ミラーリング #9(影の国編:中編)暗雲
キィ、ときしんだ音を立てて扉が開く。フェルディアは顔をあげた。
暗い顔で出てきたウアタハは、フェルディアの姿を見て驚いたように目を丸くする。
「ずっと待ってたの?」
「ああ。──あいつは?」
「眠ってる。……でも」
ウアタハは痛ましげに眉をひそめた。フェルディアは再びうつむいた。
クー・フーリンが気を失った後、フェルディアとスカサハはもたもたしてはいなかった。
フェルディアがマントで包んだクー・フーリンを抱き上げると、スカサハは「ウアタハの元へ行け」とだけ告げた。
スカサハの双眸は冷え切っていたが、奥底に溶岩のように滾りたつものを感じ、一番弟子は久しく見なかった師の怒りに足が震えた。
「早く行け」
「師匠は、何を」
不意に、スカサハは血で濡れた床に屈みこみ、何かを拾い上げた。薬を入れるような小さな容器だ。
スカサハは容器を無言で見つめていたが、不意にそれを凄まじい握力で握りつぶした。バラバラと砕けた破片が床に落ちる。
スカサハは、血濡れた指でその破片に文字を刻み始める。あれは……探索のルーンだ。
「早く行かぬか」
ばしっと頰を打つような師の声に、フェルディアは身を翻した。
「クー!」
無残な友の姿を見て、ウアタハは両手で口を抑えた。急いでフェルディアたちを自分の部屋に迎え入れる。
フェルディアは、なるべくそっとクー・フーリンの体を寝床に横たえた。
「ああ、なんてこと! そんな、どうして……」
「話は後だ。ウアタハ、こいつの治療を頼む。おまえにしか頼めないんだ」
「え、ええ!」
ウアタハはクー・フーリンの元にひざまずいたが、ふと気まずそうにフェルディアを見上げた。
「……俺は外にいる」
「ごめんなさい。……部屋に戻ってくれていいわ。終わったら呼ぶから」
「頼む」
部屋から出ると、フェルディアはずるずるとその場にしゃがみこんだ。両手で頭を抱える。真っ赤な光景が目の前に広がる。
──フェルディア、おまえが!
凄惨な友の姿がよみがえる。痛々しく傷つけられた体。泣き叫ぶ声。
──あいつらが言った! おまえがオレを呼んだって! だからオレは来た、ここに来たのに!!
「違う……」
違う、違う、俺じゃない。俺はそんなことやっていない。
それは事実だった。彼自身は本当に何もしていない。だが。
自分は利用された。彼女を陥れようとする卑劣な奴らに利用されたのだ。
フェルディアは震えるこぶしを握りしめ、壁を殴りつけた。
許せなかった。
自分の誇りも、彼女との信頼も、仲間としての絆も、全て利用された!
彼女に消えない傷をつけ、誇りさえも踏みにじられた!
それもこれも、つまらない妬みや嫉みから!
許せない、許せない、許せなかった。
……だが。
自分に、同じような醜い感情がなかったと言えるか?
彼女がいなくなればいいと思ったことはなかったか?
「う、ううぅ……!」
食いしばった歯の間から、フェルディアはうめいた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
あれだけ血のにじむ思いで手に入れたスカサハの一番弟子の座を、自分より年下の少女に脅かされて。
仲間の賞賛の声も、戦での名誉も、全て彼女がさらっていって。
そうだ、──彼女さえ来なかったら。
そんな思いが自分に確かにあることを、認めないわけにはいかなかった。
フェルディアは頭を抱えたまま、声にならない叫び声をあげた。
扉が開き、フェルディアは顔をあげた。ウアタハは、フェルディアの姿を見て息を飲んだ。
「ずっと待ってたの?」
「ああ。──あいつは?」
「眠ってる。……でも」
ウアタハは言葉を切った。憔悴しきった男の切り裂かれた手を見て、はっとかがみ込む。
「フェルディア、あなたも傷の手当てを」
「……俺のせいだ」
「え?」
「あいつが言ってた。俺があいつを呼んだって、そう言われたって。俺のせいだ。俺がいなきゃ、こんなことにはならなかった」
「フェルディア……」
「俺のせいなんだ。俺があいつに関わってなきゃ、こんなことには。あいつは、あいつは俺のせいで!」
「フェルディア!」
ウアタハはフェルディアを抱きしめた。
「ねえ、お願いよ。そんなこと言わないで。自分を追い詰めないで。……お願いよ」
悲しみに濡れた娘の声が、フェルディアの耳を優しくなでた。かすかに、とくん、とくんと鼓動の音がする。
フェルディアは、不意に泣きたくなった。優しい娘の胸にすがりついて、子どものように泣き叫びたかった。
「一緒に彼女を支えましょう。あの子には、何よりそれが必要よ」
ウアタハの言葉に、フェルディアはうなずいた。
二人は抱き合ったまま、まんじりともせず日が昇るのを待った。
スカサハは夜明けと共に帰ってきた。
ウアタハとフェルディアと並び、眠っているクー・フーリンの顔を見つめる。
少女の寝顔は静謐そのものだった。まるで、何もなかったかのように。
ウアタハは二人のためにお茶を淹れたが、母も弟子も手をつけようとしなかった。
やがて、クー・フーリンのまぶたがぴくりと動いた。三人がはっと身を乗り出す。
ゆるゆると目が開かれていく。いつも強い輝きを放っていた瞳はぼんやりと動き、見守る者たちの姿をとらえた。
「……ウアタハ?」
「ええ、ええ。……クー、気分はどう?」
「気分……?」
いまだ目覚めきっていないクー・フーリンの目は、兄弟子と師の姿を見つけたところで、大きく見開かれた。
「フェルディア……? 師匠……?」
かすれた声でつぶやく。次の瞬間、クー・フーリンは叫び声をあげ、後ろに飛び退いた。背中が壁にぶつかり、表情が激しく歪む。
「クー、落ち着け!」
フェルディアが慌てて叫んだ。ウアタハも、混乱する友をなだめようとその肩に触れる。
いまやはっきりとした意識の中で、クー・フーリンは師を見つめていた。
こわい。怖くて怖くてたまらない。
戦場ですら感じたことのない恐怖に、クー・フーリンは怯え切っていた。
そんな弟子の様子を見ても一切表情を変えることなく、スカサハは彼女の名を呼ぶ。
「セタンタ」
「──!!」
クー・フーリンは断罪人の前に身を投げ出すようにして叫んだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
「セタンタ……?」
スカサハの声にわずかに驚きが混じる。クー・フーリンは身を伏せたまま、何度も何度も叫び続けた。
「ごめんなさい! 師匠、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
ぶわりと涙があふれ出す。涙腺が壊れてしまったかのようだ。苦しさが塊となって胸がふさがる。
壊れたように謝罪の言葉を繰り返す弟子をスカサハはしばらく見つめていたが、不意に娘のほうを振り向いた。
「ウアタハ」
「は、はい、母上」
「温かいものを与えろ。あとはおまえに任せる」
それだけ言って、スカサハはクー・フーリンに背を向けた。クー・フーリンの胸が絶望に黒く塗りつぶされる。
「師匠ォ!!」
クー・フーリンは悲痛な声で叫んだ。スカサハは返事をすることもなく、部屋から出ていってしまった。
「う……」
握りしめた手の甲に、涙の粒がぼろりと落ちた。
見限られた。自分はスカサハに見限られたのだ。
「クー……?」
ウアタハが遠慮がちに肩に手をかける。
クー・フーリンは身をよじってそれを振り払い、両手で顔を覆って絶叫した。
***
少年は、いつものように森へ出た。朝一番に罠の様子を見に行くのは、彼の役割なのだ。
少年はいつものように獲物を確認しようとして──。
「ヒイッ!」
彼は尻もちをついた。全身ががたがたと震え出し、声さえも喉に張り付いたようだった。
太い樫の木の枝に、それらはぶらぶらと揺れていた。
手足を縛られ、目玉をえぐられ、体のあちこちに開いた穴から黒ずんだ血を流しながら、三人の男の死体は熟れた果実のように、のんびりと風に揺れていた。
ウアタハの治療もあり、クー・フーリンの体の傷はやがて癒えた。
だが、前と同じように過ごすことはできなかった。
ふとした拍子に涙が滲み、誰かと顔を合わせることが怖くて、部屋の外に出られない。
仲間だと思っていた男たちから受けた暴力が、彼女の心を打ちのめした。
噂は、風よりも早く人々の間を駆けめぐる。
姿を見せなくなったクー・フーリンや死んだ弟子たちについて、仲間や城の従者たちは声をひそめてささやきあった。
──スカサハもフェルディアも何も言わないが、どうやらクー・フーリンは何者かにひどくやられたらしい。
──それも、普通の暴力じゃない。結局はあいつも女だったということだ。
──薬を盛られて、数人がかりで襲われたって話だよ──。
クー・フーリンのことを心配した弟子仲間や召使いの少年たちが、花や果物を持って見舞いに来ても、彼女は決して誰とも会わない。
いつも、ウアタハがすまなそうな顔をして代わりに詫びるのだ。それが、ますます噂を煽り立てた。
今日も、クー・フーリンは寝床にうずくまったまま、窓すら開けていなかった。
薄暗い部屋の中、ウアタハは部屋にこもりきりの友を心配し、思い切って声をかけた。
「ねえ、クー。ちょっとだけ外に出てみない?」
「……出たくない」
クー・フーリンはぽつりとつぶやく。ウアタハは部屋の中に入り、窓にかかっていた日よけの布を開く。
「ちょっと歩くだけよ。ほら、今日は久しぶりにお日様も出ているし。新鮮な空気を吸うのも悪くないわ」
「……」
クー・フーリンは黙ったままだったが、ウアタハの顔を見ると、かすかにうなずいた。
中庭に出てみれば、抜けるような青空だった。自分の心とは正反対だ、とクー・フーリンは思った。
ウアタハはクー・フーリンの手を引き、歩き始める。つながれた馬のようにおとなしくついてくる友を見て、ウアタハは気持ちが暗くなった。
痩せてしまった、と思う。その目は虚ろで、がらんどうのようだ。いつも自分を元気づけてくれた太陽のような笑顔は、久しく見ていない。
落ち込みかける心を無理やり引き上げながら、ウアタハは明るい声で言った。
「本当にいい天気ね! あのね、クー。最近、子馬が生まれたの。くりくりした目で、指を近づけるとぺろぺろなめるの。とってもかわいいのよ!」
「……子馬?」
「そう! よかったら、見に行かない?」
「……うん」
クー・フーリンは少しだけ口元を笑みの形にした。ウアタハは胸を締め付けられそうになりながら、きゅっと友の手を握り直す。
「いいわ、じゃあ、行きましょう! きっとあなたも気に入って──」
「あれ、クーじゃねえか?」
クー・フーリンはびくりと肩を震わせた。ウアタハはぎょっとして足を止める。
どうして? 今この時間は、修行は違う場所で行われているはずなのに──。
「おーい、おまえら。クーだぞ!」
ウアタハの動揺をよそに、兄弟弟子たちはわらわらと集まってくる。
「おお、クー! 久しぶりだな! 体の具合が悪いって聞いてたけど、もう平気なのか?」
「早く修行に戻ってこいよな! おまえがいないと、張り合いがなくてよ!」
「そうだぜ! 俺たち、待ってるんだからな!」
そう言って、仲間たちは屈託無く笑いかけてくる。
ウアタハは、さっと横目でクー・フーリンを見た。彼女は青ざめた顔で、「あ……あ……」と声を漏らしている。まずい、と思った。
「あ、あなたたち、どうしてここに?」
「ん? 早めの休憩ってとこかな。スカサハとフェルディアがどっか行っちまったから、その間の」
「それにしても、まさかここでおまえらに会うとはな! おいクー、おまえ、少し痩せたんじゃないのか?」
ウアタハが止める間も無く、仲間の一人がクー・フーリンに手を伸ばした。もちろん、悪意など無いのだろう。だが。
「うわああっ!」
勢いよくその手をはねのけ、クー・フーリンはその場から逃げ出した。
「クー、待って!」
その背を追って、ウアタハも駆け出した。驚いた仲間も後を追おうとしたが、振り向いたウアタハに「来ないで!」と一喝される。
驚いて立ち止まる兄弟弟子たちを置いて、二人はひたすらに走った。
「待って、クー! 待って!」
狩人に追われた獣のように走るクー・フーリンを追いかけるのは、ウアタハにとって難儀だった。
窪みに足をとられ、「きゃっ!」と悲鳴をあげて転ぶ。前を走っていたクー・フーリンが、驚いたように立ち止まった。
ウアタハは、ぐっと痛みをこらえて体を起こした。足は擦りむけて血がにじんでいたが、そんなこと気にしていられない。
「クー」
友の名前を、ウアタハは呼んだ。クー・フーリンは立ちすくんでいたが、やがて金縛りが解けたように、よろよろとその場にしゃがみこんだ。
ウアタハが慌てて駆け寄る。クー・フーリンは打ちひしがれた表情でうずくまっていた。
「クー、大丈夫? ごめんなさい、私が無理に誘ったから……」
「なんでおまえが謝るんだよ……」
「え?」
