ひっそりとした座敷に楽しげな音色が流れ込む。
襖を挟んださらに奥の部屋、大広間のあたりが賑わっているのだろう。重厚感のある三味線に乗せて紡がれる歌声はなんとも美しい。時折聞こえてくる品のない笑い声は招かれた客だろうか、それだけがなんとも残念だ。それさえなければ、きっと最高の舞台だっただろうに。
「……おい。オレを前にして呆けているとは、いい度胸だな、類」
「おっと、ごめんよ。そんなつもりは無かったさ。ただこの音が気になってね……」
「ん? ……ああ、今日は上客の予約があったからな。宴を開いているんだ。埃の一つも残さないようにと、禿が必死に掃除していた」
「ああ、成程。道理でこんなに賑わっているわけだ」
「騒がしくてすまん、しばらくは我慢してくれ」
「ふふふ、大丈夫だよ。楽しいことは僕も好んでいるからね」
目を閉じてその愉快な音に耳を傾ける。三味線や小太鼓の音、忙しなく廊下をかけているであろう禿の足音、上客と遊女の笑い声。思っていたよりも豪勢な宴が開かれているようで、類は首をかしげた。
「ねえ司くん。あんなに豪華そうな宴なのに、どうして君はここにいるんだい? 仮にもこの遊郭一の花魁だろう?」
「仮にも、は余計だ。それに、本当だったらオレも呼ばれていたんだぞ」
「だったらどうしてここに……」
「この日は無理だと言っても、何度もここに足を運んでは周りの客に牽制し続けたお前がそれを言うのか⁉︎ どうすればいいのかと、番頭が困り果てていたぞ」
「おや、そうだったかな?」
「どうにも話が進展しないから上客に頭を下げてオレはこっちに来たというのに、お前と言うやつは……」
呆れたようにため息を吐いた司は、花魁らしからぬ動作でどさっと座布団に腰掛ける。女将にこういった態度を見られたらあまりよく思われないと言うのに、すっかりと気を抜いて話をする司に類も心を許していた。バレないように頬を緩めると、胡座をかいて煎茶を啜る司と目が合う。ただでさえ開いている衿合わせを更に寛げた胸元は仄かに赤く染まっており、少しばかり目に毒だ。
先程の花魁らしくない雰囲気はどこへやら、色気を纏わせた司から顔を背けると、類と会うなり早々に邪魔だと外された赤い椿の簪が桐箱に入れられているのが目に入る。
「髪の毛解いてしまって良かったのかい? それだけ長いと結うのに時間がかかるだろう?」
「今日の相手は類が最後だから別にいいだろう。それに、ずっと結っていると頭が重くてな……」
「最後、ね……。僕としては、誰とも相手をしてほしくないんだけど」
「無理難題を言うんじゃない。それよりも、今日は何を見せてくれるんだ? ただ雑談をするために来た訳じゃないだろう」
「勿論さ。今日持ってきたのはこの子だよ」
畳の上に置いた巾着袋から一つの絡繰を取り出し、退屈そうに唇を突き出す司の眼前に持ってくる。早速動かそうとしたが、どんな絡繰なのか当てようと手で制されたので、大人しく見守ることにした。恐る恐る突いてみたり、じっと見つめてみたり。色んな角度からそれを眺めては、まだ分からないと百面相して。コロコロと変わる表情は見ていて飽きない。思わず笑いをこぼすと、眉を顰めてこちらを見上げた。
「むぅ……。なんだこれは。全く分からん」
「そうだろうとも。だってそれだけでは動かないからね」
「なにっ!? オレを騙したのか!」
「騙すだなんて、人聞きが悪いなあ。……さて、今度こそ動かすから、畳に置いてくれるかい?」
「ぐ、ぐぐぐ……。あと少しで分かったのに……!」
悔しそうに顔を歪めながらも、素直に畳へ置いた司にまた笑ってしまう。不貞腐れる司を横目に見ながら巾着袋からもう一つの絡繰を取り出して、スイッチを押した。
「っ、これは……!」
