雨の来訪雨が降り頻る夜に雨音ではない音がベランダから響いた。すわ強盗かと身構えたが微かに聞こえた羽音でヴェントルーだとわかる。それにしては様子がおかしい。あいつが雨の日に来ることなんて滅多にないし、来たとしても文句をたれながらベランダから入ってくるはずだ(外から開けられる鍵がついている)。しばらく待ってはみたが一向に窓が開く気配がせず、待ちくたびれた私はカーテンを引いた。
窓ガラス一面に黒い羽模様が浮かぶ。精巧な反物を広げたような光景に目を奪われたが、うめき声が聞こえた気がしてすぐに窓を開けると、ベランダいっぱいに広がった羽根に行く手を阻まれた。
「ヴェントルー」
果たしてこれはヴェントルーなのか。それさえも分からないまま触れた羽根は触り慣れたものだった。戸惑いながら撫で続けていると突然羽根の塊から手が伸び、私を中へと引きずり込んだ。
真っ暗な闇の中で冷たい手の感触とどこかで嗅いだことのある臭いだけが五感を刺激した。それは吸血鬼の血の匂いだった。人間のものより果物に近い臭いは平和ボケした昨今ほとんど嗅ぐことは無い。時々硬くて細いものが手足に刺さり、それが抜け落ちた羽根だと気づいて初めてヴェントルーが怪我をしていると思い当たった。
「ヴェントルー、大丈夫か?」
掴んだ手はどこかに消え、手探りでヴェントルーを探すが呼び掛けにも応えない。翼と翼の間に挟まっているのだろうか手を動かすことがやっとの中、私はヴェントルーの名前を呼ぶことしかできなかった。
「ヴェントルー、腹が減っているのか?」
何度名前を呼んだかわからなくなる頃私はそう聞いてみた。
「吸ってもいいんだぞ」
こちらの声が届いているのかわからない。それでも私は声を張り上げる。
「ちょうどポケットの中にナイフがある。咬まなくてもいいから滴ったやつを舐めてくれ」
ポケットから折り畳みナイフを取り出して、パチンと刃をだし手首に当てた。腕を引こうとしたと同時に締め付けが緩まり、思わぬ挙動に私は尻餅をついた。ゆるゆると羽根は萎み、中からヴェントルーが現れる。
「ヴェントルー!」
ヴェントルーはこっちを見ながら後ずさりした。近づこうとしてもその分距離を取られる。
「……血液パックを」
やっと喋ったかと思ったらそれで、私は顔を顰めながら冷蔵庫へ走った。いくつかパックを持ち出してヴェントルーに手渡そうとするが、床に置けと顎をしゃくる。まるで野良猫の餌やりのようだ。
「一体何があったんだ?」
聞いてもヴェントルーは無言のまま、パックを握りつぶす勢いで消費している。服がびしょ濡れなことに気づいた私はタオルを取ってくると言い残して部屋に入ったが、ベランダに戻るとそこにヴェントルーの姿はなく、2枚の羽根が残されているだけであった。
それからヴェントルーは雨の日に度々ベランダに現れるようになった。何度話しかけても口をきかない時もあるし、部屋に入れと言っても黙ってどこかへ行ってしまう。
「世話係になった覚えはないのだがなあ」
晴れの日のヴェントルーに向かって言う。部屋にいるヴェントルーは普段通りだから余計調子が狂ってしまう。
「誰が誰の世話になった?」
すっとぼけるヴェントルーに今まで落としていった羽根を見せつける。血がべったりと着いた羽根は10本に届こうとしていた。
「いい加減、何があったかだけでも教えてくれ」
「お前には関係ない」
「関係ない訳ないだろう?こっちは雨の度にベランダに来られているんだぞ?」
私の不在時はどうしているんだとか、いつからそんな目にあっているんだとか聞きたいことはいくらでもある。それなのにヴェントルーは黙りを決め込んで、着々と家事を済ませていくのだからどうしようもない。仕方が無いので伝家の宝刀をだす。
「靴下がどうなってもいいのか?」
「…っ!」
動揺したヴェントルーが持っていた箒を取り落とす。喋り出すのをじっと待っていると、ヴェントルーは嫌そうな顔をして口を開いた。
「……あの傷は自分でやったものだ」
「自分で?どうしてだ?」
「…… 今日はもう終わったから帰るぞ」
「待て!ヴェントルー!」
呼びかけた時には既に遅く、ヴェントルーの姿はどこにもなかった。
その夜私は新横浜のバーにいた。依頼がないのと入眠するには早すぎるのに加え、夕方から雨が降っていたのが理由だった。雨が降る夜はあいつが来るかもしれないと気が気でない。かといって多くを語らないあいつに対して今日は来るのかと聞くのも癪に障る。結局は「今日は外出している」とメッセージを送ったっきり、バーで1人飲んだくれていたのだった。
「おひとり?」
長身の男性が話しかけてくる。
「悪いが1人のままで居させてくれ」
普段なら話に付き合ったり付き合わせたりするが、生憎そんな気分ではない。
「随分お悩みのようだから」
「うるさい」
酒精で霞んだ視界の中で隣に座った男を睨んだ。高齢で長身で口髭を貯えていることが辛うじてわかるが、敵意は無さそうだった。カウンターで危害を加えられることもなかろうと、無視を決め込むことにする。
「これは私の独り言なんだけどね」
老人が1人で話し出す。
「古き血の吸血鬼の中には、己が執着心の強い余り自傷行為に及ぶ者がいる」
老人の言葉に動きが止まる。
「……お前、誰だ?」
「さあ?単なる通りすがりの戯言だと思って聞いてくれ」
老人は口髭を弄びながらそう言った。
「何か心当たりが?」
「……あいつの大切なものを奪った」
