ただもふもふしてただけなんです!「つ、つかれた……」
談話室の長椅子にぐったりと体を預け、晶は深々と息を吐き出した。
窓から入る夕焼けを見て、今日は一日が早かったなと、数々の出来事を思い返す。
(街に買い出しに行ったら変な人に絡まれて、魔法舎に帰ったらオズとミスラが喧嘩してて。空き部屋が流れ弾に当たったら、そこにしまわれてた呪具が発動して……)
一つ一つは日常茶飯事だが、その全てが一日で起こることはそうそうない。
ようやく一段落して、休憩がてら座った途端ずっしりと体が重くなった。夕ご飯の手伝いに行かなければと頭では分かっているのに、背中が長椅子の背もたれから離れてくれない。
「癒しが、癒しが欲しい……」
「にゃあ」
誰にも聞かれていないのをいいことに、欲望丸出しの独り言を言ったところ、返事をするような猫の声が聞こえてきた。
(猫……?)
首だけ動かして声の方を向けば、細く空いていた談話室のドアを押し開けるようにして、一匹の猫がするりと入ってきた。
灰色にもくすんだ青にも見える、ふわふわの長い毛。体と同じくらいに太い尻尾はぴんと上を向いて、その先だけがぴこぴこと動いている。
「ムル? って、感じじゃないな。魔法舎に来る猫ちゃんでもないし……」
魔法使いは姿を自由に変えられる。ムルあたりが魔法で変化しているのかと思ったが、晶の直感が『ムルではない』と言っていた。上手く言葉にできないが、ムルが変化した猫にしては、大人しすぎる気がする。
突然現れた謎の猫は、とことこまっすぐ晶に近付いてくると、軽やかなジャンプでひょいと晶の膝の上に乗ってきた。
「わっ、人懐っこい」
猫はその場で何度か足踏みをするようにして居心地のいい場所を探すと、手足を折って香箱座りに落ち着いた。晶はまだ何もしていないのに、ぐるぐると喉まで鳴らしている。
「かわいいなあ」
そっと背中を撫でる。ふわふわでぬくい感触に、だらしなく頬が緩んでしまう。
この猫が本物の猫かどうかなど、すっかりどうでもよくなっていた。背中の次は額を搔いてやり、そして晶の指は猫の喉元へと移動する。
ひときわ大きく喉を鳴らし、猫は晶の膝の上でぐでんと寝転がった。規則的に上下するふわふわの毛に覆われたお腹はあまりに魅力的で、晶は背中を丸め、そこに鼻先を埋め、思いきり吸う。
(ああ、幸せ……。癒し……)
猫は身じろぎ一つせずされるがままだ。というか、硬直しているような気がしなくもない。
体を起こし、猫の前足の裏に手を差し入れて抱き上げた。間近で見ると、耳の先の毛が長いのに気付いて、それもかわいいなと噛みしめる。
「ごめんね、嫌だった?」
「ん、にゃ~」
目を合わせると、猫は返事をするようにひと鳴きする。もちろん何を言っているのかは分からない。
「あなたの目、きれいな色してるね。灰色に見えるけど、光の加減で黄緑色っぽくも見えるような……」
言葉にしてから、どこかでそんな色彩を見たような気がした。しかし疲弊した頭で深く考えることなどできるわけがなく、その代わりに晶がやったことといえば……。
「ふにゃ⁉」
さすがに予想外だったのか、猫が驚いたような声を出す。
晶は長椅子のひじ掛けに猫を下ろすと、背中にぐりぐりと額を押し付け、空いた手で頭としっぽの付け根をそれぞれ撫でまわした。
「いいこ、いいこ……」
柔らかな背に覆われた背中に鼻を突っ込み、再び息を吸い込む。先ほども思ったが、この猫は猫らしい匂いがしない。薬草と消毒液の匂いがする。
(……ん?)
突然、頭の中で何かが繋がった気がした。顔を上げ、そのつながりを手繰り寄せようとしたろで、「賢者?」と後ろから声が掛かった。
「こんなところにいたのか。そろそろ夕食ができるとネロが……」
「あっ、ファウスト」
部屋に入ってきたのはファウストだ。晶が振り返ったところで、とても嫌なものでも見たようなひどい顔をされた。
「えっと、なにか?」
「その猫……」
ファウストが訝しげな顔でひじ掛けに鎮座する長毛の猫を指差した。
「さっき談話室に入ってきたんです。すごく人懐っこくて、たくさんもふもふさせてもらいました」
乱れた前髪を手で直しながら答えると、ファウストはやれやれと肩を竦め、帽子を目深にかぶる。
「非常に言いにくいが、その猫は猫じゃないよ。フィガロだ」
「へ?」
「ファウスト、ここは空気を読むところじゃない?」
はっと隣を見れば、くたびれた様子のフィガロが座っていた。
髪は強風の中を歩いてきたかのようにぼさぼさで、白いシャツは皺だらけで襟も乱れている。そしてなぜか頬は赤らみ、うっとりと細められた瞳は熱っぽく晶を見つめていた。
「フィ、フィガロ⁉」
「全く、あなたは何をやっているんだ」
「賢者様がだいぶお疲れみたいだったから、猫の姿になって癒してあげようと思ったんだよ。でもまさか、きみがあんなに情熱的に俺を求めてくるなんて」
ちょっとびっくりしちゃったよ、と話す声は吐息交じりで妙に色っぽい。
「……きみ、一体何をしたんだ?」
「べ、別に何もしてないですよ⁉ ただちょっともふもふさせてもらっただけで」
「寂しいこと言うなあ。俺のあんなところやこんなところに顔を埋めて――」
「わー! フィガロ、何言ってるんですか⁉ 誤解です、誤解ですファウスト! 私はただ猫に癒されていただけで! 決してやましいことは!」
顔が熱いのに、頭から血が引けていく感覚がある。今の自分の顔は赤いのか、青いのか、晶には分からない。
晶の必死の弁明は、見かねたファウストが宥めるまで続いた。
それからしばらく、魔法舎の中庭では、遊びに来た猫に「もしかしてフィガロですか?」と確認して回る晶の姿が見かけられたのだった。