いつもどこかで朝がくる欲しいものがなんでもある、そんな歌のワンフレーズにも使われているシャンゼリゼ通りで、一人のパリジャンがスタンドでカフェオレを注文していた。しかし彼をパリジャンと形容して良いのか甚だ疑問である。なぜなら彼はパリであるが、マルセイユでもあり、リヨンでもあり、トゥールーズでもあり、と挙げればキリがない。
「フランスさん、この時間にここにいるなんて珍しいじゃないか」
「やあリュカ。ちょっと気分が乗らなくてストライキ中」
「え、今日のストライキ予定表にエリゼ宮って入ってた?」
「参加者1名ってね」
後ろに並んでいた男に『フランスさん』と呼ばれた男はそう返してウインクをした。そして注文していたカフェオレを手にとって、シャンゼリゼ通りに消えていく。
フランスさん、というのはあだ名でもなく比喩でもなく、そのままの意味だ。それ以上でもそれ以下でもない。まさしく、フランスという国がそっくりそのまま人の形を取っていた。ついでに言えば感情もあるし、政の部分とは別に人としての自我もある。
文章にすればするほどよく分からない生態だが、この世界にはそんな不思議な奴らがそこそこたくさんいる。
そしてフランスは今絶賛、人としての感情を持て余していた。胸の奥底がモヤモヤしているのを抑え込みながら、カフェオレを一口飲んで店を外から物色する。こういう気分の時は買い物に限る。自分を一番美しく見せてくれる服や、あるいは美味しいものを食べればきっとこの気持ちも晴れるだろう。
これ見よがしにそそくさと歩いていたフランスだったが、行きつけの紳士服の店で立ち止まった。店先に並んだ新色のクラバットに、ふと恋人の顔が過ぎって、それから頭をぶんぶんと振った。何故ならフランスが今日半ば強引に仕事を休んだ理由はその恋人のせいだったからだ。喧嘩など日常茶飯事の恋人なのだが、今回ばかりは思わず喧嘩をふっかけるの体力さえ残らなかった。ついでに労働する気力も残らなかった。
きっかけはなんてことのない、自分との予定よりも他の誰かとの予定を優先されたことだった。
フランスもそして恋人も、住む国は違えど同じ立場にいるため多忙なのは承知の上だ。だから、一々デートの日が潰れたぐらいでぐちぐち言うつもりはない。
しかし8月の間は毎年、少しだけ特別だった。暗黙の了解で、フランスの誕生日を二人だけで祝う日を設けていたからだ。
彼の元弟の誕生日からすぐなのもあり、恋人はそちらには血反吐を吐いて這ってでも出席する。しかし、7月14日は体力の限界がくるようで、毎年来ないと分かっていながら用意している彼のために席も空だ。
とはいえ最近では随分とマシになったのもあり、2週間弱で仕事に復帰しているそうだが、それでもフランスの誕生日にはかかってしまう。だからこそ、8月に万全の状態で二人きりで祝うのが恒例になっていた。勿論、恋人は素直じゃないし、フランスも自他共に認める天邪鬼であるため、双方とも表立っては言わない。ただ、どちらからともなく連絡を入れてそれとなく予定を合わせ、その日を毎年そわそわして待っていた。
待っていた、のだ。ただ、それはフランスだけだった。
今年は8月の予定の電話が無かったため、フランスは先日メールでそれとなく探りを入れた。その際に、恋人は驚くほどあっさりと「時間がない」と返してきた。
『8月はあいにく先約が多くてな。兄上との食事会、中旬にはアメリカとカナダがこっちきて、それからすぐに俺の方が日本の家で厄介になる用事もあってな。』
『あっそう。忙しいんだ』
『ああ。そっちだって何かとこの時期は忙しいだろう。体には気をつけて、ってこれは皮肉だからな』
それが今朝のテキストの内容だった。まさか百戦錬磨の己が電子の文字だけで袖にされる日が来るとは。
そう強がってみたが、愛の国だのなんだのと嘯いておきながら、結局その愛とやらは振り向いて欲しい唯一のひとには何も届いてないのだ。そう一度でも思ってしまうと、なんだかどうしようもなく虚しくなっていく。いつもなら嬉しく思うような体を気遣う一文すら、上手く飲み込めなかった。
なんだかんだで恋人は人気者だ。パーティーの真ん中にいなくても、端っこでいつも誰かと楽しそうにしている。そんな男だ。パーティーの真ん中にいても、誰とも喋っていない自分とは大違いだ。
いつの間にか、追いかける側になっているなんて──それは彼が敵から友好国へ、幼馴染から恋人の関係になったとて──死んでも認めたくなかった。ここで素直に「寂しい」と言えたなら、可愛げもあったのだろう。まあそんなことはごめんだが。可愛がられたいわけではない。
そこまでぐるぐる考えていたフランスは、怠そうに艶やかなブロンドをかきあげた。
恋人に似合いそうなクラバットを見ただけでこれだ。ああ、嫌だ嫌だ。入れ込んだってなんの良いこともないと分かっているのに。期待をすればするほど、裏切られた時に傷つく。なるべく期待しないようにしているが、なまじ積年の想いが叶ってしまっているばかりに「もしかしたら」という淡い思いを抱いてしまうのだ。
──と、こんな風に頭の中でぐるぐると考えてしまうのも良くない癖だ。やめよう。
フランスは無理やり気を取り直して、通りを歩いていく。
まったく、今日は無駄遣いしてやる!
