運命と悪戯②■二章
長旅の疲れが溜まっていたようで、夢を見ることもなく、ぐっすり眠った気がする。
ぱっちりと目が覚めて、晶がまず思ったことといえば、『お腹があったかい』だった。
(これは、もしかして……?)
耳を澄ませて聞こえてくるのは、すうすうと規則的な寝息。寝間着の脇の辺りが少し引っ張られている感覚もある。
晶は肘をついて、そおっと体を起こしてみた。するとそこには、晶の鳩尾あたりに引っ付いて眠る子供がいた。寝乱れたふわふわの髪の間から、あどけない横顔が見える。少年と呼べる年齢だろうに、寝顔はそれよりももっと幼い。
「か、かわいいっ」
うっかり声が出てしまい、慌てて手で口をふさぐ。子フィガロは晶の心配をよそに、身じろぎ一つせずよく眠ったままだ。ついでに言うと、薄く開いた口の端からはよだれが垂れている。
これだけ無防備な寝顔を見せてくれるということは、それだけ安心できている、と思っていいのだろうか。
ぼんやりと虚ろな瞳が瞼に隠されているためか、表情は昨日よりもずいぶんと柔らかく見えた。
(……自然と目が覚めるまで寝かせてあげよう)
寝間着を掴んでいる小さな手を慎重に解き、そろりそろりと体を離す。安眠の邪魔をしないよう、細心の注意を払いながら、晶はそっとベッドを抜け出した。
手早く普段着に着替え、さっと梳かした髪を一つに結んで寝室を出る。居間兼キッチンの窓という窓を開け放てば清々しい朝の空気がさあっと吹き込んで、頭の奥に残っていた眠気をすっきりと晴らしてくれた。
一番大きな窓から軽く身を乗り出し、朝の空気に顔を晒す。一面に広がる湖と、それを囲む青々とした緑。風に乗ってやってくるのは、土と緑の匂い。
(帰ってきたって感じがするなあ)
しばらく滞在した西の国は鮮やかで賑やかで、目にも耳にも楽しかったけれど、南の国は肩の力を抜いて、飾らない自分でいられるような気がするのだ。
「フィガロ、南の国は、今もとっても素敵な場所ですよ」
この地の開拓に尽力した魔法使いへ向けて、届くはずのない言葉をぽつりとこぼしてから、晶は窓辺を離れた。ぐぐっと背伸びをしてから、キッチンへ足を向ける。
「さて、朝ご飯朝ご飯」
と言ってはみたものの、昨日は突然の来客があって買い出しに行き損ねたので、戸棚の中は寂しいままだ。
「とりあえず燻製のオアシスピックと、主食は――昨日の残りのパンしかないや。卵があれば目玉焼きができるんだけど……」
ちなみにオアシスピックとパンは昨日の夕食会のために、ルチルとミチルが自宅から持ってきてくれたものの残りである。他にもレノックスやスノウ、ホワイトが色々と持ち寄ってくれたので、晶の家の食材は寂しいままなのだ。
これは午前中のうちに買い出しに行かないと、昼食すら作れない。
(冷凍食品って、便利だったよなあ)
画期的発明品の代表的な例に思いを馳せながら鍋を火にかけ、ありあわせを盛りつけていたところで、背後からガチャリと音がした。誰が、何をした音なのかは考えなくても分かるから、手を止めて振り返る。
寝室から出てきた子フィガロは、元々の癖毛がさらにぼさぼさで、ぶかぶかの寝間着の裾が床についてしまっていた。ちょうどいい丈で折っていたのが、寝ている間に戻ってしまったようだ。
「おはよう。気分はどうかな?」
差し込む朝日の眩しさに目をぎゅっと瞑ったまま、子フィガロは動かない。だから晶はキッチンを離れ、寝室のドアの前で突っ立っている少年に歩み寄った。
「朝ご飯、すぐできるから、ここに座って待っててね。食べ終わったら支度をして、買い物に行こう」
まだ夢の中に半分足を突っ込んでいる子フィガロをダイニングテーブルに着かせると、途中だった朝食の準備を手早く進めていく。頭の中は、雲の街で何を買うのかでいっぱいだ。
(とりあえず野菜と果物と、あとはお肉? 魚の方が好きかな? あとは着替えも必要だし、本当はベッドも買ってあげたいけど……。置く場所はないよね)
一階の診療所部分は大きく変えたくない。けれど二階は手狭な寝室と居間兼キッチン、そして水回りという最低限の間取りだから、もう一人分のベッドを置く余裕もない。元々フィガロが一人で住んでいた家なので、当然といえば当然である。
