wavering 衣都が初めて関わった強行部の依頼から、数ヶ月が経過した。準備の一環として指示された『日課』だったジム通いは、今は自分自身のための『習慣』として続いている。
(一日事務仕事だったせいか、今日は元気が余ってる……ような気がするのは、やっぱり体力ついてきたからかな)
本部での日常業務を十九時で終えた衣都は、Aporiaを――ビルを出ると、寮とは反対方向へ足を向けた。パーソナルジムとは違う、新開が教えてくれたジムのひとつで、そこは彼との護身術講習が入っていない時に主に利用している。
新開の「こいつ素質はある」という言葉を信じて、トレーニングを続けること数ヶ月。前職の時には同じ事務仕事でも終業後からもうひと運動など考えられなかったから、心身ともに少なからぬ変化を実感できる。
(体重はあまり変化がないけど、体のラインは変わってきてるし)
特筆すべきものがなかった中肉中背の体型が、以前より筋肉量が増えたお陰で締まって見えるし、背筋が伸びて姿勢が良くなった。
先日、久し振りにあった透吾にも「ちょっと会わないうちに良い意味で変わったな。もっと可愛くなってる」と褒められ、身内贔屓に居た堪れない想いを抱きつつも、第三者からも変化が見て取れるとわかったのはジム通いのモチベーション維持にも繋がる。
(この数ヶ月間に、一体何年分の運動量をこなしてるんだろ……)
そんなことを考えながら風もなく蒸し暑い街を歩き、ジムに到着すれば、冷房の利いた屋内のキンとした空気にホッと息を吐いた。
◆
フロントを抜けロッカーで着替え、ストレッチをして事務仕事で固まった体を解す。
(うん、いい感じに動いてる)
教わった通りに全身を隈無く動かした衣都が密かに気合を入れてジムエリアに足を踏み入れると、新開経由で顔見知りになった人がちらほら見受けられるが、新開の姿はない。約束や待ち合わせをしていなくてもばったり遭遇することが多いので、今日は「そうじゃない日」なのだなと、考えるともなしに考えていた。
(今日は有酸素多めにしたいから、ウェイトトレーニングは軽めに……)
頭に浮かぶとりとめのない考えを断ち切るように、視線を彷徨わせる。軽快な音楽と思い思いにトレーニングに励む音を聞きながら辺りを見回すが、衣都と同じく仕事帰りに立ち寄る人が多い時間帯のせいで、候補に思い浮かべていたマシーンが埋まっている。
(ぼんやり待つのも時間が勿体無いし……。ああ、あれなら他のより軽めに出来るかな)
予定を変更して空いている器具に向かった衣都を目で追っている存在に気付きもせず、ウェイトを調節して座った。
スポーツや武道の経験のない衣都は、新開の助言を受けながら身体作りをしている。全身バランス良く鍛え護身術を身に付けるのが最終的な目標だが、目下のところ、節見の言う一番の護身である「逃げ足を鍛えること」に重きを置いている。ある程度の距離を走り切る持久力も、一歩を踏み出す力や反射も持ち合わせていなかった衣都は、数ヶ月のジム通いの末、漸く下半身の筋肉の使い方がわかりつつあった。
今日もランニングマシーンで走る前に、内転筋を――そう思って脚に力を込めた衣都の顔に、ふと影が落ちた。マシーンの横を通りかかる人が居るのはよくあることなので気にせずトレーニングを始めたけれど、何かおかしい。気にしないふりをしたくても、明らかに至近距離に誰かが立っている居心地悪さを無視できず、ちらりと目線だけ向けると同世代か少し上くらいの男性がじっと衣都を見下ろしている。
(……見たことない人、のはず)
スタッフや顔見知りの常連は、衣都が新開の連れ合いだと知っているので、挨拶やほんの少しの雑談を交わしはすれど、妙なちょっかいを出したり下手な助言をしない。
(良い方に考えて、このマシーンを使いたい人。悪い方に考えると……)
どうか自分の考えすぎてあって欲しい――その願いも虚しく、十回一セットを終えた衣都に「ねえ」と声を掛けて来た。呼び掛け方も、その声に含まれた軽薄さからも、ロクな予感がしない。
何も聞こえていないとばかりに二セット目を始めた衣都に、怯むことなく話し掛けてくる。「よくこのジム来るの」だの「下半身鍛えたい子なんだ? それ終わったら一緒にあっちのマシーン行こうよ」だの、声を掛けられれば掛けられるほど衣都の顔が強張ってしまう。