「…………ん?」
そう張り切ったフランスであったが、小さく泣き声が聞こえてきた。自分の心の声かと思っていたが、実際に耳から聞こえてきていることに気づく。最初は啜り泣くようなものだったが、だんだん大きくなっていった。
いや大きくなっていくのではない、自分がその音の元に近付いているのだ。
「うっ、ぐす……っ」
よく見ると道の先に、暗い金髪を三つ編みにした少女がいた。少女はテディベアをギュッと握りしめて泣いていた。明らかに子供だ。近くに親はいるのだろうか。フランスは周りを見渡したが、目につく範囲にいる様子は無かった。
平日の昼、観光客と地元住民でそこそこに混んでいる大通りの真ん中で立ち尽くして泣く少女。明らかに異質だ。フランスは迷い無く、その少女の方へと向かった。
「Bonjour, mademoiselle」
「っ、ぼ、Bonjour……」
「Il vous est arrivé quelque chose de triste (何か悲しいことがあったのかい?)」
「あ……あ、あー……じゅっ、Je ne parle pas……français……(私、フランス語が話せなくて……)」
不安そうにそう言った彼女は、ぎゅうとテディベアを握りしめた。あまりにも強く抱き寄せられていて、心なしかぬいぐるみも苦しそうに見えた。
フランスはそんな彼女にも戸惑うことなく、笑顔で会話を続ける。
「これなら分かる?」
「……!」
イングランド人の恋人にすら滅多に披露することのない英語で話しかけると、少女は泣き腫らした目をまん丸に見開いた。異国の地で自分の馴染んだ言語が聞こえてくると、誰だって安心するものだ。
「お兄さん、英語喋れるの?」
「あまり得意じゃないけど。分かりづらかったらごめんね」
「そんなことないわ、とっても上手よ」
「ありがとう。今日君とこうして喋ることができたから、練習しておいてよかったよ」
フランスはそう言ってウインクをした。そしてジャケットのポケットからハンカチを出して、少女の目元を拭いてやる。白地に見事な紫色の薔薇とFのイニシャルを刺繍に入れて寄越してきたのが恋人だったことを思い出して、舌打ちが出そうになった。フランスは咄嗟にあげる、と言ってハンカチを渡してしまった。
「ところで君のママとパパはどうしたの?」
「えっと……話していいのかな」
「どうしたの?」
「……お兄さんすごくいい人だって分かるんだけど、でも、私、知らない人と喋っちゃダメってダディと約束してるから…」
「あー、なるほど。偉いね、君は」
フランスはそう言って笑った。
「自己紹介がまだだったね。俺はフランス。フランスお兄さんでいいよ!」
「フランス、おにいさん?」
「そう!趣味はストライキとパリを離れることです!アンシャンテ〜」
「え、でも……フランスって国じゃないの?」
「そうさ!それが俺」
「??」
少女は大きな目をぱちくりと見開いた。よく見ると綺麗なグリーンアンバーの色をしていた。自分の身分を明かすと大抵の人間は驚いてみせるが、彼女のような純粋な驚きはここ半世紀見ていないため新鮮だった。
「ってまだよく分かんないよねぇ。んー、一応人間としての名前もあるけど……免許証見る?」
フランスはそう言って、ポケットの中を探って剥き出しにして入れていた免許証を見せる。少女はすっかり泣くのをやめて、興味津々と言った様子でフランスの手元を覗き込んだ。
「フランシス、ボヌ……なんて読むの?」
「oとyでワ。ボヌフォワだよ」
「ミスターボヌフォワ?フランス語って面白いのね」
「ふふ、そうでしょそうでしょ」
段々と話も盛り上がるにつれて、少女の声にも元気が出てくる。くすくす楽しそうにしていた少女だったが、ハッとした顔でフランスの方を見た。
「ごめんなさい。私が名乗っていなかったわ」
少女はそう言ってこほんと咳払いをした。
「私はソフィア。このくまさんはリリーよ。お尻に百合の刺繍があるの」
「ソフィア、いい名前だね。リリーもよろしく。えーっと、これで俺たちもう知り合い……になった?」
「ふふ、そうね!」
そう言って二人は握手をする。
そろそろ本題に入ってもいいだろうとフランスは口を開く。
「ところでソフィア、ここには一人で来たの?」
「ううん。マミィとダディと一緒……だったと思う」
「だったと思う?」
「私、ちゃんと覚えていなくて。二人と一緒に来たはずなのに、気づいたら一人であそこにいて。ああ、どうしよう……どうしよう……!」
さっきまで楽しそうにしていたソフィアであったが、また顔が青くなって涙ぐ見始めた。フランスは思わずしまったという顔をしてしまう。
「落ち着いて。つまり迷子ってことかな?」
「たぶん……」
「よし、分かった。お兄さん、探すの手伝っちゃうよ!だからもう泣かないで。君の美しい緑色のおめめが溶けてしまうよ」
フランスはそう言って、ハンカチを使って彼女の目元を押さえた。
「ほら、ちょっと溶けてる」
そう言って、ハンカチの中から出したのはグリーンアップルの飴だった。個包装されたそれは、いつか日本で見かけたビードロのようにキラキラと太陽の光を照り返した。
驚きで涙が止まった少女の小さな手に握らせた。
「グリーンアップル味はお好き?」
「好き!フランスお兄さんは凄いのね」
「そうだよ!だから君のママとパパもすぐに見つけてあげる!」
*
二人はあれからチュイルリー公園に移動して、ベンチに並んで座っていた。
彼女は8歳だそうで、普段はロンドンに住んでいるらしい。パリへは両親と旅行で来たというところまでは分かった。しかし、肝心の両親の行き先には心当たりがないという。そして、自分のファミリーネームや親の名前、住所など、身元に関わりそうなことについては記憶があやふやな様子だった。
これはただの迷子なのだろうか、とフランスは一瞬嫌な想像をしたが、楽しそうに両親の特徴を語る彼女の様子を見ている限り、何か問題があるようにも思えない。一時的なショックによる記憶の混濁だろうか。それも専門家に診てもらわなければ分からないのだが。
いっそ警察に引き渡した方がいいかもしれない。なんなら捜索願いが出されているかもしれないと、身分をやや濫用したメールも隙を見て出して調べさせてみたが、そういった情報も得られなかった。
思ったより事態は込み入っている。フランスは静かに頭を悩ませていたが、目の前の少女はすっかりいつもの調子を取り戻したようで、フランスとの談笑を楽しんでいた。
「ねぇ、フランスお兄さんのお話も聞かせて」
「俺?」
「そう。フランスお兄さんのママやパパはどんな人?兄弟はいるの?」
「うーん、難しい質問だなぁ。いないっちゃいないし、いるっちゃいるし……」
「じゃあ恋人は?」
「恋人?……さあ、どうかな?」
「教えてよ〜!」
無邪気な子供の質問ほど、答えに困るものはない。フランスは苦笑いでどう答るか考えあぐねる。
「……あー、でも俺みたいにその国と同じ名前を持った奴らがいっぱいいるよ」
「そうなの!?」
「いるいる。写真見る?」
「見たい!」
フランスはそう言ってスマホのカメラロールを見せた。ソフィアは、テディベアと一緒に覗き込む。
「このメガネのやつがアメリカだろー、その隣の黒髪のアジア人が日本……これは日本に遊びに行った時のやつ」
「すごい!」
「あとこっちのは、茶髪のやつがスペインだし、銀髪のやつがプ……いや言っても分かんないか。ソフィアはまだ世界史やってないよね?」
「せかいし?なぁに?」
「もうちょっと大きくなったらだね」
「大きくなるの楽しみ!」
そう言って笑顔になる彼女が可愛らしくて、フランスはその金髪をそっと軽く撫でた。
人間の子供は本当に愛らしい。一瞬の命を燃やして、必死に生きている。こんなに小さな子ですらも。人々の営みほど、フランスの心を慰めてくれるものはない。
「次は──」
フランスはそう言って画面をスワイプしたが、次に出てきた写真で一瞬固まってしまった。
数ヶ月前、オックスフォードに行って街をぶらぶらしていた時に何気なく撮った、振り向きざまの恋人の写真だった。
改めてこの写真を見ると、彼の友人や近しい人に向ける表情とは随分違うように見えた。この時は惚けた顔が面白くて写真を残していたが、今はただ「自分は彼の近しいひとたちのようにはなれない」という事実をまざまざと叩きつけられている気分になった。
「……えっと、こいつは、」
思わず固まってしまって変な間があいた。フランスはそれを取り繕うようにして言葉を続けた。
「こいつはね、」
「…………ダディ?」
「イギ………………なんだって?」
しかし、ソフィアの小さな呟きによってもう一度二人の間に静寂が戻ってくる。
彼女は一体、今なんと言った?
