諦「やっちまったあ〜〜〜…」
勢いよく後ろに倒れ声を上げた。
こんなに情けない声をあげたのは久しぶりだった。
世話になっている蕎麦屋を継ぐと決めた。何がなんでも、俺の大好きな人たちのため、そして俺自身のために、俺が初めて見つけた俺にしかできないことだと思ったから。
だがしかし、継ぐと決めて翌日からはいどうぞと蕎麦屋になれるわけもなく、料理もろくにしない俺はゼロどころかマイナスからのスタートだった。
師であり住まいの面倒を見てくれてる爺さんは普段はとても温厚で朗らかな人なのだが、蕎麦のことになるとそれはそれは厳しい人だった。
修行することになったと甚さんと正さんに伝えたあの日、「道四郎…爺さんのことぜったい怒らせんじゃねえぞ?」「おいマサ余計な事言うんじゃねえ!だ、大丈夫だ滅多に怒りゃしねえよ!」と正さんはともかく、初めてみた怯えた甚さんを思い出し納得した。
厳しい爺さんだけど、言うことは何一つとして間違いはなかった。知識が足りないなら身につけろ。技術は教えてもらうだけじゃなく盗み取れ。聞くは一瞬の恥聞かぬは一生の恥。どれもこれも正論で何一つ言い返せなかった。
だからと言って怒鳴り散らされる訳ではないし馬鹿にされる訳でもない。恐ろしさはあれど本当に本気で心の底から俺を蕎麦職人にするためだと伝わってきた。だから俺は死ぬ気で食らい付いた。
もう逃げないと決めたから。
決めたはずだったのに。
「頭冷やしてこい」
何回失敗しても何度同じ事を聞いても文句は言えど何度だって教えてくれた。何時間でも練習や味見に付き合ってくれた爺さんに初めて突き放された気がした。
俺には蕎麦職人の才能がないのかもしれない。努力でどうこうなるもんじゃないのかもしれない。どんどん思考が底へ引っ張られていく。
「なあアンタ」
最悪の思考に支配されてかけた脳内によく通る声が響く。
上半身を勢いよく起こし振り返ると、赤髪の少年がこちらをみていた。
「こっちに野球ボール転がってこなかったか?」
「…いや、俺はみてないけど」
「クソッ アイツどこにぶっ飛ばしやがった」
「…探すの手伝うか?」
「……あー、頼むわ」
見かけない顔。観光客か?しかし観光客がアサクサまできて、しかもこんなところで野球をするか?野球をやるにしてももっと広くて適した場所があるのに。そんな思考を巡らせながらボールがありそうな場所を片っ端から探した。
アサクサに来てから誘われるがままに草野球チームに入った。元々運動は好きだし運動神経にも自信があった。入ってすぐに重宝され嬉しかったことを思いだす。そういえば野球も全然行けていない。
「あ、あった。これか?」
「おお!助かったわ、サンキュー」
赤い髪と両耳のピアス、どこからどうみても不良少年を彷彿とさせる。以前の俺も他人からはこう見えてたのかもしれない。こんなにフランクでは無かったと思うが。
「で、なんでそんなしけたツラしてんだ?」
「は?」
「…まあいいや。アンタ野球できるか?」
「えっ野球?まあ、できっけど」
「おっ!じゃあ助っ人してくれ。どうせ暇してんだろ?」
「はあ?!お前失礼な、」
「その辺で寝転がってた奴が暇じゃねえわけねえだろ?」
「……」
「何悩んでんのか知らねえけど、考えすぎてっと悪い方に引っ張られて前が見え無くなっちまう」
「、なんで」
「顔見りゃ何となくわかんだろ。んなことは置いといて気分転換しようぜ。ツレがノーコンで困ってんだよ」
言われるがまま、名前も知らない少年の後を追う。野球をする、なんて言うからどんなもんかと思ったらスーツ姿の男が1人、草むらに座り込んでいた。
「おかえり〜えらい遅かったなあ」
「テメェが明後日の方向に投げたからだろうが!」
「俺の魔球が取られへんかったからって八つ当たりはよくないわ〜!ねえそこのオニーサン!…で、どちら様?」
「助っ人」
「ほお、助っ人……なんの?」
「投げてるだけじゃつまんねえから、打てるようにもう1人連れてきた」
「…いやあの、野球って2人でやってたんすか?」
「おう」「そやで」
「…それキャッチボールじゃねえの?」
「それは言わへんお約束やん?」
細けえことは置いといてとりあえずやろうぜと、渡されたミットは左利き用だった。
関西弁の男が言うには「観光がてらアサクサに来たんやけど、野球しとる人ら見つけてやりたなってしもたんよ」それで道具を買って野球出来そうなここに辿り着いたのだと。
「なるほどな。なら俺の所属してる草野球チームがもうすぐ練習し始めるだろうからそこに混ざりにいくか?」
「マジかよ!そう言うのは早く言えや!」
「どおりで上手や思たわ! っと、すまん電話や」
名前も知らない奴らと野球まがいの事をするのは案外楽しかった。修行に明け暮れ野球の練習も行っていなかったから余計に。
「業務連絡や。戻ってこいって」
「あぁ?!今日はフリーじゃなかったのかよ」
「目つけとった奴らが急に動き出したらしいわ」
っちゅーことで嬉しいお誘いやけど、急用できてしもたからお開きや。ごめんやでオニーサン。
眉毛を下げ申し訳なさそうな顔をされたので「仕方ないっすよ」と笑って返す。
「ところでアンタ蕎麦屋か?」
テキパキと片付けをしている男を尻目に赤髪の少年がフウセンガムを膨らませる。
「なんでそう思うんだよ」
「蕎麦の香りがした」
「鼻がいいんだな。蕎麦屋…には程遠いだろうなあ、まだ修行中なんでね」
「 "包丁三日、のし三ヶ月、木鉢三年" ってか?」
「よく知ってんな」
「拙僧も修行中の身なんでね」
「…へえ。なあ、諦めようと思ったことはないのか?」
「ないね。諦めるの本来の意味はつまびらかにすることだ。理解し明らかにし納得して断念する。それには智慧がいる。残念ながら拙僧にはその智慧が足りていない」
だから智慧を得るために修行を行う。間違えば直し、失敗すればやりなおす。そうしてすべての経験は意味あるものとなっていく。
「くう、そろそろ行くで」
「いま行く」
綺麗に膨らんだフウセンガムは弾けることなく少年の口の中へ仕舞われる。
「次会う時にはアンタが打った美味い蕎麦食わしてくれよ」