(どうしよう……)
単に教えたがりなのか、それとも下心ありのナンパなのか、声掛けだけでは判断できない。これからもここに通いたいから、下手に刺激して事を荒立てたくないし、運が悪いことに巡回するスタッフの姿もなく、それとなく助けを求められそうにもない。
目も耳も塞ぎたい気持ちのままインターバルを挟んで三セット目をと、気持ちを整えようと深呼吸したその時、男性が手を伸ばして来た。
「……!」
マシーンに座っている衣都はどうにも避けられず、腕を掴まれる――その直前で、大きな影がふたりの間に割り込んだ。
◆
「シロ、悪ぃ。待たせた」
聞き慣れた声の、聞き慣れない呼び名。しかし、その名前を聞いた瞬間、衣都のスイッチが切り替わる。
「遅い、グッチ」
不満気に睨め上げると、大きな影こと新開は口角を少しだけ上げる。「もう大丈夫だ」と伝える目力の強い微笑を寄越されても衣都の表情は変わらず、それを見た新開はくるりと体を反転させ、男性と対峙した。
「コイツになんか用すか」
「……だったら、何」
「俺のツレなんで。ナンパとか、そういうの遠慮して貰えねーかなって」
そう言いながら衣都を庇うように背を向けて立つ彼の大きな体に遮られて、男性の姿は衣都から見えなくなった。衣都の顔にかかる影も、先程までとは意味合いが全然違い、不安も不快感も消えて行く。
「……チッ」
程なく新開越しに男性が舌打ちしたのが聞こえ、更に去り際にじろりと睨まれたけれど、とばっちり感が否めない。
「……」
「弥代、何もされてないか」
舌打ちしたい気分は「シロ」の方だと溜め息を吐けば、聞き慣れた声の、聞き慣れた呼び名が――衣都の心を緩ませる「いつもの」新開の声が耳に届き、再びスイッチが切り替わった。
マシンから下りて新開の隣に立ち、大きな体を見上げる。気遣わしげな顔で衣都の異変を見逃すまいとしている彼と目を合わせ、小さく頷いた。
「一方的に話し掛けられていただけなので、被害は何も受けていません」
「そうか。……さっきのヤツのこと、後でスタッフに言っとく」
「はい。もし私以外にも同じような……ってなったら、困りますし」
入会時の注意事項として迷惑行為の禁止などの説明をなされているはずなので、衣都の運が悪かったとしか言えない。これに懲りてくれればいいと思いつつ、念には念を入れておくに越したことはない。俯いて嘆息する衣都の背中をおもむろに、新開が柔らかく叩いた。
「俺が薦めたジムで煩わしい思いさせて、悪かったな。ああいうの居ねえ店舗だから、油断してた」
「いえ。謝らないで下さい。私もびっくりしちゃって、うまく対応出来なかったのも悪かったなと」
反省を口にする衣都の背中を、新開がもう一度とん、と叩く。「お前は何も悪くねーよ」と口の端を上げて言った新開は、声もなく小さく頷く衣都の背中をゆっくりさする。その手のひらの大きさと温かさは、徐々に衣都の気持ちを落ち着かせてくれた。
「あ、あの……」
「ん?」
言うべきかどうか迷ったけれど、衣都の心の平穏のために告げておこうと言葉を紡ぐ。
「タメ口と『グッチ』呼び、失礼しました」
その謝罪に、彼は思いがけないことを聞いた風に眉を上げた。
「別に失礼ではないだろ。名前知られるのマズいからって俺が『シロ』呼びしたからだし、そもそも同い年だろ」
「……ありがとうございます」
「どーいたしまして」
そう言ってからりと笑う新開に、衣都の顔と体の強張りが解ける。そして、まだぎこちなさを残しつつも、唇を少しだけ横に広げるようにして微笑んでみせたのだった。
◆
念の為、今日はひとりで行動しないように――そう言い含められ、ワークアウトもクールダウンも新開の目の届くところで行い、新開とふたりで帰路に着く。
「そういや、俺の年齢知っても敬語な理由は何かあんのか」
黙々と歩く衣都に、ひらりと疑問が過ぎったという風に新開が尋ねた。
「理由というほどの理由ではないんですけど、前の職場の同僚にも基本的には敬語でしたので、癖みたいなものです。あと、新開さんの落ち着きは、とても同い年とは思えなくてですね……」
「そうか?」
衣都の言葉にきょとんとするのだから、こちらが面食らってぽかんとしてしまう。
(新開さんから見た私は、同い年判定をされているのか……)
