片側のオレンジは愛を知っている。俺とその女は、アイシャドウのディスプレイで候補を見繕い、カウンターに戻った。その候補に上がったのは3つのパレットで、それぞれブラウン、ピンク、オレンジを基調にしたパレットだった。俺に言わせるならもう答えは決まっている。ブラウンしかない。だが俺はあえてそれを口にせず、この女が恐る恐る手に取ったピンクのパレットと悩ましげな視線を送ったオレンジのパレットに手を伸ばし、ここへ持ち帰った。
「ご自分でお付けになりますか?」
「いや…お、お願いしたいんですけど…。」
「はい、かしこまりました。どちらから試されますか?」
「…茶色のやつ、で。」
「かしこまりました。では準備させて頂きますね。」
「お願いします…。」
俺は閉じられたあどけない瞼にベースを塗って、アイシャドウを重ねた。グラデーションを作り、瞼の上にハイライトを入れて、それとなく仕上げる。それから女に鏡を見せて、出来栄えと所感を聞いた。女は鏡を見た瞬間に、驚いて目を見張った。印象が変わった自分の顔が、まるで自分ではないように見えたのだろう。
「わ……ぁ。なんかすごい、ですね…。」
「大人っぽい印象に仕上がったかなと思います。オフィスメイクには一番おすすめですね。」
「なるほど…。」
「お写真など撮られますか?」
「へ…」
「後で比べる時に楽かと思いまして。」
「あ…いや…大丈夫です。」
「かしこまりました。」
俺はそれから丁寧にリームバーで化粧を落とし、同じ手順でピンクとオレンジのパレットを女に施した。全てのパレットを試した後、女はひどく悩んだようだった。彼女の本心は、ピンクが欲しいのだろう。鏡を見せた時に、瞳があからさまに輝いたのはピンクのパレットだった。実際にブラウンよりもピンクの方がこの女をより愛らしく見せることに長けていた。だが、オフィスメイクという目的についてを考えるとブラウンが一番適している。普段の俺なら、いや。いつも相手にするような客になら二つとも買わせるだけだ。決断を迫られて、じっとパレットを見つめて俯いている女。俺はそっと寄り添うように椅子に座っている女へと屈んだ。
「お客様、本当はピンクにしたいんですよね。」
「え…。なん、で。」
女は顔を上げて驚いたような顔を俺に向けた。
「分かりますよ。」
「でも…いいんです。」
「僕も…そうですね、お客様の本当のお気持ちを聞いた上でもブラウンにされた方がいいと思います。」
「……。」
「ピンクの方を選ばれますと、お客様の魅力が更に引き立てられ過ぎてしまいますからね。お仕事に行かれるだけなのは、少々勿体無いように思えたんです。」
「なっ…!」
俺は赤くなる女に向けて微笑んだ。これくらいの軽口は、言い慣れている。そしてそれに恥じらわれるのも。なのに何故か妙な高揚感を覚えていた。この女をもっと困らせてやりたい。ベッドの上でもし意地が悪いことをしたらどんなふうに転げ回るだろうか。そんなことまで考えてしまって、俺は自嘲した。そろそろ適当な女を抱いた方がいいかもしれない。
「申し訳ありません…可愛いものを選ぼうと言い出したのは僕なのに。」
「あ、いや…そんなこと。」
「ピンクのパレットは…一番可愛いパレットを買われる時、また一緒に選ばせてくれませんか。お客様さえ宜しければ、ですけど。」
「え、あ…。」
女は顔の火照りを冷ます暇もないのだろう。耳や、ブラウスから突き出す首までも赤く染めたままだ。そんな慌てふためく様子がいじらしく思えて、俺は不審に思われない程度に彼女の側へと寄った。
「申し訳ありません、お客様を困らせてばかりですね私。」
「あ…いや、全然っ。」
女は必死になって、俺のことを宥めた。ああ、あんたはもう俺の罠の中だ。俺は反省するような演技をそのままに、上唇をほんの少しだけ舐めた。
「ですが…決められるのはお客様です。私の話など無視されていいんですよ。如何されますか。勿論…ご購入されないというのも選択肢にあります。」
眩い天井照明が暑い。いや、久しぶりに興奮しているからそう思うのだろう。俺はいよいよ逃げ場を失った女に内心目を細めながら、女の下す答えを待つ。彼女は自分の手をもじもじと組んだり絡れさせたりしながら、唇を薄く開いては閉じた。
「あ…じゃ、じゃあ。」
「はい。」
「これ…ブラウン、のにします。」
「かしこまりました。こちら一点でのお買い上げでよろしいですか?」
「はい…。」