ブオン、というエンジン音と共にふわふわと浮き上がる絡繰を見て、感嘆の声を漏らす。室内だからあまり大きく移動は出来ないが、それでも自由に飛び回る絡繰ーードローンに司は目を輝かせた。
「す、すごい、すごいぞ類! この絡繰は一体なんだ⁉︎ こんなもの、初めて見たぞ!」
「ふふふ。相変わらずいい反応をしてくれるよね、君は。これはドローンと言って、遠隔操作で飛行できる、小さな航空機のようなものさ」
「こんな素晴らしい物を作れるなんて……。お前、本当に発明家になれるんじゃないか?」
「お褒めに預かり光栄だよ。でも、先人たちに比べたらまだまださ。空を飛べるだけでは、独創性がないからね」
「そんなに謙遜するな。少なくともオレには出来ないことだぞ。……しかし、空を自由に飛べるのか。…………いいな。オレも、空を飛べたらーー」
今にも消えてしまいそうな声で呟いた司は、ふっと目を細めて遠くを見つめた。……空を、飛べたら。その後に続く言葉が分かってしまった類は、心を締め付けられるような苦しみを感じながら、司を引き寄せた。触れ合ったところから鼓動が伝わって、息が詰まりそうなほどに強く抱きしめる。
同い年にしては薄い身体付きに、未だ幼さの残る顔。毛先がピンクで染まった柔らかそうなブロンド、白く透き通った肌。……こんなもの、悪い大人たちにとっては格好の餌食だろう。やはりもう一度伝えなければと、絹糸のように艶のある金髪にキスを落として、そっと囁いた。
「……司くん。この間言っていた話だけどーー」
「っあ、それは…………」
耳元で司が息を飲んだ。先程のざわめきが嘘のように静けさを取り戻した座敷に、二人の呼吸音だけが響く。きっと、類が何を言いたいか分かったのだろう。顔が見えなくても、らしくもなく動揺していることは伝わってくる。それならば早く言ってしまおうと口を開いた時、控えめに襖を叩く音が聞こえた。
慌てて類の腕から逃げ出した司は小走りをして襖を開ける。……よりにもよって、今邪魔が入るなんて。なんとなく面白くないなと、つい舌を打った。
……きっと終わりの時間が来たのだろう。もうすっかり宴の音は聞こえなくなって、障子の隙間から見える景色は墨のような闇に侵されていた。座敷には時辰儀がないから正確には分からないが、帰るには充分すぎるほどの時刻だろう。
いつものように、絡繰を見せてはすごいなと称賛されて。目を輝かせてふわりと笑ってくれて。司と過ごすひと時は決して長くはないのに、密度が濃い時間で、とてもじゃないが離れがたい。彼と居るだけで世界がずっと輝いて見えた。
いつまで経っても腰を上げない類に気を利かせたのか、禿から時間を延長するか問われる。正直まだ話し足りないのでその申し出は有り難かった。彼とは色々と話をしてきたけれど、肝心なところには未だに触れさせてくれない。一歩踏み込んだ話をしようとしても、スッとはぐらかされる。
幼い頃から奇異の目に晒されてきた類にとって、司は初めてできた友人で、ずっと一緒にいたいと初めて思った、大切なひと。
ーー身請け話を持ちかけるくらいには、彼に惚れ込んでいる。……その度に話を逸らされて、うやむやなままではあるが。
いい加減、ここらでケリを付けてしまいたい。待つことが苦手な自覚はあるので、このままズルズルと引き伸ばされるのは、あまり我慢できる気はしなかった。今ここで思いの丈をぶつけて、あやふやな関係に終止符を打ちたい。
深呼吸するように大きく息を吸って、ひっそりと佇む禿に声をかける。
「すまない、あと四半時ばかりもらえるかい?」
「……承りました。それでは、お時間になりましたらまたお声を……」
「ーーいや、もう遅い時間だ。今日はこれにてお開きにしよう」
不意に部屋に響いた凛とした声に、え? と困惑した声が重なる。