とりあえず、しばらくは一緒のベッドで我慢してもらおう、と考えたところで朝食が完成した。燻製オアシスピックのスープ(肉以外の具なし)とパン、昨日レノックスがお裾分けしてくれたチーズ、というとても質素なメニューである。
「残り物ばかりでごめんね。食べようか」
子フィガロと向かい合う形で席につき、いただきます、と手を合わせる。スープをすくって口に運びながら正面の少年をちらりと窺えば、彼は目の前に並べられた料理を、微動だにせずただじっと見下ろしていた。本当に食べていいのかと、戸惑っているように見えなくもない。
「食べていいんだよ」
声をかけると、子フィガロが少しだけ顔を上げた。晶を見て、そしてまた朝食に視線を落とす。
小さな手がパンを掴むまで、晶は食べることも忘れて静かに見守っていた。
もぐ、と一口頬張ったのをきっかけに、子フィガロは黙々と食べ進め始める。いい食べっぷりに晶はほっと胸を撫で下ろして、自分の分を腹に収めることに集中した。
やがて、口に合うか少々気がかりだった朝食を、子フィガロはぺろりと平らげた。ただお腹が減っていたのか、美味しかったのかは彼しか知らないことだ。それでも、自分が作ったものを完食してもらえるのはとても嬉しい。若い魔法使いが勢いよく食事を腹に収めていく姿を、笑顔で見守っていたネロの気持ちが少し分かった。
「ごちそうさまでした」
空になった皿に手を合わせる晶を、子フィガロが大きな瞳でじっと見つめてくる。朝ご飯を食べたことでようやく完全に目が覚めたようだ。朝日の中にいると、ぼんやりした瞳にも光が差して、表情は幾分か生き生きして見える。
蒸しタオルでよだれのあとが残る顔を拭いてやり、寝ぐせなのか癖毛なのか分からなくなった髪を丁寧に梳かしていく。伸ばしっぱなしの髪を切って整えてやりたいが、晶の手で鋏を入れるのは気が引けた。誰か、そういうのが得意な人がいないだろうか。
着替えもこれから買う予定なので、服は子フィガロがここに来た時身に着けていたものをそのまま着せた。フリルやリボンがふんだんに使われたデザインは、スノウとホワイトを思わせる。
(ここに来るまでに、着せ替え人形にされたりしたかな……)
小さくかわいくなった弟子を、キャッキャとはしゃぎながら構い倒す双子の図がありありと浮かぶ。もし想像の通りだとしたら、子フィガロにはいい迷惑だっただろうが、その様子は正直見てみたかった。
準備ができた子フィガロを居間のソファに座らせ、晶は自分の支度にとりかかる。といっても軽く化粧をして、買い物用のバスケットと外套を身に着けるだけだ。
「よし、行こうか」
膝に手をつき、背を丸めて子フィガロの顔を覗き込めば、少しの時差があってから目が合った。小さな体がするりとソファから降りる。昨日よりも意思の疎通ができているような気がして、少し安心した。このまま良い方向に向かってくれればいい。
手を繋いで外へ出ると、清々しい朝の空気と、熱を帯び始めた日差しを肌に感じた。今日もいい天気になりそうだ。
「おや晶ちゃん、その子は?」
「まさか、晶ちゃんの子供かい⁉」
「かわいい子ねぇ。お人形さんみたいだわ」
雲の街で買い物をしていると、顔見知りの住人たちから次々と声をかけられた。一人暮らしのはずの晶が見知らぬ子供を連れていることに首を傾げたり、大袈裟なくらいに驚いたり、愛らしい姿に相好を崩したりと、反応はさまざまである。
それらに笑顔で応えながら、この子供を見て『フィガロ先生』と呼ぶ人が一人としていないことに一抹の寂しさを感じた。
大いなる厄災の脅威が去ってから、もう七、八十年は経っている。この子供が、かつて湖のほとりで診療所を営んでいた医者であり、あちこちで頼りにされた魔法使いと瓜二つであることを、街では誰も知らないのだ。
だが悪いことばかりではない。誰も気付かないのをいいことに、晶は子フィガロのことを「しばらく預かることになった知り合いの子」という、あながち嘘とも言い切れない設定で貫くことができる。
その辺を元気に走り回って遊ぶ年頃に見える子フィガロと手を繋いでいると、仲がいいのねと微笑ましい目で見られるのはちょっと気恥しい。あらぬ勘繰りをされるよりはましだと思っておく。子フィガロは終始ぼんやりしているので、うっかりはぐれてしまわないよう、手を繋ぐほかないのだ。
