花は葉に蜜嗅ぐ繁華キミ想う***
暑い。首まで覆う服の中がむしむしとしている。じり、と真上から照らす太陽につい、昨日はあんなに肌寒かったのに、と零せば「ここの初夏とは概してこんな具合さ」と隣を歩くナデシコさんが笑った。
歩きながら目を遣れば、少し前までピンク色の花をつけていた桜の樹が、今はどれも緑色の若葉をつけている。鮮やかな緑に目を奪われつつも、ところどころに少しだけ残っている花が、なんとなく物寂しい。喧騒に紛れて一瞬だけ、そんな気持ちがよぎる。それはマイカの里が沈み、マイカとブロッサムの文化が混ざりあって変化していく様に少しだけ似ている……ような気がした。雑念を払いながら、所謂並木道を通り、多くの店が建ち並ぶ大通りへと向かう。
「シキ、今日は私に付き合ってくれないか」
一時間前にそう言ってボクを連れ出しにきたナデシコさんが目的とする店は、この賑やかな街の中でも特に人が賑わう大通りのエリアにあるらしい。なんでも、知り合いの店に届けものがあるのだと。その届けものは小さな小包みで、決してナデシコさんが持てないようなものではないのに、同行としてボクが選ばれた。(よく考えれば、ボクは荷物持ちに選ぶ人材としては、多分、あまりに不適任だ)
「たまには君と一緒に息抜きでもどうかと思ってね。――おっと、私と一緒では息抜きにならないかな?」
「い、いえ、そんなことは……」
「そうか。じゃあ決まりだ」
からりと笑ったナデシコさんは、十分で支度しておいでと言い残して、ボクの部屋を後にした。
そうして、今に至る。
角を曲がり大通りに面した途端、一際増えた人の多さに圧倒される。思わず「わ……」と漏れ出た声は存外大きかったらしく、「大丈夫か?」とすかさず心配されてしまった。上手く言葉が返せずに、ただ小さく頷く。
ふと、花の香りとは違う甘い――そう、とてつもなく甘ったるい香りが漂ってきた。思わず真横の店を覗くが、そこはそんな香りとは縁遠そうな眼鏡屋だ。香りの強さから目の前にある店だろうと思ったのに、どうやら違うらしい。
「こ、この……甘い匂いって……」
「ああ、恐らくシロップの……あの店からだな」
ナデシコが指差したのは、進行方向へ三店舗ほど先の店。往来の人の隙間から見えた立て看板には、所謂どら焼きと呼ばれる形状のものに上からなみなみと注がれるシロップの写真。写真に添えられた「どら焼きがシロップの海におぼれる!!」という見出しに嘘はないようで、あんこやクリームを挟んでいる生地部分にはしっとりとシロップが染み込んでおり、下側の生地は半分以上がシロップに浸かっている。成程、三店舗先からでも甘い匂いがするわけだ。
「ブロッサムで最近流行りのスイーツだそうだ。歌姫さんが言っていたよ」
「はは……スイさんも、だし……ルークも、好きそうだね……」
「ハハハ! そうだな、今度また二人で食べに来たらどうだ?」
「か、勘弁してよ……!」
からからと笑うナデシコさんに、ボクが食い気味に言い返すのにも訳がある。だって、
「た、ただでさえ、この甘い匂いで、この間食べたパンケーキのこと、思い出してたのに……」
だって、それはほんの数ヶ月前のことなのだ。
「このパンケーキ店は世界各地にチェーン店があって、エリントンにも出店しているんだけど、なんと!ミカグラ限定で三十種類もあるシロップがかけ放題なんですよ!!!!」
思い立ったが吉日と、有給休暇を使いミカグラ島へ来たのだという彼の目的はあまりにも明白だった。オフィスナデシコに明るい声が響く。
「ルーク悪いな、私は急ぎの仕事がと〜っても立て込みまくっていてな。ああ、シキなら、丁度昨夜仕事が一息ついたところだ。なあシキ?」
「えっ」
「そうなのかい、シキ!」
「あっ、あの……」
「それにシキ、お前この二日ほど固形物を何も食べてないだろう」
「えっ! そうなのかい、シキ!?」
「ナ、ナデシコさ……」
真実とはいえ、なんて情報をルークに与えてしまうのか。彼女に問うのは野暮というもので、心配半分、面白がっている半分と言ったところだろう。
言われた後の静止は時すでに遅し。「シロップ三十種プランは二名様からなんだ!」と同行者を探していたルークにはより好都合、不摂生に対しての心配も相まって、そのままあれよあれよという間に山盛りのパンケーキとシロップの海が広がるテーブルの前に着席していたのだ。(シロップかけ放題が不摂生でないかどうかの討論はされる余地が無かった)
そういえば、その時期ワールドツアーで丁度ミカグラ島を離れていたスイさんに、帰国後あらゆる意味でとてつもなく羨ましがられてしまったのは、また別の話。
「あ、あんなの……食べたことなかった……はじめて」
漂うシロップの香りに、あの日のことを思い出さずにはいられなかった。おかげで香りだけでお腹がいっぱいになりそうだ。
「そうかそうか。しかしあの日の君、帰ったあともなかなか楽しそうな顔をしていたぞ」
