記憶の可能性はないのか。
アズールがまた分からない事だらけの無限ループに陥っていると、バンッ!と大きな音と共にVIPルームのドアが蹴り上げられた。
「ねぇアズールちょっと聞いてよ〜」
そう言って不満顔で入ってきたのは当然ながらフロイドで、フロイドは頭を抱えて縮こまっているアズールをきょとんと見下ろす。
「あれ、今日はドアを蹴るなって言わないんだ?」
分かっているならやるな、という言葉すら、今のアズールからは出なかった。
フロイドはとりあえず蹴って開けたドアを後ろ手に閉めて、ソファまで来るとどっかりと腰を下ろして固まったままのアズールを見上げた。
「なに、アズールまでポンコツなの?」
フロイドにそう言われて、アズールはやっと恐る恐る口を開いた。
「……『まで』とは」
遅番で出勤してきたフロイドによれば、今日のジェイドはとにかくポンコツだったらしい。
話しかけても返事もせずぼーっとしていたかと思えば、オーダーはミスるわ皿は落とすわ、しまいにはレジに補充しようとしたコインを全て床にぶちまけたりと散々な有様だったのだと。
「そんなにですか……」
「うん。使い物になんねーからもう上げたけどいいよねアズール」
「えぇそれは構いませんが……、あいつどうしてそんな…」
「しらね。オレはアズールが知ってるのかと思ったんだけど」
別に咎めるでもなく、フロイドの瞳がただじっとアズールを見つめる。
ジェイドがあそこまでポンコツになる理由なんてアズールの他にない。
その上アズールもこの様子では、また二人の間に何かあったのは明白だ。
「後で謝るって言ってたのにまたケンカしたの?」
「ち…っ、違います。別にケンカでは」
「じゃあちゃんと謝れたの?」
「それは……」
今朝のことを謝るどころか、別の案件が浮上しましたとはさすがに言いにくい。
「も〜どうせまたアズールが余計なことしたんでしょ。別に怒んねぇから言ってみなって」
話を聞く前から僕のせいだなんて、どれだけ信用されていないんだと思いながら全くもってその通りなので反論の余地もない。
結局アズールは開店前の出来事からさっき思い出した新たな記憶まで、洗いざらいぶちまけてフロイドの反応を待った。
まぁ待つまでもなく、予想通りの反応を返されたわけだが。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜…………」
フロイドは盛大にため息を吐き、呆れ返ってソファにごろんと寝転んだ。
「なんなのお前らすれ違いの天才かよ」
「は……?どういう意味ですか」
「もうほんっとさ、なんつーか、はぁ〜〜〜…」
「一体なんなんだ……!何か分かったなら教えてくださいよ」
「いや逆に、なんでアズールはここまできてわかんねぇの?」
「は……?何がです」
本当に分からない顔できょとんとするアズールにフロイドは「う〜ん」と唸る。
もしやこれも、その薬とやらの効果なのかもしれない。
「アズールはさぁ、ジェイドのこと嫌いじゃないよね」
「……それはもちろん。嫌いなやつをわざわざそばに置きません」
「じゃあ好きってことだよね」
「好きか嫌いかの二択ならそうですね」
「なんでわざわざそういう言い方しかできねーかな……。まーいいけど、んじゃその好きってオレとジェイドで同じ?」
「は?」
「アズールはオレの事好きじゃん」
「自信満々だな。まぁすきはすきですけど……」
「知ってた。で、アズールがオレとジェイドをすきだなって思うのって同じ種類の気持ち?」
「はぁ……?言ってる意味がわからないんですが」
「まじかー……。じゃあ質問変えんね。オレがウミガメくんとふたりで遊びに行ってくんねって言ったらどう思う?」
「お前トレイさんと二人で出かけるほど仲が良かったのかと思いますね」
「ふっ、確かに。じゃあそれ嫌?」
「は?なぜ。お前が誰とどこに行こうが勝手でしょう」
「だってジェイドなら嫌なんでしょ」
そう言われてアズールはハッと言葉に詰まってしまった。
確かに嫌だ。
フロイドとトレイで出かけると言われてもずいぶん変わった組み合わせだなと思うだけだが、ジェイドにトレイと二人で遊びに出かけると言われた日にはきっと気が気ではないだろう。
なにせほんのちょっと向こうの寮に寄ったくらいで慌てて迎えに行ってしまう程なのだ。
もしも本当にそんな事があったら行く先々まで尾行してしまいかねない。
そしてちょっとでもいい雰囲気になる様な事があったらと思うと、アズールはもうそれだけで胸がムカムカしてくる気がした。
「つまりそれは、アズールがオレとジェイドに向けてる『すき』は種類が違うってことじゃん」
ここまで丁寧に説明されてしまえば、もうアズールには弁解の余地もない。
フロイドの言う通り、アズールがフロイドを思う気持ちと、ジェイドを思う気持ちは確かに違う。
「アズールは恋愛感情が分かんないって言うけど、ほんとはもうとっくに知ってんじゃないの」
アズールはその言葉にぎくりとする。
思い出せない記憶の中で確かに感じたその感覚。
そしてその痛み。
「アズールは何をそんなに怖がってんの?」
「怖がる……?」
「オレにはそう見えるけど。怯えてるって言うか」
僕が怖がって怯えている?
