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    nilgirium

    @nilgirium

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    nilgirium

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    サルベージ再掲 ヌドゥネーに関するちょっと不思議な話。微ホラーっぽいけど怖くない。

    12.
    地下に造られた資料室は、やけにひんやりとしている。
    扉を開けた瞬間鼻をついた独特の匂いに顔をしかめて、イニアセルはカンテラをかざした。ぼんやりと黄色い光が、どこか現実離れした光景を照らし出す。
    天井近くまである本棚がどこまでも続き、迷路のように口を開けている。この圧迫感には、未だ慣れない。仄暗い室内の黄昏のなかで、幾多の本が眠るように陳列されている。入りきらない本は床に直接、乱雑に積まれており、いくつかは埃をかぶっていた。
    この空間は、少し苦手だ。エーテルが吸い取られていくような心地になる。どういうわけだか頭にもやがかかるようで、大きな荷物を乗せられたように肩が重くなる。地下独特の暗さと、閉塞感、そして足元から這い上がってくる冷気のせいかもしれない。
    しかし、苦手だといっても、書類を作成するにはここに保管されている資料が必要だった。だというのに、その一冊がどうしても見つからない。

    ふと、不意に視界を白が掠めた。何だろうかとカンテラの光を向けて……思わず、声を出して驚いてしまった。
    うず高く積まれた本の陰、だった。彼が、ヌドゥネーが、いたのは。
    床に直接腰をつけて、脚を折りたたむように抱えている。カンテラの光に照らされる肌は白蠟めいていて、生きている香りがしない。まるでそう、影が実体化して現れたかのように、イニアセルには見えた。
    眩しそうに目を細め、顔を上げたヌドゥネーがじぃっと見上げてくる。

    「別に驚かせるつもりでも、隠れていたわけでもないのだが。……イニアセル卿?珍しいな。このような場所には、立ち入らないと思っていた」

    取り立てて表情を変えもせず、そっけない調子で、彼は言った。

    「どうして、ここに」
    「古書があるのでたまに降りてくる。そちらはどうした。探し物か」
    「あ、あぁ。今度の書類に使う資料を」
    「ふぅん」

    ヌドゥネーは静かに首を傾ける。靴は履いていなかった。ぞっとするほど青白い足の指先が丸められる。

    「―――おーい」

    おもむろにヌドゥネーが何やら上に向かって呼びかける。視線をやっても人の姿は確認できず、ただ天井近くまで陳列された本があるばかりだ。

    「それ、取ってくれないか」

    くいくい、長い爪を持つ指が遥か上段にある本を指し示す。
    一体誰に向かって言っているのか。そんなことをしたって取れるはずがないのにと不審に思っていた、その時だった。
    ひとりでに本が動いた。誰に触れられるでもなく本棚からするりと出てきたそれは、重力に従って垂直に落ち、真下にいたヌドゥネーの手元へと綺麗に収まった。

    「ありがとう。…………さて、これでよかったかな」

    虚空に向かって礼を言うと、彼はぽんと本を手渡してくる。
    そして、口をぽかんと開けたまま動けないイニアセルの傍をすりぬけて、部屋を出て行った。たしたしと、跳ねるように去っていく裸足の音は、妙に細かく刻まれたリズムで小気味良かった。



    11.
    クルザス西部高知ではひどい霧が出ていた。
    天気予報では連日快晴だったはずだが、どうも今日に限って外したようだ。
    まずったなとジャンルヌはひとりごちた。ため息をつくが、呆然とした心地は全く消えない。辺りを見回しても、共に戦っていた相棒や神殿騎士兵の姿はない。戦ううちにはぐれたらしい。つまるところ、道を失ってしまったのだった。
    この霧だ。本来ならばこの場を動かず視界が晴れるのを待つのが得策なのだろうが、このまま日が落ちれば気温は氷点下に達する。ドラゴン討伐で疲労もあり、ろくな装備も道具もないまま夜を迎えるのだけは絶対に避けたかった。
    霧の向こうにちらちらと橙色の光が揺れている。誰かが火を焚いているのだろうか。
    ここらには手柄を求める冒険者なども在中している。ならば、火を借りるのも手だろう。
    異端者でないことだけを祈りながら足を向けようとした、その時だ。突然後ろから手を引かれたのは。