なじみの店を順に回りながら、晶は必要な物を次々と買い込んでいく。かなりの出費にはなるが、多少の蓄えはあるので問題はない。少しばかり節約を意識する必要はあるだろうが……。
(ムルが作ったこのバスケット、めちゃくちゃ便利だな)
腕に提げたバスケットは、今回の西の国への旅でムルからもらった魔法道具だ。任意の場所とバスケットの中を繋げることができる魔法がかけられていて、いくら買い物をしても荷物が増えないのである。今頃ダイニングテーブルの上には、食材やら日用品やらがどっさり山積みになっていることだろう。
街を一巡りしたところで、一旦立ち止まり今日の買い物を頭の中でおさらいする。
「卵、牛乳、野菜に果物。お肉と魚も安く買えた。この子に必要な物もだいたい揃ったはずだし……」
覚えている限りでは大丈夫そうだ。
「せっかく街に来たんだし、お昼は外で食べようか」
手を繋いだまま膝を折り、目線を合わせて子フィガロに声をかけた時、頭の上からよく知る明るい声が降ってきた。
「おーい、晶さん! フィガロ先生!」
「ルチル、こんにちは」
すとん、と軽やかに地面に降り立つルチル。さらさらの金茶の髪が少々乱れているのは、今日も箒を元気に飛ばしていたからかもしれない。
「こんにちは。お買い物ですか?」
「はい、食材の買い出しと、あとはこの子の必要な物を色々と」
晶が立ち上がりながら言葉を返すと、今度はルチルがその場にしゃがみこみ、子フィガロににっこりと笑いかける。
「こんにちは、昨日ぶりだね。よく眠れたかな?」
「……」
「ぐっすりでしたよ。やっぱり疲れていたみたいで」
晶が代わりに答えたことには言及せず、ルチルはただ「良かった」と目元を細める。優しく、慈愛に満ちた微笑みだった。
「ルチルもお買い物ですか」
「ええ。ミチルは隣村まで患者さんの様子を見に行っているので、学校がお休みの私が家事を片付ける日なんです」
「隣村……。以前話していた女の子ですか?」
「そうです! ミチルの薬のおかげで随分よくなって――っと。すみません、お買い物中なのに」
「いえいえ。あとはお昼を済ませて帰るところだったので」
「それなら私もご一緒してもいいですか?」
「もちろんです」
雲の街はこの数十年で人が増え、こじんまりしたカフェや酒場、この土地馴染みの料理が楽しめる食事処なんかもできていた。晶たちは中央の国から移住してきた夫婦が営むカフェに入り、大人二人はホットサンドのセットを、子フィガロにはパンケーキを頼む。
床材や柱に深い茶色の木材が使われた店内は、天井近くに嵌められた明り取り窓からほんのりと光が入り、落ち着ける雰囲気だ。子フィガロを隣に、ルチルとは向かい合って世人席に落ち着くと、晶は話の続きを促した。
「さっき話していた隣村の女の子、調子が良くなったんですね」
「ええ。今日の診察次第では、もう薬もいらないかもってミチルが言っていましたよ」
数か月前から喉を悪くして、声が出なくなってしまった隣村の女の子のことは、西の国へ出立する前にミチル本人から聞いていた。ただの風邪ではないらしく、薬の調合が難しいとミチルが悩んでいたのを覚えている。
「いい薬ができたんですね」
「色々な本を調べたり、いくつも調合を試したりして、ようやくその子に合った薬ができたんですって」
「ミチル、本当に立派になりましたね」
強くなりたい、人の役に立ちたい。もがいて、背伸びをして、時に傷付いて。その姿を傍で見てきた晶だから、今の活躍を聞くと、ミチルの成長を感じずにはいられない。うっかりすると、親戚のおばさんのような反応をしてしまう。
(背の高さも、私と同じくらいだったのに)
視線を上げずとも目が合った頃につい浸っていると、「そうだ!」とルチルが拳で手のひらを叩いた。
「ミチルがそろそろ薬草園の手入れをするって言っていたんです。その時、フィガロ先生に薬草園を見せてあげるのはどうでしょう」
どうかな?とルチルがテーブルに肘をついて子フィガロの顔を覗き込む。誘われた子フィガロはというと、突然目を合わせられて驚いたのか、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返している。