この僕が?
それはアズールにとって信じ難いことだった。
信じ難いと言うよりも、信じたくない。
自分をいじめた奴らを見返してやろうとここまでのし上がって、今の実力を手に入れた自分にもう怖いものなどないと思っていた。
知識も実力もない雑魚共なんて今の自分ならどうとでもできる。
容姿や身体能力を揶揄って除け者にするしかできない能無しなんてもう眼中にすらない。
自分を貶めようとする奴らは逆に罠に嵌めて落としてやればいい。
自分はもう何もできず泣いていた頃の墨吐きではない。
だからその僕が怖い事なんてそんなもの……
反論しようとしてアズールが顔を上げれば、じっとこちらを見ていたフロイドと目が合った。
そしてそのままフロイドの顔を見ていると、頭の中にジェイドの顔が浮かぶ。
今のアズールにも怖いことはあった。
いつかジェイドとフロイドを失う日が来るかもしれないと、アズールはいつも心のどこかで怯えている。
「まージェイド見てると確かに恋愛って楽しいことばっかじゃねぇんだなーって思うけど、嫌なことばっかでもないじゃん」
しかしあっけらかんとそう言うフロイドに、アズールは小さな引っかかりを覚えてしまう。
フロイドは見ているだけだからそんな事が言えるのだ。
そのせいで失うものの怖さを知らないくせに、経験がないから楽観視していられるだけだ。
アズールは内側からふつふつと湧き上がる怒りを抑えきれず、拳を握りしめて恨み言のように吐き出した。
「……恋なんかしてもロクなことがないんですよ」
ソファにだらりと寝そべっていたフロイドは、片肘をついてアズールの方を向いた姿勢のまま少し目を開いた。
「恋なんてしたら、ちょっと顔を見られただけでうれしいとか会えないとさみしいとか、次はいつ話せるだろうとか……、相手のことばかり考えて勉強は手につかないし注意は散漫になるし、あげく他の奴と話してるだけで嫉妬したり自分の醜いところばかり気付かされるし……、それにすきな人に少しも相手にされない惨めさなんてお前は知らないだろう!すきになってもらうどころかその対象にも入ってないと思い知らされることがどれだけ辛いかお前にわかるのか!?とにかく恋をしてもいいことなんてひとつもないんだよ!!」
はじめは淡々と話していたアズールが、そう言い切った時にははぁはぁと肩で息をしていた。
しかしフロイドは、そんなアズールに怯むことなくにやりと笑う。
「アズールすげぇ詳しいじゃん」
「はぁ!?」
「まるで恋したことあるみたい」
「そんなわけないだろ!僕は一度も恋をしたことなんか………」
勢いよく飛び出した反論は、言い切る前に尻切れトンボになってしまった。
あれ?
