紅玉のフタゴムシ①「さとる」
そっと呟いても、その声に答えてくれる筈の人間はまだ目を覚まさない。さまざまな機械に繋がれ、死んだように眠る悟はまるで精巧な人形のようだった。
「悟」
もう一度、名前を呼ぶ。
ピクリとも動くことのない瞼を見て、思わず投げ出された手を握った。ただでさえ冷たい悟の手がさらに温度を失っているのに気付いて、強く、強く握る。
あわよくば、この感触に気付いて起きてくれる期待を抱いて。
「悟...」
なのに、強く握った手を持ち上げても、悟は目を瞑ったまま。
抵抗しない。何も言わない。
それが酷く悲しくて、私はぐっと唇を噛み締めた。
『五条が暴走車に撥ねられた』
そう言った硝子の震えた声を、今でも容易に思い出すことができる。
変わらない日。そう。いつもと対して変わらない日だった。
いつも通り二人で朝食を取って、悟がゴミを持って出勤する。ゴミを持つ悟に、いつまで経っても似合わないな、なんて思っていのだ。
昨日の夕食も思い出せないくせして、悟が撥ねられたその日の過ごし方は馬鹿みたいにはっきり覚えている。
それなのに、彼がいつも通りに放った行ってきます。その声が薄らぼんやりとしてきているのが恐ろしくて仕方ない。
私の中の『悟』が、ゆっくり、確実に、その輪郭を曖昧にしていく。
それを感じているのに、眠ったまま動かない悟の前でどうすることもできずにいる自分が憎くて仕方なかった。
悟を轢いたのは、常識を知らない猿だったらしい。
馬鹿みたいに酒を飲んであやふやな前後感覚のまま乗り込んだのか、そこのところは定かではないけれど、その猿は確かに、飲酒運転をして悟を轢いた。
...その状況を警察から教えて貰った時の気持ちをなんと例えたらいいのだろう。
男は悟を撥ねたあと電柱に突っ込み即死、人気のない道だったため被害者は悟、たった一人。
...悟が轢かれたその場所にはコンビニの袋が落ちていたらしい。
ビールが数本と、つまみと、スイーツが沢山入ったコンビニの袋。ビールも、つまみも私が気に入っている銘柄のものだった。
どんな思いでこれを買ったのだろう、どんな思いで帰路についていたのだろう、どんな思いで、自分に迫る車を見たのだろうか。
カンカンと照りつける太陽が夏油の黒髪を焦がす。
まだ初夏のはずだが今日は一段と暑い。
両手に紙袋をぶら下げて足を運ぶ夏油の姿はまるで大荷物を持っているように見えるだろう。
夏の暑さと階段にほんの少しだけ呼吸を早めながら、夏油はとある病室の前まで来て、ようやっとそこで息を吐いた。
そうして、三回ほどノックをしてからその扉に手をかける。
「や、悟」
静まり返った病室の扉を開けて、夏油は眠ったままの五条に笑いかけた。
開いた窓からは生ぬるい風が吹き込み、ギラギラと光を放つ太陽の光は室内に一筋の線となって差し込んでいる。
「今日は凄く暑いな、悟は暑くない?」
額に滲んだ汗を拭いながら、夏油はそう尋ねた。
窓の外では蝉時雨が響き渡っている。
眠ったままの五条を置いたまま、季節はもう夏を迎えていた。
「今日はちょっと用事があってね、少ししかいられないんだ」
ごめんね、そう呟いてするりと少し痩けた頬に手を滑らせた。日に焼け、ゴツゴツとした武骨な手が、紙のような色になった五条の肌を優しく撫でる。子供の体温のように温かった五条の手は気付けばほんの少しひんやりしていて、夏油はぐしゃりと顔を歪めてからその手を離した。
そうして、何かを取り払うように自身の手に持っていた袋からそっとフラワーアレンジメントを取り出す。
「今日は花、持ってきたんだけどね。店員さんに心配されちゃって、そんな酷い顔してるかな、私」
はは、と中身のない笑みを浮かべながら、夏油はことりと机の上にアレンジメントを置く。
暖色を基調としたそのアレンジメントは一つだけでも白い病室に良く映えた。
「あと、ケーキも持ってきたんだ。ほら、悟のお気に入りのケーキ屋さんあったでしょ、あそこの新作だよ。手に入れるの苦労したんだから」
少しだけアレンジメントをずらして、横にケーキの箱を置く。きっと五条も気にいる味をしているだろう、なんせ彼の行きつけの店なのだから、間違いない。
「早く起きないとケーキ、腐っちゃうよ」
そう言って夏油はそっと五条の髪に指を通す。
きっとこのケーキも、食べられることなく腐ってしまうんだろう。
そう考えて、静かに頭を振った。
「...ごめん悟、時間だ」