「そ、それは……まあ……」
当分甘味はいらない、と心に決めたものの、相手はあのルーク・ウィリアムズなわけで、食事中ボクに無理のないように気遣ってくれたし、大半は彼が好きなように頼み好きなように食べ尽くしたのだ。まだ不慣れな外出ということもあり行く前に抱いていた不安はどこへやら、会話も彼がリードしてくれて、久しぶりに会ったというのに、終始心地の良い時間が過ごせたのだった。
「ふふ、なんだ、シキはルークのことを甘いものに目がない犬とでも思っているのか?」
「そ、そんなこと……!」
と一旦否定を切り出したものの、受け止めてみればそう思っている節もあるかもしれないと思ってしまい、語尾が弱まる。でもそんな愉快な比喩表現じゃなくて、もっと、
「ル、ルークのことは……」
すぐ、言葉が出てこなくて詰まる。彼への感情と気持ちを一言で表すことは、とても難しい。だってボクの人生の中で、彼に触れる時間はあまりにも長かった。
初めはハスマリーで、自分が赤ん坊で彼がヒーローだった頃。次はファントムと出会ってから、AAAとして情報収集のために彼を監視していた。それから、シキとして彼の前に現れて、今に至る。直接会った期間はとても短いけれど、一方的に知っていた期間としてはなかなかのものだと自分で思う。そのなかで一番に抱く感情は――
「ル、ルークには……本当に、感謝してるんだ……」
「ほう」
「だ、だって、彼がいなかったら……彼がボクと繋がってくれなかったら、今のボクはいない、から……」
皆を裏切ったボクを彼が見つけてくれなければ。真実を知ってなお、一度は振り払ったその手をもう一度差し伸べてくれなければ――ボクは、彼らやボクの家族と繋がることは出来なかっただろう。繋がっていた絆があったことにだって、気付かないままだっただろう。
「ルークは…………」
ひとりぼっちでいるボクに、いつだってアナタはその手を差し伸べてくれたのだ。
「ボクに、光をもたらしてくれた人、だよ……」
「ふふ。シキ……お前、ルークのキザがうつったんじゃないか?」
「え、ええッ……! それは……やだ…………」
「あっはっは! そう言ってやるな。ルーク自身はきっと喜ぶぞ」
そんなつもりは無かったものだから、ナデシコさんの笑い声にどう切り返したものかと思考がぐるぐる回る。回った末に、もう一度この間のパンケーキ店でのことを思い出す。
「で、でも、なんだかまだ不思議なんだ」
「不思議……というと?」
「か、監視していた頃は……ルークのこと、知ってはいたけれど距離はあったわけで。直接会ってから、知っていたはずなのに、知らないなってことが多くて……情報として知っているはずなのに、目の前でルークを見ていると、知っている情報だけじゃないって感じるというか……」
思った先からぽろぽろと言葉が溢れてしまい、上手く伝わっただろうかとナデシコさんの顔を伺う。途切れ途切れに紡いだボクの言葉の切れ目を察して、彼女は一度ウンと頷いた。
「処理された情報から得られるものと、直接接して感じるものでは些か違うものさ。人と交わり合う、人と繋がるとは、そういうものだと私は思うよ、シキ」
「そ、そっか……じゃあ、」
じゃあ、単純に、もっと知りたいと思った。直接会って、接して、話して、そこからしか知ることの出来ない彼のことを。
「今度ルークが来たら、一緒に行ってみようかな。おぼれどら焼き……」
「ふふ、そうしてやるといい」
その言葉に安堵したボクの口元が緩む頃には、シロップの香りはもう遠くなっていた。
そういえば……と赤信号を前に止めた足の傍らで気付いて問う。
「ナ、ナデシコさん……そのお知り合いの店、って、車で行けばよかったんじゃあ……?」
「おや、私と一緒にいる時間は短い方が良かったか? 水臭いじゃないか、シキ」
「え、えっ? いや……そんなつもりじゃ」
確かに車の方がすぐに目的地に着いたのではと思ったが、それは一緒に過ごす時間が短い方が良いという意味合いでは無かった。あくまで、時間や体力の節約になったのではないかとかという疑問からの問いだったので、ナデシコさんの思わぬ返しに上手く言葉が紡げずにわたわたと焦る。その様子を見たナデシコさんの口元が緩む。
「あはは。分かっているよ。照れ隠しとはいえ少し意地の悪い問答をしてしまったな、すまない」
「て、照れ隠し……?」
真意の読めない言葉をオウム返しすると、そうさ、と深い藍色の瞳がボクを真っ直ぐに射抜く。
「私もまた、君と繋がれた絆を大切にしたいと思っている者の一人ということさ」
そう言った彼女の笑顔は眩しく、花が咲いたようだと思った。数秒前の射抜く視線とはまた違う感覚に、心臓が跳ねた。肩越しの信号が、パッと青に変わる。
「さあ行こうか、シキ」
呼ばれた名前に頷いて、目的の店を目指してまた喧騒の中を歩き始めた。
おしまい
***