今言ったことを、僕は全て知っている気がする。
アズール自身、どうしてそんな言葉が口をついて出たのか分からない。
分からないのに、アズールはその全てを知っていた。
恋をする喜び、悲しみ、期待と失望。それに嫉妬の醜さや、報われない想いへの絶望。
それのどれもこれも、アズール自身が経験した感情だ。
「どうして………」
それに気付いても尚、アズールはその恋を思い出せない。
アズールにそれだけの感情を味わわせた相手のことだけが、少しも記憶にないのだ。
「ねぇアズール、まだ分かんない?」
「え……」
「さっき思い出した記憶の中でおばーちゃんが言ってた薬って多分、恋心を忘れる魔法薬のことでしょ」
フロイドの言葉の意味をすぐには飲み込めず、アズールはぱちぱちと目を瞬いた。
「きっとアズールは稚魚の頃にそれを飲んだんだよ。だからアズールはその恋を思い出せない。だけど記憶が消えて失くなったわけじゃなかった」
混乱するアズールが理解できるように、フロイドはゆっくりと丁寧に言葉を紡ぐ。
「きっとアズールの深いとこに眠らせてるだけで、その記憶はまだアズールの中にちゃんと残ってるって事なんじゃね?」
「そんな……、まさかそんなこと…」
「だってそう考えると全部辻褄合うじゃん。そんでもってアズールがやけに同性に拒否反応示してた事とか繁殖にこだわってた理由もこれで説明がつくだろ」
「は……?」
あまりに突然のことでアズールはまだ理解が追いつかない。
それなのにフロイドはぜんぶわかった顔できっぱりと断言した。
「アズールがだいすきだったジェイドに言われたからでしょ」
その瞬間、アズールの中で何かが弾けた気がした。
アズールの中で弾けた何かが、水底から湧き上がる水泡のようにぽこぽこと浮かんで遠い過去の記憶を運んでくる。
真っ暗な海の中でアズールを抱きしめる祖母の腕。
そして祖母が、幼いアズールの髪を撫でながら静かに言った。
「本当にいいのねアズール。でもこの薬が効くのは一度だけ。もしもう一度同じ人に恋をしてしまったら、その時はどんなに苦しくてももう二度と忘れることはできないよ」
「いい……僕はもう二度と恋なんてしたりしない……もう絶対にすきになったりしないから、はやくわすれたい…!」
アズールの記憶の中の真っ黒な海で、ひときわ大きな気泡が弾けて消えた。
思い出した。
まだ幼かったあの日、僕はジェイドへの恋を忘れるために魔法薬を飲んだんだ。
ジェイドが僕を見つけてくれるよりももっと前から、僕はずっとジェイドに憧れていた。
僕がただのいじめられっ子の泣き虫だった頃から、ジェイドは大きくて強くて賢くて、絶対誰にもバカにされたりはしなかった。
フロイドだって同じように強かったけど、あの気まぐれな性格を敬遠する奴らは多かったし、陰で悪口を言われていたのを聞いたこともある。
だけどジェイドは、あの頃の僕の目から見る限り完璧だった。
冷たい海を力強く泳ぐ姿はとても美しく、グズでノロマな醜い僕とは正反対のジェイド。
僕が絶対に持ち得ないものを全て持ったジェイドを、妬む気持ちは微塵もなかった。
僕とはあまりにも違って、羨むことすら烏滸がましいような。
でもその憧れはいつか、恋に変わっていた。
あの頃の僕はあまりにも無知で幼く、自分の中でごく自然に変化したその感情を蔑む人魚たちがいる事を知らなかった。
家族が否定的だったから同性愛に拒否反応を持ったんじゃなく、家族が寛容だったからこそ、同性に恋をすることに抵抗がなかった。
だからと言ってジェイドが自分を見てくれるとは考えたこともなかった。
性別以前の問題で無理に決まっていると諦めていた僕は、決してその思いを口に出したりはしなかったし、ただ見ていられるだけ十分だった。
僕がいじめられていた事をジェイドは知っていたと思う。
でも助けて欲しいとは思わなかった。
むしろそんな僕など気にも留めず自由に泳いでいる姿が好きだった。
ジェイドはそれでいい。
それだからいい。
自分の力でなにひとつできない弱い僕なんかに構わず、ただフロイドとふたり、力強くそこにいてくれるだけで良かった。
そんな風に、ただのクラスメイト以上に僕とジェイドが関わることもなく過ぎていったある日、授業でペアを組むように指示された。
僕は反射的に「うわっ」と心の中で呟く。
グループならまだしも(それも最悪だけど)ペアを組めと言われるのが僕は一番苦痛だった。