「でも、お邪魔じゃないでしょうか?」
ルチルの提案は嬉しいけれど、日々忙しくしているミチルを思うと、気軽に訪ねていってもいいものかと迷ってしまう。
しかし軽く眉をひそめた晶に、「そんなことありませんよ」とルチルは首を振った。
「ミチルもきっと喜びますから。ぜひ、いらしてください」
「なら、お言葉に甘えて」
話がまとまったところで料理が運ばれてきた。
はじがかりかりに焼けたホットサンドのいい匂いに空腹が刺激される。子フィガロのパンケーキもふかふかで厚みがあり、トッピングに使われたジャムはこの店の自家製なのだという。ルチルから「ジャムだけ買うこともできるんですよ」と教えてもらったので、せっかくなら買って帰ろうかな、とひそかに考えている。
パンケーキを一口大に切ってから皿を隣に滑らせると、子フィガロはおぼつかない手つきながらもフォークを握って食べ始めた。年の頃にしてはほっそりとした頬がもぐもぐと動くのを微笑ましく見守りながら、晶とルチルもホットサンドに口をつける。
「オズ様のお話では、フィガロ先生は雪原に一人でいたんですよね」
料理と一緒に運ばれてきたハーブティーを一口飲んだルチルが、ふいに表情を翳らせてぽつりとこぼす。晶もなんとなく手を止め、昨日聞いた話を頭の中で思い出しながら頷いた。
「はい。オズの城の近くで、一人ぽつんと」
「……アーサー様の昔を思い出すのは、私だけでしょうか」
「いえ、実は私も、同じように思っていました」
ちょうどカフェには晶たち以外の客はおらず、子フィガロの操るフォークが皿にあたる音と、厨房から届く僅かな物音だけが店内に響く。
アーサーは魔法使いに生まれたために母親から疎まれ、北の国の雪原に捨てられた。そこをオズによって保護され、城から迎えが来るまでの数年を共に過ごした。
もしかしたら、この子も。
晶とルチルは、同じことを考えている。家族の元でも口を開かず笑いもせず、終始ぼうっとしていたのなら、疎まれていた可能性は十分ある。そしてアーサーと同じように。
子フィガロの生い立ちを、家族を、晶たちは知らない。だからこれは想像の域は出ないけれど、その想像は膨らむばかりだ。
「でも、アーサー様はオズ様に会えて、フィガロ先生は晶さんと再会できた。私はそのことの方が大切だと思うんです」
「ルチル……」
「晶さんとフィガロ先生はお二人とも生まれ変わって、そしてまた会えたんです。きっとこれは運命です。お二人はまさに、運命の相手だったんですね!」
「う、運命、なんて……」
頬を紅潮させ、鼻息荒く主張するルチルに、晶は恥ずかしくなって顔を俯ける。思えばスノウとホワイトも、運命の悪戯、なんて言っていたっけ。
(運命かは分からないけど、不思議だな。本当に)
前世は人間と魔法使いで、生きる長さが違った。それがお互いに一度命を終えた後、どちらも魔法使いとして生まれ直し、再会する。
偶然では到底片付けられない。でも、自分で『運命だ』と思うのは憚られる。
この数奇な巡り合わせには、どんな名前を付けたらいいのだろう。
「運命かどうかは、分かりませんが……。ここでは穏やかに、ゆっくり、いろんなものを見て、感じて、過ごしてほしいと思っています。魔法使いと人間が手を取り合って暮らす、この国で」
フィガロの子供時代は、神のように崇められ、そしてフィガロも自らを崇拝する住人たちを守り導こうとしていたと聞いている。その後村が雪崩に消え、放浪の末出会った双子のうちの片割れは、フィガロをこう表した。『孤独しか知らない子供』と。
子供らしくない幼少時代を、フィガロ自身は『北の魔法使いはそんな感じ』と受け入れているように見えた。だからこれは、晶の個人的な願望だ。再びこの世に生を受けたのであれば、今度はのびのびと自由に、健やかな子供時代を過ごしてほしい。かつての彼が抱えていた根深い孤独の一片を知っているからこそ、そう願ってしまう。
カフェを出てルチルを別れ、子フィガロを前に乗せて箒を飛ばす。
腕の中にすっぽり収まってしまう小さな体が、鼻先でそよぐ青灰の髪が、とても愛おしい。
フィガロを崇めた住人たちも、確かに彼を愛していたのだろう。それを否定するわけでは決してないけれど、今世で彼が向けられる愛は、彼を孤独にしない愛であればいい。