「ソフィア、ごめん、もう一回言ってくれる?」
「ダディ?」
「ダディ?ごめん、それって英語でお父さんって意味で合ってる?」
「あってるよ。フランスお兄さんどうしちゃったの?」
「う、うそぉ……」
フランスはそう呟いて、画面の中の男を見た。
彼の傷んだ金髪、言われてみれば彼女の暗い金髪と色が似ている気がする。それに特徴的な翠眼。ヨーロッパでもあまり見かけない色だが、彼譲りだというなら頷ける。眉毛が似なかったのは幸いだが、言われると似ている気がしなくも、なくも、なくもなくも、ない。
いや、落ち着け。そんなはずがない。
自分達はどういったわけか便宜上性別を与えられてはいるが、それは与えられている『だけ』でほぼハリボテでしかない。その証拠に成長過程において心身の性別に対する意識があやふやだった者もたくさん存在する。逆に言えば、自分達にとってはそれぐらいの重要度でしかない。
人間で言う代謝は存在するが、ハリボテであるから中身はない。無いものを意識するのは中々難しく、人間との交わりの中で自ずと身についていくものだった。
つまり、自分たちに種も卵もない。このことはかなり前から業界では周知の事実だ。
だから、彼が子を成すことなど合理的に考えれば絶対にあり得ないはずだ。
しかしこの世に『絶対』が存在しないことを、フランスは悠久の時を過ごしてきた中でよく学んでいるつもりだ。
つまり、だから、そういうことなのか。
「お、おおお、落ち着け、落ち着け俺!!!」
頭に浮き上がるのは、認知・置き去り・無責任・浮気・嘘という言葉ばかりだった。
こういう時は素数を数えるといいらしい。フランスは素数を数えて始めるが、すぐに気がそぞろになる。いや、それもそうだろう。すれ違っていたとはいえ、彼のことは一番よく知っていると思っていた年下の恋人に、結構大きな娘がいたって分かったら誰だってこうなるはずだ。
彼女の言い分を信じるなら、少なくとも7年前には確定で浮気をしていたことになる。いやそれだけではないか。それだけではないことは分かっているが、それも大問題だ。もはや大問題が重なりすぎて、何から突っ込めばいいか分からない。バーゲンセールじゃないんだぞ。
「フランスお兄さん、大丈夫?汗すごいよ?」
「だ、大丈夫。すごい大丈夫。ちょっと目眩してるだけだから」
「それ大丈夫じゃないよ!」
付き合いだけでいえば1000年ほど腐れ縁をやっているし、恋人になってからだって人間なら結婚を考え始めるぐらいには続いていたはずだった。しかし、それでも彼の知らない面を見抜けなかったことに心底落ち込む。
嘘であってくれと思うが、ハンカチでフランスの額をぬぐい、小さな手のひらでパタパタと仰いでくれる心優しい少女が嘘をつくとも思えない。
「ソフィア、この男が本当に君のパパなんだね?」
「うん」
「会いたい、よね」
その言葉に少女はこくんと頷いた。
当たり前だ。言葉も分からない少女が異国の地に置いてけぼりをされているのだ。一刻も早く親に会いたいに決まっている。
そしてフランスもそんなことをする親の顔を一目でも見たかった。
「──分かった。じゃあ、会いに行こう」
「え……?」
「戻ろう、君の故郷に。俺も最後まで付き合うよ」
「い、いいの?」
「勿論だよ。俺と君はもう友達でしょ?それに君一人じゃ行かせられないし。それに、君のパパには俺もちょ〜〜〜っと話があるからね」
フランスはそう言って、スマホで各所への根回しを始めた。流石に出会ったばかりの少女を連れ歩くのは、今時色々とまずい。
準備を終えたフランスはベンチから立ち上がる。そして、少女に手を差し伸べた。
「イギリスに帰ろう」
「……うん!」
少女はフランスの胸中を知ることなく、小さな手でぎゅっと握りしめた。
ああ、こんなに可愛い娘がいたなんて知らなかった。教えてくれたら身を引いたのに。お前の良き幼馴染として、たくさんたくさん可愛がってやったのに。それなのにどうして、よりにもよってこんな道を選んでしまったのか。
まったくお前は酷い恋人だ。いや、それももうすぐ恋人『だった』に変わるのか。
「……最後にあいつ半殺しにしてやる」
ソフィアには分からないよう、フランス語で小さく吐き捨てた。勿論、こうなった以上ただで身を引くつもりはない。少女と繋いでいない方の手に血管が浮き出る。
すでに怒髪天をついて仕方が無かったが、フランスは大きく深呼吸をして最後に連絡を入れた。
『イギリス、今行くから』
それだけ書いてテキストの送信ボタンを押した。
*
パリ北駅から出発した二人は、2時間半をユーロスターで過ごしたのち、イギリスのセントパンクラス駅に立っていた。急な出張が入ることも多いので、パスポートは常に持ち歩いている。それが役に立った。今日ほど自分の仕事柄に感謝した日はない。
それよりも問題は、この少女に国境を越えさせることの方が難しいかと思っていたが、自分の身分のおかげか、あるいは事前の根回しが効いたのかは分からないが、想像よりも簡単に通された。
「さあ、パパを探しに行こう」
「うん!でもロンドンは広いよ。どこに行くの?」
「大丈夫。あいつの行動範囲はなんとなく想像つくから」
フランスはそう言って、キャブを捕まえた。
向かう先はダウニング街の方面だが、この時間なら遅めの昼食を調達しに近場ならウェストミンスター周辺、時間があるならソーホーの方に足を伸ばしている可能性がある。予想できる範囲で彼の直近の予定を頭の中でシミュレーションしたフランスは、ウェストミンスターに行くように運転手に言った。
決して逃しはしない。なにせ、フランスは千年以上もあの男を相手にしてきたプロだという自負がある。恋人として浮気を見抜けなかったとはいえ、せめて彼の腐れ縁としてこれだけは誰にも譲らない。
「この辺見覚えある?」
「うん、あるよ。あ、あそこのカフェでよく三人で食事をしたわ」
「それはいいね。今日はソフィア頑張ったからね、良いもの食べさせて貰うんだぞ」
「うん!」
にこっと笑うソフィアに邪気の邪の字も感じられない。この子だけは変なことには巻き込むまいとフランスは思ったが、すでに彼女を連れている時点で巻き込んでいる気がする。フランスは彼女に不安感を与えないように始終笑顔で余裕を見せながら対応していたが、頭の中はずっと混乱していた。
「……ん?」
そろそろ目的地に着きそうだと思ったところで、車窓からやたらと見覚えのある後ろ姿を見かけた。本人はセットしているつもりのボサボサの金髪、驚くほど華奢なシルエットを包む華の無いスーツ、それに反してピカピカに磨き上げられた職人ものの革靴。見間違えるはずがなかった。
「あいつ……ッ、あ、運転手さんここで良いよ、メルシー。はい、これお金ね。ソフィア、出よう」
「う、うん」
「あ、おい、お客さん!金が多すぎるよ!」
「取っといて!」
面倒くさくて両替をしていなったポンド紙幣の数も見ずにフランスは置いて行った。そしてソフィアをエスコートして、キャブから下ろす。
その間にも案外早歩きの恋人、いや元恋人はずんずんと歩いて行ってしまう。
「おい、おいったら……!」
少女の手を引いてフランスはその間を詰める。
「おい!イギリス!」
「っ、は、え、ふら、フランス!?」