だってグズでのろまでその上頭も悪い僕と組みたい奴なんていない。
いつも余り者同士無理矢理組まされるかジャンケンで負けた奴がいやいや押し付けられるか、とにかく僕は「はずれくじ」でしかない。
僕と組まされた奴はいつも露骨に嫌な顔をしたし、「なんでお前みたいなタコと組まなきゃなんないんだよ」と面と向かって暴言を吐かれる事もザラだった。
だからその日も、きっと同じ事になるだろうと僕は諦め切っていた。
みんながわいわいと仲のいい者同士声を掛け合うのを隅っこから眺め、今日僕を押し付けられるのは誰だろうと憂鬱な気持ちで黙り込む。
でも、その日はいつもと違う事が起こった。
僕と同じように、クラスの輪から少し離れたところでその様子を眺めている子がもうひとりいたのだ。
そしてあろう事かその子は、自分から僕に話しかけてきた。
「ねぇ、良ければ僕と組みませんか?」
僕はあまりにもびっくりし過ぎて目を限界までまんまるに開き、返事をする事もできず口をぱくぱくと動かした。
「今日はフロイドがいないので僕ひとりなんです。ダメでしょうか?」
そう言って眉を下げたジェイドは嫌々話しかけている様には見えなかった。
それに先生に言われて仕方なく声を掛けてくれたのでもない。
僕は何が起こったのかきちんと把握できないままとにかく首を縦に振った。
なにが起きているのかは分からないけど、こんな機会はもう二度と訪れないかもしれない。
するとジェイドは僕を見ながらにっこりと笑ってくれた。
今にして思えば社交辞令的な作り笑いだったのだろうけど、いたいけな僕のハートを撃ち抜くには十分だった。
「ふふ、ありがとうございます。よろしくお願いしますねアズール」
その瞬間、奇跡が起こったのかと思った。
でっぷりと太ったタコのクラスメイトの存在くらいは知っていても、ジェイドは僕の名前なんて知らないと思っていた。
それなのに、ジェイドが僕の名前を。
僕はそれがあまりにもうれしくて、うれしすぎて、浮かれていたんだ。
その日から、本当に時々僕とジェイドは会話をするようになった。
ある日教室の隅で岩陰に隠れる様にして本を読んでいた僕に、ジェイドが声をかけてくれた。
「その本、僕もだいすきです」
その日僕が読んでいたのは、人魚の子なら誰もが繰り返し読み聞かされた事のある海の魔女の物語だった。
とは言ってもこども向けに優しく書かれた童話ではなくて、もっとずっと古くからある原書の方だ。
正直その頃の僕にはまだすこし難しかったけど、それでも尊敬する魔女のことをもっと知りたくて少しずつ一生懸命読んでいた。
だからだいすきなジェイドが同じ本をすきだと言ってくれた事がたまらなくうれしくて、僕は浮かれ切っていた。
「え、ほんとに?」
「えぇ。人魚のお姫様に人間の足を与える魔法薬を作れるなんて本当にすごいですよね。海の魔女は僕の憧れです」
「ぼ…っ、僕も海の魔女がだいすきなんだ……!」
ジェイドが言ったのは数多く語り継がれる海の魔女の逸話の中でも特に有名なもので、恋に夢を見がちな人魚たちに一番人気のあるお話だ。
正直ジェイドがそのお話を例に挙げたのは意外だったけど、もしかしてジェイドも恋に憧れたりするんだろうかと、ちょっぴり好奇心が湧いてしまった。
「……ねぇ、ジェイドは恋したことある?」
「恋ですか?そうですねぇ僕にはまだよくわかりません」
「そうなの?ジェイドはすごくモテるのに」
「ふふ、女の子達と話すよりフロイドと遊んでいた方が楽しいので。僕にはまだ早いのかもしれません」
ジェイドがそう言ったのが、僕はなんだかうれしかった。
こんなに強くてかっこいいジェイドのことだから、きっといつかは素敵な番を見つけるんだろうなと思ってはいたけど、女の子に囲まれているジェイドよりフロイドと自由に泳いでいるジェイドの方が僕はずっと好きだった。
良かった。
きっとまだ当分は僕のすきなジェイドを眺めていられる。
本当に、僕は遠くから眺めていられるだけで良かった。
僕みたいなタコの人魚がジェイドの隣に並べるとははじめから思ってもいなかったし、想像もしなかった。
だからソレを聞いたのは、単なる好奇心からだった。
僕自身ジェイドとどうこうなりたいとは思わないけれど、ジェイドはどう思うのか聞いてみたかった、ただそれだけだったのに。