    「!?」

    思わぬ強さにバランスを崩しそうになるのを、驚異的な反射神経で立て直す。驚き振り向けば、ジャンルヌの手を掴んでいたのはヌドゥネーだった。目が合う。

    「……、俺を迎えに?」

    彼は頷いた。この歳で迷って迎えに来てもらうことになるなんて、きまりが悪くて頬をかく。
    すると彼は意地悪そうに、声をださないまま喉の奥で笑って、一方向を指差した。どうやら帰り道を案内してくれるらしい。
    やけに喋らないな、と疑問には思ったものの、ジャンルヌは手を引かれるままにヌドゥネーの後を追いかけた。
    新しく積もった雪は柔らかく、足にまとわりついて歩きにくい。それでもぐいぐいと引かれる手の力は強く、半分引きずられるような形でジャンルヌはついて行く羽目になった。
    それにしても、速い。ゆったりとした足取りに見えるのに、ついていくのがやっとだ。普段から鍛えていてそれなりに体力はあると自負しているのだが、まるでずっと全力疾走をするような速さに次第に息が切れてきた。
    だというのに、先を行くヌドゥネーは鼻歌を歌わんばかりに上機嫌で、滑るように歩みを進めて行く。

    「ヌドゥネー、卿っ!ちょっと!」

    呼びかけても彼は振り返らない。
    何かがおかしい。そう思って、肩を掴もうと手を伸ばした、刹那。

    ぱっ、と視界が開けた。

    突然強い光が目を刺して、思わず目を細める。
    気がつくとジャンルヌはベースキャンプの近くにいた。先ほどまでの霧は嘘のように晴れ、日が煌々とさしている。雪に反射する光が眩しい。
    と、ベースキャンプの方から走り寄ってくる人影があった。

    「ジャンルヌ!」

    アデルフェルだ。長く走って精神的にも肉体的にも疲弊していたこともあり、その声には妙に癒された。
    安堵のため息をついたのもつかぬ間、アデルフェルは強い剣幕でジャンルヌに詰め寄った。

    「どこ行ってたんですか!探しましたよ!」
    「わ、悪い」

    聞けば、先ほどまでずっと自分を探してくれていたという。あまりにも見つからないので、一度引き上げて戻ってきたところに、計ったようにジャンルヌが帰って来たらしい。
    とんだ骨折りだと怒る相棒をなだめつつ、ふと気がついた。いつの間にか手が離れている。

    「……あれ?ヌドゥネー卿は?」

    きょろきょろと辺りを見回すが、先ほどまで一緒にいたはずのヌドゥネーの姿が見当たらない。晴れ渡る空の下、見失うということは無いはずだが。
    すると、アデルフェルが至極困惑したようにその形の整った眉を下げた。

    「何を言っているんですか。彼は今、別の仕事で皇都にいるでしょう?」

    言われて、思い出す。
    確かに、オムリクが言っていた。今日はヌドゥネーと2人、聖アンダリム神学院の講師として招かれていて、午後までそちらに行くのだと。だから、今度の任務には参加しないのだと。彼らが仕事を放棄する訳がない。
    つまり、遠く離れたこの場所にいるはずがないのだ。
    では、先ほどまで一緒にいたのは。自分の手を引いていたのは。ひやりと冷たい汗が背中を伝った。
    後ろを振り返る。
    陽に照らされた雪原にはただ、1人分の足跡だけが残っていた。