「なんでおまえが謝るんだよ! オレだろ! 問題あるのはオレじゃねえか! なのに、なんで、なんで……」
ぶちまけるようにクー・フーリンは叫んでいたが、その勢いはだんだん尻すぼみになっていく。
「……オレ、駄目になっちまった」
クー・フーリンはしゃくりあげた。震える声がじわりと潤む。
「こんなザマじゃ戦えない。仲間にも戻れない。何もできなくなっちまった」
「部屋に戻りましょう、ね?」
ウアタハがそっと背中を支えてうながすと、クー・フーリンも涙をぬぐいながら立ち上がる。
二人はゆっくりとした足取りで城の中へ戻っていった。
「なんだ、あれ」
弟子の一人がつぶやいた。別人になってしまったような友の姿に、仲間たちは顔を見合わせた。それぞれの心に、認めたくない考えがよぎる。
「あいつ、まさか本当に……」
「あの噂も、あながち嘘じゃなかったのかもなあ」
不意に、笑いを含んだ声が響く。仲間たちはぱっと振り向いた。
声の主は、クー・フーリンをよく思っていなかった男の一人だ。彼女を慕う者は数多くいたが、その逆の者たちもいた。
「おまえ、何を」
「そんなに睨むなよ。大したことじゃねえさ。クーが『やられちまった』って噂。おまえらも知ってんだろ」
彼女を慕う仲間たちは不快そうに顔をしかめる。男はにやにやと笑いながら、短く刈った髭をなでた。
「あいつもなんだかんだで女だったってことさなあ。正直、やりやがった奴らはうまいことやったって思うぜ」
「おまえ、なんてことを!」
いきり立った一人が剣を抜いた。
「無力な女性に寄ってたかって乱暴するなんて、同じ男として恥ずべきことだ! それを、おまえは……」
「おいおい、あいつが無力な女だと?」
男は鼻で笑った。
「縛られてたのに、楔で固定されてた壁ごと壊すような女だぞ? それにしても、スカサハの眠り薬を失敬して使うなんざ、冴えてると思わねえか? もっとも、その薬だって大して効かずに、化け物みたいな力で全員ぶち殺されちまったみたいだけどよ」
「黙れ、黙れよ!」
「おまえらだって、ぽっと出の女に先を越されて面白くないと思ってる奴、いるんだろ?」
黙り込む仲間たちを見渡し、男はそれみたことかと嘲るように続ける。
「まあ、死んじまった奴らは気の毒だけど、正直ちょっとうらやましいよ。なんだかんだであいつ、顔も体も上物だぜ? あっちの具合も上物かどうか、俺も確かめたかっ」
鋭い一閃と共に、男の首が飛んだ。
ぱっと飛んだ血しぶきが、剣を構えていた弟子の顔にかかる。
とさっと軽い音がして、男の首が地面に転がる。続いて、どさっという重い音と共に、男の胴体が地面に倒れた。
赤い槍を構えたスカサハが立っていた。
無表情だが、その身から立ち上る冷気は凄まじく、弟子たちは皆一様に震え上がった。
師は、無言でその場にいる弟子たちを見回す。
「海に捨て置け」
それだけを言い残し、スカサハは音もなく歩き去った。残された弟子たちは声も出ず、無様に転がる肉塊を見つめるばかりだった。
「そう、それであたしは前から思ってたのよ」
衣服を繕いながら、侍女はもう一人の侍女に話しかけていた。
「あれだけキレイなお顔をしてれば、そりゃあ間違いが起こったってしょうがないってね」
「ちょっと、そんなこと言うものじゃないわ。クー・フーリン様はスカサハ様のお気に入りなのよ」
「あら、スカサハ様がなんだっていうのよ」
侍女は鼻息も荒く胸をそらした。興奮しているのか、次第に声が高くなる。
もう一人の侍女は、内心でため息をついた。まったく、この人ってば、すぐ誰かを悪く言わなきゃ気が済まないんだから。
「若い娘がね、男どもの中に入って何かやろうとすること自体が間違いなのよ。無邪気な顔して、将来のご主人候補でも見繕ってたに違いないわ」
「あなた、声が大きいわよ。クー・フーリン様に限ってそんな」
「ふん、ちょっと顔が綺麗だからって、いい気になるからそうなるのよ。まったく、ああいう女はきちんと貞操を守るってことを知らな」
ごとり。
唐突に声が止んだことを不審に思った侍女が目を向けると、自分の足元に今しがたしゃべっていたはずの同僚の首が転がっていた。
「ヒッ、ひぃやああああああ!!」
侍女が絶叫する。背筋にぞくりと寒気が走って振り返れば、そこには己の主人である女王が立っていた。
「ス、スカサハ様……!」
「こやつは前から小蝿のようにうるさかったのでな。これでようやく、静かになったわ」
スカサハはぞっとするような笑みを浮かべた。
女王が去ったあとも、うずくまった侍女は一人、がたがたと震え続けていた。
食堂で杯をもてあそびながら、フェルディアはため息をついた。
日が経ったが、クー・フーリンは閉じこもったままだ。それに加えて、彼女を中傷した者たちがスカサハに殺されたことで、恐怖と緊張が城中に広まった。
クー・フーリンを心配していた者たちも、彼女の名を口に出すことすらはばかるようになった。
よくない状況だ。フェルディアは、再び大きなため息をついた。
いい加減、彼女と話さなければならない。
フェルディアは立ち上がった。城中を覆うこの空気を打破することが自分の責任であり、彼女に対する贖罪である気がしていた。
「クー、いるか? 俺だ」
部屋の扉を軽く叩き、フェルディアは声をかけた。
「ちょっと話せるか? 無理にとは言わないが」
言葉を切って、待つ。決して相手を急かさないこと。それが大事だと彼にはわかっていた。
「……フェルディア?」
部屋の中から、小さな声が聞こえる。耳慣れたその声に、ひどくほっとした。
「そうだ、俺だ。入ってもいいか?」
「いいぜ、入れよ」
「ありがとう。失礼する」
部屋の主の許しを得て、彼はそっと扉を開けた。途端に鼻についたにおいに、フェルディアは眉を寄せる。
ひどい酒のにおいだった。部屋の中から強烈にただよってくる。
フェルディアは鼻を抑えながら、扉を押し開いた。
「……よお、フェルディア」
毛皮の敷物の上に、クー・フーリンがガウンをしどけなく身にまとった姿で寝そべっていた。
その瞳は酔いに潤み、頰が真っ赤に上気している。床には、空になった酒壺がいくつも転がっていた。
フェルディアは顔をしかめた。クー・フーリンは兄弟子の姿を見ると、にへらとしまりのない笑みを浮かべ、その手に持った盃を掲げる。
「久しぶりじゃねえか。どうだ、おまえも一杯」
「随分と飲んでるみたいだな、クー」
「ああ。侍女たちに言ったら次から次へと持ってきてくれてなぁ。なんせ、オレに逆らったら」
クー・フーリンは手にした盃をクイとあおる。
「スカサハに殺されちまうからなぁ」
焦点の合っていない目で、クー・フーリンはくっくっと笑う。
フェルディアはずかずかと部屋の中に入り、窓から日除けの布を外した。少しでも風の通りをよくして、この酒くさい不快な空気を逃がしたかった。
「話があって来たんだ」
フェルディアは振り返った。
「話ぃ?」
クー・フーリンは呂律の回っていない口で繰り返す。フェルディアはうなずいた。
「ああ。だが、この状態では難しそうだな。待ってろ、水を持ってくる」
そう言って出ていこうとするフェルディアの上着の裾を、クー・フーリンは掴んだ。
「おい、待てよフェルディア」
「……なんだ」
「そう急くなって。まあ、おまえも飲めよ。どれもいい酒だぜ、なぁんにも考えなくてよくなる……」
クー・フーリンはぐいぐいとフェルディアを引っ張った。
フェルディアは大きく息を吸い、その手を自分の服から引きはがす。そして、ふらふらと頼りない手から盃を取り上げる。
「おまえ、少し飲み過ぎだ。酒はもうやめておけ」
「なにをぅ、いい子ぶりやがって」
「話はまた今度にしよう。もう寝ろ。今のおまえはまともな状態じゃない」
「……まともな状態だと?」
クー・フーリンの目がぎらりと光った。
次の瞬間、とんでもなく強い力で引っ張られ、フェルディアは驚く間もなく床に倒れ込んだ。したたかに頭を打ち、目に星が飛ぶ。
「ッ! おまえ、この酔っ払い! なにを!」
「まともな状態じゃない? まともな状態じゃないって、なんだよ」
ゆらりとクー・フーリンの体が動く。
まずい、と思った瞬間、フェルディアの腹にクー・フーリンが乗り上げてきた。逃れようと身をよじるが、驚くほど強い力で押さえつけられて動けない。
据わった目は異様な熱にめらめらと燃えており、それが人ならざる力であることを、フェルディアは身をもって感じた。
「クー、ふざけるな、どけ!」
「ああ、そうさ。オレはまともじゃない。みんな知ってるんだろ。オレがいいようにされたこと。笑ってるんだろうなあ、それとも汚らわしいって思ってるのか?」
「ッ、そんなこと!」
「まともじゃなくなったオレをどう思う、フェルディア? 相変わらず手軽な小間使いか? それとも、簡単に手を出せるいい女か?」
「いい加減にしろ! 酒癖が悪すぎるぞ!」
「おまえはどう思う、フェルディア?」
不意に、クー・フーリンは羽織っていただけのガウンをまくった。
彼女の白い乳房があらわになる。フェルディアは絶句した。
クー・フーリンは、そのままガウンをぱらりと床に落とす。
「おまえも、オレを抱きたいって思うのか?」
フェルディアに馬乗りになったままその上半身をさらし、クー・フーリンは淫靡に笑った。
ぺろりと唇を舐め、フェルディアの胸板を細い指でつつ、となでる。
フェルディアは目の前が真っ赤になった。湧き上がったのは、怒りだ。
我も忘れるような、純粋な怒り。
「ふざけるな!」
フェルディアは勢いよくクー・フーリンを突き飛ばした。
怒りに満ちた凄まじい力に、クー・フーリンは驚いたように目を見開く。
フェルディアはクー・フーリンの頰を力いっぱい打った。その勢いで、彼女は床に倒れ込む。
息も荒く立ち上がり、フェルディアは友を睨みつけた。
クー・フーリンは頰を押さえ、呆然とした顔で兄弟子を見上げた。
「ふざけるなよ。俺も、ウアタハも、スカサハも、他の仲間たちもおまえのことを心配してるのに。こんな醜態を見せられるなんて」
怒りのあまり、握りしめたこぶしがぶるぶると震える。
「誇り高かったおまえが、こんな娼婦になり下がるとはな! おまえには失望したよ、クー。猛犬の名が聞いて呆れる! その辺をうろつく野良犬のほうが、まだ誇りがあるだろうさ!」
クー・フーリンの唇がわなわなと震えた。見開かれた目に、涙の膜が張る。それでも、フェルディアは止まらなかった。
「水でもかぶって頭を冷やせ。そうすれば、もう少しまともな話ができるだろう」
は、と息をつく。彼女が脱いだガウンを拾い、その肩に乱暴にかける。
そのまま、フェルディアは彼女に背を向けた。「フェルディア!」と泣き声のような叫びが聞こえたが、ぐっと唇を噛み締め、部屋を出た。
燃えるような怒りが体の内で暴れまわっていた。このまま、全てをぶち壊してしまいたかった。
部屋に残されたクー・フーリンは床に座り込んだまま、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
ぶたれた頰がじんじんと痛むが、それ以上に胸が痛かった。
やってしまった、と思う。震える手でガウンをぎゅっと握る。
心配してくれる人の手を、自分から振り払った。しかも、あまりに手酷いやり方で。
クー・フーリンは、ぼんやりとする頭で部屋の中を見回した。
酒の壺がいくつも床に転がっている。中身は空っぽだ。もう用済み。
自分もそうだ、と彼女は思った。
ずんずんと廊下を下り続けていたフェルディアは、ぴたりと足を止めた。
一度目を閉じ、大きく息を吐く。そっと背後を振り返った。誰もついてきていない。
フェルディアは少し迷ったが、やがて踵を返した。
謝ろう、と思った。侮辱を感じたとはいえ、あまりにひどい言葉を彼女に投げつけた。
手も上げてしまった。一番傷ついているのは彼女なのに。
フェルディアは深呼吸をして気持ちを落ち着けると、クー・フーリンの部屋へ戻った。途中で水汲み場に寄り、壺に清水を汲む。
一言目は何と言おう。そんなことを考えながら、再び部屋の前に立つ。ためらいがちに、コンコンと扉をノックする。
「……クー、俺だ、フェルディアだ」
返事はない。腕に抱えた水入れが、ちゃぽん、と音を立てる。フェルディアはまた口を開いた。
「さっきは悪かった。ひどいことを言った。その、水を持ってきたんだ。入っていいか?」
返事はない。部屋からは、物音ひとつすらしない。
不審に思い、フェルディアは扉に手をかけた。
キィ、と音がして扉が開く。部屋の中を覗き込んで、フェルディアは目を見開いた。
部屋の中はもぬけの殻だ。誰もいない。
「クー! クー、どこだ!」
フェルディアは廊下に飛び出した。先ほど、自分が歩いてきた方向とは逆をひた走る。上り坂の廊下を上がっていけば、いずれは物見の塔に出るはずだが──。
フェルディアは窓から身を乗り出した。塔には見張りの兵が見える。
黒い鳥が、ヒュウ、と空を飛んでいくのが見えた。塔の反対側へと消えていく。
反対側?
