同じ月 ビルの自動ドアをくぐり外に出ると、予想よりも肌寒い空気が半袖から伸びた腕や首筋を撫でた。もう今年も九月が終わる。所狭しと建ち並ぶビル群の照明と、そのビルの間を縫うように走る三車線の道路や首都高を行き交う車のライトに照らされた都会の夜は、煌々と明るかった。
深津は左腕にはめたスマートウォッチで時間を確認し、道路に面した歩道まで歩きながら車の流れを注視した。
「深津さーん!」
ちょうどタイミングよくタクシーが流れてきたのを片手を上げて捕まえたところで後ろから声を掛けられる。振り返れば、先ほど深津が出てきたビルの出入り口から黒いキャップにマスクをした長身の男がこちらに向かって走っていた。
「一緒に乗って良いっすか?」
「沢北…お前、次予定があるって言ってただろ。」
「え?そうでしたっけ?…あ、東京タワーまでお願いします。」
深津を後部座席の奥側へと押し込みながら、沢北が手前の席に乗り込む。ちゃっかり行き先を運転手に伝えると、黒のスキニーパンツのポケットからスマートフォンを取り出し画面を操作し始めた。
「お前…」
「良いじゃないですか、どうせこの後の飲み会そっちの方でしょ?行く前にちょっと付き合ってください。」
深津は諦めたように溜息を吐いた。そのまま何も言わず沢北と反対側を向いて、走行音とノイズ混じりのラジオの音をBGMに、目的地に着くまで窓の外を流れていく夜の街並みを見つめていた。深津は窓の方に顔を向けたまま、時折そこに映った沢北を見遣った。沢北は、落ち着いた表情のまま車の進行方向を向いていた。それは深津の記憶の中の沢北よりもぐっと大人びて精悍な顔つきだった。
オレンジ色にライトアップされた東京タワーの麓が近づいてきて、展望台への入り口がある場所から少し離れた場所で沢北はタクシーを停めた。
「払います。」
「良い。」
そう言った深津は財布から取り出した個人用のクレジットカードを切り、2人でタクシーを降りた。沢北は東京タワーの展望台の方へと歩き始め、深津はその横に並んで歩いた。
「涼しいっすね。」
「九月ももう終わりピョン。」
確かに。なんて笑って言った沢北が、展望台の入り口の前を通過する。深津は何も言わずに沢北に合わせて歩いた。
眩しいくらいの東京タワーとは反対に、暗闇に黒っぽく草木が生い茂る公園に沿って伸びる歩道を、沢北はテンポ良く進んで行った。少し歩くと、歩道が2本に分かれてその片方に公園の中へと続く砂利道が広がる。空を覆い隠すような背の高い木々が並んだ遊歩道を歩きながら、次第にお互いの輪郭が暗い夜道に溶けていくようだ。
公園の中は街灯が少なく、曲がりくねった遊歩道に時折橙色のそれがぼんやりと佇んでいるだけだった。
「何年ぶりっすか?深津さんと会うの。」
公園沿いの歩道と違って公園内は殆ど人の姿がなかった。一人、二人とすれ違ったきり、周りに人がいなくなると沢北は、何でもないことのように話を始めた。
深津が何も答えないでいると、沢北は「ねぇ?」と深津の顔を覗き込む。深津はそれを鬱陶しそうに顔を顰めてから、仕方がないように言った。
「6年ぶりピョン。」
「俺が渡米して以来ですね。」
じゃりじゃりと二人分の足音が不規則に鳴っていた。
「俺、結構こっちに帰ってきてたんすよ。」
「うん。」
「深津さんたちが大学は東京の方来るって聞いて、毎回こっちの方で集まってたんです。」
「うん。」
「俺も最初はそんなに帰って来てなかったけど、二十歳になったときは一回帰国して、松本さんとか河田さんたちにも祝ってもらったんですよ。」
「うん。」
「プロでやり始めてからも、仕事でちょいちょい帰ってきてて、」
深津は沢北の顔を盗み見るも、深く被ったキャップの鍔の影に隠れて表情はよくわからなかった。
「日本代表に選ばれた深津さんとも、一緒の仕事のオファーとかあったんすよ。」
「全部、知ってるピョン。」
時折、木々の隙間からライトアップされた高層ビルが覗き見え、その内の一つの壁面に貼られた広告看板が目に止まった。有名スポーツブランドのそれは、数年前に日本人で2人目のNBA選手となったバスケットボールプレイヤーをモデルに起用したもので、写真の中の彼はモノクロのスポーツウェアを嫌味なほどスタイリッシュに着こなしていた。