    9.
    「………やられた」

    呟いてみても状況が変わるはずもなく。
    荒れ果てた花壇を見下ろしてため息をついた。
    エルムノストは小さな菜園をしている。本格的なものではなく趣味程度の小さなものであるが、そうはいってもやはり丹精込めて育てたものを無断で荒らし、あまつさえ持って行かれたとあっては腹も立つというものだ。
    中には収穫間近だった野菜や、明日にでも咲きそうだった花の蕾もあった。それが無残にも折られ、掘り返され、エルムノスト自慢の菜園は酷い有様になっている。
    周囲には沢山の足跡が転々と残されていた。おそらく犯人のものだろう。子供のような小さな足跡である。
    何故か、途中で消えたようにぷつりと途切れているのかは気になったが……、とかく、犯人を捕まえればいいことだ。
    静かに憤りつつ、散らかった草木を片付けていく。
    すると、ガーデンパッチの端に座り込み、一緒になって荒れた菜園を見ていたヌドゥネーが、どこか苦笑い含ませながら言った。

    「明日にでも礼をしにくるだろうから、許してやってくれ」

    何を呑気なことを、と眉根を寄せる。
    それでは腹の虫が治まらない、とは言ったものの、ヌドゥネーはただ苦笑するばかりであった。



    翌日、自室のドアノブに見覚えのない麻袋がかけられていた。添えられた小さな紙には稚拙な字で「勝手にとってごめんなさい。ありがとう、とっても美味しかった。これはお礼です」と、短いメッセージが書かれている。
    袋の中を覗いてみると、寒冷化の影響で今ではもう手に入りにくくなったハーブが溢れんばかりに詰め込まれていて、それは到底1人では消費しきれそうにない量だった。
    まいったなと頬をかく。こんな小粋な礼をされてしまっては、もう怒るに怒れないではないか。
    今日の昼は皆にハーブティーを振舞おう。エルムノストは思念する。
    結局ヌドゥネーの言う通りになってしまった。このことを伝えたら、きっと彼は得意そうに笑うのだろうなと思った。



    8.
    あのさぁ、ベッドの下って不気味じゃない?
    真っ暗で、埃っぽいし。微妙に狭くて、人ひとり分くらい隠れられそうな隙間があるし。何か潜んでそうじゃん。
    ……おい、笑うなよ!お前見たことないからそんなこと言えるんだ!見たら絶対ビビるから!いるわけない?いや、本当なんだって!

    部屋を変える前、ずっと使ってるベッドがあったんだ。
    動くたびに木枠がきしんでやたらギシギシいうし、古くてちょっとカビ臭かったんだけど、でもそれなりに大きくて、買い換えるのも面倒だったからそのまま使ってた。
    でもさ、そのベッドの周辺、よく物がなくなるんだよ。たとえば置き時計だったりとか、飲みかけの酒瓶だったりとか。寝る前はちゃんとあったはずなのに、一晩明けたら忽然と消えてるんだ。
    別になくなって困るようなものじゃなかったから、誰かが捨ててくれてるのかなー、便利だなー、くらいにしか思ってなかったんだけど。
    でも、あんまりなくなることが続くから、何となく、ヌドゥネーに相談したらさ、

    「食っているのやもしれんなぁ」

    だって。意味わかんないだろ?
    何のことか聞いても全然教えてくれなくて、ただ、「これを近くに置いておけばいい。さすがにやめるだろう」って言って、暗い緑色の水薬が入った瓶くれた。そうそう!風邪ひいた時に飲まされる、あのすっごいマズいやつ!
    それから、「夜中にベッドからは降りるなよ」って。
    何でかはわかんなかったけど、ヌドゥネーが言うならそうした方がいいんだろうなぁ、って思って、その日は瓶を床に置いてから、ベッドに入った。でも、やっぱり気になるから、何が起こるのか確かめてやろうと思って。起きて見てたんだよ。

    そしたら夜中、何が出たと思う?