晶が注げる愛なんて、たかが知れている。けれどここは南の国だ。魔法使いと人が手を取り合うこの国でなら、この子はきっと孤独にはならない。たくさんの人からのあたたかな愛をその身にいっぱい受けて、元気に育ってくれればそれでいい。
ただ、それだけでいいのだ。
「あっ、いらっしゃい! 晶さん、フィガロ先生」
広い薬草園で作業していたミチルが、落ちた影に気付いて顔を上げた。少年の頃から変わらない笑顔に手を挙げて応えると、そばの背の高い草の群れがさりと揺れ、ルチルもぱっと顔を出す。
「今日もいい天気ですね。絶好の収穫日和です」
「お邪魔します。薬草園、とっても賑やかですね」
降り立った薬草園には、様々な種類の草や花がのびのびと茂っている。前に見せてもらった時はちょうど採取が終わったタイミングだったのか、ここまで色鮮やかではなかった。
特に目を引くのが、ルチルがしゃがみ込んでいた一帯の、背の高い植物だ。小さな白い花が連なるようにして咲いているのが、どこか収穫前の稲を思わせる。
晶の視線に気付いたのか、ミチルが慣れた手つきでその植物を一株引っこ抜いて晶に見せてくれた。
「これは、冬に流行する風邪に効く薬草なんです。足りなくならないようたくさん種を蒔いたら、ちょっと多かったみたいで」
他にも今の時期にしか育たない薬草がいくつかあり、それらを今日一気に採取する予定なのだという。
晶たちが来る前から作業をしていたミチルが、軽く息をつきながら額の汗を拭った。雲一つなく晴れた空の下で作業をしていれば暑くて当然だ。
晶は用意していた包みを魔法で取り出すと、「これ、渡してあげて」と隣にいた子フィガロに持たせる。子フィガロは言われたことを飲み込むように少々間を取った後、両手に持ったそれをミチルにずいと突き出した。渡す、というより押し付けているように見えなくもないが、ミチルはしゃがんで目線を合わせてから、嬉しそうに破顔して受け取った。
「ありがとうございます。なんだろう……。あっ!」
包みを開いたミチルがぱっと笑顔になる。後ろから弟の手元を覗き込んだルチルも、「わあっ」と嬉しそうな声を上げた。
「猫さんのクッキーだ! かわいい」
「今朝、焼いてきたんです。西の国で見つけたクッキーの型がかわいくて」
お昼のサンドイッチを作っている途中、突然思い至って作ったのだ。予定にないことをしたから来るのが少し遅くなって、太陽はそろそろ一番高い位置まで上りそうである。
「ちょっと早いけど、お昼にしない? 兄様、お腹空いちゃった」
「もう、兄様ったら……。でも、実はボクもお腹が空いてきちゃって」
ミチルがちょっと恥ずかしそうに俯いたところで、ぐぅ、と誰かの腹が空腹を訴えた。晶たち三人の視線は、音の聞こえた方――晶から頼まれた仕事を終え、ただその場に突っ立っていた子フィガロへと集まる。
「ふふ、フィガロ先生もお腹が空いたんですね」
「じゃあ、お昼にしましょう。ボクと兄様でお弁当を作ってきたんです」
「あっ、私もサンドイッチを持ってきました」
晶は魔法でバスケットを取り出し、同じく魔法で大きなお弁当箱を出したミチルと、蓋をちょっとだけ開けて中身を見せ合った。おいしそう、という呟きがぴったり重なって、二人でくすくすと笑う。
場所を薬草園の外の木陰に移し、ルチルが持ってきた敷布の上に四人で円になって座る。日差しが遮られ、心地よい風が涼しく、顔を赤くしていたルチルとミチルが心地よさそうに頬を緩めた。
「はい、どうぞ。このお茶、ここで採れた花を乾燥させて作ったんですよ」
「お花のお茶なんておしゃれですね。……いい香り」
ルチルから渡されたグラスからは、ほんのり甘い花の香りがした。ガラスのポットの中には、花弁の開いた花がいくつもそのまま入っている。
「フィガロ先生にも。はい、どうぞ」
ルチルは子フィガロにもグラスを渡すけれど、差し出された側はサンドイッチに夢中で全く気付いていない。口いっぱいに頬張って、もぐもぐと咀嚼している。出かける準備のために早く起きたら子フィガロも一緒に起きてしまい、いつもより朝ご飯が早かったからお腹が空いていたようだ。