「聞こえなかったか? 今日はこれでお開きにしようと言ったんだ。ほら類、お前も帰り支度をしてくれ」
「……司くん、僕はまだ君と話がしたいんだ。そのお願いは聞けないよ」
「外を見てみろ。真っ暗じゃないか。いくら類とはいえ、早く帰らないとどうなるか分からんぞ。それに今日じゃなくともまた会えるだろう」
「けど……!」
類への気遣いなのか、話をさせないためか。恐らくは後者だろうが、納得がいかない。帰れと言われても、むざむざとこのまま帰るのは嫌だった。
「太夫、その、お客様も延長したいと仰ってますし、今日のところは……」
「…………お前、オレの言うことが聞けないのか? はあ、もういい。片付けはオレがやるから、お前はもう上がっていいぞ」
「い、いえ、太夫にそんなことさせるわけには……! お、お客様、申し訳ありませんが……」
「…………分かったよ。今日はもうこれで帰るね」
冷ややかな目で見つめられた禿は、身を縮こませていそいそと座敷の片付けを始めた。幾分か前にスイッチを切られて乱雑に畳に転がされたドローンはひんやりと冷たくなっており、恨みがましい目でこちらを見る。それをひょいと抱え上げて巾着袋に仕舞い込むと、強引に腕を引っ張られて、あっという間に遊郭の戸口まで連れて行かれてしまった。
「さて、ほら帰った帰った」
「ひどいじゃないか司くん。無理矢理帰らそうとするなんて。僕は一応客なんだよ。よよよ……」
「ええい、そのわざとらしい泣き真似はやめろ! 全く、お前は本当に相変わらずだな……」
「ふふ、帰るのが寂しいのは本当なんだけどな」
「……さっきも言ったが、別にまた会えるだろう。そう駄々を捏ねなくても良いんじゃないか?」
「まあ確かに、明日でも君とは会えるけど……」
胡散臭い猿芝居をぴたりと止めて、司と向き合う。もうすっかりと暗くなってしまった。遊郭の灯もポツポツと消え始めて、花街が闇に溶けていった。真上にある月だけが二人を照らす。まるで、世界に二人だけになったかのようだ。灰青色の光を帯びた金糸を梳かして、別れを惜しむようにその束に口付ける。
「言いかけていたことだけど、僕は本気だからね。僕は本気で、君を……」
「……冗談はよせ。ほら、もう遅いから気をつけて帰るんだぞ」
「あ……。…………うん。じゃあまたね、司くん」
司に背中を押されるように帰路に着く。その足取りは重く、なかなか前へ進んでくれない。
……また、言えずじまいだった。今日こそはと決意する度に、話をさせてくれない。彼に拒絶をされているわけではないから、きっと嫌われてはいないはずだ。それに、また会えると言われているから、チャンスはいくらでもあるだろう。
しかし、分からなかった。なぜそう頑なに身請け話だけはさせてくれないのか。あの言葉の続きは、ドローンを羨ましそうに眺めていたのは、この遊郭から逃げ出したいからじゃないのか。何故、類と共に来てくれないのか。
類が嫌なのか、身請けが嫌なのか。……遊郭から、出ていきたくないのか。それならば、なぜ、
「……どうして、そんな目をするんだ……」
縋り付くように揺れ動く彼の琥珀色が、目に焼き付いて離れない。身請け話を持ち掛けるたびに、彼に愛を囁こうとするたびに、瞳にその色を宿す。
何が駄目なのか。……自分では、司を救えないのか。悲しくてやるせない思いが心に重くのしかかって、胸の中を埋め尽くした。
遊郭から連れ出して、狭いセカイから抜け出して、司に心から笑ってほしい。幸せに、なってほしい。それをするのは自分がいいと思うのは、我儘なんだろうか。
「……諦めないからね、司くん」
胸のわだかまりを吹っ切るように、ふうっと短い吐息をついた。きっと暫くは警戒されてしまうだろう。どうやって手を取ってもらおうかと幾つもの案を考えながら、夜の闇の中へ紛れていった。