自分では年相応だと思っていても、新開と比べると色々足りない。
「あ、あと、新開さんは心身ともに体幹的なものが半端なく強そうで、安定感がすごいなと」
「何だ、それ」
「……すごいと言えば、さっきのジムの人。新開さんに舌打ちするなんてすごいなって、びっくりしちゃいました」
衣都は、小心者なのと固まる表情のせいなのとで、不愉快なことがあってもおくびにも出さない。舌打ちは褒められないものにせよ、咄嗟の行動力は見習いたいものもある。
「声掛けた女の手前、引くに引けなかったんだろうな。俺見てびびって、明らかに虚勢張ってんのわかったから」
衣都の連れ合いがまさか新開みたいなタイプだとは、あの男性は予想もしていなかっただろう。
(新開さん、背が高いし体格も良いから、そんじょそこらの人は迫力負けするよ……)
凄まれた側の心中は、察するに余りある。そういう意味では、あの男性も運が悪かったと言える。
「……新開さんから漂ってくる強者の余裕も、すごいですもんね」
かすかに首を縦に振りながら、しみじみと呟いた衣都に「強者の余裕って何だよ」と呆れ混じれに笑う。その姿でさえ余裕たっぷりに見えるのだから、彼の生まれ持った気質なのだろう。
(それとも、あれかな。筋肉は裏切らないってやつ)
筋トレは精神面への良い効果もあるというから、衣都もこのままトレーニングを続ければ、少しは新開のような余裕が身につくかも知れない。
(ジム通いのモチベーション維持の理由、またひとつ見付かったかも)
彼ほどの余裕ではなくとも、今よりほんの少しでも精神的に成長するのを目標に据えて、また次からも頑張ろうと意気込んだ。
◆
「そういえば新開さん、よく咄嗟に『シロ』が出て来ましたね」
「あ?」
「演技が苦手だと伺っていたので……」
「あー……」
新開はキャラ代行に向いていないと聞いたことがあったので、どの辺りが「味のする大根」なのだろうと不思議に思う。
「演技した訳じゃねえからな」
「……?」
首を傾げた衣都に、彼は淡々と告げる。
「名前バレちゃマズいってのは、俺らの――強行部の依頼でよくあることだ。でも、偽名とか愛称とかで誤魔化す時、俺にとっての『そいつ』が変わる訳じゃねえんだよ」
「……なるほど?」
わかるような、わからないような。もう少しで何か掴めそうだと考えていると、新開の言葉が続く。
「さっきも『シロ』に反応して演技したのは、あくまで弥代。俺は、ただ名前を呼んで『知り合いだ』っつっただけだから、別に演技はしてねーんだよ」
「ああ、そういう……。なるほどです」
言われてみれば、その通りだと納得する。
(頭の回転が早くてクレバーな新開さんが、演技苦手だと知った時は驚いたけど……)
数ヶ月、公私ともに面倒を見て貰って、彼が一本筋の通った人だという印象は一層強くなっている。こうまでぶれずに「自分」がある人なら、自分以外の「誰か」になるのは衣都が考える以上に当てはまりが悪そうだ。
しかし、大根だと言われるからにはかつて演技をする機会があった訳で、その時に何があったのか知りたいような、知りたくないような――。
(いつか「味のする大根」を見られるかな)
朗らかだったり、人懐こかったり、暴君だったり。普段の新開とは違うキャラクターを演じる時の表情や声色が、どう味があるのか知れたらいいなと考える衣都の口元には、知らず知らず微笑が浮かんでいた。
「次、ジム行く予定は決まってんのか」
「これといっては……。多分、行けるとしても明後日かと。あと、次の休みは行くつもりです」
「わかった。もし行くなら、念のためパーソナルジムの方にしとけ。休みのトレーニングには俺も付き合う」
「お願いします。ご迷惑でなければ、ぜひ」
「ああ」
そして、印象がより一層強くなっているのは、面倒見の良い人だというところ。
(それと……)
大きな歩幅でゆっくりと衣都のペースに歩いてくれる心遣いや、ふとした優しさにふれる機会も増えている。
心がかすかに揺らめくこの感情は、憧れなのか、尊敬なのか。言葉に当て嵌めようとしてもうまくいかず、するりと逃げてしまう。
(自分のことだけど、よくわかんないや)
気持ちを切り替えようと、細く長く息を吐く。
衣都の抱えるもどかしさは溜め息と共に熱帯夜の空気に混ざり、新開に知られることなく、溶けた。