肩を掴んで振り返らせると、イギリスはようやく立ち止まった。驚いた顔でフランスを見ている。彼は紙のランチバックを腕に抱え、手にはタンブラーを持っていた。フランスの読み通り、近くで昼食を買った帰りらしい。
「なんでここに……!?大体お前、あのテキストはどういうつもりだ!それに今日は平日だぞ、一体何考えて、」
「何考えてるんだ、はこっちのセリフなんだけど?この子見てもまだそんなこと言える?」
「はぁ?」
「ソフィアおいで」
イギリスは出会うなり、わざわざスマホを見せてぎゃんぎゃんと説教を始めてきた。しかしフランスは冷たい視線のまま、彼を見る。そこで、ようやく事態が普通の小競り合いではないことに気づいたイギリスは怪訝な顔をした。
少女はフランスに促されるまま、イギリスの前に立つ。
「この子、見覚えない?」
「あ………」
イギリスの大声に驚いた少女は、ぎゅっとフランスの裾に掴まって怯えたような顔をしていた。イギリスはしまったという顔をしてから、彼女と目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「…………大声を出して失礼。しかし君は……。おいフランス、お前この子が見えて、」
何かごにょごにょと歯切れが悪そうに喋るイギリスに、いよいよ怒りのせいで脳内の血管がぶちぶち切れていく気がした。フランスがギロリと睨みつけると、イギリスはこほんと咳払いをして少女に向き直る。
「小さなレディ、俺はあまり物覚えが良くなくてだな……。君とはどこかで会ったことがあるかな?」
「あ……えっと、」
「ゆっくりでいい。君も混乱しているだろう」
「あの、あなたは……あなたは、私の、ダディ……」
「だ、ダディ……?」
「……じゃない」
「ああ、そうだよ!こんなやつ君のお父さんなんかじゃない!最低だ!!」
ソフィアの言葉に、フランスはいよいよヒステリックな声を上げた。そしてしゃがみ込んでいたイギリスの胸ぐらを思いっきり掴んだ。
「てめぇっ、子供の前だぞ!何しやがる!」
「俺に指図するな!もう我慢ならない!これ以上責任から逃れるつもりかよ!?」
「な、なんの話だ!!」
「ッ、まだすっとぼけるのか!?最低だよ!お前のことは100年殴り合うぐらい嫌いだったけど、本当にッ、本当に本当に本当に最低野郎だな!忘れてた!」
フランスはそう言ってイギリスの胸ぐらを離した。そしてソフィアの肩を抱いて後ろを向かせる。
「いいかい、リリーをきちんと抱きしめて。10秒だけ耳と目を塞いでいるんだよ。分かった?」
「う、うん、でも、フランスお兄さん……」
「大丈夫、すぐにあいつの記憶取り戻してあげるから」
フランスがそう言うと、ソフィアはこくんと頷き耳を両手で塞いで目をギュッと閉じた。
それを確認して、フランスはイギリスの方を向き直る。その表情からは全ての感情が失われていて、ゾッとするほどに冷たかった。普段朗らかに余裕そうな笑みを浮かべている彼を知っていると、氷のような無表情になると、造形もあいまってより威圧的だった。普通の人間ならこの時点で無条件に膝を折るだろう。
「どこの誰を無責任に孕ませたのかって聞いてんだよ、クソ眉毛。思い出せないなら、俺が思い出させてやる。体にショックでも与えりゃ思い出すだろ?」
「は、孕ま……!?お前本当に何を言って、」
「抱いた女は一々覚えてないって!?」
「はぁ!?」
フランスの硬く握りしめた拳が、イギリスの腹にヒットする。顔を避けてやったのはそこが見える場所では何かと不都合だからであって、温情などではない。間違いなく、フランスの狡猾な部分がそうさせていた。
イギリスは鳩尾に一発まともに拳を喰らったものの、咄嗟に距離を取ってから回し蹴りをしてきた。よく手入れされた革靴が前髪を掠める。もう随分と鈍っているはずなのに、相変わらず体はよく動くらしい。
「……お前から手ェ出すなんて珍しいじゃねぇか。わけがわからんが、来いよフランス」
「二度とそのナメた口を利けないようにしてやるよ、坊ちゃん」
こうなればもう二人が止まることはない。彼らの白昼の大喧嘩は、彼らのこもをよく知っている警察がくるまで続けられた。
そして問答無用で拘置所に引っ張られた二人は、それはもうめちゃくちゃに怒られた。当たり前である。
*
「あんたら最近は大人しくなったと思っとったんですがね」
「面目ない……」
「はぁ……まったくねぇ、あんたたちからすりゃ赤ん坊同然かもしれんが、私も歳なんですよ。あまり年寄りの肝を冷やさんでください」
「本当にスミマセン」
一時的に勾留されていた二人は、顔馴染みのヤードの老人に小言を言われながら出てきた。今よりもほんの四半世紀前は彼もバリバリの現役刑事であり、それはもう散々二人で彼の仕事を増やしていた。主に酒乱の方面でだ。最近はコンプライアンスも厳しくなり、お歴々からも目をつけられている二人は大人しくしていたのだがやはり根本が変わることはない。
「お前のせいで怒られた〜!もう、帰ったら絶対ピカルディにも怒られるじゃん」
「元はと言えばお前の早とちりのせいだろうが!弱いくせに喧嘩売ってきやがって」
「英国紳士様は足癖が悪くていらっしゃるなぁ〜!」
「パリジャンは出会い頭に人の急所を殴る礼儀でもあるのか?」
「こらっ!」
諸々の手続きにサインをしているうちにも、隙があれば口喧嘩をする二人に老刑事も呆れ顔だ。
全ての書類にサインをし終えて、廊下に出るとソフィアが座って待っていた。
「フランスお兄さん!良かった!私びっくりしたのよ」
「ソフィア〜!ごめんねぇ〜!」
駆け寄ってくる少女に、フランスは破顔して抱き寄せる。イギリスもそちらの方へ行こうとしたが、老刑事に呼び止められた。
「イギリスさん、それはそうと言われたものを一通り調べましたが……やはり……」
「やっぱりそうか。そんな気はしていた」
イギリスは手渡された資料をサッと読み、老刑事を労う。老刑事は白髪混じりの髪をぽりぽりとかきながら溜息をついた。
「こういうことに巻き込まれるたび、あんたらが私たちとは違う世界に生きているんだと思わされますよ」
「いいや、そんな大層なものじゃない」
イギリスは老刑事の言葉に笑いかけた。
「お前たちが作った世界に俺たちがいるんだ。いつだって主役はお前たちだよ」
「……はぁ、そんなもんですか。なら、派手に暴れないで貰いたいね」
「はは、耳が痛い。厄介になったな」
イギリスはそう言って踵を返した。そしてベンチで座って談笑していた二人に近寄る。
「先ほどは見苦しいところを見せてしまって悪かった」
「ううん。こちらこそごめんなさい。私どうかしてたみたい……」
「仔細はフランスから聞いた。迷子だったんだろ?無理もないよ」
イギリスはそう言って、優しげな笑みを浮かべる。
「さてお嬢さん、改めて名前を聞いてもいいか?俺の名前はイギリス、正式名称は──」
「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国、でしょ?ダディが教えてくれたわ」
「おお、間違いない。俺の家の子だ」