「…嘘つかないで答えて欲しいんですけど、」
看板の写真と同じ人物とは思えないほど弱気な声で隣の男が言った。
「避けてましたか?俺のこと。」
斜め下から見上げた沢北は、深津の方を見ないまま、その足元を見つめていた。
「そんなことないピョン。」
深津も瞼を伏せた。
「お前にも日本代表チームの話は来ていたはずだろ。そこに参加してたら、もっと早く俺と顔を合わせていたピョン。」
「そうですけど…あのときは、向こうでのキャリアを優先したくて。」
「だったら、仕方ないピョン。」
「…そうですね。」
沢北は口ではそう言いながら、全く納得がいっていないと全身で訴えていた。深津は何も言わずに、沢北の横顔を一瞥した。
つくづく、沢北は綺麗な男だった。薄暗い夜道でキャップを目深く被っているとはいえ、その横顔は完璧なシルエットをしていた。鼻根は高く、目頭あたりから鼻筋が真っ直ぐ伸びて、先は嫌味なほどツンと尖っていた。薄い唇に覆われた口元は控えめで、小さな顎も上品なラインを描いている。アーモンド型の二重瞼と、そこに収まった黒目がちな瞳は妙に光を集めていつもきらきらと輝いていた。
絶妙なパーツたちが、驚くほど小さな顔の上で完璧な配置にあって、この沢北栄治という男の顔を作り出している。
誰かが言い出した、“山王工業高校バスケ部はじまって以来の二枚目”の異名は伊達じゃなかった。小さな田舎町で沢北並みの男前はなかなか見ない。県大会、延いては全国レベルの大会に参加した先でも沢北の容姿は引けを取らず、加えてバスケの技術力も高校一年生の頃から頭一つ抜きん出ていた。見栄えのする容姿と会場を味方につける圧倒的なプレーを持ち合わせ、観客から他校の選手やマネージャまで、あちこちであらゆる人々を魅了していたのを深津はよく知っていた。
深津は沢北に気付かれないよう、そっと溜息を吐いた。
聞こえるのが砂利を踏む音だけになり、しばらくして少し湿っぽい風が二人の間を抜けた。
「そういえば、」
沢北が思い出したと言わんばかりに突然、口を開いた。
「今日の撮影で一緒だったあのモデルの子、絶対深津さんに気がありましたよ。」
昨今、日本も空前のバスケブームが到来し、ファッション雑誌の企画で男子バスケの全日本チームの特集ページが組まれた。そこに沢北と深津が呼ばれ、今日は昼からその撮影があった。
「連絡先、聞かれたりしませんでした?」
現場で初めて顔を合わせた雑誌の専属モデルという女性は、深津よりも一つか二つくらい年下で、撮影が始まる前に深津のもとへ挨拶に来てくれた。明るい声で溌剌と話す彼女は撮影用のメイクが施された整った顔に笑顔を浮かべ、当たり障りのない世間話をした後、よろしくお願いします。と礼儀正しくお辞儀をしただけだ。それを、いつの間にかスタジオに入ってきた沢北が深津の後ろからにゅっと顔を出し、彼女の注目を深津から掻っ攫っていったのだ。
深津の後ろに立つ男に気がついた彼女の目の奥に、明らかなハートマークを認めて深津は、何も言わずにそっと席を外した。
「よく言うピョン。」
そういえば、最近SNSで話題になっていた海外のスポーツメディアの記事で、一般女性たちのアンケートにより集計された「抱かれたい男ランキング 〜スポーツ選手部門〜」に、沢北の名前が並んでいたことをふと思い出す。
深津は鼻で笑いながら空を見上げた。鬱蒼と空を覆い尽くしていた木々にそこだけぽっかりと穴が空いていて、ちょうど雲の中にいる月が朧げに空に浮かんでいた。深津はあたりを見回し、近くのベンチを見つけてそこへ腰掛けた。沢北は突然隣からいなくなった深津をきょとんと見ながらも、後に続いて深津の隣へと腰を降ろした。
「あれ、疲れました?」
深津の顔を覗き込む沢北を、深津はじろりと睨んでその肩を拳で一突きした。
「いって!…強いんすよ、昔から…。」
「お前も昔から生意気ピョン。」
ぶつくさと文句を言う沢北を全て無視するかのように、深津は平然と応えて空を見上げた。
「今日は、中秋の明月ピョン。」
「ああ、そっか。お団子、買ってくれば良かったですね。」
「残念ながら、曇に隠れてるけどな。」