    舌だった。ベッドの下の隙間からでっかい犬みたいな舌が伸びて、すごい速さで薬瓶をさらって行ったんだ。
    そんで、食っちゃったんだよ。瓶ごと。
    バリバリ、ってガラスを噛み砕く音がしたから、本当に食ってたんだと思う。でもそのあと、おえぇ、って呻き声がしたから、たぶんめちゃくちゃマズかったんだろうなぁ……。ちょっと同情した。一滴でもあんなにマズい薬だぜ?それをひと瓶分食っちゃったんだから……。
    ……降りてたらどうなってたか?うーん、そりゃやっぱり、一緒に引きずり込まれて、食われてたんじゃないの?
    で、ヌドゥネーの言ったとおりそれから物が消えることはなくなったんだけど、結局あることないこと言って部屋は変えてもらった。もちろん、家具ごと。だって、なんか気持ち悪いし、あんなのがベッドの下にいるって知ったら、落ち着いてゆっくり眠れないし。

    な、不気味だろ。ベッドの下。
    そんなことがあったから、俺、それからはずっとロフトベッドにしてる。



    7.
    「司祭さま」

    自分を呼び止める声がして、オムリクは振り返った。
    見ると、身なりのいい少女が、もじもじとスカートの裾を掴みながら佇んでいる。
    騎士団業務の傍ら、大聖堂で祈りを捧げるオムリクは、子供たちに「司祭さま」呼び慕われることもある。きっとこの子も休日の礼拝に参加しているのだろう。
    しかしそれにしては見覚えがない。はたしてこんな子はいただろうかと疑問に思いながらも、オムリクは優しく少女の前にしゃがみ込んだ。

    「どうしました?」
    「司祭さま。あのね、私、お守りが欲しいの」
    「お守り?」
    「そう。お願いできるのは司祭さましかいないの。持っていってもいいかしら?」

    少女の言う「持っていく」の意味はわからなかった。不安そうに伺いをたてているから、あまり褒められるものではないのだろうか。
    だが、子供のつくるお守り程度のものだ。何にせよ、そうそう困るものではないだろう。

    「えぇ、どうぞ」

    了承すると、少女の顔が輝いた。
    頷き、嬉々として、子供にしては異様に細く青白い手がこちらへと伸ばされる。まぶたに氷のような温度が触れ、そして、

    「持って行かれては困るな。とても困る」

    そんな声が聞こえたのと、背中に重みがかかるのはほぼ同時だった。少女の手が空を切る。
    ぐ、と思わず呻いて目だけで見上げれば、いつの間にやら背後にいたヌドゥネーが背中にのしかかってきていた。ぐりぐりと顎が頭の上に押し付けられて少し痛い。
    邪魔をされた少女は不服そうに眉を寄せていた。

    「どうして?司祭さまはいいって言ったわ」
    「オムリクは優しいからな」

    何のことだ?
    困惑するオムリクが動こうとしても、徐々に体重をかけることで制される。

    「だめ?」
    「だめだ」
    「でも、どうしても欲しいの。青が欲しいの」
    「……ふむ」

    すると彼は何やら仕方なさそうに頷くと、おもむろに片手に抱える本から栞にしていた孔雀の羽を抜き取った。

    「ならば、代わりにこれをやろう。おれがいっとう気に入っているものだ。かたちは違うが、不足はないだろう」

    長い爪の先が栞をつまみ、オムリクの眼前にいる少女へと差し出される。少女はわずかに戸惑ったようだったが、やがて大事そうに両手で羽を受け取った。

    「ありがとう!」

    満面の笑みで礼を言った少女は刹那、溶けるように姿を消した。
    驚き瞠目するオムリクの肩をぽんぽんと叩いてヌドゥネーは体を起こす。背中にかかっていた重みがなくなった。

    「かなめを渡すのは、まずいだろう」

    ちょうど通りかかってよかった、と彼は言った。



    ヌドゥネーは詳しくを語ってくれなかったが、推測するに、少女が欲しがっていたのは自分の目だったのだろう。
    もしあの時、彼が孔雀の羽を渡していなかったら、どうなっていたのか。考えたくはない。




