のほほんほん寒い。はぁーと息を吐くと真っ白な煙がふわふわと空に登っていく。ずずっと鼻を啜って、両手を擦り合わせた。手袋を越えてジンジンと伝わってくる冷気。じっとしているのが耐えられなくて、トントントンと踵を上げたり下げたり。さらに寒くなってその場で太ももを上げたり下げたり。真っ白な雪が踏み固まれていく。
「…さむい!」
大きな声で叫んだところで、その声は空気に飲まれていくだけで。ただただ虚しくなってくる。周りを見渡してもただただ木々が並んでいるだけ。ピーターの足元から少しは離れたところから真っ直ぐ遠くへ進んでいる足跡を彼は恨めしそうに見つめた。
「先生、どこ行くの?」
サンクタムに遊びに行けば、スティーブンがスコップを手にサークルを潜ろうとしていたところだった。コロンビア大学のパーカーにダウンを羽織り、その背にクロークを背負って。暖かそうなブーツの上でジーパンが裾を折られている。
「やぁピーター。今から雪かきに行くんだ」
「雪かき?」
サークルを覗き込むと、ブァーと冷気が流れ込み、前髪を凍らせた。さっと身をひいたピーターの鼻が赤くなっている。凍った前髪をパッパッと払うピーターを置いて、スティーブンはサークルの向こうに行こうとしていた。
「え、先生!こんな寒いのに!」
「そうか?」
きょとんと振り返るスティーブンの鼻は赤くなり、頰も真っ赤になっている。この一瞬でだ。それほど寒いはずなのに彼は、コテンと首を傾けるだけだ。
「だめだよ、先生!そんなとこ行ったら」
「大丈夫だよ、ピーターすぐ帰ってくるから」
そう言って歩き出す彼の背に叫んでしまったことをピーターは後悔することになるのだが。
「僕も行く!!!」
ピーターを見てパチパチと瞬きを繰り返したスティーブンは、まぁいいかと判断したのだろう。
暖かい服をポンポンッと魔法で取り出して、
「ばんざーい」
と両手を上げた。ピーターが思わずその通り両手を上げれば、すぽんすぽんと勝手に洋服が身についた。
「じゃーんぷ」
なんて気の抜けた…と思いながらも思いっきりジャンプするピーターの足にするりと暖かいズボンが装着される。
そしてそのサークルを越えたというのに、寒い。寒い以外の感情が湧かない。いや、寒いという感情とやっちまったという後悔と、置いてかれてしまった寂しさか。
今はスティーブンの魔法で着せられた服を着ているというのに寒い。とても寒い。
彼はサークルを越えるとズンズンと奥へと歩いて行ってしまうし、ピーターはあまりの寒さに歩を進めるのを諦めてしまったし。
「…うぅ…」
どうして置いていったのともし目の前に彼が帰ってきたら縋りつきそうだ。胸元をどんどん叩いてどこかのサスペンスドラマみたいにやれる自信がある。あまりの必死さに彼は驚くかもしれない。または特に反応もせず、すまないの一言かもしれない。いや、ついていくと言ったのは自分なのだ。それを彼のせいにはできない。でもなぜ一人で行く?