深津はベンチの背凭れに寄りかかりながら腕組みをした。沢北は膝に肘をつき、脚の間で両手の指を組んで前のめりの姿勢で、深津を振り返る。
「懐かしいですね。山王だと食堂の人たちがお団子作ってくれて、一緒に食べましたね。」
「俺がお前の分も横取りしたら泣いてたピョン。」
「ありましたね!深津さん、食い意地すごいんだもん…俺、しょっちゅう深津さんにアイスとかプリンとか取られてたなぁ。」
「好きな子は、からかいたくなるピョン。」
「ははっ!何それ!あははは!」
沢北は声をあげて笑い、背中を丸くした。項垂れるように下を向いたまま、肩を揺らした。そしてひとしきり笑い終わると、力が抜けたように溜め息を吐いた。
「何だよ、それ…。」
笑いを含んだようなその声は、語尾が震えていた。
遠くの方で、車の走る音が聞こえる。深津は何も言わないまま、沢北の丸まった背中を見下ろした。
大きな背中だった。今深津の隣に座る沢北は、高校の頃の彼よりも一回り以上大きな背中をしていた。物理的にアメリカでウェイトをあげたこともあるが、そういったことでフィジカル面の弱点を補ってきた努力だとか、それは一朝一夕にはいかないトレーニングの積み重ねの結果であるとか、これまで会わずにいた時間の経過だとか。そういうものが、彼の背中からは滲み出ていた。
突然、沢北は勢いよく身体を起こした。そうかと思えば眉間に皺を寄せ、大きな瞳で深津を睨みつけていた。
「俺がアメリカ行くとき…深津さんから、別れようって、言いましたよね?」
沢北はいつもの話し方よりも、ゆっくりと話す。語気が強まるのを必死に堪えているようだった。
「…藪から棒に、何だピョン。」
深津は驚いた素振りもせず、まるで沢北にこの話をされるのがわかっていたかのように穏やかに応えた。
「俺、絶対嫌だって言ったのに、すげー喧嘩して決めたじゃないですか。」
「…結局殴り合いになって、最後は河田に止められたピョン。」
深津は相変わらず平坦な口調で言った。動かない表情からは何も読み取れず、それは懐かしんでいるようにも、呆れているようにも聞こえた。
「アメリカへ行く前に、お前とは絶対に別れておきたかったピョン。」
沢北は深津に視線を縫い留めたまま、鼻から息を吸い込んだ拍子に顎を引く。小鼻の横をひくりとさせながら、あの日深津の胸ぐらを掴んだ、ぎらぎらと光る目で彼を射抜かんとばかりに睨み上げた。
「俺、今も深津さんのこと……好きなんです…」
絞り出した声は、震えていた。
「ずっと好きなんです…ずっと。今も昔も、深津さんが一番好きなんです…っ」
見る見るうちに、沢北の下瞼に水膜が張っていく。ゆらりと揺れる水の玉に光が反射して、沢北の瞳だけ夜の闇の中で切り取られたように強烈に映った。
「…勝手に無かったことにしないでよ、俺のこと…。」
パタパタと沢北の膝に雫が落ちる。
その様子を、深津はじっと眺めていたが、やがて顔ごと視線を上へと向けた。ぼんやりと照らされた雲が、月の表面を滑るように流れていく。先程までそれなりに大きな雲に隠れていたと思っていた月が、あっという間に顔を見せた。
オレンジ味の掛かった淡い黄色をした満月は、なだらかな曲線で、完璧な円を描いていた。暗闇の中で輪郭まではっきりと浮かび上がる月は、まるで鋏で切り取って夜空に貼り付けた、少し不自然な絵のようだった。
山王にいた頃に見たそれは、どうだっただろうか。
高い建物もビルの明かりにも遮られない場所で、いったいどんな月を見ていただろうか。
深津は頭の中の記憶を辿るも、思い出すのは、下らない話で騒いだチームメイトたちの笑い声と、団子を食われたといつまでもメソメソと泣く可愛い泣き虫のことばかりだった。
「はぁ——…。」
深津が上を向いたまま、深い溜息を吐く。
腹の底から全てを吐き出すようなその溜息に、沢北はびくりと肩を揺らした。
沢北は鼻水を啜りながら、深津の腹の辺りに視線を落とす。そのまましばらく、深津の顔を見ることができなかった。
沢北は体感で随分と長い沈黙を、まるで死刑囚のように待った。
早くこの苦しみから逃れたいと思いながら、決定打を下されるのはやはり怖くて、その場から動けなくなってしまうような最悪な心境だった。