    6.
    短い悲鳴、それから続いた陶器の割れる音に、槍の整備をしていたポールクランは顔を上げた。
    少し離れているが、暖炉の前だ。ゲリックが倒れ伏し、手前にはカップとソーサーが割れている。
    ああ転んだのか、と察するのに時間はかからなかった。
    ただ無様に転んだだけならば指をさして笑ってやるのところなのだが、今回はそんな気も起きないほどひどい転び方だった。

    「おいおい、大丈夫か?」
    「うー……、なんか引っ張られた」

    近場にいたジャンルヌが手を貸してやるが、どうにも悪い転び方をしたらしい。足を強く捻ってしまったようで、ゲリックは痛そうに顔をしかめていた。
    ジャンルヌに肩を貸してもらいながら、ひょこひょこと片足を庇って談話室を出て行くのを目で追って、ポールクランはまたかと眉を寄せた。
    このところ、この談話室内はなぜだかいやに足を取られる。
    大理石の、磨き上げられた平らな床だ。それなのに、何もないところでつまづいてしまうのだ。……否、何かに引っ張られるような感覚がするといった方が正しいかもしれない。それは気を抜いた時に突然起こるので、誰もが一度は引っかかっている。しかし、今回のように酷いものは初めてだった。
    と、一連の動きを静観していたヌドゥネーが、唐突に読んでいた古書をテーブルに置いて立ち上がった。

    「悪戯はいいが、怪我をさせるのはよくないな。よくない」

    そんなことを言いながら、カーペットの上をさくさくと歩きまわる。突然何だと周りの皆は訝しんでいるようだが、ポールクランにはそれが、まるで逃げ回る何かを追うように見えた。
    やがて壁際まで歩み寄ると、彼は両足をそろえて大きく飛び上がった。

    「えいっ」

    グシャ、と。
    何かが潰れる音が聞こえた。骨が折れるような音だった。
    おおよそこの場に似つかわしくない不穏な音は、ポールクランだけでなくそこにいた全員に聞こえたようだ。皆一様にぎょっとしてヌドゥネーの方を振り向いていた。

    「ヌドゥネー卿、何を……?」
    「虫がいた」

    彼はそう、不審がる面々へ向けて、あっけからんと言い放つ。
    きっと誰もが、虫ではないとわかっていた。だが、何事もなかったかのように再びソファに戻って古書を開くヌドゥネーに、それ以上聞くことはできないでいた。

    結局その場は有耶無耶になったのだが、以降、誰かが談話室で足を取られることは嘘のようになくなった。つまりは、ヌドゥネーにしか見えない何かがいて、ヤツはそれを退治したということだろう。あの不穏な音は、その“何か”を潰した音だった、というわけだ。
    ポールクランは舌を打つ。
    これだから、あいつは苦手なのだ。



    5.
    聖堂の壁にぽつりとシミがあるのに気が付いた。泥にしては真っ黒で、汚れにしてはべったりと張り付くように広がっている。明らかに、自然についたものではない。さして大きくはないが、気が付けばついつい目がいってしまうような大きさだった。
    礼拝に来る子供たちのいたずらだろうか。罰当たりな子もいたものだと、アデルフェルは渋い顔をした。
    明日、オムリクに報告しておこう。そう考えて、その日は聖堂を後にした。

    しばらくして、また聖堂の近くを通る機会があった。
    ふと、思い出して壁を見ると、シミは以前見た時よりも大きくなっていた。
    その後もシミは見るたびに成長し、最初は小指の爪ほどしかなかったものが拳ほどにになり顔ほどになり、ついには壁一面を覆い尽くすまでになっていたときは、さすがに気味が悪かった。

