リビングへと続くドアは細く開いたままになっている。開けっ放しはやめろと何度諌めても「どうせまた開けるんだからいいだろ?」と素っ頓狂な顔でタビコが言うものだからヴェントルーはその悪癖を直すことをとっくの昔に諦めていた。それでも開いたままのドアが目に入る度にその隙間を無くしてはいたものの、今日は全くその気になれない。
タビコは今シャワーを浴びているはずだ。湯浴みが終わればあのドアからこの寝室に入ってくる。その事が恐ろしいのと待ち遠しいのとでヴェントルーの緊張は最骨頂に達していた。なんの前触れもなく寝室に入ってこられるよりかはドアの隙間からタビコの気配が伺えた方がいい。そう思って敢えて視界の端でリビングの様子を見てはいるが、結局はざわつく胸が抑えられず最終的には壁の一点を見詰めるのに留まった。ヴェントルーは落ち着きを取り戻そうとベッド脇に置いたルームライトに目を向けた。家電量販店で急遽手に入れた小ぶりなライトはリラックス効果だとかムード演出だとかそんな謳い文句が箱に書かれていて、ヴェントルーはむずむずとした心地でそれを手にしてレジへと向かった。アロマフューザーにも手を伸ばしかけたが、それはやり過ぎだろうとやめにした。今はそれを仇かのように睨み、ヴェントルーはベッドに正座する。
用意すべきことは全て用意した。避妊具はサイドチェストにしまってあるし、風呂は先に入ったから体はいたって身綺麗なものだ。香油を薄く足先にのばしたので保湿は十分だし、吸血鬼の低体温が少しでも紛れまいかと血を含んだワインを一杯煽ったので、心做しか頬が上気している。あとは、ここに、タビコが来るのみ。ヴェントルーは微動だにせずベッドの上で待ち続ける。
風呂から出たタビコは下着を手に束の間逡巡した。どうせ今から脱ぐものを身につける道理が分からない。かといって以前暑さを理由にショーツとロングTシャツのみの出で立ちでリビングに現れた時のヴェントルーの剣幕はすごかった。あの時と同じようにまくし立てられたらかなわない。タビコは大人しく下着を上下身につけて、室内着のワンピースを身に纏う。
リビングの電気は消えて室内は真っ暗だった。これじゃあ寝室までたどり着けないだろうと電気を付けようとすると、寝室からうっすら光が漏れているのに気がついた。いつも口喧しく閉めろと言っているのに珍しいこともあるものだとタビコは静かに寝室を覗き込むとヴェントルーの後ろ姿が見えた。ヴェントルーはベッドの上に正座し、ベッド横にあるライトを見詰めている。何をそんなに見るものがあるのかとしばらく観察してみるものの、ヴェントルーはタビコに全く気が付かないばかりかライト以外のものに目を向けようともしない。こいつ、そんなに気が張っているのか?そう思い当たったタビコは顔が綻んだと同時に腰が抜けそうになった。なんだこいつ??底知れないな??!!タビコはかつて無く高揚し「戻ったぞ!!」と声を張り上げて寝室の扉を開け放った。
「戻ったぞ!!」
タビコの声に驚いたヴェントルーは飛び上がり、ベッドから転げ落ちそうになった。
「タビコ!!今何時だと思ってる?!」
「?まだ十時過ぎだぞ?お前、人間は日が落ちたら寝る生き物だと思ってるのか?ずいぶんと前近代的だな」
タビコは怪訝な顔をしながら部屋の電気をつけてヴェントルーの横に座り込んだ。そのまま無言でシルクパジャマのボタンを外そうとするのでヴェントルーは慌てて手を掴む。
「待て待て待て待て」
「なんだ?まだ準備が必要か?」
「…準備はすんだが、順番というものがある」
「最初はなんだ?」
「…………接吻」
タビコは唇を合わせる。
「次はなんだ?」
「……」
「え?聞こえないぞヴェントルー?」
「…電気、消せ」
「電気?」
タビコは天井を見上げ、ああ、と言ってにっこり笑う。
「これはこのままでいい」
「……良くない」
「消したら見えないだろ?」
「我輩は見える」
「私は見えない」
「その為に灯りを用意したのだ!さっさと消せ!」
「灯りってこれのことか?こんなちっぽけなライトじゃお前の痴態が見えないだろ!」
「そんな無粋なまぐわいがあるか?!」
不意にドンッと壁が鳴り、隣人から苦情がはいった。さすがに二人は口を噤んだが、ベットサイドに置いてある照明リモコンを無音で奪い合い、最終的にタビコはリモコンを窓の外に放り投げた。
「なにをする!!!」
「やむを得ん!」
「どうしてお前はそう捨て身なのだ!!」
「お前が強情だからだ!」
「我輩のせいにするな!…まったく…明日朝にでも取りに行くのだぞ!」
「それを言うならお前こそ私の靴下酒を返せ!!」
ゴンッと壁が鳴った。極力声を潜めてタビコは言う。
「往生際が悪いぞヴェントルー。新月だからだめだの、仏滅だからだめだの、さんざん先延ばしにしたのはお前じゃないか?この期に及んで何を怖気付いてる?」
「……怖気付いてなどいない」
「じゃあさっさと腹をくくれ」
タビコはヴェントルーのパジャマの裾から右手を差し入れた。浮き出た肋骨を下から順に撫で上げ、鎖骨の窪みに手をかける。左手でヴェントルーの項を押さえ込み、鼻と鼻を擦り合わせる。
「もう待てない。お前の全部が見たい。ヴェントルー」
ヴェントルーの足の上にタビコの足があった。タビコの口元が近づくにつれ、つま先立ちしたタビコの体重が局所的にのしかかった。痛い。 しかし逃れられない。
「タビっ……」
玄関のチャイムが鳴った。
「……騒ぎすぎたな」
来客の応対に向かったタビコは頭を掻きながら寝室に戻ってきた。
「小さい子どもが寝たばかりらしい。さすがに近所迷惑だった。仕切り直しだ」
「……ああ」
今度こそ勢いをなくした二人は並んでベッドに体を投げ出した。うつ伏せに寝たタビコがヴェントルーの方を向くと、かの吸血鬼は仰向けになったまま目をつぶってぽつりと呟く。
「……スイートルームを予約しておくんだった」
「は?」
「…ヴリンスなんて目じゃない、シャンデリアとジャクジーを兼ね備えた、眺望が素晴らしく、ルームサービスで薔薇がでて、部屋で朝食がとれて、こんな靴下屋敷の何倍もの広さがあって、調度品もそれはそれは美しい……」
「別にどこだっていいよ」
タビコはそう言って欠伸をしながらヴェントルーの首の後ろに腕をまわした。
「第一、朝食はお前の飯の方がいい」
おやすみの一言を最後にタビコは眠りにつく。タビコの腕に頭を乗せたまま、ヴェントルーは硬直して眠れぬ朝を迎える。