「……!」
フェルディアの胸を稲妻のように恐れが貫いた。弾かれたように走り出す。
影の国の城は、海を背にした岩壁の上に建っている。自然の地形を利用した難攻不落の要塞なのだ。
フェルディアは回廊を必死で走った。走って走って──そして、そそり立つ城壁の上に、ついにその姿を見つけた。
「クー!」
クー・フーリンは、荒海を見下ろす城壁の上に立っていた。髪が海風に激しくたなびいている。
「よせ、やめろ!」
その表情は何も見えていないかのように虚ろだった。まだ彼女まで距離がある。フェルディアは足に力を込めた。
不意に、クー・フーリンが壁から身を躍らせた。その姿が視界から消える。
「クー!!」
フェルディアは叫んだ。駆け寄った城壁によじ登る。急いで見下ろせば、崖に寄せ打つ波とは違う白い飛沫が見えた。
フェルディアは上着を脱ぎ捨て、ためらいもせずに海に飛び込んだ。
叩きつける音が耳を打ち、冷たさがどっと全身を包む。
大量の泡をかき分けて、フェルディアはあたりを見回した。海の中は暗く、視界も悪い。
ふと、ぼんやりと白く光るものを見つけた。人の形をしている。
フェルディアは、それに向かって泳ぎ始めた。光はどんどん沈んでいく。手足が痺れるほど冷たい水を必死でかきながら、フェルディアは白い光を追いかける。
近づいていくと、それはやはりクー・フーリンだった。彼女の全身が白く光っているのだ。
フェルディアは手を伸ばし、その腕を掴んだ。
その瞬間、クー・フーリンを包んでいた光が消える。不思議に思ったが、ぐずぐずしている暇はない。
海にさらわれそうな体を、ぐいと自分に引き寄せる。胸に息苦しさが広がっていく。
フェルディアはクー・フーリンの体を抱え、水面へ向かって泳いでいった。
ばしゃん、という音と共にフェルディアは海から顔を突き出した。思いきり空気を吸い込むと、肺が喜ぶのがわかった。
咳き込みながら顔をあげれば、予想以上に岸から離れてしまっていた。はあはあと息を荒げながら、フェルディアはクー・フーリンの頰を叩いた。
「クー、おい、クー!」
返事はない。青白い顔で目を閉じたままだ。口元に耳を近づけるが、呼吸音が聞こえない。
すぐに冷え切った唇に口を当てて息を送りこむ。
何度か息を吹きこんだところで、クー・フーリンはがはっと水を吐いた。まだ目は閉じたままだが、呼吸の音が聞こえ始めた。
フェルディアはほっとして、クー・フーリンの背中から腕を回して支えると、岸に向かって泳ぎ始めた。
そびえるような崖が目の前に迫ってきた。やがて、足が岩場をとらえる。
フェルディアは力を振りしぼって岩を掴み、抱えていたクー・フーリンの体を海から引きずり出した。
胸がしっかりと動いて息をしている。フェルディアは友の体を横向きに寝かせた。
助けを呼ばなければ。ふらつく足を踏みしめ、フェルディアは立ち上がった。
ゲホッと咳き込む音がした。慌てて振り向けば、クー・フーリンが何度も咳き込んでいる。
顔を覗き込むと、ふるふるとまぶたが震え、クー・フーリンの目がゆっくりと開いた。
「クー!」
思わず声を上げる。クー・フーリンは何度も瞬きをし、フェルディアの顔を見た。
「フェルディア……?」
「ああ、そうだ、俺だ。俺だよ、クー!」
目が潤みそうになるのをフェルディアはこらえた。
クー・フーリンは体を起こし、呆然とあたりを見回した。その表情にあまりよくないものを感じ、フェルディアは彼女に近づく。
「あ……なんで……」
「クー?」
唐突にクー・フーリンは立ち上がった。よろめきつまづきながら、海に向かって走り出す。フェルディアはぎょっとした。
「ッ、おい!」
フェルディアは慌てて追いかけた。先ほどまで溺れていたというのに、どこにそんな体力があるというのか。
いや、それより今助けたばかりの海に戻ろうとされるなんて! 冗談じゃない!
ばしゃばしゃと海に走り込んでいくクー・フーリンの腕を、すんでのところでフェルディアは捕まえた。クー・フーリンは激しく暴れ、ひたすら海に向かおうとする。
「離せよ、フェルディア!」
「おまえは馬鹿か! 冗談じゃないぞ、助けたばっかりなのに!」
「うるさい! 頼んでない! 死のうとしたのに邪魔しやがって!」
「ふざけるな、本気で怒るぞ! おまえが死ぬなんて俺が絶対許さない!」
「おまえに何の権利があるんだよ! いいから死なせろよ、死なせてくれよ……」
抵抗が徐々に止み、クー・フーリンはむせび泣き始めた。波が、腰まで海水に浸かった二人の体をもてあそぶようにぶつかっていく。
フェルディアは、嗚咽にむせる友の体をしっかり抱きしめた。
「……怒鳴って悪かった。死ぬなんて言わないでくれよ、頼むから」
クー・フーリンは嫌々をするようにかぶりを振る。もうフェルディアの腕を振りほどこうとはしなかった。おとなしく硬い腕に包まれながら、静かに泣いている。
「……オレには、もう何もない」
腕の中で、クー・フーリンはぽつりとつぶやいた。その髪に頰を寄せ、フェルディアが「うん?」と続きをうながす。
「もう、全部めちゃくちゃだ。オレはもう何もできない」
「そんなことない」
「仲間も召使いのやつらも、みんなオレのことを嫌な目で見てる。オレのことを蔑んでる」
「……そんなことない」
「目を見りゃわかるよ、あいつらが何を思ってるかなんて!」
クー・フーリンがフェルディアの顔を見て叫んだ。両目に涙をいっぱいにためた表情の痛々しさに、フェルディアは胸が苦しくなった。
「スカサハだってオレを見捨てた。見てただろ、あの態度!」
「違う、師匠だっておまえを心配してる」
「オレがこんな体たらくだから見捨てられて当然さ。ウアタハだって内心呆れてる。わかるよ、ずっとそばにいるんだから! おまえだって言っただろ、オレに失望したって!」
クー・フーリンはドンとフェルディアの胸を叩いた。
「戦士なのに男が怖くて逃げ出すなんて、そんな馬鹿な話があるか!? 最強の戦士になるためにここまで来て、それがオレの全部だったのに! オレにはもう何の価値もない! それだったら、もう生きてる意味なんてないじゃんか!!」
「俺はおまえを見捨てない!!」
フェルディアは怒鳴った。細い体を強く抱き、涙に濡れる瞳を真っ直ぐに見つめる。
「俺は何があってもおまえを見捨てない。絶対に」
クー・フーリンの唇が震えた。
「う、うそだ」
「嘘じゃない」
「でも、おまえは」
フェルディアは、クー・フーリンのうっすらと腫れた頰をなでた。
「本当にすまなかった。かっとなって、おまえを傷つけた。自分が恥ずかしいよ」
「…………」
「でも、俺が怒ったのも、本当の気持ちだ。おまえがおまえ自身を傷つけるから」
クー・フーリンはうつむいた。その髪をなで、フェルディアはクー・フーリンの体をきつく抱きしめた。
「おまえは誰より誇り高い戦士だ。誰であろうと、それがおまえ自身だろうと、クー・フーリンを貶める奴を、俺は許さない」
フェルディアは、腕の中で震える体が思っていた以上に細く、痩せていることに気づいた。
クー・フーリンはフェルディアの胸元に顔をうずめていたが、やがて、消え入りそうな声でつぶやいた。
「……ごめん」
フェルディアは、その頰に流れる涙をぬぐい、幼子をなだめるように、両まぶたと額に口づけた。
「クー、戻ろう」
クー・フーリンがかすかにうなずく。二人は海に背を向け、ざぶざぶと音を立てながら陸へ向かって歩いた。波はもう二人を追ってこなかった。
城へ戻った二人を迎えたのは、侍女を引き連れたスカサハだった。クー・フーリンはびくりと体を震わせ、下を向く。
こわばるその肩を支え、フェルディアは師に向かって頭を下げた。
「お騒がせしました、師匠」
スカサハは腕を組んだまま、じっと弟子たちを見つめた。
「湯あみをして着替えろ。広間をびしょ濡れにされては敵わぬ」
「はい」
フェルディアはうなずいた。クー・フーリンはうつむいたまま、動こうとしない。
フェルディアが軽く背を叩いてやると、不安そうに兄弟子の顔を見上げた。勇気づけるように笑いかけてやる。
クー・フーリンも弱々しく笑みを作り、黙って侍女のあとについていった。
その姿を見送ったスカサハは、すぐに立ち去ろうとした。その背に向かって、フェルディアは言葉を投げる。
「スカサハ、お願いです」
スカサハはちらりとフェルディアを一瞥した。だが何も言わず、ふいと顔を背けると、そのままカツカツと足音を響かせて歩き去った。
フェルディアはうつむき、自分の体から滴り落ちる水滴が床に染みを作っていくのを、無言で見つめた。
その夜、フェルディアは再びクー・フーリンの部屋を訪れた。扉をノックする。
「クー、俺だ。入っていいか?」
すぐにぱたぱたと足音がして、クー・フーリンが扉を開けた。暖かそうなガウンにしっかりと身を包んでいる。
「フェルディア。どうぞ」
「失礼する」
中に入れば、あれだけ乱雑だった部屋はすっきりと片づいていた。敷物の上には、湯気を立てた杯が置かれている。茶だろうか。
「ウアタハに片づけを手伝ってもらったんだ。めちゃくちゃ怒られた」
「そうか」
フェルディアは破顔した。
「夜分に悪いな。寝るところだったか?」
「うん。でも平気」
手でうながせば、フェルディアは毛皮の上に腰を下ろした。お茶は? の言葉に首を振る。
「用があるわけじゃないんだ。……ただ、おまえの顔が見たかった」
クー・フーリンは相好を崩した。ガウンをかき合わせ、兄弟子の隣に座る。
「ごめんな。……迷惑ばっかりかけて」
「構わない。遠慮せずにかけてくれ」
「えぇ、なんだそれ?」
こてんと小首を傾げ、クー・フーリンはおかしそうに笑った。
「迷惑なんていくらでもかけてくれていい。だって、おまえは大事な」
言葉を切った。大事な、なんだ? 仲間? 妹分? それとも──。
唇を舐め、フェルディアは続ける。
「大事な、親友だからな」
クー・フーリンは、心から嬉しそうに破顔した。フェルディアは心にもやのようなものを抱えながら、自分も笑みを作る。
「じゃあさ、……ひとつだけ、頼んでもいいか?」
「なんなりと」
友は一瞬視線を彷徨わせたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「一緒に寝てほしい」
「……は?」
今こいつは何と言った? 寝る?
固まったフェルディアを見て、クー・フーリンははっとした顔をすると、慌てて言い足した。
「あ、いや、寝るって言っても変な意味じゃなくて、えっと、その」
もごもごと口ごもる。フェルディアは不思議そうに瞬きをした。
「……オレが眠るまで、そばにいてほしい」
ガキみたいだけど、と小さくつぶやく。恥ずかしくなったのか、そっぽを向いた友のほんのり赤く染まった頰を見て、フェルディアは目を細めた。
「ああ、いいよ」
クー・フーリンはぱっと振り向き、ほっとしたような笑みを浮かべた。
彼女が寝床に入ると、フェルディアはその体に掛け布をかけてやる。布にくるまりながら、クー・フーリンはフェルディアを見上げた。
「おまえは寝ないのか?」
フェルディアは困った顔をした。
「寝るけど、さすがに」
クー・フーリンは掛け布から顔を出し、じっとフェルディアを見つめた。
「おまえはオレに何もしないだろ?」
フェルディアは目を見開く。彼女は真っ直ぐに自分を見る。
不意に、試しているのかもしれない、と思った。一瞬の動揺の後、腹の底にすとんと何かが落ちた。
そうか。おそらく彼女は、自分を通して、世界との境界線を引き直そうとしているのだ。
「ああ。俺はおまえに何もしない」
クー・フーリンは、はっきりと安堵の表情を浮かべた。フェルディアは胸の奥がちくりと痛んだが、顔には出さず、友の頭をぽんぽんとなでてやる。
「さ、もう寝ろ」
「うん。フェルディアも」
クー・フーリンが掛け布をまくった。フェルディアは躊躇したが、遠慮がちに大きな体を滑り込ませる。
すると、彼女の手が伸ばされ、自分の手を探ってきた。その少し冷えた手を取り、きゅっと握り直してやる。
「……ありがとう」
小さな小さな声が聞こえた。「おやすみ」と声をかければ、「おやすみ」と返事が返ってくる。
やがて、穏やかな寝息が聞こえてきた。覗き込めば、安らかな寝顔が見える。
フェルディアはそっと寝床から出ようとした。だが、クイと引っ張られる力を感じて、慌てて振り向く。起こしてしまっただろうか?