ルチルがフィガロの前にそっとグラスを置き、晶はお弁当に、ルチルとミチルがサンドイッチに手を伸ばす。兄弟が作ったお弁当には卵焼きやタコ型のウインナーなど、晶が教えた日本らしいおかずがたくさん入っていた。懐かしい。
「ボク、やっぱりまだ信じられません。フィガロ先生にまた会えたなんて」
隣に座る、自分よりもはるかに小さい恩師の姿に、ミチルが眉尻を下げる。一瞬、彼の目が潤んで見えたのは、気のせいだったと思っておく。
「フィガロ先生がいなくなって、先生の患者さんを診るようになって分かったんです。やっぱりフィガロ先生って、すごいお医者さんだったんだなって。背が高くなって、体の成長が止まっても、まだまだ先生の背中は遠いです」
子フィガロは自分の前世が話題になっているとなど知らず、ごくごくと花のお茶を飲んでいる。グラスがすぐに空になったのを見るに、ルチルのお茶が気に入ったらしい。
「でも、ルチルから昨日聞きましたよ。ミチルの薬で隣村の子がよくなったって」
「あの子に一番効いたのは、元々はフィガロ先生が考えていた調合で。ボクは途中になっていた配合を完成させただけなんです」
「そんなすごい先生の残した調合を完成させられるんだもん。ミチルだってすごい!」
「兄様……」
自分の力ではないと謙遜するミチルを、ルチルが間髪入れずに誉めた。晶も同じことを思っていたから、何度も大きく頷いてその気持ちを示す。
(ミチルにとって、フィガロはずっと憧れの存在なんだ)
彼がいつも羽織っている白衣も、その気持ちの表れの一つだ。魔女になって再会した時、『これはフィガロ先生の真似なんです』とはにかみながら教えてくれた。
「今のボクを見たら、フィガロ先生はなんて言うんでしょうね」
恩師と瓜二つの子供を、どこか遠くを見るような目で見ながら、ミチルがぽつりとこぼす。
いつも前向きで温かな言葉を紡ぐルチルは、ミチルと子フィガロを交互に見てただ微笑んでいる。晶も、『きっと立派になったって褒めてくれます』なんて薄っぺらいことは言わない。いや、言えない。
すっかりお腹が膨れた子フィガロは、空のグラスを両手に持ったまま、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。それに気付いた兄弟と顔を見合わせ、声を殺して笑いあう。満腹なうえ、こんなに気持ちのいい天気なのだから、眠くなっても無理はない。
小さな手からそっとグラスを抜き取り、晶は自分の膝の上に小さな頭を預けさせる。もぞもぞと座りのいい場所を探して身じろいだ子フィガロは、やがて体を小さく丸めて、晶の膝を枕に寝息を立て始めた。
その寝顔を見ていると、なんだかこちらも眠くなってくる。そよそよと吹く風に眠気を誘われるのは、なにも子供だけではない。
「兄様、見て下さい」
「ふふ、そっとしておいてあげよう」
木陰で眠る晶と子フィガロの姿を、兄弟は微笑ましく見守りながら、薬草の採取を再開したのだった。
ルチルとミチルに会ったのだから、レノックスにも会いに行こう。
思い至った晶は遠出にちょうどいい天気を待って、子フィガロを連れレイタ山脈のふもとへと出かけた。手土産――と呼ぶにはいささか実用的すぎるが――に日持ちのする食料をいくつか携え、いつもよりも少し長い箒の旅だ。
「雲がある方が過ごしやすいよね。この前みたいに晴れてる方が景色はいいんだけど」
晶に抱えられるようにして箒に乗せられた子フィガロは、眼下を過ぎていく荒野を眺めたり、その逆にいつもより近くにある雲を見上げたり、いつもよりも活発に動いている。土と緑ばかりの大地は、北の国から来た彼の目には珍しく映るのだろう。
(目に入ったものに反応することが増えてきたな)
住む場所が変わったからか、南の国での生活が影響しているのか、または他に理由があるのか。そこは定かではないけれど、良い方向に向かっているのは確かだ。日々その変化を間近で見守ることが、今の晶の喜びである。
「今年生まれたばかりの子羊がいるんだって。きっとふわふわだよ」
この前集まった夜に、生まれた子羊が順調に育って一安心だとレノックスが言っていたのだ。もう少し大きくなったら秋まで放牧に出るとも聞いているので、尚更今のうちに会いに行こうと思ったのである。