深津を好きでいる気持ちを消すこともできず、伝えてしまった思いを引っ込めることもできず。
ただ、待つだけしかできなかった。
「沢北。」
「はい…。」
深津に乾いた声で名前を呼ばれて、殆ど反射的に沢北は返事をした。身体が勝手に反応して顔まで上げかけたが、それは何とか踏みとどまる。
「山王でお月見したとき、どんな月だったか覚えてるピョン?」
沢北は迷った挙句、結局ゆっくり顔を上げてしまう。隣で空を見上げる深津の横顔を見つめるも、こちらを向いてくれる気配はなかった。
沢北も上を向く。そこに広がるはずの空は木々に遮られ、ちょうど良く空いた枝葉の穴から見えた満月を眺めた。
「…もうちょっと明るかった気もしますけど…俺、月がどうだったかあんまり覚えてなくて。」
深津がゆっくり沢北の方へと顔を向けた。深津の艶やかな黒い瞳と目が合い、沢北はわずかに身体を緊張させる。
「…深津さんのことばっか…見てたんで…。」
深津が目を見開いた。
沢北が顔を俯かせた所為で彼の表情は深津から見えなかったが、代わりに形の良い耳がほんのり赤くなっているのは丸見えだった。
「…ふ、」
吐息を漏らすような笑い声が聞こえた。
今度は沢北がきょとんとした顔で、恐る恐る深津の方を振り返る。弓形に口角を上げた口元に拳を当てる深津と目が合った。
目尻を下げて柔らかく笑うその顔が、いつもより幼く見えた。
「深津さん…?」
沢北は大きく高鳴る鼓動に泣き出したくなるほど胸が締め付けられ、息ができなくなりそうだった。
「…本当に、お前はバカだピョン。」
深津が微笑みを残したまま、ぽつりと呟いた。
少し冷たい風に乗って、ころころと虫の音が寂しげに鳴り響く。
「せっかくアメリカまで行って夢を叶えたのに、好きになる相手を間違えてるピョン。」
微笑んでいるはずなのに、その顔は涙を堪えているようにも見えて、気付いた瞬間、沢北は深津に両腕を伸ばしていた。
片手を深津の頭に添え、反対の腕を深津の腰に回して力一杯自分の方に抱き寄せた。
身体ごと沢北にしなだれかかり、頬をその肩口に押し付けながら、両目をこれでもかと開いた深津はワンテンポ遅れて状況を把握する。
「沢北、」
焦りの滲んだ深津の声を、沢北が遮る。
「間違えてませんよ!」
沢北は真っ直ぐ前を向いたまま、静かな公園に不釣り合いなほど大きな声で言う。
「深津さんのことが好きなのに、間違えてるってなんですか?」
「沢北、声。」
深津が嗜めるように静かに言っても、沢北は止まらなかった。
「バスケすげー上手くて、仲間思いで、優しくて、世界で一番格好良いのに!」
「沢北。」
「それが間違ってるわけ…!」
「声がでかいピョン…!」
沢北の腕の中で深津が身動ぎ、何とか手を伸ばして彼の口元を押さえた。
静止した沢北の目の前には、深津の顔があった。その瞳は珍しく揺れていた。
深津が身動いだ拍子に宙に置き去りにされた片手で、沢北は再び深津の頭に触れる。そのまま滑るように節くれだった指が米神を降りて、深津の頬を撫でた。
沢北が切なげに目を閉じる。沢北の口元を押さえていた深津の掌がゆっくりと外される。
「…俺が勝手に好きなんです。」
沢北が、今度は二人にしか聞こえないくらい静かな声で言う。
「それすらダメなんですか?」
「…ダメだ。」
目を開けた沢北は深津の顔をじっと見つめた。
「何で?」
その声は優しく、まるで怖がる小さな子供を宥めるような柔らかな音をしていた。
沢北は親指で深津の頬をすり、と撫でて、その丸い瞳で深津を覗き込む。
「沢北。」
深津は眉間に皺を寄せて、勘弁してほしいとでも言いたげに彼の名を呼んだ。しかし沢北はそれに応じなかった。
「離れろ。誰が見てるかもわからないんだから。」
「いいよ、今更。誰に見られたって。」
「沢北…!」
深津は低い声で沢北を咎めた。
沢北は今や、世界的有名人だ。見る人が見れば、これは金になるスキャンダルな光景に違いなかった。
最早彼は、ただバスケをしていれば良いだけの男ではないのだ。様々な企業と契約を結んでいる以上、公私ともにクリーンなイメージと、社会的な信頼が求められていた。
「じゃあ、この手を振り払って?」
沢北はゆったりと、優しい口調で言った。
「俺のことが嫌いなら、殴っても良いから…」