だが、クー・フーリンは眠ったままだ。繋いだ手は、すがるように握られていた。
フェルディアはため息をつき、また寝床の中に戻った。
一枚の布を分け合う中で、二人分の体温がじんわりと染みていく。眠る彼女の髪をそっとかきあげ、額に口づけを落とす。
「よい夢を」
低い声でささやき、フェルディアも眠りに身を任せた。
翌朝、クー・フーリンが目覚めたとき、隣には誰もいなかった。
手で敷布を探るが、温度を感じない。それが妙に寂しくて、少しばかり目に涙がにじんだ。我ながら、なんと女々しいことか。
どうしようもない情けなさに、うつむいて鼻をすする。
その時、扉を叩く音が聞こえた。急いで涙をぬぐい、「はい」と声をあげながら扉を開く。そこには。
「フェルディア……」
「おはよう。朝食」
兄弟子が、湯気の立つスープに大麦パンとチーズを乗せた盆を持って立っていた。その姿を見て、また目頭がじわりと熱くなった。
「泣いてたのか?」
目が赤いぞ、と言われて慌てる。フェルディアに背を向け、目をぐいぐいとこすった。
「ち、違う。あくびしたら出ただけ」
「そうか」
フェルディアはそれ以上何も言わない。穏やかな瞳で自分を見つめている。
クー・フーリンは頰を染めながらぼそぼそと礼を言い、朝食の盆を受け取った。
敷物に座って食べようとするが、フェルディアは壁に寄りかかったまま、その場を去ろうとしなかった。
「今日は少し、俺たちの鍛錬を見にこないか」
口に匙を運びかけた手を止め、クー・フーリンはフェルディアを見上げた。
「鍛錬?」
「ああ。今日はスカサハが特別な槍術を披露してくれる。滅多に見れないぞ」
「…………」
うつむいたクー・フーリンを見ながら、フェルディアは壁から身を起こした。
「遠くからでもいいし、無理に来いとは言わないさ。気が向いたらで構わない」
そう言って、フェルディアは部屋から出ていった。
クー・フーリンは黙ったまま、ゆらゆらと揺れるスープの水面を見つめた。
鍛錬場に集まった弟子たちは、緊張と興奮に包まれていた。
自分を見つめる弟子たちの顔をゆっくりと見渡しながら、スカサハは声を張り上げた。
「今からおまえたちに見せるのは、我が槍術における奥義中の奥義だ。おまえたちが鍛錬を積み、私が教えるあらゆる武芸を身につけ、最後に私がこれぞと判断した者にのみ伝授する。よく見ておくがよい。これが──」
そこで、スカサハは何かに気づいたように言葉を切った。
弟子たちが不思議そうにざわつく。フェルディアは首を動かし、わずかに目を大きくさせた。
クー・フーリンが、入口のそばに立っていた。ガウンではなく、鍛錬用の服を着ている。
そばにはウアタハもついているが、クー・フーリンは彼女の陰に隠れようとはしていない。
クー・フーリンとスカサハの視線が絡み合う。
ざわめいていた弟子たちは一斉に静まり返った。木々の間を風が吹き抜ける音だけが響く。
不意に沈黙を破り、スカサハが言った。
「遅刻だ、セタンタ。早くこちらへ来い」
緊張に固まっていた空気が、少しだけやわらぐ。
「は、はいっ」
クー・フーリンは胸を押さえて返事をした。緊張のあまり、声が裏返る。
迷うように一歩を踏み出す。始めはためらいがちに、しかし最後は小走りになって、クー・フーリンはスカサハたちの元へ駆け寄ってきた。
弟子仲間たちは、戸惑ったように彼女から少し距離をとった。
好奇の視線を感じてクー・フーリンは足を止めそうになったが、フェルディアとウアタハが彼女を守るようにそばについた。
見上げれば、二人が笑いかけてくる。クー・フーリンは深く息を吸い、改めてスカサハに向き直った。
スカサハは彼女の様子を見ていたが、やがて場が落ち着いたと判断し、再び話し始めた。
「続けるぞ。先ほども言ったが、これは奥義である。術だけでなく、槍そのものが奥義なのだ。かつて、ある偉大なる戦士が海獣の骨を削って作り上げた魔槍であり、並の戦士ではとても扱えるものではない。──これがその槍、ゲイ・ボルグだ」
突如、スカサハの手から赤い光がほとばしった。弟子たちは驚きの声をあげる。
クー・フーリンも叫びそうになった。あれは、オイフェとの戦で見た、あの光だ!
光が止むと、スカサハの手には煌々と輝く紅の槍が握られていた。
ただの槍ではない。槍そのものから圧倒するような力を感じる。
禍々しく、威圧的で、それでいて──なんて、美しい。クー・フーリンは、魅せられたようにその槍を見つめた。
「このゲイ・ボルグは確実に相手を死に至らしめる、死の棘だ。一度手を離れれば、敵の腹を、胸を、心臓を抉り破る。だが、何度も多用できるものではない。持ってみよ」
スカサハは、ゲイ・ボルグをそばにいた弟子の一人に差し出した。
弟子は、おそるおそる槍に手を伸ばしたが、スカサハが手を離したとたん、がくんと地に膝を着いた。仲間たちがどよめく。
弟子は目を見開き、慌てて地面に突き刺さった槍を抜こうとしたが、槍は弟子の渾身をあざ笑うかのように、びくともしなかった。
「重かろう。この槍は、よほど鍛錬をした者にしか扱えぬ」
スカサハは、ゲイ・ボルグをあっさりと地面から引き抜いた。軽業師のように魔槍をくるくると回し、ぐっと身構える。
その瞬間、槍は燃え上がるように轟々と真っ赤な光を放ち始めた。
クー・フーリンは息を飲む。
スカサハは、紅蓮に輝く槍を的に向かって投擲した。ゲイ・ボルグは稲妻のようにきらめき、矢のように的を貫くと、粉々に破壊した。
弟子たちは感嘆の叫びをあげた。スカサハが手を前方に突き出すと、魔槍は生き物のように震え、そのままスカサハの手に舞い戻った。
沸き立つ弟子たちを前に、スカサハはふっと笑みを浮かべた。
「おまえたちがこの学び舎から巣立つとき、もっともふさわしい者にこの槍を授けよう。励むがよい」
スカサハが去った後も、クー・フーリンは呆然としていた。あの赤く美しい槍が、目に焼き付いて離れなかった。
「クー、大丈夫?」
ウアタハが心配そうに顔を覗き込み、目の前でぱたぱたと手を振った。クー・フーリンははっと我に返る。
「あ、ああ……」
「すごかっただろ。あの槍」
フェルディアの言葉に、こくこくと何度もうなずく。
クー・フーリンの心は完全にゲイ・ボルグに奪われていた。まるで槍に恋をしてしまったかのようだ。
あの槍を手にするのは自分だ、と思った。それには、誰よりも修行をして、誰よりも強くならなければならない。だが。
「クー」
ぎくっと体がこわばった。おそるおそる振り返ると、兄弟弟子たちがためらうような表情で自分を見つめていた。
足が震えそうになるのを必死でこらえる。仲の良かった仲間にさえもこんな反応をするなんて、自分自身が嫌で嫌で仕方なかった。
「なあ、クー。その……」
「ねえさま!」
「クー姉様!」
かん高い声がして、小さい影がいくつも鍛錬場に飛び込んできた。
大人たちが目を白黒させる中で、小さな影たちはクー・フーリンの腰に飛びついた。
彼女が可愛がっていた、召使いの少年たちだ。
「姉様、姉様だ」
まだ幼い少年たちは、ぎゅうぎゅうと彼女にしがみつく。
「お、おまえら……」
戸惑ったようにクー・フーリンが声をかければ、一人の少年が目にいっぱいの涙をためて顔をあげた。
「僕たち、姉様にずっと会えなくてさみしかった!」
「クー姉様、もういいの? 元気になった?」
クー・フーリンはぐっと喉を詰まらせた。ウアタハが慌てて少年たちのそばに屈み込む。
「あなたたち、そんなにくっついてはお姉様が苦しいでしょう?」
「ウアタハ様……」
「ごめんなさい……」
少年たちは、しぶしぶクー・フーリンから手を離した。
それでも、姉のように慕う彼女に会えた喜びは抑えきれなかったらしい。全員がきらきらした瞳で彼女のことを見上げている。
クー・フーリンは思い出した。部屋にこもっている間、何度もこの少年たちが花を持って見舞いに来ていたことを。
ウアタハにそれを告げられても、自分はそれを拒絶し続けていたことを。
クー・フーリンはしゃがみこみ、少年たちと目線を合わせた。
「おまえら、心配かけてごめんな」
「ううん!」
少年たちはにっこり笑った。
「またクー姉様に会えて嬉しい!」
無邪気な言葉に、クー・フーリンは胸が苦しくなった。思わず両手を伸ばし、少年たちを抱き寄せる。
少年たちは嬉しそうな声をあげ、きゃらきゃらと笑いながら彼女にしがみついた。温かい子どもの体温に、目頭が熱くなる。
「なあ、クー」
兄弟弟子の一人が前に進み出て、声をかける。クー・フーリンはそっと見上げた。
「俺たちも、そいつらと同じだ」
少年たちを見ながら、仲間は言った。
「俺たちも、おまえの顔が見れて嬉しいんだよ、クー」
「また一緒に修行しようぜ、な?」
仲間たちが次々に声をあげた。こらえていたクー・フーリンの目から、ついにぼろりと涙がこぼれる。
「クー姉様、どうしたの? どこか痛いの?」
少年の一人が驚いたように声をあげた。クー・フーリンはぶんぶんと首を振り、次々とあふれてくる涙を必死でぬぐった。
「……オレも、戻りたい」
嗚咽を飲み込みながら、クー・フーリンは涙声で言った。
「オレも、またみんなと一緒に修行したい」
「クー……!」
仲間たちは、次々と彼女に駆け寄った。中には目を潤ませている者や、鼻をすすり上げる者もいた。
「ああ、ああ! 一緒に修行しよう。な?」
クー・フーリンは何度もうなずいた。やわらかな空気があたりを包んでいく。
少し離れて様子を見守っていたフェルディアとウアタハは、ほっとしたように顔を見合わせ、微笑んだ。
クー・フーリンは、また少しずつ修行に戻り始めた。
しばらく鍛錬から離れていたこともあって、筋肉も体力も落ちてしまっていた。だが、誰も急かすようなことはしなかった。
小間使いの仕事も再開した。少年たちと馬の世話をし、歌を歌いながら女中たちと洗濯をし、兵士たちと戦車の手入れをした。
スカサハは変わらず厳しかったが、クー・フーリンにとって、「変わらない」ということのほうがありがたかった。
時間はかかったが、仲間たちに怯えることも減っていき、笑う回数が増えた。クー・フーリンの笑顔が戻るにつれて、城中もまた明るくなっていくようだった。
オイフェからの使節団が来たときも、クー・フーリンは喜んで飛んでいった。
賠償品を運んできたのだ。だが、オイフェ本人は来ていないことを知ると、あからさまにがっかりした顔をした。
「敗れたとはいえ、王はそうそう国を離れるものではない」
スカサハにたしなめられたが、クー・フーリンはしょんぼりとしていた。
どうやらこの娘は、隣国の女王に相当なついてしまったらしい。スカサハは、内心でやれやれと嘆息した。
弟子をしっしっと手で追いやって修行に戻らせた後、スカサハは少し考え、使節団の長を呼んだ。
やがて、城の空気は以前と変わらぬものになった。
クー・フーリンは、空白期間を埋めるように鍛錬に励んだ。そのおかげで、戦う技術も体力も、フェルディアと一騎打ちができる程度にまで戻ってきた。
兄弟弟子たちは自分のことのように喜び、本人も嬉しそうだった。だが。
「おい、食べないのか?」
席を立とうとするクー・フーリンにフェルディアは呼びかけた。皿には、ほとんど手をつけられていない料理が残っている。
「あんまり食欲ねえんだよ」
「なんだ、腹でも痛いのか?」
「そんなんじゃねえって。ちょっと寝足りないだけ」
「おいおい、そんな調子で修行しようってのか? 今日は休んだらどうだ」
「んなことしたらスカサハに『たるんでる』って怒られるっつうの」
「いや、でも」
「うるせえな、平気だって言ってんだろ!」
ぴしゃりとした激しい言葉に、フェルディアは目を丸くした。クー・フーリンも、自分で自分に驚いたように目を見張る。
「……悪い。ちょっとイラついてた。じゃあ、またあとで、鍛錬場でな」
「ああ……」
食堂を出ていく友を見送りながら、フェルディアは眉をひそめた。
ここ最近、彼女はどこか様子がおかしかった。皆の前では元気そうに振舞っているが、ふとした瞬間に気だるそうな表情を見せる。苛立っていることも多いようだ。
後でウアタハに相談しようかと思いながら、フェルディアは自分の料理をかき込んだ。
廊下を歩きながら、クー・フーリンは自分の額を押さえた。
