あくまで仮住まいであったからと、彼は律儀にも引越しの準備をしている。夏の最中。とは言っても大型家具の類はもとよりサティの持ち物である一室に据え付けのものであるため、細かい衣類や書籍などの持ち物をまとめているだけに過ぎない。今も空調は聞いていて、窓の外の熱気は別世界のことだ。
「そんなに急がなくても良いのでは?」
前社からの離職から半年近く、派遣社員として勤めることになったちょうど条件の合う新興企業を紹介したのは自分だが、勤務先はこのマンションの最寄駅からは多少長くはあるが乗り換えの手間はないはずだった。
「新しい職場で落ち着いてからでも」
「……なるべく、通勤時間の電車を、避けたく」
ぼそぼそと告げられた理由には納得する他なかった。それは彼の離職、職歴の途絶の最大の原因にあたる。
「そう、ですか」
「……はい」
失策だった。内心で舌打ちをしながら、表わされたのはなんとも物惜しげな首肯だった。
「あまり借りを作ってばかりもいられません」
「借りですか?」
「職のことも、住まいのことも」
自分が彼を引き留めようとしていることを十二分に承知している。であれば、都合の良い人物でいるのが最善手であるはずだった。自分の手の上にあれば問題ないと思わせておけば良かったはずだった。
離れていくことを想定していなかったのだ。
「職場の斡旋は業務のうちですし、ここも住んでいただく方が助かるのですが」
「自分から返せるものが無いのが心苦しいので」
だと言うのなら。
だと言うのなら。
書籍類を詰めている段ボール箱を見る。この半年で荷物が増えたのだと言う。
(この手から離れていかなければいいのに。)