「ねぇ、陸ではオス同士で番になることがあるって知ってる?」
僕がそう言うと、ジェイドは本当に心の底から驚いたように目を丸めた。
「えっ、オス同士で番う?どうしてそんな無意味なことを」
そう言われた瞬間、僕はなにか硬いもので思い切り頭を殴られたような衝撃を受けた。
本当に殴られたわけじゃないのに、脳みそがぐわんぐわんと揺れて、意識が遠のいていくような。
「なぜ繁殖もできないのにそんな事をするんでしょう…?僕には全く理解できませんが、人間とはずいぶん不思議なことを考えるものなんですね」
でも実際には意識はハッキリしていて、僕はその言葉を全て余さず聞いていた。
「まぁ僕たち人魚には関係のないことですが。ねぇアズール、君もそう思うでしょう?」
その瞬間、僕の恋は打ち砕かれた。
期待を込めて聞いたのではなかったはずなのに。
最初から望んでもいなかったのに、想いを告げるまでもなく、僕の初恋は終わった。
ジェイドにとって、オス同士の恋は無意味なものでしかなかった。
僕たち人魚にとって、繁殖のできない番関係など理解不能なことでしかないのだ。
かなしくてかなしくて、幼い僕にその痛みはあまりにも耐え難かった。
今の僕では絶対に考えられないけれど、僕は泣いて母に縋ったのだ。
この苦しい恋を忘れたいと。
母は僕を懸命に宥めながら、どうしてもと言うのならおばあちゃんを訪ねてみなさいと言った。
そして僕は、祖母の元を訪ねたんだ。
母も祖母も、幼い僕の恋心を笑ったりはしなかった。
どんなに幼くても恋は恋。
その苦しさを、母も祖母も十分すぎるほどに知っていた。
「……すみませんフロイド、考えたいことがあるのですこしひとりにしてもらえませんか」
机に両肘を付いて組んだ手に額を預け、俯いたままのアズールに、フロイドは何も聞かず「はぁい」と立ち上がった。
そして部屋を出る直前、「あ」と視線だけをアズールに向ける。
「ジェイドには部屋で休めって言っといたから多分いると思うよ。こっちは任せといて〜」
その言葉にふっと顔を上げた時にはもうフロイドはドアの向こうに消えていて、本当にフロイドには甘えてばかりだなとアズールは眉を下げて笑う。
そしてひとりきりになったVIPルームで、アズールは椅子に座ったまま反り返るようにして天井を見上げた。
突然浮かび上がった謎の記憶の正体は分かった。
あれは確かに、過去のアズールが経験したことだった。
そしてかつてアズールがジェイドへ向けていた想いの事も、全て思い出した。
幼い頃確かに僕はジェイドが好きだった。
そしてその想いをジェイド自身に打ち砕かれ、僕は魔法薬を飲んだ。
じゃあ、今の僕は?
オス同士の恋愛を否定するつもりはもうない。
そもそも初めからアズールはそれに否定的な感情など持っていなかったのだから、性別のことはもう問題ではなかった。
でも、魔法薬を飲む前のような、情熱的な恋情を今も同じようにジェイドに持っているかと考えると分からなかった。
フロイドの言う通り、フロイドへ向ける好意とジェイドに向ける好意は違う気がする。
フロイドならばなんとも思わない事がジェイドなら嫌だと思う。
それはもう嫉妬と言って相違ない感情だと思うのに、それでもあの頃の純粋な恋心とはどこか違う気がした。
今もジェイドのことは好きだ。
それがあの頃の恋心と完全に一致するものではなくとも、ジェイドと離れたくはないしできる事ならこれからもずっとそばに居て欲しい。
でもそれが恋かと問われると、アズールは即答する事ができない。
ここへ来て「真実の愛のキス」という言葉がアズールに重くのしかかる。
ジェイドを想うこの気持ちが「真実の愛」なのかどうかキスをすれば分かる。
逆を言えば、キスをしてジェイドの記憶が戻らなければ、それが真実でないと証明されてしまうということだ。
もしこの気持ちが真実でないとしたら、僕たちの恋はどうなってしまうのだろう。
確かな好意はありながら「真実」ではない恋なんてそんなもの存在するのか。
結局それは、なにもないのと同じことなのだろうか。
「はぁ……」
アズールは今の自分の気持ちに確信が持てなかった。
愛や恋なんて形のない不確かなもの、アズールはずっと信じてこなかった。
人の気持ちは変わるし真実なんて人によって違う。
僕にとっては真実でも、ジェイドがそれを信じてくれなかったらどうなるんだ。
それは本当に真実と言えるのか?