はあ、とため息をつく。フェルディアの驚いた顔がよみがえり、罪悪感に気分が落ち込む。
暗い顔で外に出ていく。今日もいい天気だった。太陽の光がまぶしくて、少しめまいを覚えるほどだ。
顔を伏せて歩いていたせいだろう、真正面に立つ人物に、クー・フーリンは気づかなかった。
「ずいぶんと気が抜けた顔をしているな、猛犬?」
クー・フーリンは弾かれたように顔をあげた。途端に日光が目を突き刺し、顔をしかめる。
だが、目が慣れてくると、それは日の光ではないことに気づいた。
それはまるで太陽のような、黄金の髪。
「──オイフェ!?」
輝くような笑顔を浮かべた隣国の女王、オイフェその人が、クー・フーリンの目の前に立っていた。
やってきたオイフェ
「オイフェ、どうして!?」
急いで女王のそばに駆け寄る。オイフェは、あのときと変わらず美しかった。
「ここの城主から直々に招聘されてな」
「え、スカサハに?」
「そうだ。私も驚いたよ。まさかこんな日が来るなんて」
オイフェはしげしげとクー・フーリンを見つめた。その目線に、クー・フーリンはもじもじとうつむく。
「ふむ、おまえはあのときより、さらに精悍な顔つきになったな。だが、顔色が優れないようだが?」
「な、なんでもない。それより、今来たのか? もうスカサハには会ったのか?」
「ああ。予定より早くな。これから弟子たちに修行をつけると言うから、見学させてもらうつもりだ。おまえも参加するのだろう?」
「おう! 見ててくれよ、オレ、あのときより強くなったんだぜ!」
ぱっと笑顔を咲かせ、クー・フーリンはオイフェの手を引いた。
「そうか、それは楽しみだ」
子どものようにはしゃぐ姿にオイフェは微笑み、共に鍛錬場へ歩いていった。
オイフェの姿に弟子たちは驚いたものの、スカサハがそれを許したということを知り、好奇の目で彼女を見た。
「彼女はかつての敵ではあるが」とスカサハは言った。
「最強の戦士の一人であることに変わりはない。おまえたちはまだ未熟だが、恥ずかしくない姿を見せよ」
「未熟は余計だぜ、師匠」
槍を握ったクー・フーリンはわくわくと言った。スカサハはじろりと弟子を見る。
「口を慎め、セタンタ。まずはいつもの基本の型からだ。始めよ!」
弟子たちは列を組んで並び、槍の素振りを始めた。
振り、突き、払う。野太いかけ声と共に汗が飛び散る。隣国の女王を前に、弟子たちは一段と気合いが入っていた。
体が温まったところで、二人一組になっての打ち合いだ。
威勢のいい声が上がり、槍同士がぶつかり合う。スカサハと並んで、オイフェは興味深そうに修行風景を眺めた。
「てっきり、猛獣どもの中に放り込んだり、海に突き落としたりしているのかと思ったぞ」
「型にはまることが第一だ」
客人の軽口を、スカサハはさらりと受け流した。
「だがまあ、そういうこともある」
オイフェが目をぱちくりとさせたところで、最初の打ち合いが終わった。
相手を変えて、再び槍を交わす。オイフェはクー・フーリンに目を移した。
確かに、当時よりさらに槍の鋭さは増しているようだ。
だが、どうも様子がおかしい。相手を圧倒しているものの、妙に汗をかいており、表情が苦しげだ。
2回目の打ち合いが終わる。いよいよ3回目だ。
クー・フーリンとフェルディアが向かい合った。穂先を軽くぶつけ合って礼をする。
「顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
フェルディアの言葉に、クー・フーリンは挑発するような笑みを浮かべた。
「大丈夫に決まってんだろ。オレより自分の心配をするこった」
二人は槍を構えて、互いを見据えた。
「ハアッ!」
クー・フーリンが猛スピードで槍を突き出す。それを受け流し、巨体を生かして、フェルディアが槍を大きくブンと振るった。それを飛んで避ける。
クー・フーリンの足が滑り、着地が乱れる。すかさず打ち込んできたフェルディアの槍をなんとか受け止めるが、その両足はじりじりと押されていた。
「オ、ラァ!」
勢いよく槍を跳ね上げ、クー・フーリンは地面を蹴って飛び込んだ。
フェルディアはなんなくその攻撃を弾いた。クー・フーリンは後ろに跳び退き、肩を弾ませている。
どうもおかしい、とフェルディアは思った。彼女の槍は明らかに精彩を欠いている。
3回目の打ち合いとはいえ、彼女の動きはいつもより鈍く、攻撃も浅く軽い。やはり、体の具合が悪いのではないだろうか。
「なあ、クー。やっぱりおまえ──」
「うるせえっ! 勝負はまだついてねえぞ、フェルディア!」
ぎらぎらとした目で、友は槍を握り直した。
ああ、そうだ、と内心でため息をつく。こいつは、言葉で素直に動くような奴ではない。
だったら、とフェルディアは槍を握り直す。
言って駄目なら実力行使だ。
フェルディアはすうっと身構えた。空気が変わったのを感じて、クー・フーリンも槍を握り直す。
カッと目を見開き、フェルディアが一気に突っ込んだ。
「!」
槍が叩き割れそうなほどの衝撃にクー・フーリンがうめく。
足元がふらついたのを見逃さずに蹴りを入れ、体勢が崩れたところで一気に襲いかかった。
「──!!」
ぴた、と喉元に穂先が突きつけられている。クー・フーリンの頰から、つうと汗が玉になって流れた。
力なく槍が下されたのを見て、フェルディアも突きつけていた槍を下げた。
再び礼をして、後ろに下がる。クー・フーリンがくやしげに唇を噛んでいるのをフェルディアは見た。
元来の負けず嫌いか、オイフェの前で負けたことがくやしかったか、あるいはその両方だろう。
「クー、少し休め。今日のおまえはどこかおかしいぞ」
「うるせ、ッ!」
噛みつきかけて、不意にクー・フーリンは口を引き結んだ。
汗がぽたりと地面に落ちる。そのまま手で口を押さえると、弾かれたように走り出した。
「おい、クー!?」
驚いて呼ぶが、クー・フーリンは鍛錬場そばの森の中に走り込んでいってしまった。
呆然としているフェルディアのそばに、スカサハとオイフェもやってくる。
「なんだ、一体どうした?」
「いや、わかりません。だけどあいつ、今朝からずっと調子が悪そうで……」
スカサハはじっと弟子が消えた森を見つめた。だがすぐに振り返ると、フェルディアに向かって指示を飛ばした。
「ここはしばしおまえに任せる。いつも通りの順番で鍛錬を続けろ」
「えっ、あ、はい。師匠は?」
「あやつの様子を見てくる。オイフェ、おまえもよいか」
その言葉に、オイフェもうなずく。その表情がどこか険しくなっていることに、フェルディアは気づいた。
師と隣国の女王を見送り、フェルディアは同じように訳がわからないという顔をしている兄弟弟子たちのほうへと向き直った。
森に足を踏み入れたスカサハとオイフェは、すぐに木の陰にうずくまっているクー・フーリンを見つけた。
少し戻したらしい。地面に手をつき、苦しげに咳き込んでいる。
「セタンタ」
スカサハの声に、クー・フーリンは驚いた顔で振り返った。その顔は真っ青で、ひどく汗をかいている。
「師匠……すいません、すぐ戻りますから」
ぐいと口元をぬぐい、クー・フーリンは立ち上がろうとした。
それを制してその場に座らせると、スカサハは弟子のそばにひざまずいた。
弟子の体が緊張するのがわかる。逃さぬよう、その目を真っ直ぐに見据える。
「おまえ、『月のもの』はどうした?」
クー・フーリンは体をこわばらせ、スカサハから目をそらした。
オイフェは得心したように空を仰いだ。会ったときの顔色。つながれた手の体温。
顔をそらした弟子をスカサハは睨むように見つめていたが、すぐにオイフェに「来い」と手招きする。
オイフェもクー・フーリンのそばに膝をつき、右手を開いた。その手がぼんやりと光り始める。
「よいか」
「構わぬ」
目の前で交わされる姉妹の会話に、クー・フーリンは思わず身を固くした。
手を近づけてくるオイフェを怯えた目で見上げる。何を、とかすれた声で問えば、「案ずるな」とささやかれる。
オイフェの手が腹に乗せられる。手のひらはじんわりと温かく、体中にその温かさが広がっていった。
オイフェは目を閉じ、何かを探るように手を動かしていく。
やがてその手を下ろし、オイフェはゆっくりと目を開けた。
「間違いない。妊娠している」
「あんまりよ、あんまりだわ!」
叫ぶウアタハを、スカサハは「落ち着け」とたしなめた。
「だって、だって、母上!」
ウアタハは勢いよく振り向いた。
「やっと元気になったのよ! 笑えるようになって、修行にも出られるようになって、それなのに、それなのに!」
激情がほとばしって、目が熱くなる。喉が詰まって顔を覆う娘に、スカサハは音もなく近寄った。
肩に触れれば、ウアタハは驚いたように母親を見上げる。だが、すぐにくしゃりと顔を歪めると、スカサハの胸に飛び込んだ。
「ひどいわ、どうして、どうしてよ……」
母の胸に顔をうずめながら、ウアタハはしゃくりあげる。
スカサハは手を伸ばすと、肩口に流れる娘の髪をぎこちなくなでた。
クー・フーリンは、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
あれから、どうやって部屋に戻ったのかはよく覚えていない。
スカサハとオイフェに支えられ、おぼつかない足取りで歩いたのは覚えている。
頭の上で、具合の悪いところは、だの、なぜ早く言わなかった、だの、その体で激しく動くなんて、だのという叱責が飛び交っていた気はする。
扉が開く音がして、クー・フーリンは我に返った。オイフェが盆を抱えて入ってくる。
湯気の立つ椀を差し出され、それを手に取った。口をつければ、すうっと爽やかな清涼感が抜けていった。
最近はずっと胸がむかむかしてろくに食事をとれなかったが、これなら飲める。
無言で椀の中身をすするクー・フーリンを見ながら、オイフェは口を開いた。
「我が国の薬湯だ。落ち着いたか?」
クー・フーリンはうなずく。オイフェは寝床に座るクー・フーリンのそばに腰を下ろした。その手を取り、優しくさすってやる。
クー・フーリンは黙っていたが、みるみるうちにその目に涙が浮かんでくるのを見て、オイフェは彼女の肩を抱き寄せた。
「……知ってるのか」
何を、とは言わない。
「ああ。……スカサハを問いつめた」
オイフェは細い肩をさすりながら答える。クー・フーリンはぼんやりと視線を落とした。
「オレ、治りさえすれば大丈夫だって思ってた」
ぽつりとクー・フーリンがつぶやいた。オイフェは静かに彼女の言葉を聞いている。
「怪我は治ったし、痛いのもおさまった。外にも出られるようになったし、もうこれで全部元どおりだって、大丈夫だって、そう思ってたんだ」
──でも。
クー・フーリンはぎゅっと目をつぶった。こぼれた雫が、握りしめたこぶしにぱたぱたと落ちる。
「でも、これじゃあ……!」
オイフェはクー・フーリンを引き寄せ、腕の中に包みこんだ。やわらかな体温に抱きとめられて、自分の中の何がが緩んだ。
「怖い」
ぽろりと口から言葉がこぼれる。一度こぼれ落ちてしまえば、それはもう止まらなかった。
「怖い、こわい、こわいよぉ……!」
小さな子どもが母親にすがるように、クー・フーリンは泣き声をあげた。
「ああ、クー!」
泣きじゃくる少女を、オイフェは力を込めて抱きしめた。そうしないと、彼女が砂のようにぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうだったからだ。
震える指で、クー・フーリンはオイフェの腕を掴んだ。
「助けて……」
師にも、仲間にも、親友にも言えなかった言葉が、するりと口をついて出てきた。
「たすけて、オイフェ」
か細い叫びに、オイフェは胸が張り裂けそうになった。
弱々しい声で助けを求める哀れな少女を、痛いくらい強く抱きしめる。
胸の内いっぱいに広がったのは、彼女を傷つけた者たちへの憎しみと、彼女に何もしてやれない自分自身への怒りだった。
カタンと音がして、スカサハは窓の外から視線を戻した。
部屋に入ってくるオイフェを見て椅子から立ち上がり、テーブルに置かれた杯にワインを注ぐ。
「泣き疲れて眠った」
「そうか」
杯を差し出せば、オイフェは礼を言ってそれを受け取った。