かき混ぜるように五条の頭を撫でて、夏油はそう呟く。
「...じゃあね悟、また明日」
諦めの滲んだ表情で寂しげにそう呟き、夏油はそっと部屋を出た。
俯いて病院を出ていく夏油を、家入は遠くから見つめていた。
五条が寝たきりになって、もう半年が経つ。
重症ではあったものの五条の命に別状はなかった、それなのに、五条は未だ夢の中にいる。
最初こそ不安定に取り乱していた夏油も、今となっては殆ど諦めに近い反応になりつつあった。
フゥーっと家入は紫煙を吐き出す。やめるつもりだった煙草をこうして吸ってしまうのも、アホみたいに夏油が落ち込んで、諦めてんのも。
「...全部、お前のせいだぞ。五条」
五条に非がないなんてことは、家入も理解している。けれど、そう言わずにはいられない。日に日に諦めたような顔を浮かべる夏油を眺め続けることは、家入にとって酷く苦痛だった。
お前が抜けただけで、こんなに不安定になるなんて思いもしなかったよ。
目を閉じて、そう思う。
俯いた夏油の姿を見れば、背中を叩いて騒ぐ五条の声が聞こえる。疲れ果てた顔で笑う夏油を見れば、隣で真っ直ぐ前を向いて肩を組んでやる五条の姿が見える。
家入は思わず苦笑した。
「...私も大概、重症だな」
ずっとうざったらしかった夏油と五条の絡みを望む自分に、家入はただ笑うことしかできない。
「早く起きろよ、五条」
夏油、ずっと待ってんぞ。
そう呟いて家入は紫煙を吐き出した。
長く、ゆっくりと煙が空へと登っていく。
それを少しだけ眺めて、家入は残った煙草をぐり、と押し潰した。
目の前に置かれたコーヒーを口に運ぶ。
舌に広がる熱と僅かな苦味が幾らか夏油の沈んだ気持ちを落ち着かせてくれた。
「すまないね、待っただろう」
「いえ、別に構いません。五条さんの所へ行っていたのでしょう」
「まぁね」
苦い笑みを浮かべて夏油は目の前の男に目をやった。
ずずと、夏油と同じようにコーヒーを口に運ぶ男...七海は夏油の“元”後輩だ。
今は夏油の編集者として働いている。
「…災難でしたね。貴方も、五条さんも」
少し気まずそうに逸らされた目線にそっと瞼を伏せる。大方、自分の役割に引け目を感じているのだろう。
七海は夏油の編集者だ、つまり、夏油に対して未だ進まない小説の催促を行う義務がある。
七海は優しい男だ。
前も今もそれは変わらない。冷たいように見えて情に厚いのも、以前と同じ。
優しい男だからこそ、率直に本題を切り出せないでいるのだろう。
「進捗の話だろう」
「…はい」
そういえば、観念したようにゆっくりと七海は顔を上げる。
あまり眠れていない夏油から見ても、七海は随分と顔色が悪かった。
新しく就任したあの頭の悪そうな編集長にまた嫌味を言われているのかも知れない。優秀な人間を意味なく責め立てる人間は一定数いるものだ。
「迷惑をかけるね…中々進まないんだ」
「…でしょうね、無理もありません」
気まずい空気を緩和させようとコーヒーを啜る。
先程よりも冷めてしまったコーヒーの苦味が舌にやけに残った。
「もう少し...もう少しだけ待ってくれ、進んでないわけじゃないからさ」
苦笑いを浮かべながら夏油はそう言う。嘘はついていない。少しは進んでいるのだ、酷く遅筆なだけで。
「気長に待ちたいのは山々なんですが...」
「はは、分かってるよ。どうせあの編集長に何か言われたんだろう?」
さっさと新作を出すよう言ってこい、みたいな。
ますますバツの悪そうな顔をする七海に少し罪悪感が募る。随分な上から目線でこちらに命令するあの編集長に申し訳なさは毛頭ないが、流石に長年見てきた後輩の顔には少しばかり弱い。夏油の脳裏に明るく笑う純粋な後輩がよぎる。
「...話を変えようか、灰原は元気かな」
にこ、と笑って尋ねた夏油に七海は少し虚をつかれたような顔をした。
「...あぁ、元気ですよ、相変わらずあなたの事をよく話していますし...それに、酷く心配していた」
「灰原も心配してくれてるのか...これは頑張るしかないなぁ」
夏油はそう言ってコーヒーをぐいっと飲み干す。これ以上ここに長居するつもりはなかった。元々夏油は七海へ謝罪を言いに来たのである。
「もうこんな時間だし、私は帰って書き進めるよ。コーヒーごちそうさま」
椅子をひいて立ち上がる。と、同時に七海が呟いた。
「...もし...」
「ん?何か言ったかい七海」