俺はいかにも安心した、といった笑顔を作って女を見た。それを見て女もほっとしたように頬を緩ませると、ハッとして目を見開き恥じらうように俯いた。
「では、お会計はこちらになります。」
早足でレジカウンターまで向かい、女を自分についてくるように促す。バーコードを読み込んで金額を表示させた後、女はその数字を見て決意めいたものを目に浮かべていた。気負うなよそんなに。仕事なんてそんな風に真面目にやるものじゃねえ。まして何かのために頑張ろうと言うなら、尚更。たかがメイクの一つのために身を削ろうって言うのは、俺からすると下らない。
「お客様、少々お時間御座いますか。」
俺は釣りを女に返した後、そう問いかけた。
「え、ああ…はい。」
「よかった、この番号札をお持ちになって、少しだけお待ち頂けますか。」
「あ、ああ…。分かりました。」
俺は戸惑ったような女に微笑みを浮かべた。採算が合わねえよな、こんなことしたって。今から自分がしようとしていることに悪態をついて、嫌になる。それでも俺は“そう”したい、と思った思いつきを実行せずにいられなかった。俺は二、三人の客の会計をしながら、破いた自分のメモ帳にペンを走らせた。それは、ドラッグストアで手に入れられるプチプラの商品名を記すためだ。そうして走り書きを終えた後、リップのディスプレイへと何食わぬ顔で足を運ぶ。そこから一本のリップを抜いて、またレジカウンターへと戻った。これは、決して慈善事業じゃない。見返りが返ってくることを見越した投資だ。俺はリップの商品コードを控えて、メモ帳をポケットに入れた。
◇
女は、店の前でまるで誰かを待ち合わせをしている誰かを待っているかのようにして、行き交う人々を見つめていた。PM18:00も過ぎた頃となると平日とは言え人通りも多くなる。その雑踏のせいか、背後から近づいてくる俺にも気づいていない。
「お客様、お待たせいたしました。」
「え、あ…。」
女は俺が手にしているものに目を丸くして口をモゴモゴとさせた。
「それ、なん…何ですか。」
「番号札、お預かりしてよろしいですか?」
「あ…。」
俺が女の言葉を一度無視したことにも気づかずに女は慌てて番号札を差し出した。まるでしれと引き換えに、とでも言うように俺は自分が手にしている小さな紙袋を彼女の前へ差し出した。
「こちらは、私からのサービスです。どうぞ忘れずにお持ち帰りください。」
「え…。」
「それから…もし、またいらっしゃって下さるなら、私にお声がけください。」
頼りなさ気な手で辛うじて紙袋を受け取った彼女の手に、俺は有無を言わさずに名刺を握らせる。
「やげ…ん、さん。」
「はい。」
女は戸惑いから潤んでいるらしい瞳を俺に向けて、どんな言葉を紡げばいいのかわからなくなっているようだった。
「またのご来店、お待ちしております。」
俺は頭を下げて、一方的に別れを告げた。まるで俺の都合でも知っているかのように、俺を呼ぶ呼び鈴の音が鳴る。
「只今お伺いします。」
未だに名前も知らない目の前の女に会釈をして、俺は店の中へと駆けた。女は俺を呼び止めたいように見えたが、それは俺の気のせいだっただろうか。何にせよ、俺の諭吉一人がどれほど仕事をしてくれるのかが鍵だ。あのオレンジリップ 、そこそこ値段がいい奴だった。けれどその分、あいつがつけたら可愛いだろうな。ご丁寧にリップスティック自体にまで包装をしたのを思い返して、それをあの女が開くのを想像してほくそ笑む。しかしそんなくすぐったいような時間は、目の前のレジカウンターで待っていたトロールのような女に打ち砕かれた。一瞬だけ半目になった俺は、それでもすぐに笑顔を取り繕える自分に賞賛を送りたい。
「申し訳ありません、お待たせ致しました。」
女は無言で派手な赤いリップとカバー力の高いファンデーションを丸い手で俺に突き出し、不機嫌そうに鼻息を漏らした。あーあ、俺だってあんたみてえな客の相手より、あの麦色の髪の女を最後まで見送りたかったよ。悪態を吐きながら会計を済ませて、終始無言のトロールが去っていくのを見送る。あの客、月に3回は来るんだよな。しかも絶対俺にレジをさせる…。一回もヒアリングやタッチアップ、商品を一緒に探すような接客をした記憶はない、が。好かれてんのかな。そう考えると、背筋に悪寒のようなものが走って小さく震える。時計に目を上げて、あの女は今どこまで行ったのか、まだ帰路の途中なのか思いを馳せた。次会えるのは、一体いつなんだろう。俺はどこか自分の頬が熱いような感触を感じながら、頬を柔く掻いた。