「あんなに辛そうに泣く者は初めて見た。……代わってやりたいくらいだ」
スカサハは目をあげ、オイフェを見た。
「おまえの体は」
「わかっている。私は何も生めない」
オイフェは自分の平らな腹をさすり、自嘲気味に笑った。
「だから、子に恵まれたあなたが妬ましかった」
そう言って、オイフェはワインをあおった。スカサハは再びその杯を満たしてやる。
「……おまえは私より医術に秀でている。どう思う」
「傷なら癒せるが、妊娠自体はあくまで自然な事象であって、傷ではない。胎児殺しは母体にも危険が及ぶ。……最悪、母子ともに死ぬ。やりたくはない」
「……では?」
「その後、何をするにしても、最も安全な手段を選ぶというのなら」
オイフェはスカサハの目を見た。
「産ませるしかあるまい」
スカサハはため息をつき、長い髪を苛立たしげにかきあげた。そんな姿を、オイフェはじっと見つめた。
「頼みがある、オイフェ」
「なんだ」
「おまえにも立場があるのは分かっている。だが、あやつが無事に子を産むまで、ときどきでいい、様子を見にきてくれぬか」
「この国にも、優秀な医者やドルイドはいよう」
「ああ。だが、何よりも」
スカサハは目を伏せた。
「あやつは、おまえを好いているのだ」
「…………」
オイフェは、手にしていた杯をことりとテーブルの上に置いた。
「わかった。約束しよう」
「……恩に着る」
スカサハの言葉に、オイフェはうなずいた。
「我が国には、腕のよい産婆もおる。出産のときに遣わそう」
「感謝する、オイフェ」
「構わぬ。私とて、あの娘を気に入っているのだから」
それにしても、と思う。
「一人の人間にここまで心を砕くなど……まるで昔のあなたに戻ったようだな、姉上」
スカサハは再び窓の外に目を向けた。日はとうに落ち、蜜のような夜が空を浸している。
「昔のことなど、もう忘れた」
「そうか」
オイフェはテーブルにもたれかかり、物静かな眼差しで姉を見つめた。
「あの娘は私を好いているというが、あなたのことだって愛している」
「…………」
「なあ、姉上。あなたももっと言葉で表したらどうだ。彼女のことを愛していると」
スカサハは腕を組んだまま、何も言わなかった。
夜明けとともに、クー・フーリンは目覚めた。寝床から起き出し、窓から外を見る。
太陽はちょうど地平線に顔を出したところだった。すみれ色の空が朱色に染まり始める。
クー・フーリンは太陽をじっと見つめた。濃い橙色をしていたそれは、空に昇るにつれて金色に光り始める。
光がだんだんとまぶしくなって、見ていられなくなる。目に涙が滲む。
「おはよう、クー」
声がして振り返れば、ウアタハが立っていた。朝食を運んできてくれたのだろう。
「……おはよう」
クー・フーリンはかすかな笑みを浮かべた。
クー・フーリンは、スカサハから修行に出ることを禁じられた。
反論が出るかと思いきや、静かな顔つきでうなずいた。スカサハは隣に立っていたオイフェを手で示した。
「体のことで何かあればオイフェに伝えよ。知識についてはドルイド以上だ」
クー・フーリンは再び小さくうなずき、椅子から立ち上がる。そのまま師たちに目礼し、部屋から出た。
扉を閉めたところで、フェルディアとウアタハが立っていることに気づいた。
どこか気まずそうな顔つきをしている兄弟子に笑いかけてやる。
「よう、フェルディア。今日は狩りに行くんじゃなかったのか?」
「あ、ああ。今から行く」
「そっか。でっかい獲物、期待してるぜ」
ポンと大柄な男の肩を叩く。
「ああ……もちろんだ」
フェルディアは何かを言いたげにクー・フーリンの顔を見た。だが、口を閉ざしたままだ。そんな親友に、クー・フーリンはにっこり笑ってみせる。
「オレは大丈夫だから。じゃ、また後でな」
ひらりと手を振って、クー・フーリンは歩き去った。フェルディアとウアタハはしばらくその姿を見送っていたが、やがてフェルディアは大きなため息をついた。
「男はダメだな」
そう言って、髪をぐしゃりとかく。
「こういうとき、何て声をかけたらいいのかわからない」
「女だってそうよ。性別は関係ないわ」
ウアタハは、そっと友が消えた方向を見やった。
「彼女の力になるわ。何があっても」
その言葉に、フェルディアもうなずいた。
夕方、狩りから帰ってきたフェルディアたちをクー・フーリンは出迎えた。
フェルディアが馬から降りたのを見計らって、いつものように手入れをしようと馬に手を伸ばす。
「いや、いいよ。自分でやる」
「え、でも」
「いいって。それよりおまえ、体は平気か? 休んでたほうがいいんじゃないか?」
「今は平気だって。それに、馬の手入れくらいできる」
そう言って、再度手綱に手を伸ばすのをフェルディアは止めた。
「いや、大丈夫だ。それより、クー。今日はでっかい鹿が獲れたからな。夕食は楽しみにしてろよ」
「うん……」
クー・フーリンがしぶしぶ離れると、フェルディアは自分で馬を引き、厩舎へ歩いていった。
他の兄弟弟子たちも、つぎつぎにクー・フーリンに言葉をかけながら、フェルディアの後をついていく。
仲間たちの背を、クー・フーリンは少し寂しそうな目で見送った。
夕食には、弟子たちが狩ってきた鹿肉や猪肉が調理された。
ただよう匂いにえずきそうになりながら、クー・フーリンは食堂に運ぼうと料理が盛られた大皿を手に取る。すると、それを走ってきた女中の一人が止めた。
「クー・フーリン様。私どもがやりますから」
「え。いや、だって、いつもやってるし」
「大丈夫です。クー・フーリン様は席におつきください。大事なお体なんですから!」
そう言われ、手から大皿を奪われてしまう。ぽかんとしているクー・フーリンを、女中は手で調理場の外にうながした。
追い出されるようにして廊下に出されたクー・フーリンは、仕方なく食堂へ向かう。
小間使いの仕事をしなくていいのは楽だったが、どうにも普段と違って落ち着かない。
結局、せっかくの鹿肉の料理も気分が悪くて食べられず、果物を少しだけ口にして席を立った。せめて片付けを、と思ったが、それも召使いたちに断られてしまった。
翌日も、クー・フーリンが何かしようとすると止められ、休んでいるよう注意された。
以前とはまた異なる居心地の悪さに、クー・フーリンは気が滅入った。体調の悪さも加わって、どんどん思考が暗くなっていく。
自分が気づかわれていることはわかっていたが、それでも、役立たずだと言われている気分だった。
休めというスカサハの指示はあったが、部屋でじっとしている気にはなれず、足がおもむくままに城の中を歩く。
武器庫の前を通りかかって、ふと足が止まった。扉を開ければ、磨かれた剣や槍、盾や鎧がずらりと並んでいる。
中に入り、一本の槍を手に取った。この重みがなつかしい。
ヒュン、と音を立てて振ってみる。くるくると槍を回し、空を突く。跳躍し、薙ぎ払う。
槍は自分と一体となり、流れるように体が動く。ああこれだ、と思う。
やはり、自分にはこれなのだ。自然と口元がほころぶ。そのまま、大きく槍を振りかぶった。
「何をしている!」
大きな怒鳴り声が響き、びくっと身が竦んだ。
振り向けば、フェルディアが怖い形相で立っていた。言葉もなく立ち尽くしていると、兄弟子はずんずんと入ってきて、乱暴に槍をもぎ取られた。
「休んでるように言われただろう! 何をやってるんだ!」
「だ、だって」
「だってじゃない! 今の自分の体をわかってるのか? 下手なことをして、何かあったらどうするんだ!」
怒鳴るフェルディアの声が、ぐるぐると頭を回っていく。何か言いたいのに、言い返せない。
ぎゅうっと胸が苦しくなった。もどかしい思いで頭がいっぱいになり、目の周りが熱くなる。
「う、うう〜……!」
「お、おい、クー!?」
不意に泣き出したクー・フーリンを見て、フェルディアはぎょっとした。怒りから一転、あたふたとうろたえながら、友の顔を覗き込む。
「ど、どうした。どこか痛むのか」
「ちょっと槍を使っただけなのに、そんなに怒ることないだろ……」
「す、すまない。言い過ぎた。だけどそれは」
「なんだよ! オレ、何にもさせてもらえないのに! オレの気持ちがおまえにわかんのかよ!」
泣きじゃくりながら、クー・フーリンはわめいた。フェルディアは目を丸くして、友の顔を見つめている。
「あれもダメ、これもダメって。みんな取り上げられて。オレだって、で、できるのに」
「クー、それはみんなが、おまえのことを心配してるんだ。今のおまえは」
「オレの体のことなんてオレが一番わかってるよ!」
クー・フーリンは叫んだ。
「オレだって望んでこんな体になったんじゃない!」
ドンとフェルディアを突き飛ばし、廊下に飛び出す。「クー!」という叫び声が聞こえたが、足を止めない。
そのまま、クー・フーリンは回廊をひた走った。呼吸が苦しい。涙がぽろぽろと頰を伝う。
頭の中がめちゃくちゃだった。感情のコントロールが効かない。皆が心配してくれていることはわかっているのに。
これじゃあ、前と同じじゃないか。自分は何も変わっていない。苦しくて、目からまた涙が流れた。
「!」
足が何かにつまずく。あ、と思う間もなく、体が宙に投げ出された。目の前に広がったのは階段だった。ひゅっと息を飲む。
体に激しい衝撃が走った。そのまま次の衝撃。クー・フーリンは音を立てて階段を転げ落ちた。
ドサリと床に投げ出され、うめき声が口から漏れた。全身の痛みと激しい恐れが同時に脳裏を襲う。
クー・フーリンは慌てて自分の腹を見た。無意識だったのか、両腕で腹をかばっている。
「クー! 大丈夫か!」
薄れゆく意識の中で、誰かが自分に駆け寄ってくるのが見えた。フェルディアだろう。
「こども……」
それだけをつぶやき、クー・フーリンは気を失った。
自分は何かを抱いている。何か温かいものだ。
それが自分に向かって手を伸ばし、にっこり笑って口を開く。
──×××××。
はっと目を開く。汗がつうっと喉元まで伝った。自分のあえぐような呼吸音が耳に響く。
「クー! よかった!」
声とともに、二つの顔が視界に飛び込んできた。ウアタハとオイフェだ。
一瞬、なぜ二人が目の前にいるのかわからず、瞬きをする。
「あ、オレ……」
「階段から落ちたって聞いたの。叔母上にも手伝ってもらって手当したけど、痛みはどう?」
「痛みは……平気……」
ひどい汗を腕でぬぐいながら起き上がる。すぐにウアタハが布で肌を拭いてくれる。
「あっ、子ども、子どもは!?」
慌ててオイフェを見上げる。オイフェは安心させるように微笑を浮かべた。
「大丈夫だ。確認したが、問題ない」
安堵が全身のすみずみまで染み渡っていく。「よかった」とつぶやきが漏れた。オイフェが眉を上げる。
「フェルディアがものすごく心配してたわ」
ウアタハが言った。途端に、クー・フーリンの胸にどっと罪悪感が押し寄せる。
「今、あいつは?」
「廊下にいるわ。呼ぶ?」
「頼む」
すぐにフェルディアが部屋に入ってきた。起き上がったクー・フーリンの姿を見て、へなへなと床に膝をつく。
フェルディアは額を押さえ、全身から吐き出すように息を吐いた。
「はあ……よかった……」
「ごめん……」
ばつの悪さに、掛け布をいじりながら謝る。
「また、迷惑かけちまった」
「かけていいって言ったのは俺だけど、今回はさすがに寿命が縮んだぞ……。あ、いや、俺こそごめんな。おまえの気持ち、全然考えないで」
「ううん……」
「子ができると、女は気持ちが大きく揺れ動くものだ。互いにあまり気に病むな」
そう言いつつオイフェはクー・フーリンの前に屈みこみ、少し怖い顔をした。
「だが、今回のようなことは二度と起こすな。体が第一だ。よくよく気をつけろ」
「うん。ごめんなさい」
うつむく少女の頭を優しくなで、オイフェは立ち上がった。「少し眠れ」と告げ、そのままウアタハとフェルディアを連れて部屋を出ようとする。
「あ、あの」
そんなオイフェたちを、クー・フーリンは呼び止めた。三人が振り返る。
「オレ、決めた」
クー・フーリンは腹に手を当て、まっすぐな目で言った。
「この子、産む」
スカサハは、射るような瞳で目の前に立つ弟子を見つめた。
「そうか」
ぽつりとつぶやく。長い足を組み替え、鋭い視線を注ぐ。