ぐっ、と何かをこらえるような顔をした七海は少し躊躇って、それから再び口を開く。
「 」
「七海」
静かに掛けられた声に、七海はピクリと言葉を切る。
固く冷たい声に、七海は一つ冷や汗がうなじを伝うのを感じた。それでも、それは可能性として留めておくべき事だった。覚悟しておかねばならない事だった。七海自身や家入、灰原、五条に関わる全ての人が、一つの可能性として頭に入れておくべきことなのだ。...もちろん、夏油も例外ではない。
「アイツはそんな玉じゃないよ」
...随分と静かな夏油の声に、七海は目を丸くする。
「大丈夫さ」
何の根拠もないそんな言葉を夏油は口から吐き出す。
そうしてくるりと背を向けて、またね、なんて言って歩き出した。
そうやって雑踏の中に消えていく夏油を、七海はただ見つめることしかできなかった。
人の波の中で、夏油は足速に歩いた。
カンカンと照りつける太陽は角度を変え色を変え、時の経過を知らせている。
自宅へ着いた夏油は荒々しくドアを開け音を立てて閉める、きっとここに五条がいたならば、お帰りと笑って、何怒ってんだよ!と肩を叩いて笑ってくれるのだろう、けれど五条はいなかった、ここにはもうずっといなかった。
「そんなこと、起こるわけないだろう」
静まり返った部屋に、夏油の独り言はよく響く。
エアコンのつけっぱなしの部屋はまるで先のカフェのように涼しいのに、夏油のうなじの汗はちっともひいてくれなかった。
「そんなこと、あり得るわけがないさ」
言葉ではそう言ったものの、七海の放った言葉がぐるぐると夏油の頭を回る。彼に言い渡された一つの可能性は、けれどもどうして完全に否定など出来なかったのだ。
あぁ、きっとあの熱いコーヒーのせいだ、なんてぼやいても汗は止まらない。
冷えた部屋の中、橙色の光は静かに部屋を照らしていた。
...眠い。
ぐ、と強く顳顬を揉んで夏油は一つ伸びをする。
パソコンを打つ音が止まり、部屋はシン、と静まりかえった。
開いた瞼に光が痛く、そっとパソコンを閉じる。
「...悟」
...寂しい、漠然とそう思った。
一人で作業するのが嫌いになったのは五条がいなくなってからだ。それまで夏油は寧ろ、作業中に絡んでくる五条のことを面倒くさく感じていた。
それでも、いなくなった今となってはその喧騒が酷く懐かしく、愛おしいのだから笑ってしまう。
自身がどれだけ五条悟という存在に助けられていたのかを見せつけられているようで、酷く気分が悪い。
「そう言えば、今日は何日だったかな...」
ふと思い立って携帯を見れば、七海と出会った日...つまり外出した日から既に三日が経過していた。
部屋に閉じこもって作業をしていたためか、日にち感覚が狂っていたらしい。カーテンを締め切り、クーラーの効いた部屋では外の様子なんて分からないものの、パソコンやスマホに記された日にち表示すら気付かなかったのは夏油も今回が初めてだった。なんなら先ほどまで書いていた文章すらあやふやで、後ほどの修正必須案件である。
しかし夏油の眠気の残る脳はそんな事ではなく、一つの重要な事柄を提示した。
「あ...悟のお見舞い...」
ハッとしたように夏油は呟く。
三日間外に出ていないと言うことは、三日間五条のお見舞いへ行っていない、と言うことだ。
夏油は慌ただしく部屋を出て、急いで着替え、家を飛び出した。普段きっちりとまとめられた髪はボサボサで、服も皺が酷かったが気に求めず走る。
たかが三日、されど三日。
日にち感覚が狂っていたと言えど、夏油にとって日課になっていたそれを三日も放棄していたと言う事実は夏油に重くのしかかる。
曇天から雨粒がぽつぽつと落ちて、濃密な雨の匂いがあたりを包み込んでいた。
「悟!!!」
お静かに!と言う看護師の声が聞こえたが、夏油は気にせず病室へ入室した。
今や大雨にまでなった外を駆けてきた夏油の髪は水が滴り落ちるほど濡れそぼっている。
息を荒げながら夏油はゆっくりと病床に近付いた。白い部屋に、白い色合いの男が三日前と寸分違わずそこに横たわっている。
「...悟」
安堵か、悲観か。
側からは見分けがつかないようなため息を漏らして、夏油は椅子に座り込もうとする。そこで自分がぐしょぐしょに濡れているのに気付き、ほんの少し湿ったタオルでさっと体の水を拭った。
「...ごめんね、仕事が立て込んでて」
まるで言い訳のように夏油はそう口にした。
水気をしっかり拭き取った手で、夏油はそっと五条の髪に手を伸ばして、触れる。