イギリスは嬉しそうにそう言って、ソフィアの頭を撫でた。ソフィアもいくらか緊張がほぐれたようで、表情が緩んできている。元来、結果はどうであれ子育て経験者というのもあってか、小さな子の相手はなんだかんだでフランスよりイギリスの方が上手い。
「私はソフィア、こっちはリリーよ」
「ソフィアか。リリーもよろしくな」
「ふふ、フランスお兄さんと同じようにご挨拶してくれるのね」
「そ、そうなのか?」
ソフィアの言葉にイギリスは、ちらりとフランスの方に視線を寄越す。『同じように』というフレーズが気恥ずかしかったフランスは、すいっと顔を逸らした。
「ところでソフィア、君のファミリーネームは分かるか?」
「ファミリーネーム……?えっとね、うーん……あれ………?」
ソフィアはそう言って小首を傾げた。何かを思い出そうと一点を見つめたりしているが、この質問はフランスもとうの昔にしていた。見かねたフランスは口を開く。
「……この子は色々と記憶を失くしているんだよ」
「……なるほどな。なぁ、ソフィア。俺が思うに、君のファミリーネームはブラウンじゃないのか?」
「え……?」
「フランス、お前はこれ軽く読んでろ。あと俺がそれ見せたことをあの刑事に言うなよ。個人情報なんだからな!」
イギリスはそう言ってフランスに持っていた資料を押し付けた。フランスは押し付けられたものを渋々目を通す。当たり前だが全部が英語で書いてあって、目がチカチカする。
「ええー!全部英語なんですけど!無理!!」
「当たり前だろうが。お前いい加減英語できないフリやめろ」
フランスは嫌そうな顔をして、眉間を揉みながら読み進める。
その間にイギリスはさらにソフィアに問いかけた。
「君のダディの名前はオリバー・ブラウンじゃないのか」
「あ………」
「何?誰?知り合い?」
「俺の元部下だ」
イギリスはそう言って、スマホを取り出してカメラロールをスワイプし始めた。
「ほら、この人。君と髪の色がそっくりだ」
「ダディ……!!」
「え、マジで?」
「この写真ダディに見せてもらった!あぁ、私なんでこんな大事なことを忘れていたんだろう……」
二人が覗き込む写真を、フランスも上から覗き込んだ。それは何かの食事会らしくレストランの中で、イギリス以外にも何人か写っている。しかし、金髪を持つ人間はイギリスとその隣にいるもう一人しかいなかった。言われてみれば目の色以外目元がよく似ている。
もしかしたら彼女もこの写真を見たことがあったのかもしれない。しかし、迷子になった混乱とショックで、写真の記憶がごちゃごちゃになったのだろうか。そんなことがあり得るのか、専門家でもなんでもないただ長生きなだけのフランスには判断しかねた。
「やっぱりな。娘がいるという話は聞いていたが、君だったんだな」
「ダディのこと知ってるのね」
「ああ。だけど……」
「元部下ってことは辞めちゃったんだ?」
「そうだ。長期休暇を取ってフランスに家族旅行へ行った後、すぐに辞めたな」
イギリスはそう言ってから、ソフィアの顔を覗き込む。
「色々と俺から話ができることはあるんだが、とりあえずこんなところじゃなくてもいいだろ」
確かに、言われてみればここは拘置所の廊下にあるベンチだ。こんな込み入った話をするには向いていない。
「美味い紅茶を出す店を知ってる。プディングは好きか?」
「大好きよ!連れて行ってくれるの?」
「勿論さ。店に行ってからでも遅くない」
「じゃあ早速行きましょう!」
ソフィアはそう言ってぴょんとベンチから降りた。そしてイギリスの手を握りしめる。
「フランスお兄さんも行こうよ!」
「今行くよ」
「手を繋ぎましょ!……あ、でもリリーはどうしよう」
「俺が預かろう」
「イギリスさん、いいの?」
「構わないよ」
「ありがとう」
ソフィアはイギリスの空いている方の手でテディベアを抱えた。いかにも真面目ぶった地味なスーツ姿に、子供用のテディベアを抱えるイギリスはなんだかやたらと所帯染みていて愉快だった。思わずフランスが吹き出すと、イギリスは口の形だけで「ばか」と罵ってきた。フランスはそれをスルーして、ソフィアの右手を優しく握りしめたのだった。
*
3人はそのまま徒歩でカフェまで移動した。そこで紅茶を3人分、プディングが1人分運ばれてくると、ソフィアは全てを食べ切った。食べ切ったあと、彼女はこくこくと船を漕ぎ始めていた。
「ソフィア、眠いのか?」
「ううん……眠くないよ…………」
「いいや、眠そうだ。少し眠るといい。長旅だったんだろ?」
「うん……じゃあ……」
ソフィアはそう言って、やがてフランスに寄りかかって眠ってしまった。イギリスはその様子を興味深そうに眺めて、「随分懐かれているんだな」と独りごちた。
そして、掌を少女の目の前で動かして意識がないことを確認してから、フランスの方に向き直った。
「資料は読んだか」
「大体。いやでもね、信じられないよ」
「だろうな。だから俺もあの場では言わなかった」
「そんな、だって、信じられない……信じたくないよ。だって彼女はこんなに温かいのに。さっきまで美味しそうにプディングだって食べてた。ほら、皿の上見ろよ。ちゃんと無くなってる」
「だがそれが真実だ」
「……お前の世界に俺を巻き込まないでくれ……」
フランスはそう言って、目を閉じた。今日だけで色々あったのに、今知った真実が重すぎて受け止めきれない。
「とりあえずオリバーを呼ぼう。騒動について何か分かるかもしれない」
イギリスはそう言いながらスマホをいじり始めた。その様子にフランスは頬杖をついて茶々を入れる。
「お前なんで元部下の連絡先知ってんの?」
「非常時だ。国家権力を使わせてもらった」
「悪ぅ〜いけないんだ〜」
「うるせ」
イギリスはそう言って、席を離れて電話をしに行った。その背中を見届けてから、フランスは少女の方を見る。
彼女の頬は薄らと赤くて、肌の下に血が通っていることが分かる。寄りかかってくる体温もちゃんとフランスに伝わっていた。手を伸ばせば、彼女の暗い金髪にも触れられる。
それなのに、そうだというのに、この子は──。
「繋がった。ここに来るそうだ」
気持ちがまたしても沈みかけていた矢先、イギリスが席に戻ってきた。そして少しぬるくなった紅茶に口をつける。
「雨降りそうだな」
「いつものことだろ」
二人の会話の数十秒後、雨粒が店の窓を叩き始めた。まるで二人の胸中と天気が連動でもしているかのようだった。
*
「イギリスさん、お久しぶりです」
「久しぶり、オリバー。急に呼び出してしまってすまない。仕事でもなんでもないから、楽にしてくれ。ああ、目の前にいるのはフランスだ。直接話すのは初めてだよな」
「ボンジュール、ムッシュブラウン。初めましてだね」
「どうも……」
15分ほどで少女の父親はやってきた。しかし、少女がいなくなっていたというのに取り乱しもしていない。それどころか、フランスの隣で寝ているはずの娘に一度も視線が合わない。その一つずつが、今起きている事態が全て現実のものであるとフランスに突きつけてくる。
「何か頼むか」
「いえ……すぐに帰りますので。それで、うちの娘……ソフィアの話とはなんですか」
「あー……」
オリバーはフランスの向かい側に座り、本題を切り出した。フランスは男をよく観察する。動揺、少しの怒り、それから大きな悲しみを纏っているように見えた。