「わかっていような。子犬の調教とは訳が違うのだぞ」
「わかってます」
クー・フーリンはぎゅっと両手を握った。ぐいと顎を上げ、師の視線を受け止める。
二人は睨み合うように互いを見つめていたが、やがてスカサハは、ふ、と息を吐いた。
「覚悟を決めたというなら、私はもう何も言わぬ」
「ありがとうございます、師匠」
「下がれ」
弟子が部屋を辞した後も、スカサハはしばらく椅子に座ったままじっとしていた。
やがて立ち上がり、右手を開く。赤い閃光とともに、槍が出現する。
魔槍の装飾をなでながら、遠い記憶の戦士に思いを馳せる。
「できる仕事、ですか?」
女中頭は不思議そうにクー・フーリンを見ていたが、すぐピンと来たようにうなずいた。
「なるほどね。お任せください。なんせこの私は、6人も子どもを育てたんですからね!」
そう言って、どんと胸を叩く。恰幅のいい体が揺れて、クー・フーリンは思わずクスッと笑った。隣のウアタハも笑顔になる。
この威勢のいい女中頭は若者たちを我が子のように可愛がり、スカサハからの信頼も厚かった。
「あなた様でもできるものはありますよ。料理や繕い物なんかね。力むものはダメ。でも、いいですか、絶対に無理はしちゃいけませんよ。今のあなた様にとって一番の大仕事は、子どもを産むことなんですからね」
女中頭の言葉に、クー・フーリンはうなずいた。
時が流れた。
クー・フーリンの腹は、いまやはっきりと大きくなっていた。
普段は女王付きのドルイドが、また、定期的にやってくるオイフェが様子を確認し、必要な指導をした。
兄弟弟子たちや召使いたちは香りのよい花や菓子を持ち寄り、仲間を見舞った。食欲が戻ったクー・フーリンが威勢よく食べたため、後々オイフェに叱られることになったが。
「不思議ねえ」
ウアタハがクー・フーリンのふくらんだ腹を見ながら言った。
「なにが?」
ゲームの盤面をにらみつけていたクー・フーリンは顔をあげた。次の駒の位置がなかなか決まらないようだ。盤上は彼女の劣勢である。
「お腹の中で、赤ちゃんがそうやって大きくなっていくことがよ」
クー・フーリンがようやく進めた駒を、ウアタハはすかさず自分の駒で打ち負かす。友の渋い顔を見てにやりとしながら、順調に自分の陣地を広げた。
「そんなこと言ったって、そういうものだろ。人間だって動物だって」
「そうだけど、それでも不思議だなあって思うの」
ウアタハは茶を一口飲んだ。クー・フーリンは「そういえば」と腹をさする。
「最近、中で動くんだぜ」
「えっ、本当!?」
「おう。たまにズシッとくる」
「ええ、すごい」
「触ってみるか?」
ウアタハは目を輝かせ、いそいそとクー・フーリンのそばに寄ってきた。手を当てれば、しっかりとしたふくらみを感じる。
そのままじっと手を当てていると、ごろごろとした動きが伝わってきた。ぱっと顔を上げれば、友が白い歯を見せる。
「すごい、すごいわ」
「おまえ、そればっかり」
「だって、すごいもの。勉強になるわ。侍女たちに子どもができても、ここまで触れることなんてなかったし。それに、私もいつか、その……」
急に口ごもるウアタハを見て、クー・フーリンはにやにやと笑みを浮かべた。
「そういえば、おまえ、好きな奴はいないのか?」
「えっ!?」
ウアタハは真っ赤な顔で振り返った。にやつく友の顔を見て、「もう!」とその肩を叩く。
「い、いないわよ」
「ほーう? フェルディアとかは?」
「やだ、彼はいい人だけど、そういうのじゃないわ」
本人が聞けば落ち込みそうなことを言いながら、二人はきゃっきゃっと盛り上がった。
「はい、あなたの番よ。さっさと駒を進めて」
「ごまかしたな。本当は好きな奴いるんだろ」
「いないってば。もう、ほら、勝負を続けないなら、このゲームは私の勝ちよ」
「おっと、そいつは駄目だ。オレはまだ負けちゃいない」
「どうかしら。この陣地差よ」
「一人でも戦う者がいれば戦況はひっくり返せる──と」
クー・フーリンが〈王〉の駒を進めた。ウアタハは目を丸くした。気づかなかった隙を突かれ、あっという間に陣地が奪い取られる。
「オレの勝ち」
クー・フーリンはにやりと笑った。
「おやすみ」
「おう、また明日」
仲間たちと挨拶を交わし、フェルディアは浴場を出た。風呂はいい。汚れも疲れも全て洗い流してくれる。
気分よく部屋に戻ろうと歩いていると、海にせり出した城壁に人影がいるのに気づいた。
──まったく、侍女も連れずに。
人知れず嘆息し、フェルディアは人影に向かって足を向けた。
「夜更けに散歩か?」
クー・フーリンは振り向いた。足音ですでに気づいていたのだろう。驚きもせず、フェルディアの姿に目を細める。
「ちょっと、眠れなかったから」
青白い月は煌々と照り、海に光を投げかけていた。波が絶え間なくその光を砕く。ざざん、ざざんという潮騒が、夜の空に響いている。
フェルディアは友の姿を見やった。凛とした横顔が、月光に美しく照らし出されている。
「だいぶ大きくなったな」
「だろ?」
クー・フーリンはふふと笑い、腹に手を当てた。その笑みの艶やかさに、フェルディアは息を飲んだ。
「子どもが生まれたら、おまえはどうするんだ」
「育てる」
「いや、それはそうだろうが……国に帰るのか」
「国、か」
壁に頬杖をつき、クー・フーリンは目を伏せた。
「帰りたいけど」
その声に諦観のようなものを感じ、フェルディアは言葉に迷う。
「おまえは、その、国に待ってる人はいないのか?」
「待ってる人?」
「ああ。だからその……大事な人、っていうか」
クー・フーリンはゆっくりとまぶたを開いた。茫洋とした目つきで海を見つめる。
「いるよ」
妙にきっぱりとした口調に、フェルディアは胸を突かれた。うまい返事が見つからず、「そうか」とだけつぶやく。
クー・フーリンはもたれていた壁から身を起こした。少し冷えた潮風が、長い髪を弄ぶ。
少女はくるりと振り返り、兄弟子を見た。
「おまえはいないの?」
「え?」
とっさのことに、フェルディアは瞬きをした。
「だから、大事な人」
友はやわらかな笑みを目元にたたえたまま言った。フェルディアは、一瞬言葉に詰まった。迷うように目線を彷徨わせた後、うなずく。
「ああ、いる」
「なんだよ! おまえも隅に置けねえなあ!」
クー・フーリンはいたずらっぽく目を輝かせた。わくわくと兄弟子の顔を覗き込む。
「なあ、誰、誰? コノートのフィンダウィル王女か? すっげえ美人だって聞いたぜ!」
「うーん……」
困ったように頭をぼりぼりかきながら、フェルディアはうなった。
「まあ、王女は美人だな、うん」
「なんだよ、教えてくんねーのかよ」
クー・フーリンは頰を膨らませた。フェルディアはじろりと友を見る。
「おまえだって誰かまでは言ってないだろ」
「う、まあ、そうだけど」
「俺のことはいい。とにかくだ。大事な人がいるんなら、その、色々あるだろうが……会いに行ったほうがいいんじゃないか?」
明るい表情に影が差す。クー・フーリンは笑みを頰に残したまま、静かにかぶりを振った。
「今のオレじゃ、会いに行けない」
「そんなこと……」
「約束したんだ。だけど、オレじゃその約束を叶えられない。そんなオレに、会いに行く資格はないから」
「なっ」
フェルディアはクー・フーリンに向き直った。
「大事な人なんだろ? 会いたくないのか!?」
一瞬、クー・フーリンの顔がくしゃりと歪む。だが、瞬きのうちに彼女はそれを笑顔の中に隠してしまった。
「もちろん、会いたいよ」
「それなら、会いに行くべきだろう! 大事に想う人に会うのに、資格なんて必要なものか」
フェルディアは勢い込んで言いつのった。自分でも理由がわからないほど必死だった。
クー・フーリンは穏やかな顔つきでフェルディアを見つめていたが、海に視線を戻してしまう。
「おまえは、いい奴だよな」
不意打ちのようなつぶやきに、出かかった言葉を飲み込む。クー・フーリンは腹をさすりながら言った。
「おまえみたいな奴が父親だったらよかった、と思うよ」
「…………」
波の音が響く。フェルディアは、ぎゅっと自分の手を握った。
「父親になってやろうか?」
え、とクー・フーリンは振り向いた。フェルディアは真っ直ぐにクー・フーリンの目を見つめた。
「俺がその子の父親になってもいいんだぞ」
クー・フーリンは黙ったままフェルディアを見上げていた。
「……ありがとう」
そう言って、わずかにうつむく。長い睫毛がふるりと震えた。
「それができれば、よかった」
「…………」
フェルディアは詰まっていた息を吐き出した。宙を仰ぎ、自分の首筋をさする。
「……いや、俺も変なこと言って悪かった」
「ううん」
沈黙が再び二人の間に降りる。風がばたばたとフェルディアの上着の裾を揺らした。
「あー、風が冷たいから、おまえもそろそろ戻れよ。体冷やしちゃいけないんだろ」
「よく知ってるな」
「ウアタハが言ってた」
「はは、そっか」
クー・フーリンは壁から下がり、笑顔でフェルディアに向き直った。
「じゃあオレ、戻るわ。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
フェルディアに背を向けて歩き始める。グッと喉にこみ上げてくるものを飲みくだす。
だんだんと足が速くなっていく。ぐしゃ、と視界が歪んだ。なぜなのかわからなかった。しまいには駆け足のようになって、自分の部屋に飛び込む。
クー・フーリンはそのまま寝床にうずくまり、声を震わせて泣いた。
誕生
スカサハは、滅多なことでは部屋に訪ねてこない。
だから、師匠が現れたとき、クー・フーリンは完全に気が抜けていた。起き上がる気になれず、床の上でごろごろと寝そべっていたのだ。
スカサハの長い髪がさらりと揺れるのを視界の端でとらえ、クー・フーリンは慌てて毛皮をはねのけ、着衣の乱れを直した。
「し、師匠。珍しいな」
「退屈そうだな、セタンタ」
「そ、それは……まあ」
すたすたと部屋の中に入ってきたスカサハは、上目遣いで自分を見上げているクー・フーリンの前で立ち止まると、「手を出せ」と命じた。
クー・フーリンがきょとんとしていると、「さっさとしろ」と声を張り上げる。
慌てて片手を差し出してきた弟子の手のひらに、スカサハは色とりどりの石をバラバラと落とした。よく見ると、石のひとつひとつに記号のようなものが彫られている。
「これは……?」
「ルーンストーンだ」
「ル……?」
「ルーン文字を用いる外国の魔術だ。おまえが知るオガム文字より簡単だし、神秘の発動が早い」
「……?」
いまだに首を傾げているクー・フーリンを見下ろしながら、スカサハは言った。
「今のおまえは槍も持てず馬にも乗れず、暇を持て余しているのだろう。その間の手慰みだ。おまえに魔術を教えてやる」
修行ができないことは受け入れていたが、やはり鬱屈した気持ちを抱えていたクー・フーリンは、のめり込むように魔術を学んだ。
戦いの技を学ぶことに貪欲だった彼女は、乾いた砂に水が染み込むように知識を吸収していった。
簡単なことだけ教え、気を紛らわせる程度に考えていたスカサハも、クー・フーリンの飲み込みの早さにどんどん高度な知識を教えた。
「この国に来た最初の頃、フェルディアが幽霊を炎で追っ払ったんだ」
ルーン文字を刻む練習をしながら、クー・フーリンは言った。魔力を練ることで威力を発現させることができる魔術は、身重の体には楽だった。
「あやつにも基本は全て教えたからな」
クー・フーリンは、目の前の枯れた葉を燃やそうとルーンを刻んだが、ぱちぱちと火花が出るだけに終わり、落胆した。
「駄目だ、全然あんな風にできねえ」
「火花すら出せなかった者もいる。おまえは筋がいい。基本を続けていれば、すぐに上達する」
そこまで言って、スカサハはクー・フーリンが自分をにこにこと見上げているのに気づいた。
「何を笑っている」
「いや、師匠がオレを褒めてくれるの、珍しいなって」
「そうか?」
「おう。オレが試合で10人通して勝ったときも、山みたいにでっかい猪を捕まえてきたときも、『まだまだだ』なんて言ってたのに」
「…………」
「それに」
クー・フーリンは機嫌よく文字の練習を再開した。
「こうして二人っきりで、師匠がオレだけに教えてくれるなんて、すげえラッキーだ」