そうしてさらりと白い髪が夏油の手をすり抜けて落ちていくのをぼんやりと眺めて、一人呟いた。
「...どうして悟は起きないんだい」
ぽつりと漏らした夏油の声は、二人きりの病室でよく響いた。その声はまるで全てを諦めたような、幼い生徒のあどけない問いのような、そんな響きを持って反響する。
それはまるで、夏油自身への問いかけのようにも思えた。
やはり一度裏切った自分の側は、余りにも息苦しすぎたのではないか。
知らず知らずのうちに、自身がまた五条へ一方的な考えを抱いていて、それを五条が悟っていて、嫌気がさして、自分に会いたくないから眠りについているのではないか。
そんな、根拠のない考えが夏油の脳みそを侵食していく。馬鹿らしい過程の話だった。五条は紛れもなく夏油を愛していた。
けれど寄る辺を失った夏油の精神は酷く摩耗して、下らない被害妄想をまるで一つの可能性のように脳味噌へ提示する。
「...君の目を、見たいよ」
絞り出すような声で、夏油が言った。
目を開けて欲しい、笑いかけて欲しい、馬鹿だと言って、笑って欲しい...そんな思いが夏油の中で浮かんでは消えていく。
そんなことを考えたってどうしようもないなんてことはもう分かっているのに。
そっと髪から手を離して、手を握る。
三日前とは違って濡れて冷えた夏油の手は五条の体温に温かさを感じて、少しだけ安堵した。
病室には外の雨音も入ってこない。ただ無機質な機械音が鳴り続けている...そんな時、大きな音が入り口側から聞こえて夏油は思わず振り向いた。
「...通夜みてーな雰囲気させてんじゃねーぞクズ」
「...硝子、来たんだね」
夏油と同じように濡れ鼠と化した家入は面倒臭そうに頭を掻いて病室へ入室する。
「五条の様子は」
「特に変わりないよ...三日来れてなかったからその間のことはわからないけど、何もなかったんじゃないかな」
「そ」
家入はそれだけ簡潔に答え、どっかりと椅子に腰掛けた。ほんの少し伏せられた瞳は、真っ直ぐに眠る五条へ向けられていた。
「ほんと、寝すぎだろ」
「...その通りだ、いつまで寝る気なんだろうね」
家入の手が無遠慮に五条の頬へ押し付けられる。べちょ、と濡れた手を押し付けられた五条の肌は家入の手と同じように濡れて、雫が伝う。
「硝子、手拭きな」
悟が起きたら怒るよ、そう言いそうになった口をハッとして噤んだ。そんな夏油をチラリとも見ず、家入はフン、と肘をついて口を開く。
「いーんだよ、こんくらいやっても許される。てか許されなかったら殴るわ」
苦々しくそう吐き捨てる家入に夏油は少し目を見開いて、苦笑した。
いつもと変わらない友人の姿にどこか安堵して、夏油は大きく息を吐く。
「何か飲み物買ってるよ、硝子は何かいるかい?」
「あー水頼む」
「わかった、買ってくるよ」
緊張の緩んだ顔で夏油はそっと笑い、病室を出たのだった。
腕に抱えた水が素肌に気持ち良い。
一回の自動販売機から病室への道を辿りながら夏油はぼんやりと辺りを見渡す。
どこか今日は人が少ない気がした。
こんな雨だから、皆家にいるのだろうな。そんなことを考えながら夏油は階段をゆっくりと登っていく。そうして登り切った先、ふと夏油はあることに気付いた。
ーー医者だ。
看護師ではなく、医者が、先ほど夏油のいた病室...つまり五条の病室へ入っていくのを、夏油の目がしっかりと捉えた。
「ッ!!」
思わず走り出す。ドッ、と重い音が背後から鳴ったのも無視して夏油は病室へ一直線に走り抜け、滑り込んだ。
「悟ッ!!!」
大声で叫んだ夏油の視線の先、真白い頭が身じろぎする。呆然と立ちすくんでいる家入も、何かこちらに向かって言っている医者も、まるで見えていないかのように夏油は駆け足で五条に駆け寄った。
「悟...!」
また、白い頭がほんの少し動く。
なんて言えば良いのかなんて分からず、夏油はその場で唇を噛み締めて溢れ出る衝動のままそっと五条の手を握り、たった一言。
「...おはよう、悟」
絞り出すように、そう呟いた。
さらりと白い髪が布に擦れる音がする。
パチリと夏油にとっては酷く見慣れた、同時に酷く懐かしい蒼色の瞳が夏油を真っ直ぐに捉えた。その蒼い瞳にどこか...そう、どこか怪訝な色を乗せて、夏油を真っ直ぐと眺めている。
それに夏油が気付くと同時、五条は、その形の良い唇をそっと開いて。
「お前...誰だ?」
そう、呟いた。