イギリスもなんと言えばいいのか迷っているようで、いつもよく回る口の歯切れが悪い。
「……少し野暮用があってだな。お前の娘の話を聞きたかった。それに、多分、話した方が楽になる」
「……楽になる、とは」
「ムッシュブラウン、あのね。俺は今日君に届け物をしにきたんだ。イギリス、出しちゃいなよ」
「あ、あぁ、そうだな」
フランスの助け舟に乗ったイギリスは、傍に置いていたテディベアを机の上に乗せた。それを見た男は一気に目を見開いた。
「尻の刺繍……リリー……?な、なぜ、これがここにあるんですか……!?」
「縁があって俺が拾ったんだ」
フランスがそう言うと、父親は一瞬目を見開いた後、悲しそうな笑みを浮かべた。
「そう、ですか……あの時は、私たちが散々探しても見つからなかった。それから私たち段々と……彼女のことを忘れて……」
「……あぁ。ゆっくりでいい。話してほしい」
イギリスの落ち着いた声を契機に、父親はやがて訥々と語り出した。
──ソフィアは生まれつき体が弱く、7歳になってもなお外の世界を知らなかった。そしてついに余命を宣告され、両親は覚悟を決めた。最後に少しでも外の世界を見て欲しかった二人はソフィアの希望を聞き、母親の故郷であったパリを最初で最後の旅行地に選んだ。
しかし、彼女の病状は旅行中に悪化した。元々、病院にいたとて治りはしないものだった。なす術もなく、彼女は旅行先で星になった。
「その騒動の最中で、我々はこのテディベアを失くしてしまったんです。あんなに娘が大事にしていたものを……」
どうかしている。きっと自分たちの愛情が足りなかったから、神様に娘を取り上げられてしまったんだ。
そんな非科学的なことすらも、余裕を失った二人には呪いのように付き纏った。
イギリスに帰った後もそれは変わらず、やがて二人には小さなすれ違いが生まれるようになった。お互いの姿を見ると楽しかった日々を思い出し、どんどん辛くなっていった。
耐えきれなくなった母親は、故郷のフランスに帰ってしまった。父親も、仕事に身が入らなくなってイギリスの元から去った。
「思い出から逃げれば楽でした。しかし、どんどん自分が自分で無くなっていくような日々でもありました。私は愚かな父親です」
語り終えた父親はそう言って項垂れた。
永く生きてきたフランスやイギリスにとっては、永遠の別れというものは度々よく起きることではあった。しかし普通の人間にとって、大事な者に置いていかれる悲しみとは身を裂かれるほどに等しく、これほどまでに人を変えてしまう。それをまざまざと見せつけられていた。
「そんなことはない。もしお前が愚かだというんなら、今ここにテディベアが戻ってくることはなかった。これは何かの導きだ」
イギリスはそう言って、オリバーの背中をとんとんと撫でた。彼は今にも泣きそうな顔をしていた。
「在るべき場所に還って良かったよ。きっと、君たちの元に戻りたかったんだ」
フランスはそう言って、笑みを浮かべた。そして隣で寝ている少女の肩をそっと抱いた。
「なぁ、ムッシュブラウン。あんたはどうしたい?」
「……え?」
「このテディベアを受け取って、これからどうしたい?」
フランスは優しい声で父親に語りかけた。父親はテディベアとフランスの顔を交互に見た。そして、おずおずと口を開く。
「妻と、話したいです。あの子が戻ってきてくれたって。そして……あの子、ソフィアとの思い出を語り合いたい」
「うん、うん。すごく名案だと思う。なぁ、じゃあ奥さんもここに呼ぼうぜ」
フランスはそう言って父親の手を握って、肩をぱんぱんと叩いた。
しかしイギリスはその隣で、片眉を上げて難しそうな顔をして見せる。
「って言っても、そんな急に……今から呼べるのか?」
「……お、お恥ずかしながら、別居状態になってから電話が繋がらなくて」
「なるほどね。じゃあ尚更丁度いい。仲直りの時間だよ」
2人の会話を聞いていたフランスはそう言ってウインクをした。重い空気が支配していた空間が、少し緩くなる。いつもの調子を取り戻したフランスに引っ張られたイギリスは、改めてフランスの方を見る。
「どうすんだよ」
「なぁ、ムッシュブラウン。俺ずっと話聞いてて、どこかで聞き覚えがあるなと思ってたんだけどさ。奥さんってもしかして姉妹だったりしない?」
「え、えぇ。そうですね。妹がいます」
「旧姓は?」
「デュボワです」
「よしきた。ちょっと待ってて」
フランスはそう言って席を離れた。電話した先はピカルディであった。2コールで繋がったかと思いきや、怒涛の説教が始まる。そういえば仕事を半ば強引にほっぽり出してここに来たことを思い出した。ごめん、もうしないから、のフレーズを繰り返した後に、本題に入る。
フランスは彼の母親の妹を知っていた。直属ではないが、秘書課にいるのは知っているし、何度か会話もしたことがある。彼女には仲のいい姉がいて、会うたびにその話を聞かされていた。しかし、最近はどうにもふさぎ込んでいる様子だったが、ようやく点と点が繋がった。
根拠はたったそれだけだ。フランスには確信があった。これは多分、運命がそうさせているのだ。自分達はその運命の糸に絡められて引き寄せられている。
ピカルディに取り次いでもらって、妹を出してもらう。事情を説明したところ、『今すぐそっちに連れて行きます』と約束してくれた。
フランスは電話を終えて席に戻る。視線でどうだったと尋ねてくるイギリスに笑みで返すと、ホッとした表情をした。
「すみません、私は……何とお礼をすればいいのか」
「いいんだよ、俺たちの気まぐれなお節介だからさ。乗り掛かった船だし。最後まで見届けさせてよ」
フランスはそう言って、通りかかった店員を呼び止めた。そして紅茶を一杯、父親の分を頼んだ。
*
数時間後、一行はセントパンクラス駅に戻っていた。
「ところでお前仕事良かったの?」
「アポ無しでいきなり殴りかかってきたやつが言う台詞か?……これも仕事のうちだ」
「心配なんだろ。素直じゃねぇの」
星の数ほどいる人間たちを全員救えたならどれだけ良かっただろう。そんな神のごとき力が自分たちには無いことなど、二人はよくよく分かっている。だからこそ、自分たちの手に届く範囲にいる人だけでもこうして手を貸してやりたいと思う気持ちが強く、その気持ちを二人は共有していた。瞬きの間に消える儚く美しい人間たちに、なるべくその生を謳歌して欲しいのだ。
駅構内を歩いている二人はそんな会話をしながら、ユーロスターの発着場まで歩いていく。前を歩いている父親は心なしか早歩きで、二人はその後ろを歩いていた。
ソフィアは依然、フランスの腕の中で眠り続けていた。重くはないが、子供らしい体重が腕にかかっている。遠い昔、まだ小さかったカナダを抱っこして夕陽を見に行ったことがあったのだが、その時と全く同じ感触だった。
──やはり信じられない。この子がもう、この世の者ではなくなっているなんて。
大きくなるのが楽しみだと言っていた彼女は、もう大きくなることなどないのだ。
人間は儚い生き物だ。フランスは久しく忘れていた、いや感じないようにしていた寂寥を覚えた。