相手が何をどこまで知っているのか分からないが、ヴェントルーの変化について知っていることは確かだった。
「返してあげないの?」
「それはできない」
「どうして?」
「それがないと、あいつはどこかに行ってしまう」
「そうとは限らないんじゃない?」
老人はそう言ってグラスを傾ける。
「古き血の自傷行為はそうそう見られるものじゃない。その強大さ故何でも手に入るからね。胸を掻き毟る程手に入れたいのに手に入らないなんてよっぽどの理由があるとしか思えない。力尽くで取り返されていない以上対話の余地はあると考えていいよ」
老人は席を立ち、私の伝票を片手にチェックを告げた。名前を教えてくれないかと言うと、名前なんて疾うにないと言う。
「私はただ、遊び相手を失いたくないだけなんだ」
感情が読み取れない瞳でそう言われたが、嘘はついていないような気がした。
天気予報では夜から雨が降るとのことだった。私はありったけのバスタオルと血液パック、吸血鬼用の消毒液と傷薬を用意してリビングの家具を全部取払った。今までの傾向からリビングに私が居て、明かりが点っている時に奴は来ている。退治人としてやれるだけの準備をして、通常の捕縛以上に入念な罠をしかけた。怪我をしていたり話せなかったりしたとしても、相手は古き血の吸血鬼だ。何が起きるか見当もつかない。
時計の針は10時過ぎを指している。予報通り雨が降っていて、夜通し張り込む用意はできている。今日来る確証は何も無いが私にしては珍しく賭けに出た。
日付が変わってしばらくするとベランダに動きがあった。仕掛けたストロボがカーテン越しに眩く光り、ゴーグルを付けた私でも一瞬面食らう程だったから相当の光量だろう。ベランダに飛び出して網にかかった大鴉を網ごとベルトで縛る。鳥類は視界を塞げば大人しくなると聞いていたが麻袋を被った大鴉も同じようだった。ぎゃあぎゃあと鳥の声でしか鳴かないヴェントルーの手足を束ね、室内に引きずり込んで檻に入れた。銀製の檻だから迂闊に触れると手が焼ける。檻の柵に手を突っ込んで麻袋と網を断ち切った。
「さあ、話そうじゃないかヴェントルー」
私の両手はぬるぬると血に塗れていた。手足の自由が効かないヴェントルーは羽根を逆立てて威嚇する。
「まただんまりか」
仕方がないので手当を進める。とは言っても応急処置しか知らないから消毒液を振り掛けガーゼを押し当てることしか出来ない。出血がない箇所の雨水を拭き取るとようやくいつもの濡れ羽色が戻ってきた。その間ずっとヴェントルーは鳴き続けていて言葉が通じているのか分からなかった。それでも私はヴェントルーに話しかけた。
「お前の怪我の理由、わかったよ」
血液パックを皿に開けながら言う。
「親切なお前の友人が教えてくれた。靴下が原因なんだろう?」
ヴェントルーはぴたりと鳴き止んだ。それでも羽根は立ったまま体を膨らませ続けている。
「でも私なりに色々考えたんだ。靴下を取り返したいだけなら私の寝首を掻くなり、催眠するなりいくらでも方法はある。それなのにお前はそれを実行しないばかりか理由をひた隠しにして、私に会いに来ている。変な話だよな」
いつぞや奪った靴下を目の前にちらつかせるとヴェントルーはゆっくりと人型に戻った。狭い檻の中で「出せ」と言う。
「こんな檻でお前を捕まえられるなんて思っていない」
私はヴェントルーの目をじっと見た。本気も本音も出さない奴を相手に私は何をしているのだろうか。でもそれはお互い様のようだった。
「お前、私に捨てられるのが怖いのか?」
そう聞いた途端目の前で檻はぐしゃぐしゃに潰れた。針金細工のような容易さで曲がっていく様を私はどこか冷めた目で見ていて、そうだ、それでいてこそ古き血だとそう思った。
「お前の物になったつもりは毛頭ない」
立ち上がったヴェントルーは身震いして残った飛沫を散らす。
「そうだな、それは同感だ」
立ち上がった私はヴェントルーとの間合いを詰め、今度は逃げないことを確認すると殺気立ったヴェントルーの胸に飛び込んだ。まだ変化が済んでいない羽根が手足に刺さり出血したが、どうでもよかった。ヴェントルーは「離せ」と言う。
「このままだと失血死するぞ」
「構わんさ」
「我輩が困る」
その言葉を聞いてようやく私は身を離した。ヴェントルーは小さな声でお前には敵わないと言った。
今度は私が手当される番になり、包帯でぐるぐる巻になった。なんでお前は向こう見ずなんだとか、フラッシュで目が潰れそうになったとか小言を言われながらされる治療はつまらないものだった。
「靴下とお前の両方を手に入れる術がわからなかった。だからああなった」
一通りの苦情を言い終わるとヴェントルーはそう言った。
「お前が傷を負う度に腸が冷える。体の自由がきかなくなる。甚だ困るから怪我はするな」
「そもそもお前が理由を話さないのが悪い」
二の句が継げなくなったヴェントルーは荒々しく包帯を結ぶ。
「それで……どうだ返す気にはなったか?」
「なる訳ないだろう?」
「ええ……」
「靴下は預かる」
「それは……今まで通り雨の日に来ることになる」
「それはもう大丈夫だろう」
私はにこやかに告げる。
「私ごと靴下を手に入れれば済む話だ。あとは自分で折り合いをつけろ。これなら文句はあるまい」
「大有なんだが……」
釈然しない様子のヴェントルーは首を傾げたままだったが、それ以来雨の日の来訪はなくなった。それから自称遊び相手の容貌を聞いたヴェントルーは頭を抱えていて、私がその正体を知るのは随分先の話だった。