朔一九一〇年四月朔日
旭川の春は名ばかりで明け方は氷点下になることも珍しくはない。遠く彼方からガタガタと玄関扉が風に揺らされている音が聞こえてくると、一気に意識が浮上して飛び起き、寝室を飛び出して襖を開け玄関へ一目散に走ってしまう。
そしてそこに誰もいないことを確認して白いため息を吐く。
半月より少しふっくらと膨らんだ月の光が緩やかにあたりを照らすかはたれどきの、まだ来ぬ夜明けを待つ空には小さな星々が瞬いていた。
吐き出した息が風に白く舞い散って、煙のように消えていくのを眺めていると、一つ大きな輝きがすい、と明ける前の空を流れていった。
強い風が吹き付け、身を切るような寒さに身を縮めて自らの肩を摩り、早すぎる目覚めに再び寝床へ身を潜らせる。
こうなってはもう一刻も眠れやしない。瞳を閉じてもう一度ため息を吐き、まぶたの裏に張りついた姿を思い浮かべると自然口の端が持ち上がった。
貴方の留守を預かってから、早二年目の春。
曹長に進級ののちは営外居住となったのをきっかけに、鯉登中尉がほんのわずかな期間しか住むことのなかった借家をそのままお守りしているが、一人で住むには大きすぎるこの家を持て余していた。中尉進級から再審合格までの期間、そう彼が青山へ旅立つまでの短い間、彼と、俺と、そして彼の妻(当時はまだ妻ではなかったが)の三人で、さまざまな話をして過ごした。彼の受験勉強の手伝いもした。あの件以降初めて訪れた束の間の穏やかな時間だった。
ここは彼にとってのちいさな参謀本部だった。
とはいえ我々に手伝えるのは語学と奥方の専門分野である化学程度で、本当に役に立ったのかは疑わしい。
立派に陸大進学を果たし旭川を離れた鯉登中尉殿は翌年ひっそりとお身内だけで祝言を上げられた。祝いの手紙を送った。返信に正月休暇の際に費用を持つから青山に顔を見せろと誘っていただいたが、遠慮しておいた。
家督を継ぎ、家名を繋ぎ着実に一つずつ歩を進める彼を心底誇らしく思っている。
それでも。
ひとりに慣れた身であっても、こんな日には一人が堪える心地になった。
そろそろ日も上り雪見障子から朝日が差し込み、鳥の鳴く声が聞こえ始めた。やっと朝が来たようだ。
寝床から起き上がると寝具を片し飯の支度をする。進級しこの家で中尉と生活を共にするようになった時に用意された立派な塗りの箱膳に、自分用の器と箸。
鯉登中尉のものは水屋箪笥に仕舞われてひっそりと主人の帰りを待ち続けている。毎朝自分の箱膳を出す度に目に入るそれを、まるで自分のようだと思いながらそっと戸棚を閉め朝飯を食う。
軍服に身を整えて兵舎へ向かおうと軍靴を履いている時だった。
外に黒い人影が近づき玄関の引き戸を叩いた。扉を開けると嵐のような風の中、電報配達人が送達紙を飛ばさぬよう手に握り締めて立っていた。
「月島様、至急電報です」
両手で電報送達紙を俺に手渡し終えると、小走りに踵を返して通りへと消えていった。
びゅうと強い風が吹きつける。扉を慌てて閉め、送達紙へ視線をやると発信人欄には「コイト オトノシン」とあった。
心臓が痛いほど早鐘を打つ。背筋を冷たい汗が流れ落ち、視界が暗くなっていった。
いや、落ち着け。発信人は鯉登中尉だ。彼に何かが起きたのならば、奥方の名前で届くだろう。
震える手を抑えるために腹に力を込めふっ、と息を吐いてから封緘を破った。
「ああ……、鯉登中尉殿」
がしゃん、と背中に扉が当たり大袈裟な音を立てた。
肩が震え、目の前が霞んでゆく。
目頭を押さえた両掌の中で、くしゃりと送達紙が折れ曲がった。
『ハルノアラシノナカ オマエトオナジヒニ コウマレル ナハ サクノシン』
(蛇足)
朔日は一日のこと。
朔:もと、はじめ