ぐるぐると同じことを考えていれば、ポンっと背中を押され、気づけば雪に埋まりつつあった足が一歩前に踏み込んだ。
一瞬で周りの世界が変わり、いつものサンクタムに戻ってきていた。側でパチパチと炎を上げて燃える暖炉の前にしゃがみ込み、両手をかざす。
暖かい。
「ピーター、大丈夫か?」
見上げればスティーブンが心配そうに見下ろしてきていた。手にしたスコップに血の跡があるのを見て、ピーターはひぃと声を上げた。
「せ、先生っ…それ、なにしてっ」
「ん?あぁ、これか?………ゴブリンを殴り殺してきた」
「えぇー!?!?」
「嘘だ」
「…ええぇぇぇ」
にこりもせず嘘だというスティーブンにピーターは頭を抱えた。てっきり本当にゴブリンを殴ってきたんだと思ったからだ。
彼は魔術師なのに、結構肉体派だ。そこらへんの一般人ならひょいと片手でひねれるぐらいだ。ピーターの超人の力で立ち向かっても彼の技には勝てそうにない。そんなスティーブンがスコップを手にゴブリンに殴りかかる姿は容易に想像できた。ゴブリンの屍の側で頰についた血を拭うスティーブン…ありそうな気持ちしか湧かない。
「ピーター、君は私をなんだと思っている」
「魔術師という名の格闘家」
「こら」
ぽこんと拳骨が柔らかく頭に降りてきて、そのまま大きな掌で頭を撫でられた。髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜるように撫でられ、しゃがみ込んだスティーブンに最後に頬を突かれた。
「な、に?」
「柔らかそうだなって思って」
ツンツンツンとしばらく熱心に突くのをピーターはじっと耐えた。話の続きが気になるけれど、彼のしたいようにさせた。邪魔をしたらこの話が終わりそうだったから。
たっぷり5分ほど突いたスティーブンは満足そうに頷いて立ち上がり、どこかへ行こうとする。結局話が終わったじゃないかと慌ててピーターは彼の服を掴んだ。
「スコップのはなし!」
「あぁ」
そういえばそうだったとポンと手を叩く彼に、どうすれば彼の思考についていけるのか長年の謎は解けそうになかった。
「これは、本当に雪かきしてきたんだ」
「でも赤いよ?」
「赤い雪が降るんだ」
「ホラー映画?」
「本物だ」
彼がくるりと手を回すと、ピカピカ光るサークルの向こうに一面真っ赤な平野の中にポツンと小さな小屋が建っているのが見えた。
「あそこ」
「あそこ?」
「私の実験室。呪いをかけてあるここから真っ直ぐ行ってもつかない。だからさっきのところから歩いたんだ」
「実験室?!人体実験?!バイオハザード!」
「だから君は私のことをなんだと…」
「地球のお医者さん」
「ん」
なんだか彼は満足そうな顔をしたので、言った言葉は正解だったみたいだ。ちょっと嬉しそうなスティーブンはサークルを消すとどこからかマグカップを二つ取り出した。一つをピーターに手渡して、自分のものに口をつけた。ふわりと甘い香りがする。
「先生、これ…」
「ココアだ」
「こ、こあ?」
「ココア知らないのか?」
ココア。知らないわけがない。知らないわけがないが、まさか目の前の人物から渡されるとは思わなかった。難しい魔術書を読み、世界を守る彼から。ここあ、という言葉が紡がれるのをとても可愛いと思ってしまう。
「ココア知ってるよ…」
「ほら」
ピーターが両手で包み込んでいるマグカップに手をかざすとキラキラと光る粉のようなものがココアに注がれていく。
「暖かくなる呪いをかけた」
「…」
「寒かっただろう?」
「…先生が置いていくから」
「着いてきていると思っていた」
「え?」
「君はいつも私の側にいてくれるから安心してしまっていた。すまない」
やっとすまなそうに眉を下げたスティーブンをピーターはぽかんと口を開けて見上げた。
側にいてくれる。
安心してしまった。
彼からの言葉は時々爆弾だ。大きな風穴を心に開けていくのに、本人は何も気づいていない。
「僕…先生の側にいつもいる?」
「いるよ。困った時とか、ふとした時に側にいてくれる」
「…そっ、か」
「だからさっきも一緒にいてくれるんだと安心した」
そう言ってふにゃりと笑うスティーブンに、ピーターはなんとか情けない顔を隠すために、マグカップに口をつけた。むにゅっと上がりそうになる口端をマグカップを押し付けることで隠した。
「ピーター、ココア美味しいか?」
「…うん、とっても」
ゴクリと喉を通り抜けて、じんわりと体が温かくなっていく。知っているココアより甘い気がした。