一向が発着場に着いたころ、ちょうどユーロスターが入ってきたばかりだったようで、入国手続きを終えた者たちで溢れていた。
「オリバー……ッ!」
暫く待っていると、人混みの中から真っ直ぐにこちらへ走ってくる女性がいた。柔らかい茶髪、そして娘によく似たグリーンアイだった。
「ごめんなさい……っ」
父親に名前を呼ばれた女性は真っ先に謝罪の言葉を口にして、腕の中に飛び込んでいった。
「いいんだ、カミーユ。僕こそごめん。それよりほら、見てくれ、あの子が帰ってきたんだ」
「あぁ、ソフィア……」
母親は、父親から手渡されたテディベアを見て、ついに涙を溢した。その肩を父親がそっと抱き寄せる。
「初めて買ってあげた時、ソフィアはとても喜んでくれたよね」
「ええ、そうね。毎日大切にしてた。食事にも一緒に連れてたわね」
「そうだったな。食事といえば、ほら、三人で一緒に食べにいったレストラン。あそこにも連れて行ってたな」
「そうだった。あぁ、そうだったのよ……いつだって一緒だった」
「……僕たちが、彼女の生きていたことを覚えておかなくちゃいかないと思うんだ」
「……私もそう思う」
そんな風に語り合う二人に、フランスは目を細めた。ああ、眩しい。
人間は、自分達よりもずっとずっと簡単にいなくなってしまう。だけれども、だからこそ、彼らは想いを連綿と受け継いでいく。そうやって一瞬の命が生きた証を残していく。その様は、まさにフランスが愛する「美しい」ものであった。
「フランスお兄さん、イギリスさん、ありがとう」
「……ソフィア?」
人間の一つの物語に立ち会っていたフランスであったが、そんな声を聞いて我にかえる。いつの間にか腕の中からは子供の体重が消えていた。先程まで自分が抱えていたはずの子は、今二人の目の前で立っていた。眠そうだった瞳はきっちり開いて、母親譲りの翠眼がピカピカと瞬いていた。
「マミィとダディが私のこと思い出してくれたから、私も色々と思い出したみたい」
「そっか……じゃあ……」
「私、きっと寂しかったんだわ。私のせいで、マミィとダディが離れ離れになっちゃった。それがとっても辛かったの」
「……」
「でもね、もう大丈夫!」
ソフィアはそう言って、にこりと笑った。そして今もなお、肩を寄せ合う両親の方を見る。
「マミィとダディにはこれからたくさん幸せになって欲しいんだ」
「君が願ったことだから、必ず叶うよ」
「そうかな?ふふ、そうだと嬉しいな!」
フランスの言葉に、ソフィアはにこりと笑う。そして彼女はフランスとイギリスの方へ戻ってきた。
「私のこと見つけてくれてありがとう、フランスお兄さん」
「君に出会えて良かった。ゆっくりおやすみ」
そんな言葉を交わして、フランスはソフィアの額にキスを落とした。彼女は嬉しそうにして、今度はイギリスの方を見る。
「イギリスさんもお手伝いありがとう。今度は2人とも仲良くしてね」
「あー……努力はする」
そう言ってイギリスはくしゃりと笑った。その様子を見たソフィアは、小さな腕で親愛の情を表すハグを贈った。
「優しいお兄さんたち、2人もこれからたくさん幸せになりますように!」
そんな言葉と同時に一瞬強い光が見えた気がして、フランスは思わず目を閉じた。そして、もう一度瞼を開けた頃にはそこに少女はいなかった。
その光景に圧倒されて呆けていた2人であったが、少女の父親に話しかけられて、ようやく我に返った。
「色々と面倒を見てもらって……ありがとうございました」
「いや、いいんだ。こっちこそ余計な世話をしたよな」
「いえ……こうして導かれなかったら、僕たちはきっともっと後悔していたと思います。きっと、優しいあの子が何かしてくれたんでしょうね、なんて」
父親のその言葉に、フランスとイギリスは目を見開き、互いの顔を見合わせた。彼女は確かに自分達にしか見えていなかったはずだが、こうして彼女の想いが両親に手渡されたことを目の当たりにして、心が温かくなる。
「本当に何とお礼を申し上げれば……」
「いいっていいって」
「そうだぞ、本当に気にするな……と言っても、お前は気にするんだろうな。なら、こんなのはどうだ?」
イギリスはそう言って、おそらくこの騒動に巻き込まれてから用意していたのであろう言葉を口にした。
「お前、また俺の部下に戻るつもりはないか?」
そんなイギリスの言葉に父親は嬉しそうな顔をしたが、フランスは「ちゃっかりした奴め」と呆れた顔をした。
*
2人と別れたフランスとイギリスは駅構内のベンチで座っていた。あれから両親たちと少し話をして別れた。
「人間ってやっぱ儚いよなぁ」
「そうだな」
「……みんなさ、俺たちと違って短い時間しかないからさ。だから、あの家族が話し合えて良かったって思っちゃうんだよな。話したいなって思った時に限って、上手くいかないこと多いもんねぇ……」
フランスはそう言いながら、駅を行き交う人々を見つめていた。半ば独り言だったが、それな対してイギリスが静かに口を開いた。
「……お前と意見が同じなのは癪だが、概ね同意だな」
時刻はもうとっくに夕飯の時間だ。とはいえ、国際駅であるセントパンクラスはまだまだ人が行き交っている。
「……まあ、じゃあ俺そろそろ帰るわ」
不思議な1日を終えて、フランスはどっと疲れていた。なんなら一度はあわや恋人が浮気をしていたのではないかという勘違いで、久々に激情を駆り立てられた。おかげでクタクタだ。自国に帰ればあっという間に寝る時間になる。明日がたまたま週末で良かったと思いつつ立ち上がった。
「な、お前、帰るのか!?」
しかし、イギリスにとっては予想外の行動だったようで、隣で驚いたような顔をした。その反応に、フランスは腕を組んで勝気な笑みを浮かべる。
「何?お兄さんの作った晩御飯でも食べたかったわけぇ?残念ながらもう俺クタクタだから帰るよ」
「ちが……っ」
アデューと告げて踵を返すフランスをイギリスは追いかける。珍しく早足で歩くフランスの腕をイギリスが掴む。何度か振り解こうとしたが、彼の力は見た目よりも存外にずっと強い。一向に離れない手に諦めて、フランスは足を止めた。
「……浮気疑ったのまだ怒ってる?それはさっき謝ったじゃん」
フランスは今、あまりイギリスと長く話していたくは無かった。でないと、ボロが出そうだった。
しかしイギリスは頑なに腕を離そうとしなかった。
「お前だって、今の話がそれじゃないことぐらい分かってんだろ」
「何?それ以外にまだある?」
あくまで惚けようとしてみせるフランスに、イギリスは苦虫を噛んだような顔をした。そして一拍置いたのち、イギリスは眉根を寄せながら口を開いた。
「──お前はさっきの家族が話し合えて良かったって言ってたよな」
「……言ったけど」
「話したいと思った時に限って上手くいかないってことも知ってんだろ」
「お前にしては珍しく要領を得ないじゃん。何が言いたいの?」
ただでさえ引き止められて少し機嫌が悪かったフランスは、ぎろりとイギリスの方を睨んだ。しかし、思っていたよりも彼の目は真っ直ぐフランスの方を見てきて、二の句を紡げなくなる。こんなふうな態度を取られると、自分の方が聞き分けない子供のようではないか。
「俺とお前も話し合うべきだってことだ」