レノックスが秋の終わりから春先までを過ごす家は、レイタ山脈の麓にあった。山小屋風のこじんまりした家の周囲に、羊小屋や物置など、いくつかの建物の影も見える。緑の大地に点々と落ちる白っぽい塊は、レノックスの羊たちだ。
家の前に降り立って、ドアを叩いて声をかける。人が訪ねてくることが少なく、呼び鈴の類をつけていないのだという。
少し間があって、ドアが内側から開く。現れたレノックスは玄関先に立つ晶と子フィガロを認めると、「こんにちは」と眼鏡の奥の赤い目を細めて笑った。
「こんにちは、レノックス」
「この天気なので、今日あたりいらっしゃるだろうと思っていました」
近々子フィガロを連れて会いに行くと知らせを出していたのだ。旅慣れたレノックスのことだから、晶が遠出に適した天気を見計らって来ることなどお見通しである。
「この前ルチルとミチルに会ったので、レノックスにもと思いまして」
あと、子羊を見せてもらいたくて。そう付け足せば、レノックスは納得したように頷いた。
「どうぞ、会ってやってください。今の時間なら多分、近くにいると思うので」
レノックスはそのまま外に出て、晶たちを子羊の元へ案内してくれた。
草原を広く囲った柵をくぐり、少しの間だけ、レノックスは目を細めて周囲を見回していた。そして迷いのない足取りで、ごつごつした岩が所々に転がるあたり、そこに集まる羊の群れに晶たちを導く。
黒い顔と手足に真っ白な毛をまとった子羊は、土や草に汚れ薄茶色に染まったもこもこの中に混じり、ぴょんぴょんと元気よく飛び回っていた。
「おいで。賢者様とフィガロ先生だぞ」
レノックスの言葉を理解したというよりは、単純に知った顔がやって来て嬉しいらしく、子羊は軽い足取りで近付いてきた。めぇー!と元気に鳴き、レノックスの足に思いきり頭突きを繰り出している。
「大丈夫ですか? 知らない人が来て怒っているのかも……」
「いえ、これは構ってほしいだけです。いてっ」
脛に容赦なく頭突きされて、レノックスが小さく声を上げる。
「分かった分かった。ほら、遊んでもらえ」
「おいで~」
レノックスが子羊を一度ひょいと抱え、晶の方を向かせて地面に下ろす。膝をついて待っていると、子羊は警戒した様子もなくとことこ近付いてきた。頭を撫でてやると晶にぐいと顔を近付け、舐めようとしてくる。
「あはは、舐めちゃだめだよ」
「めぇー!」
「ぅわ、待って待って」
子羊は晶の膝に前足を乗せ、ぐいと首を伸ばしてくる。あまりの勢いに圧倒されていると、にゅっと伸びてきた腕が子羊を抱えあげた。
「こら、そこまでだ。――すみません、人一倍好奇心が旺盛なやつで」
「いえいえ。やっぱり動物の赤ちゃんて」
かわいいですね、と続けようとしたところを、めぇ~っと低い鳴き声に遮られる。レノックスの腕の中の子羊ではない、大人の羊のそれだ。
先に事態に気付いて「あっ」と声をこぼしたのはレノックスだった。
「フィガロ先生が……」
「えっ? た、大変!」
晶が子羊に気を取られている間に、子フィガロは少し離れた場所で大人の羊たちに囲まれていた。敵意はなさそうだが、見慣れない子供にめぇめぇ鳴いている様子は、「なんだこいつ」と訝しんでいるようにも思える。
羊たちに囲まれて、子フィガロは完全に硬直していた。逃げることも頭にないのか、軽く目を見開いた驚きの表情のままその場に突っ立っている。自分の肩ほどまである大きな生き物に取り囲まれれば、当然の反応だ。
そこで晶よりも先にレノックスが動いた。子羊を片腕で小脇に抱え直すと、空いたもう片方の腕を伸ばし、羊の群れの中から子フィガロをひょいと掬い上げる。
「大丈夫ですか? フィガロ先生」
無事救出され、晶のそばに下ろしてもらった子フィガロは、レノックスの声に我に返ったらしい。ぱちぱちと瞬き、自分を助けた大男と晶を順に見上げる。
「ごめんね、目を離したりして」
離れた場所にいたのを見るに、初めて見る生き物が気になって子フィガロから近付いたのだろう。そして警戒され、囲まれ、逃げられなくなった。
もっとちゃんと見ていてあげなきゃ、と反省していると、どん、と体に衝撃がきた。子フィガロが思い切り抱きついてきたのである。
「これは、トラウマを作ってしまったかもしれませんね」
「あはは……」