    アデルフェルは真っ黒になってしまった壁を見上げる。夕日に照らされたそれは、光を吸収するように黒々としている。
    ここまで広がっているのにも関わらず、誰も何も言いださないのが不気味だった。
    まさか、この異変に気が付いていないのか?だとしたら、このシミは一体何だ?
    触れようと伸ばした指の先に、すっ、と小さな切れ込みが入った。1つめをきっかけに、まるで波紋のように次々と広がっていく。そして切れ込みが上下に裂け、中から現れたのは―――目。

    目。目。目。目。目。目。目。目。目。
    目。目。目。目。目。目。目。目。目。
    目。目。目。目。目。目。目。目。目。
    目。目。目。目。目。目。目。目。目。
    目。目。目。目。目。目。目。目。目。
    目玉の群れ。

    大小様々な人の目玉が、壁に開いた無数の目玉が、その全てがぎょろぎょろと動いてアデルフェルを凝視していた。
    みっともなく悲鳴を上げることはなかったが、おぞましく不気味な光景にざっと背筋が粟立つ。思わず半歩後ずさった。あまりにも異質な雰囲気に身が竦み、目を離せぬまま言葉なく息を呑む。

    「アデルフェル卿?」

    突然背後から声がかかった。
    驚いて振り向くと、後ろにはヌドゥネーが立っていた。片手には埃っぽく分厚い本。地下書庫にいたのだろうか。何故か靴を履いていない。
    ついとヌドゥネーの視線が、アデルフェルから壁の方へと移される。「ん?」と彼の唇がかすかに動いた。とたんに、壁の目もぎょろりと動く。
    おびただしい数の目に見つめられても彼ははとんと驚いた様子もなく、緩慢な動作で首を傾けた。

    「何故ここにいる?」

    一瞬質問の意味を考えたものの、どうやらそれは壁の目に向けて発した言葉のようだった。

    「熱心な教徒ならまだしも、お前がこんな場所にいてはつまらないだろう。もっと見晴らしのいいところに行ったらどうだ」

    じぃ、と目玉はヌドゥネーを見つめている。
    どうにもできずハラハラしながら見守っていると、しばらくして目玉たちは一斉にすっと瞼を閉じた。目玉で覆い尽くされていた壁はただの黒いシミがあるだけになり、そのシミも波が引くようにみるみる小さくなって、やがて跡形もなく消えてしまった。

    「……はっ?」

    あっと言う間だった。まるで時間の逆再生でも見ているかのようだった。
    困惑しながらシミの消えた壁をぺたぺたと触ってみても、やはりただの石壁が広がるのみである。何だったんだ、あれは。

    「うん。賢明だ」

    ぽつり、呟いたヌドゥネーの言葉が、やけに響いたような気がした。



    それからというもの、壁のシミは2度と出てきていない。目玉も同様だった。
    代わりに氷天宮の方で目玉の妖異が出るという話を聞くようになったので、きっと、そういうことなのだろう。



    4.
    抜けるように青い空の、うららかな午後である。
    オーケストリオンから流れる落ち着いたナンバーを聞き流しながら、グリノーは手持ち無沙汰に右手に持つフォークをふらふらと揺らしていた。

    「お前、幽霊見えてんの?」

    問いかければ、前に座るヌドゥネーは紅茶をカップに注ぎながら、きょとりと目を丸くさせた。彼のそんな表情を見るのは初めてだったので、少しばかり好奇心を刺激されて身を乗り出す。
    テーブルの上に置いたフォンダンショコラの皿が、かちゃんと音を立てた。最近名をよく聞くようになった、宝杖通りの端にあるショコラサロンの新作だ。

    「ふむ、幽霊……幽霊か。その質問に答えるにはまず卿の言う幽霊が何であるかを明確にしなければなるまい。肉体から抜け出したにも関わらず現世に留まり続けている魂と呼ばれるもののことか。それとも意志を持って揺蕩うエーテル体のことか。人知の及ばぬものを全般として言うのなら、死してなお動くゾンビーやスケルトン、あるいは妖異なども含まれると考えられるが」
    「あー、……。……?よくわかんねぇけど、多分魂ってやつ」
    「前者であるならば答えはノーだ」
    「なんだ、つまんねぇ」
    「…………。素直に感情を表現するのは卿の美点であると思うが、そちらから聞いておきながらそうもあからさまに落胆するのはどうなんだ」