「あっはっは!何言うのかと思ったら!!ウケる〜!お前にしては面白いジョークじゃん。この千年で、俺とお前がまともに話し合えたことなんてあった?」
フランスはそういって、あーあーおもしろーいと大袈裟に笑って見せる。しかし、イギリスは怒る様子もなく、ただ静かに言葉を続ける。
「こういう時に限ってはぐらかして、茶化して、曖昧にするのはお前の悪癖だぞ」
「ッ、うるさい………!」
図星を言い当てられて、フランスはカッと顔を赤くした。思わず彼の方を振り返ってしまってから、それこそがイギリスの目的だったことに気づくがもう遅かった。
何も知らないくせに何食わぬ顔で、そんなに酷いことをいう男が憎いと思った。
──お前は知らないかもしれないけど。お前は見ていないのかもしれないけど。
たった一日、例えば自分を優先されなかっただけで。あるいは酸いも甘いも噛み分けたはずなのに恋人に移り気の疑惑が浮上しただけで。お兄さんぶっている自分は、本当はこんなにも内心で取り乱してしまう。
それほどに俺はこんなに、お前のことが。
「お、まえに、別れたいって、言われたらどうしようって……そういう想像して、怯えてる……って言ったら、お前笑ってくれる?」
気づいたら、震える声がそんなことを口走っていた。
ヘラヘラするのは得意だ。ヘラヘラしたくない時でもヘラヘラしていたらなんとかなる。今はなんとかなっているだろうか。
「わ、別れる!?」
イギリスにとってはそれが予想外の答えだったらしく、新緑のような瞳をまんまると見開いた。それからすぐに思い当たることがあった様子で、眉間に皺を作った。
「8月のことか。……いやその様子だと、それがきっかけだろうが、それだけじゃなさそうだな。やっぱり話し合うべきだった」
イギリスのそんな言葉に、フランスは気づかれないように溜息をつく。
イギリスのことは、フランスとしてよく知っている。一番知っているという自負もある。
しかし、『彼に一番愛されている』などという自信はこれっぽっちも無かった。それは十分な愛を受けていないだとか、そういう話ではなく、そう思っておかないと多分この先何かがあった時傷つくだろうなと思っていたからだ。
「お前、どうせ馬鹿なこと考えてんだろ」
イギリスはそう言って、フランスの両頬をぱんっと音を立てて包み込んだ。ちょっとヒリヒリする。美しい顔に何してくれてんだと、また息をするように茶化しそうになったが、イギリスのいつになく真剣な表情にフランスは口を噤む。
「俺がお前に別れたいって言う?〜〜っ、くそ、センスのない冗談だ。ああ、くそ、やっぱり、もっと早くに話し合っときゃ……。てめぇ、一度しか言わないからよく聞けよ。そもそも!大体!!お前ってこういうの嫌いだろうなと思ったから言わなかったんだからな!!!」
イギリスはそう長々と前置きする。それからすうっと息を吸って、意を決したような表情をしたかと思えば、そっと唇をフランスの耳元に寄せてきた。
「いいか、フランシス。お前が別れたいって言っても、俺はあの手この手でお前を繋ぎ止めるからな」
まるで内緒話をするように、イギリスは仄暗い内容を淡々と話し始めた。
「仮に別れられたって、お前がこれから誰とそういう仲になろうと、何度でも俺の亡霊が見えるようにしてやる」
そう言い切って、イギリスはフランスの顔を解放した。白い肌はほんのりと赤く染まっていて、彼が精一杯素直な言葉を紡いだことがよくわかる。
いつもの可愛いツンデレの態度からは想像もできないほどに、彼は重くどろどろとした愛情を向けられていた。それを今、フランスは初めて知った。
前々から、懐に入れた者に対して愛が重いとは思っていたがここまでとは。例えるなら花を大事にしすぎて枯らすタイプだ。大切に育てている薔薇の生花に対しては絶対にそんなヘマはしないくせに、人が相手だと彼は途端に愛の出力の加減が出来なくなる。
そう考えると、細かい言葉のニュアンスを気にして面倒臭いと評される己とは案外お似合いの面倒臭いカップルなのかもしれない。
「……結構、そういうの好きかも」
「…………マジか」
フランスがそう言ってはにかんだ。頬が熱かった。嬉しくて、恥ずかしくて。
彼だけに頑張らせるのは、それこそ恋人失格なのではないかと思った。
「なぁ、アーサー。俺、お前にお願いがあるんだけど」
「なんだよ」
「やっぱ1日だけでいいから、お前の時間……俺に欲しい……」
自分たちは長生きだが、永遠というわけでもない。明日話そうと思って、必ず話せるわけでもない。人間にお節介をしておいて、肝心の自分たちが出来ていないんじゃお笑いだ。
フランスはずっと秘めていたお願いを口にした。『フランス』としてどれだけ『彼』に無茶苦茶を言っていても、どうしてもただの個人としてこの言葉だけは口にできなかった。
言ってみれば案外普通で、何を躊躇っていたんだろうとも思う。きっと千年分のプライドと意地が邪魔をしていたせいだ。
「当たり前だろ」
飾らないありのままのストレートな返事に、フランスの胸はドキッとした。
こんな簡単な会話ですら、こうしていっぱいいっぱいにならないとできない。情けない話だ。
積もりに積もった不安が、たった一言で霧散してしまう。いつからこんなに単純になってしまったのか。多分この男に惚れてると気づいてからだ。
「言い訳がましいかもしれないけどな。あのテキストは、無理ってことを伝えたかったんじゃないんだ。スケジュールを調整するから待ってて欲しいっていう意味だった」
「……俺、今月、ずっと週末予定入れてなかった……よ?」
フランスはその言葉を言った後に、言ってしまったことを後悔した。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。自分がこんなことを言っているだなんて!
すでに顔を赤くしているイギリスにつられて、フランスまで調子が狂っていく。
「……なぁ、今日ってもう実質週末だよな」
「……そうだね」
「……空いてんのかよ」
「……空いてなくても、今だったら連れ去られてあげてもいいけど。どうすんの」
二人の間に沈黙が訪れる。互いに顔を見合わせて、それが無言の同意となった。
イギリスから手を伸ばされて、それをフランスは当たり前のように握り込む。駅の中だとか、そういうのはもうどうでも良くなっていた。
「俺たちは時間を余らせてるからって、慢心しすぎだな……」
「あー……たしかに」
「……お前に浮気を疑われた時は、俺の気持ちが何一つ伝わってないんだなと思った」
「それはごめんって言ったじゃん!!お前の好きなもんなんでも作ってやるから許してよ!」
「いいや、許さない。帰りにテスコ寄るぞ」
「いやだ、この子手料理食う気満々!」
堂々と国内最大手のスーパーマーケットによることを宣言したイギリスに、フランスは思わず吹き出した。それにつられて、イギリスも肩を揺らす。
奇しくも、イギリスにもフランスにも双方に縁のある子が与えてくれた大切な時間。「幸せになりますように」と願いを叶えてやらねばと思ったのは、フランスだけではない。
二人は、ああだこうだといつものように言い合いながら、まだまだ人の往来があるセントパンクラス駅の人混みに消えていった。