しがみつく力の強さを考えると、大丈夫だろうとはとても言えなかった。今度羊たちに会うことがあれば、昔のように魔法で小さくしてもらった方がいいだろう。
「家に入りましょうか。ここだと落ち着かないでしょうから」
申し出をありがたく受け入れ、晶は子フィガロを宥めて離れてもらうと、手を繋いでレノックスが生活する山小屋へお邪魔した。
切断面をやすっただけの簡素な丸太椅子を進められ、子フィガロを先に座らせる。自分も、と途中まで腰を落としたところで、手土産があることを思い出した。
「あっ、これ、もしよかったら。放牧に出る時にでも持って行ってください」
「助かります。ちょうど買い出しに行こうと思っていたんですよ」
「準備の途中、でしたよね。すみません、忙しい時に来てしまって」
家の中のそこここに見える荷造りの痕跡に申し訳なく思っていると、レノックスは晶の手土産を片付けながら「散らかっていてすみません」と小さく頭を下げる。
「むしろ、こちらに来ていただいて助かりました。俺も、放牧の前に顔を見に行こうと思っていたんです。フィガロ先生のことも気になりましたし。――どうぞ、座ってください」
なんとなく立ったままでいたところを目敏く見つかって、小さく礼を言ってから丸太椅子に座る。
ほどなくして、レノックスが両手にカップを持ってやって来た。
「以前の先生は好きだったが、どうだろうか……」
フィガロに差し出されたカップには、白い液体がちょっとだけ注がれている。晶も飲んだことがあった。羊乳だ。
ちなみに、晶はレイタ山脈で採れる果物のジュースをもらった。羊乳は苦手だったのである。
晶とレノックスが見守る中、子フィガロは躊躇いもせずカップに口をつけ――。
「あはは、だめだったか」
「だめそうだすね」
表情に出た、というわけではない。顔つきは普段と変わらない。
しかし二口目を一向に飲もうとせず、それどころか押しやるようにカップを前に突き出しているから、口に合わなかったのだろう。
笑いながらカップを受け取ったレノックスが、すぐに別のカップを持ってくる。こうなることを予想して、先に準備していたのだろう。中身はおそらく晶と同じものだ。
「南の国へ来た日に比べて、随分動きが多くなりましたね」
「そうなんです。少し安心しました」
常に一緒にいる晶にですら変化が分かるのだから、数日ぶりにあったレノックスにはさぞ大きな変化に見えただろう。
「晶様の傍は安心できるのでしょう」
「安心、ですか?」
「はい。顔つきも、目も違います」
レノックスは軽率な発言はしない。ここまで言い切るのだから、本当にそう思っているのだ。
(まあ、寝る時は安心してそうだけど)
ベッドが一つしかないので毎晩一緒に寝ているが、いつも晶のお腹にくっついてすやすやよく眠っている。安心できる場所でなければ、確かにあんな無防備な姿は見せないだろう。
「環境が変わったことが、いい影響になっているのかなとは思っていたんですが」
「それは、もちろんあるでしょう。しかし、そのいい影響の最たるものは、晶様の存在だと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「はい」
きっぱり、はっきり肯定されると、これ以上謙遜するのは憚られた。
もらったジュースで喉を潤し、それとなく話題を変える。
「少しずつ、心が動くようになればいいなって思っているんです」
それもあって、色々な場所に連れ出している。目新しいものには、誰だって心が動くものだ。
「それなら、俺が放牧に出る前に釣りに行きませんか。ルチルとミチルも誘って」
「いいですね! 大きな魚が釣れたら、料理してみんなで食べましょう」
「それなら大物が釣れるように、気合いを入れなければいけませんね」
「私も頑張りますよ」
生きて泳ぐ魚を、きっと子フィガロは見たことがない。
初めて見るもの。初めて聞く音。たくさんの初めてを、体験させてあげたい。
さっそく今日の帰りにルチルとミチルに予定を聞いてこよう。特にミチルは忙しくしているみたいだから、全員の予定が合えばいいのだが。
「楽しみだね」
笑いかけると、おいしそうにジュースを飲んでいた子フィガロが、不思議そうな目で晶を見つめ返した。