    不服そうにしながらヌドゥネーは自分のチョコタルトをかじる。行儀悪く手掴みだが、生憎とこの場にはそれを諌める者はいなかった。

    「そもそも、広義にしろ彼らに幽霊などと名前を与えるのは、よくないと思うのだが。名を当てられて死んだ悪魔の話を聞いたことは」
    「ない」
    「そうか」
    「……とりあえず、名前が重要ってことはわかったけど、さっきから彼らって誰のことだよ。やっぱりお前、何か見えるのか?」
    「おれには何も見えないよ。だが……」

    タルト部分の最後の切れ端を口に含んで、彼は指先を舐めた。

    「彼らは、そういう場を提供してやればそこに生じる。そういうものだよ」
    「さっき見えねぇって言ったじゃねぇか」
    「言ったね」
    「わけわかんねぇ」

    話すたびに謎が深まるようだ。早々に理解を諦めて、ソファに体を預けた。
    幽霊や化け物といった見えない類のものを、グリノーは信じていない。しかしヌドゥネーの口ぶりは、まるでそこに居るかのようなものだ。本当にいるというのなら、試しに何か起こしてみろ、と心の中で思う。
    するとヌドゥネーは呆れたような目を向けてきた。

    「何を考えているのかおおよそ想像がつくが、あまり挑発するようなことは思わない方がいい。意趣返しを食うぞ」

    目に見えない、触れられもしないものに意趣返しも何もあるものか。そんなことあるわけがないと、グリノーは自分の分のフォンダンショコラを引き寄せた。
    否、正確には、引き寄せようとした。
    伸ばした手は空を切る。
    一口も手をつけていないはずのフォンダンショコラは、皿ごと跡形もなく消えていた。
    目を見張るグリノーをよそに、ヌドゥネーはくつくつと喉の奥で笑う。

    「ほらね」

    何故だか、酷く馬鹿にされている気がした。



    3.
    黄昏に沈む回廊を、シャリベルは歩く。傾いた陽は燦爛と世界を赤く染め、長い影を作っていた。カツカツと響く自身の足音が鳴る。異端審問の帰りだった。
    そんな、帰路につくシャリベルの隣を、足取りを弾ませたヌドゥネーが通り過ぎた。
    すれ違いざまに会釈した、その姿を何となしに目で追う。随分と機嫌が良さそうだ。おおよそ何かしらの実験がうまくいっただとか、そんなものだろう。ともすれば何かよからぬことを考えているのかもしれないが、害が及ばぬならばこちらには関係ないことである。すぐに興味をなくして、シャリベルは視線を戻した。
    たが。
    そこでふと、違和感を覚えてぎょっと足が止まる。
    教皇庁の廊下は石造りで、歩けば否が応でも音が鳴る。特に足音などは、反響によって普段よりも大きく聞こえるほどだ。
    ところが自分が歩みを止めた今、回廊は耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
    もう一度振り返ればだんだんと遠くなるヌドゥネーの背中が見える。彼は確かに歩いている。
    しかし、足音が聞こえない。
    ヌドゥネーの足音が、聞こえない。

    「ヌドゥネー卿」

    呼び止めると、彼は一度足を止めてこちらを向き、不思議そうに首を傾げた。

    「あんた、今度は何シたの?」
    「うん?」
    「足音」
    「……、ああ!あんまり羨ましいと言うので、貸してやった」

    にぃと笑い、まるで普通に物の貸し借りをしたかのように言ってヌドゥネーは何度か足先で床を叩いた。しかし、本来なら鳴るはずの音がなく、ただ沈黙が横たわっている。

    「大丈夫、明日には返してもらうよ」

    言って、会釈すると彼はくるりと背を向けた。
    去っていく時も、やはり床は鳴らなかった。



    2.
    夜半、執務室の扉がノックされた。
    ペンを走らせていたヴェルギーンは、手を止めて顔を上げる。

    「副長、開けていただけませんか」

    扉の向こうから聞こえたのは、確かにイニアセルの声だった。

    「イニアセルか。どうした?」
    「すみませんが、ここを開けていただけませんか」
    「急ぎの用か?」
    「はい。すみませんが、ここを開けていただけませんか」

