赤い靴その娘は村で一番か細く貧弱で、吸血鬼退治人であるという事実を初めて知った者は耳を疑う程でした。それでも非常に熱心に仕事に励むものですから、彼女を悪く言う者はおらず、それなりには仕事が回ってきてはいたようです。それでもここ一番、例えば隣村を壊滅させた吸血鬼がこの村にやってくるという噂が出回ってきた頃などは、村の人間に「お前は村の見回りを頼む」と言われ、第一線には臨むことができませんでした。彼女はそれを非常に悔しく思いました。知識も経験も十二分にあり足りないのは実績だけなのに、その機会も得られないとなると彼女の鬱憤は募りました。その夜、彼女は村の誰にも告げずに吸血鬼が潜むという森へ訪れました。
森の中は思った以上に明るく、昼間であるかのように月の光が燦々と降り注いでいました。こんな夜は吸血鬼退治には不向きです。視界が開けていると言うことは想像以上に人間にとって油断を誘います。娘は慎重に森の奥へと進んでいきました。頭上で烏がカアと鳴きました。
娘は不審に思いました。森があまりに静かすぎるのです。絶えず吹いているはずのそよ風も、虫の鳴き声もそこにはありません。時折烏が鳴くのみです。そもそもこの時分に烏は鳴くものだったろうかと考えた時、辺りが暗く陰りました。
「こんな所に子ネズミ一匹、道にでも迷ったか?」
娘は黙って顔を上げました。そこで目にしたものは六枚羽の大鴉でした。隣村を取り潰したのはこいつだと直感的に分かりました。
「日蝕の大鴉とは我輩のことよ。どれ、ひとつ遊んでやろうぞ」
大鴉はそう言うと娘に襲いかかりました。無数の羽が舞い、娘の肌には数え切れないほどの傷が付きました。娘は必死に目を見開きましたが耐えがたい痛みに膝を折りました。
「・・・ふん、お前のような小娘、暇つぶしにもならん。はてさて、この村にはどれほどの人間がいるだろうか・・・」
吸血鬼は興ざめしたかのように人型に戻りました。膝をついた娘のすぐ横を歩き去ろうとするのを止めようと娘はあらん限りの力で吸血鬼の足にすがりました。
「・・・我輩に触れるなど、不埒にも程がある。気が変わった。貴様など地に足を付けるにも及ばんわ」
吸血鬼はそう言うと空高く舞い上がりました。娘は足に掴まったまま、宙づりになりました。森の木が遠く小さくなり、空気は薄く娘の呼吸は浅くなりました。それでも吸血鬼は高く飛ぶことをやめず、娘の手から力が抜け始めました。その手は吸血鬼の革靴に引っかかり、今にも娘は落ちようとしていました。しかし次の瞬間娘は吸血鬼の靴に噛みつきました。予想だにしない行動に吸血鬼は悲鳴を上げ、思わず娘を蹴り落とそうとしましたが、うまくはいきませんでした。娘はそのまま靴を奪い、それだけは飽き足らずに靴下をも奪いました。それを見た吸血鬼は急に飛ぶのをやめてふらふらと墜落し始めました。執着心の強い吸血鬼にとって、己の衣服を奪われるのは片腕をもがれるに等しいものでした。吸血鬼と娘は共に山に落ち、吸血鬼は息も絶え絶えに靴下を返すよう懇願しました。
「もう村を襲うようなことはしない。だからその靴下を返してくれ」
吸血鬼はぜえぜえと苦しそうに息をしながら話しましたが、娘は碌に話を聞いていませんでした。強大な吸血鬼が自分の前で醜態をさらしている。そのことに得も言われぬ快感を得ていたのです。
「貴様の、退治人の本分は人間の生活を守ることであろう?」
「退治人の?ああ、そうだったな」
娘は関心のなさそうにそう言いました。
「靴下が奪われると吸血鬼はそんなにも弱るのだな!おもしろい!お前らの痴態がもっと見てみたくなった!」
娘はその冒涜的な愉悦に酔いしれながら、息を切らして自宅へと帰りました。吸血鬼から奪った一足の靴下だけが手中にありました。夢のような一時でしたがその靴下の存在が吸血鬼との遭遇を現実と告げました。娘はこわごわと靴下を撫で、その感触が現実であることを受け入れようとしました。しかしそれだけではもの足らず、鼻を寄せ吸血鬼の存在を嗅ぎ取ろうとました。小さな布きれからは干し草の匂いが醸し出され、それはなんとも芳しい香りでした。唇に触れた時に食んだ感触は上等なパンを口に含んだ時のものに似ていました。吸血鬼の悲鳴は今も耳の奥で鳴り響いていました。娘は何度も何度もその瞬間を想起し、胸を高鳴らせました。
それからというもの娘は今まで以上に吸血鬼退治に精を出すようになりました。昼夜を問わず遠方まで退治に向かう娘を見て、村の人々は感心していましたがそれも初めのうちだけでした。依頼のない退治や他の退治人が請け負った退治まで娘は介入するようになり、その鬼気迫る様子は見た者が「狂っている」と評する程でありました。一人の村人は娘に何故そこまでして退治をするのか尋ねました。娘は楽しいからだと答えました。娘の様子が常軌を逸しだしたのはそれからまもなくのことです。吸血鬼退治と称して強奪品の靴下を蒐集しだし、娘の家から溢れるほどの靴下をため込み始めました。一度など庭で煮炊きをする娘を目撃した村人が言いました。「あの娘、靴下を煮込んで食している」娘は魔女ではないか、あるいは悪魔に魂を売ったのではないかと噂が立つのに時間はかかりませんでした。