考えれば考えるほど分からず、アズールはどんどん深みにハマりこんでいく。
行き詰まってこめかみを押さえ、ぎゅっと目を瞑ると、瞼の裏に祖母の顔が浮かんだ。
───大切なのは、自分がその恋を愛せるかということ───
「僕が、この恋を愛す……」
祖母の言葉をなぞるように声にして、アズールはフッと笑う。
そして「むずかし過ぎませんか」と、記憶の中の祖母を責める。
あの頃は、想いを伝えようと考えたこともなかった。
幼いアズールは自分がジェイドの隣に並ぶことを想像もできなかったし、そこにはきっといつか、ジェイドに一番相応しいひとが現れるのだと思っていた。
ジェイドに相応しい、僕じゃない誰か。
だからその恋は大切に育てるのではなく、隠して隠して押し込めるものだった。
そうしていつかは、消えてなくなるように。
そう思っていた幼いアズールに、その恋を愛すことなどとてもできなかった。
その時のことを思い出して、僕は子供ながらにずいぶん苦しい恋をしていたんだなと同情する。
自分自身の事なのだから当たり前だけれど、アズールにはその時の自分の気待ちがよくわかる。
そしてアズールはふと気付く。
もしかして今のジェイドもそんな気持ちなんだろうか。
自分の気持ちが僕に届くことは絶対にないと諦めて押し隠し、苦しい恋を抱えているんだろうか。
分かってくれなくていいと言うくせに、許して欲しいと言ったジェイド。
理解しようとしなくていいなんて、ジェイドは本当にそう思っていたんだろうか。
分かってもらえるはずがないと思っていたから諦めているだけで、もしも可能性があるなら、本当は僕にわかって欲しかったんじゃないのか。
だとしたら、ジェイドをこの恋の苦しさから救い出せるのは僕しかいない。
あの頃の僕は自分がジェイドの隣に並ぶことを想像すらできなかった。
でも今、そこにいるのは僕だ。
僕の隣にはジェイドが、ジェイドの隣には僕がいる。
あの頃の僕が絶対に不可能だと思っていた未来を、僕は自分の力で実現させた。
──アズールは何をそんなに怖がってんの?
さっきフロイドに言われた言葉が頭の中でリフレインする。
本当は過去の思いに気づきはじめていたのに、この恋にケリを付けることでジェイドを失うかもしれない事が怖かった。
キスをして真実の愛などないと突きつけられたら、今度こそジェイドは去ってしまうかもしれない。
でもそれだけは絶対に嫌だ。
それが揺るがないなら、もう怖いことは何もないじゃないか。
僕はもう何があっても諦めない。
不可能なら可能になるまで努力すればいい。
例え今のこの思いが「真実の愛」でなくとも、僕は僕に出来ることをやり続けるしかない。
恋でも恋じゃなくても、僕にはお前が必要なんだと伝え続ければいい。
そう決意してようやく、アズールの中にずっと渦巻いていたモヤモヤがすっきりと晴れた気がした。
この決意が揺るがぬ内にとアズールはすっくと立ち上がり、コートを羽織ることも忘れてドアに向かう。
そしてVIPルームを出ると、アズールは客や他のスタッフがいるのも無視して「フロイド!」と声を張り上げた。
その声に気付いたフロイドが遠目からアズールの方に振り向くと、アズールは既にモストロラウンジの入口に向かっていた。
そしてドアを出る寸前一瞬振り向いたかと思うと、また「行ってきます!」と大声で言ってそのままオクタヴィネルの廊下へと消えていった。
客もスタッフ達も、支配人のアズールがそんな風にドタバタと出て行く様は見た事がない。
その場にいた全員が一体なにごとかと唖然とする中でただひとり、フロイドだけが上機嫌に笑っていた。