    用事を尋ねても、イニアセルの声はしきりに開けてくれと言うばかりだ。
    何故自分で開けずに声をかけているのか、疑問には思ったが、両手がふさがっているのだろうと結論を出して腰をあげる。
    と、

    「行かなくていい」

    ヴェルギーンを止めたのはヌドゥネーだった。いつもは仕事が終われば早々に自室へこもる彼だが、今日は何故だがずっと執務室にいたのだ。

    「招き入れるのはよした方がいい」
    「しかし、イニアセルだぞ?急ぎの用と言ってるが」
    「本当にイニアセル卿ならば、まず名乗るはずだろう。それに、要件ならば口頭でも伝えられる。ふん、声を盗んだようだが、所詮招かれなければ入れないような雑魚だな。さ、還った還った」

    まるで扉の前にいる誰かを、ヌドゥネーは把握しているようだった。 不遜な様子でそう言って、扉の向こうへ手の甲を向けて、追い払うような動作をする。声が止む。

    『ちくしょう!!』

    バン、と恨めしそうに1度大きく扉が叩かれて、向こうにあった気配は掻き消えた。
    露骨に舌打ちが聞こえたのは、きっと、気のせいではなかったと思う。



    1.
    「我らが総長は、どうやら好かれやすいらしい」

    呟き落とすような、静かな声音だった。何か得体の知れないものを見ているような、それでいて何も映していないような、ガラス玉の目がこちらを見つめている。
    何の脈絡もなく投げかけられた言葉にしばし黙し、ゼフィランは目を瞬いた。

    「……皮肉か」
    「まさか」

    ヴェルギーンを差し置いて総長へと就任したゼフィランを、快く思わない者が少なからずいることは承知している。また、負のイメージが強い大剣を使うため、いい顔をされないのはよくあることだ。それらを鑑みれば、好かれやすい、などという評価はくだらないはずであるが。
    ヌドゥネーは喉の奥でくつくつと笑う。

    「彼方と云うには近すぎて、此方と云うには遠すぎる場所。そこにいる虚ろたちのことだ」

    ―――と、云われても。
    意味がわからない。意図もわからない。
    一体何の話だと問うても、ヌドゥネーはそれ以上答えず、曖昧に頷いて古書のページを捲る手を進めるばかりだ。ちゃんと答える気がないなら最初から話題を振らないで欲しい。気にはなったものの、彼がこうして要領を得ない話し方をすることは常であったので、ゼフィランはそれ以上質問を重ねるのを止めた。
    怪異の側にはいつもヌドゥネーがいる。最初にそう言ったのは誰だったか。
    こうした態度のせいで、彼にまつわる怪しい噂は後を絶たない。やれローブの中に妖異を飼っているだの、分裂するだの、実は幽霊であるだの、散々な言われようだ。しかも彼は真相を聞かれても笑ってはぐらかすものだから、余計に尾ひれがついていく。
    馬鹿馬鹿しい。ゼフィランはそう思っている。幽霊だ怪異だと、目に見えぬものにいちいち騒ぎ立てる意味がわからない。化物の正体見たり枯れ尾花、と言うように、変に疑るからそう思えるだけだ。結局は気のせいだ。

    そう。全部気のせいなのだ。だから、

    ヌドゥネーの背後からこちらを覗き込む黒い頭も、
    隣を軽やかに駆けていく足首だけの存在も、
    部屋の隅に影を落とす首のない少女も。

    きっと、眼違いが見せた錯覚に違いないのである。
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