村長が娘の元を尋ねると、ずいぶんと痩せ細った娘が出てきました。聞くとここ最近は寝ておらず、食事も満足にとってはいないようでした。
「体の具合が良くなるまで、仕事はしばらく休んでみてはどうかね?」
村長はそう娘に提案しましたが、娘は首を横に振りました。
「今はとにかく時間が惜しい」
娘はずっと靴下のことばかりを考えていました。
娘は村長の話にも生返事ばかりを返し、頬は痩け、隈もできているのに目は獣のように爛々と光っているので気味が悪く、村長は話しもそこそこに逃げるように立ち去りました。娘はもうこの村には居ない方がいいと悟りました。
娘は村を出ました。退治人という職業は流しでもできる仕事です。それでも他の退治人の領域を侵したり、力に見合わない吸血鬼に戦いを挑んだりを繰り返し、どこの村でも鼻つまみ者になりました。しかし娘は靴下を集めることをやめませんでした。初めて手に入れた靴下はあの日から娘の右足を包んでいました。
ある時娘の右足は勝手に動き出しました。吸血鬼退治中でも構わず踊の足を踏み出すので、以前よりも命の危険にさらされることが多くなりました。左足は今まで通り自由がきくので、きっとあの靴下が足を動かしているに違いないと娘は思いました。しかし靴下を脱ごうとは思いませんでした。
左足も独りでに動き出すようになりました。右足などは一日の間でじっとしている時がないほどでした。娘は仕事どころか生活を営むことすら難しくなりました。それでも娘は靴下を手放しませんでした。
娘の両足は常にダンスのステップを踏むようになりました。娘は一つの場所に留まることができなくなりました。でもそれが今までの生活となにが違うのだろうかと娘は思いました。娘は飢え、体に力が入らないほど弱ってはいましたが不思議と満ち足りていました。
娘は踊りました。今までの旅路を遡るかのように足を運んでいき、仕舞いには見覚えのある森にたどり着きました。そこはあの吸血鬼に初めて会い、靴下を奪い取った場所でした。あの場所にあの吸血鬼があの時と同じようにして立っていました。
「人間風情が、我輩の持ち物を我が物の様に扱ったために罰が当たったのだ」
吸血鬼はそう言いました。
「貴様は我輩に呪われたのだ。最早その足を切り落とすしか生き延びる術はない」
「呪い?これが呪いだって?」
娘は言って高らかに笑うので吸血鬼は思わずたじろぎました。
「とんでもない!これは祝福に違いないよ。この靴下を手に入れるまで、私は私でなかったのだ」
そう娘はあっけらかんと言うので吸血鬼は虚を突かれたような心地がしました。娘は笑いながら踊り続けました。
「このまま踊り続けて飢え死にしようが、強大な吸血鬼に襲われて死のうがどうだっていい。今まで生きていて、こんなにいい気分になったことなんてなかったんだ。この靴下があればどこへだっていけるしどこまででも走れる。これを返してやる訳にはいかないな」
娘は顔の前でくるくると手のひらを回し、慇懃にお辞儀をしました。
「残念ながらお前の靴下は私が死ぬまで私のものだ。諦めてくれ。でもそうだな、お前が私の足になってくれるのなら私の足を切り落としてくれても構わないよ。そんな心づもりもないのに憐憫なんて垂れるものじゃないな」
娘の両足はステップを踏み続けました。爪は割れ、皮膚は裂かれ、血がにじみ出て靴下は赤く染まりつつありましたが、娘は痛みは感じないようでした。深い夜の森に娘の笑い声が響き渡った瞬間、娘の両足が落ちました。主を失った両足はそのことに気づかないかのように独りでに踊り続けました。娘は呆気にとられて踊り続ける両足を見つめました。
「・・・これで我輩の靴下はお前のものでなくなったな」
血がしたたり落ちる右手を振り払いながら大鴉は言いました。
「・・・勘違いするでないわ。我輩の靴下が人間ごときの物になるぐらいならいっそ誰の物でもなくなった方がましと言うだけだ」
吸血鬼は忌々しげにそう言いましたが娘に手を貸そうと手を伸ばしました。娘はそれを見て笑顔を見せました。
「礼を言うぞ、大鴉」
「・・・ヴェントルー、ヴェントルー・ブルーブラッドだ」
「ヴェントルー」
娘はその名を繰り返しました。初めて聞く名なのにその音はやけに口に馴染みました。ヴェントルー、と何度も繰り返す娘に「貴様の名は何というのだ?」と吸血鬼は尋ねました。
「私はタビコだ」
娘はそう言ってヴェントルーに向かって手を伸ばしました。