思わず、スカサハは弟子の横顔を見た。クー・フーリンはその視線に気づくと、にこっと笑う。
その晴れやかな笑みに、スカサハは胸の奥がむずがゆくなった。
ヒトだった頃の感情や感性はとうに失われたつもりだったが、この少女の前ではどうも調子が狂う。だが、存外──不快ではない。
「あ、できた」
クー・フーリンが弾んだ声で言う。スカサハの目の前で、枯れ葉は小さなともしびのように燃え上がった。
「順調だな」
腹から手を離し、オイフェは満足そうに言った。クー・フーリンもほっとした顔をする。
「しばらくは私も滞在しよう。もう少し近くなったら産婆たちも呼び寄せる」
「悪いな、オイフェ」
「なんの、他ならぬおまえのためだ。交易の話も進めねばならないしな」
スカサハとオイフェが和解したことで、両国の距離はぐっと近づいた。戦ではなく交易で互いの国を潤す話が持ち上がり、女王たちはそれに向けて動いていた。
「そういえば、子の名前は決めたのか」
オイフェの問いに、クー・フーリンは「まだ」と首を振った。
「ふむ。まあ、まだ時間はある。じっくり悩め」
その言葉にうなずき、部屋を出ていくオイフェを見送る。扉を閉めると寝床に戻り、ごろりと横になる。大きくなった腹を、ゆっくりとさすってやる。
「もうすぐ会えるな」
声をかければ、内側からぐっと押される感覚がした。笑みが深くなる。
雲が太陽をにぶく光らせる、風が強い日だった。
魔術を練習する手を止め、一休みしようとクー・フーリンは外に出た。
腹は下方にせり出し始めており、少し動くのも一苦労だったが、重みを抱えながらなんとか歩く。
母のデヒテラもこのような感じだったのかと思うと、感慨深かった。廊下ですれ違う兵士や召使いたちと挨拶を交わしながら、中庭に出る。
お気に入りの樫の木は、変わらずそこに立っていた。祖父のように大らかで、この風の中でもどっしりと大地に根を下ろしている。
子を産んだ後、自分はどうなってしまうのだろう。
樫の木を見上げながら、クー・フーリンは物思いにふけった。故郷に残してきた懐かしい顔が思い出される。
皆、自分が立派な戦士として戻ってくるものと思っているだろう。それが……。
一陣の風が、ざああ、と枝を揺らしていく。クー・フーリンはぽつりとつぶやいた。
「エメル」
不意にばさばさと音がして、クー・フーリンは我に返った。
見上げれば、黒い鳥が樫の枝に止まっている。大きなカラスだった。
光沢のある濡れたような翼が、おそろしく美しい。
吸い込まれるように、クー・フーリンはカラスを見つめた。カラスも、玻璃のような瞳でじっとこちらを見つめてくる。
「!」
唐突に、クー・フーリンの頭の中に炎上する城の光景が流れ込んできた。
女たちの悲鳴。男たちの怒号。激しい剣戟の音が耳にこだまする。
クー・フーリンは何がなんだかわからなかった。場面はめまぐるしく移り変わる。
戦場を駆けめぐる騎士たち。土ぼこりをあげる騎馬の軍勢。うなり声をあげながら走る牡牛。宙を飛び交う投げ槍。飛び散る血に、散らばる肉片。
「か、は……っ!」
クー・フーリンは大地に手をついた。怒涛のような光景の奔流に飲み込まれる。
体がぶるぶると震え、足に力が入らない。頭を押さえ、クー・フーリンは悲鳴をあげた。
「セタンタ!」
誰かの声が聞こえ、ビュッと何かが空を裂く音がした。唐突に映像の嵐が引く。
肩を掴まれて顔をあげれば、スカサハが自分を覗き込んでいた。
「セタンタ、気をしっかりもて」
ギャア、とカラスの鳴き声がする。スカサハは勢いよくそちらを振り向き、指で宙にルーン文字を描いた。
文字は次々に発光し、光線となってカラスに襲いかかる。爆音が轟く。爆風にあおられてクー・フーリンは叫び、スカサハの腕にしがみついた。
風が止んだとき、カラスの姿はどこにもなかった。樫の枝には槍が突き刺さり、揺れているだけだ。スカサハは舌打ちをし、弟子のほうを振り向く。
「おい、セタンタ、セタンタ! しっかりせい!」
クー・フーリンはそろそろと目を開いた。珍しく狼狽した顔の師匠が自分を見下ろしている。
「あ……師匠、今のは……?」
「いまいましいあやかしよ。大事ないか」
「ああ……」
伸ばされた師の手を掴もうとして、クー・フーリンは「ヒッ」と息を飲んだ。
不自然に動きを止めた弟子に、スカサハは不審げな顔をする。だが次の瞬間、地面にじわじわと広がっていく水に気づき、目を見開いた。
「セタンタ!」
スカサハの声に、クー・フーリンは茫然とした顔で師を見上げた。何が起きたのかわからないといった顔だ。もたもたしてはいられない。
スカサハはすばやく膝に手を回し、クー・フーリンを抱き上げた。
「し、師匠!?」
「動くな。捕まっていろ」
細い腕が首に回るのを感じながら、スカサハは少女を抱えて城の中に急いだ。
「オイフェ! オイフェを呼べ!」
ばたばたと城に戻ったスカサハの元に、何事かとオイフェが駆けつける。ウアタハも一緒だ。
オイフェは姉に抱えられているクー・フーリンを見て、さっと顔つきを変えた。
「産気づいた。準備を頼む」
ウアタハがはっと息を飲む。オイフェは「わかった」とつぶやき、すぐに女たちを集め、てきぱきと指示を飛ばし始めた。
「師匠、オレ……」
腕の中で、クー・フーリンが震えている。未知への恐怖か、瞳が怯えに揺らいでいる。スカサハは低い声で言った。
「案ずるな。気を強くもて」
その言葉に、こくりとうなずく。スカサハは弟子を抱え直すと、産屋に向かった。
産屋は適度に温められ、香りのよい香が焚かれた。壁と床には、魔物を払い、安産をうながす魔術式が刻まれる。
部屋の外には女性僧であるドルイダスがつき、男たちを近づけさせないように部屋を守る。
クー・フーリンが出産用の椅子に座ると、額に落ちる髪をオイフェが優しく払った。
予想より早いせいで国から産婆を呼び寄せる時間がなかったが、自分も助産の経験は幾度もある。問題はない。
「私が取り上げる。任せてくれるな?」
苦しげに呼吸をしながら、クー・フーリンがうなずいた。
スカサハがクー・フーリンを後ろから支え、ウアタハがそばで介添えをする。
「──ぁっ!」
クー・フーリンがうめいた。びくりと足が震える。
「あ、う……ア、はぁっ」
「そうだ、息を吐け、いいぞ」
オイフェはクー・フーリンの背中を力強く何度もさすった。
時間が経つにつれ、だんだん痛みが強くなってきたのだろう。クー・フーリンの顔からは血の気が引き、額に汗がにじんだ。
「アアアッ!」
突如、クー・フーリンが絶叫した。激しく身をよじり、手足をばたかせようとするのをスカサハとオイフェで抑え込む。
半神の力を持ったクー・フーリンが全力で暴れれば、常人ではただでは済まない。椅子がガタガタと揺れ、クー・フーリンは悲鳴をあげた。
「ヒィッ、いた、いッ! いた、ッアア!」
体を引き裂かれるような凄まじい痛みがクー・フーリンを襲った。壊れてしまったのではないかと思った。苦痛から逃れたい一心でもがくが、押さえつけられてそれは敵わない。
「ぃあ、や、いたい、いたい、うう、うー!」
「クー、頑張って!」
たまらず、ウアタハが叫んだ。スカサハの額にも汗が浮かんでいる。支えているのが彼女でなければ、今頃この部屋は木っ端微塵になっているだろう。
「ぃたい、助けて、たすけて、オイフェ!」
泣き叫びながら、クー・フーリンは助けを求めた。この激痛は永遠に続くように思えた。オイフェは濡れた頰をさすってやり、落ち着いた声で言う。
「大丈夫だ、クー。頭が出てきている。もうちょっとだ」
はーっはーっと息をあげながら、クー・フーリンはつばを飲み込む。酸欠なのか、意識が朦朧としてくる。そんな彼女に、オイフェは大声で呼びかけた。
「しっかりしろ、クー! 赤ん坊も頑張っているぞ、おまえも頑張るんだ!」
息も絶え絶えだったが、クー・フーリンは歯を食いしばった。ずる、ずる、と腹の中のものが外に出ていこうとしているのがわかる。
残った力を振り絞り、クー・フーリンは必死にいきんだ。
「──ッ!!」
ずる! と体の中から何かが抜け出ていく感覚。その瞬間、ふっと体が軽くなった。
力が抜け、椅子に倒れ込む。世界がぼやけて、はあ、はあ、という己の息づかいだけがはっきり聞こえる。
まぶたを閉じると、目尻からつう、と涙が頰を伝うのがわかった。遠くで何かが泣く声や、誰かの話し声がかすかに聞こえる。
「……クー、クー!」
意識が戻ってくる。重い頭を抱えながら、まぶたをうっすらと開く。ぼんやりとしか見えなかったものが、徐々にはっきりと形を成していく。
「クー、ごらん、立派な男児だ。ほら、クー、見てごらん!」
世界が一気に輪郭を取り戻していく。クー・フーリンは目を開けた。
オイフェが、白い産着にくるまれた何かを抱いていた。
「あ……」
クー・フーリンは身を起こした。体中がひどく痛んだが、気にならなかった。
オイフェはそっと白いくるみを渡してくれる。クー・フーリンは震える手でそれを受け取り、中を覗き込んだ。
小さないきものが、こちらを見上げていた。
赤く、しわくちゃで、やわらかい。まぶしいのか、ときおりぱちぱちと瞬きをする。
胸の中で爆発するような喜びが広がった。思わず口から嗚咽が漏れる。壊れないように、そうっと抱きしめる。
赤ん坊は、か細い泣き声をあげた。両目が潤み、視界がみるみるうちにぼやける。
ああ、だめだ、だめだ、この子の顔をしっかり見てやりたいのに。
「よくやった、クー」
顔をあげれば、オイフェが満足そうな顔で微笑んでいた。ウアタハも両手で口を覆い、目を潤ませていた。
「……ありがとう」
その声はひどくかすれていたが、安堵と喜びに満ちていた。
クー・フーリンは首を動かして師の姿を探した。見れば、少し離れた壁際で、スカサハが短刀を布でぬぐっている。
「おまえと赤子をつなぐ緒はスカサハが切った」
オイフェが言った。クー・フーリンは、師に呼びかけた。
「師匠」
スカサハが振り向く。クー・フーリンは、抱いていた赤ん坊をスカサハに差し出した。
「師匠もこの子を抱いてやってくれ」
師は無表情のまま瞬きをした。クー・フーリンは再度「師匠」と呼びかける。
スカサハは短刀を腰の鞘に戻すと、こちらへ歩み寄ってきた。
差し出された赤ん坊を抱き上げる。その小さな顔を見つめれば、赤ん坊も不思議そうな表情でスカサハを見た。
──クー・フーリンとは、目の色が違う。
「師匠……?」
ふと、クー・フーリンは、黙ったまま赤ん坊を見つめ続けるスカサハに妙な空気を感じた。
部屋は暖まっているのに、急激な冷気がにじり寄ってくるような気がする。
突然、スカサハは鞘から短剣を抜き、赤ん坊に向かって振り上げた。
「師匠!?」
衝動的に体が動いていた。クー・フーリンはスカサハにぶつかり、その手から赤ん坊を奪い取った。
「が、ぁっ!」
そのまま床に倒れ込む。出産を終えたばかりの体に激しい負荷がかかり、息が止まった。腕の中で、赤ん坊が大きな声で泣き始める。
「クー!!」
ウアタハが悲鳴をあげ、クー・フーリンに駆け寄る。オイフェは信じられないものを見る目でスカサハの胸ぐらを掴み、その頰を激しく打った。
「気が触れたか、スカサハ!」
スカサハはものも言わず立っていた。足元を見下ろせば、血相を変えたウアタハが倒れた弟子に呼びかけている。目が合うと、クー・フーリンの顔が激しい恐怖に歪んだ。
「やめて、やめて、殺さないで!!」
クー・フーリンは叫んだ。目には涙があふれている。怯えながらも、震える腕で赤ん坊を守ろうと固く抱きしめている。
「だめ、殺さないで、殺さないで……」
「やめて、母上!」
ウアタハがスカサハの前に割って入り、クー・フーリンを守るように両手を広げて叫んだ。
「どうしてしまったの、母上!? お願いです、やめてください!」
「……私は」
「ここから出ていけ、スカサハ!!」
オイフェが怒鳴った。スカサハは短剣を鞘に戻すと、何も言わずに部屋から出ていった。
クー・フーリンの体からどっと緊張が抜けた。急激に意識が遠くなる。ふらりとよろめいた体を、ウアタハが慌てて抱きとめた。
「叔母上、大変!」
「静かに寝かせろ、そして……」
頭上で飛び交う二人の声を聞きながら、クー・フーリンの意識は暗い闇へと落ちていった。