死亡志望診断書デカラビアとアンドラスがソロモンに怒られている。
「なんなんだ、あれ」
フード付きの緑の狩人服に弓を背負い、頭の上にはカメレオンを乗せた女性追放メギド、レラジェが呆れを隠さずに言った。
昼間の平和なアジトであった。何事も無い、空の青い陽気のいい日だった。無理矢理に特筆すべき事を探しても、このアジトの追放メギドを率いる青年、通称ソロモンが数柱のメギドを連れて緊急性のなさそうな幻獣退治に出掛けていた事ぐらいしか、特筆することの無い日だった。
レラジェはそんな日に、幻獣退治とは全く関係の無い狩りに出掛けたのだった。出掛ける前に、解剖に並々ならぬ執着心を見せるアンドラスに、狩ってきた動物を解体するかと聞いたが、アンドラスは解体と解剖は違うのだとやや頬を膨らませやんわりと断ってきた。レラジェにとっては大差がなかったのだが、アンドラスにとっては大きな違いがあるのだろう。
アンドラスに無理強いはせず会話を打ちきり、出掛けたレラジェは若鹿と兎を数羽狩ることに成功した。だが、狩りの最中に軽い傷を負ったので、アジトに帰るや医者でもあるアンドラスの研究室へ向かったのだった。レラジェは吟遊詩人でありソロモンの知恵袋でもあるバルバトスと、自称参謀のサタナキアが連れ立って歩いているのを珍しく思いながら通路ですれ違い、ノック無しにアンドラスの研究室に体をすべりこませた。どうせ、忙しくしていない時のアンドラスは蛍光色の薬剤を混ぜているか、不気味な笑みを浮かべながら肉片をメスでつついているか、分厚い本に夢中で声を掛けられるのも面倒がるだろうと思ったからだ。
だから、腰に手を当てて怒るソロモンの前に、二人並んで正座してずっと叱られているテロリスト(デカラビア)とマッドドクター(アンドラス)がレラジェの視界に飛び込んできた時、その光景は殊更に目立っていた。
レラジェはぼんやりと、そう言えば狩りに出掛ける前、デカラビアもアンドラスの研究室に居たなあと思った。デカラビアとはろくに会話していなかったのと、元テロリストがアンドラスの部屋で含み笑いをする布の塊として生えているのはそう珍しいことでも無かったのでついつい忘れていた。
ともあれ。
こんな平和な昼下がりに、ソロモンがあの二柱……オフ中であるから二人と呼ぼうか……を怒る理由がレラジェには分からなかった。
ソロモンが幻獣退治を終えて無事にアジトに帰ってきた直後は、ゆったりとした時間が流れて居たはずだった。
だが今は、そんな時間はゲートでアジトの外に遺棄されたと言わんばかりの空気が、レラジェが到着したアンドラスの研究室の中を満たしていた。
見られていることにも気づかず怒っているソロモンを引き続きぼんやりと眺めて、レラジェは考え、結論を出した。
どうせ、あの二人がバカな事をしたんだろうな。
レラジェはこんこんと怒られ続けている橙色のマッドドクターと藍色の元テロリストの二人と同年代だった。その繋がりと付き合いで、レラジェは二人が所謂、頭のいいバカだと判断していた。レラジェは、二人の中でもより濃い、他人からは友人と見られる程度には付き合いがある、友人と呼びたいかは熟考を重ねなければいけないだろう橙の方を、有能さといざというときの真面目さとアジトへの貢献を認めながらも大バカと思っていたので、橙に比べれば付き合いの短い藍も、一緒に叱られている橙と同程度には大バカだったのだろうかと疑った。
橙とどっこいどっこいの仲間が増えるのは勘弁して欲しい。
そこまで考えて、藍は大バカの片鱗を見せる大騒ぎをすでに起こしていたとレラジェは思い出した。
深いため息を長く長く吐いたレラジェは、黙って歩いていって、三人の様子をより詳しく観察した。
橙は叱られている理由を今一理解していない栗鼠のような表情だった。あえてもっと表現するならば、頬袋に入れたまま忘れていたナッツの存在を思い出したが、飼い主(ソロモン)がすごい剣幕なので、今食べてはいけないなと悩んでいる栗鼠だった。なんにしろ反省してるようには見えない。
藍は叱られている原因を理解はしているようだったが、反省する気の無いふてぶてしい猫の顔だった。橙とは別の意味で、怒っても無意味そうだった。
それでも普段は見せない勢いで怒り続けているソロモンは、片手に紙切れを握りしめていた。
(おっ、なんの紙だ)
好奇心を刺激されたのが半分、ソロモンの助けになりたい気持ちがもう半分で、レラジェは紙片を覗き込んだ。
身を乗り出して覗いた紙切れの表面は隙間なく文章で覆われており、デカラビアとアンドラスの手書きのサインも書かれていた。
文字が分からないのではないが、文章の内容が山育ちのレラジェには難しい。紙片の上に踊る文字をレラジェはなんとか確認していった。
「乙は、甲の……死亡……権利……状態に関わらず、病理、あるいは正常……解剖ぉ?」
「レラジェ! 帰ってきてたのか!」
ソロモンがレラジェに気づいて、振り向いた。
「まあね」
「レラジェはアンドラスに用事があって来たのか? だったら……」
「いいよ、野暮用だし」
レラジェは誤魔化した。
狩りの最中に藪にひっかけ掠り傷を負ったが、医務室に今いる痛い治療を行う看護師の世話にはなりたくなかった。だから医務室を避けて、研究室のアンドラスを訪ねて来たと言う、真実たいした事の無い用事だったのもある。
ソロモンの仲間になる以前のレラジェであれば、放置していた程度の、自然に治る傷だ。
だから、何かを感づいたように見つめてくるんじゃない、怒られている最中の自覚がないのかと、レラジェは橙色頭に向かって念じた。
「そうか?」
「そうだよ。それよりも、その二人、どうしたんだ? アンドラスが昼間からデカラビアを解剖でもしようとしたのか? すっごい怒ってたけどさ」
レラジェの言葉が意外だったようで、ソロモンは目をパチパチと瞬いた。
「いや、そこまでじゃないんだけど……」
「なんだよ、その先も言ってみろよ、隠すことでもないだろ」
「ああ……」
ソロモンは握りこんでいた紙片を見やすいように開き、説明を始めてくれた。レラジェに向かうソロモンの肩越しに藍色が、わざわざこんな事に関わるなんてご苦労な事だとでも言うように鼻で笑っている。
オマエ偉そうにしているが、床に正座させられたままだし、ソロモンの怒りの説教が止まったのは私のお陰だからな、笑うぐらいなら後で礼をしろよと、レラジェは藍色をこっそりと睨む。……アンドラス、オマエを睨んだ訳じゃないから、不思議そうに首を傾げなくていいからな。
バカ二人(デカラビアとアンドラス)に気を取られていては、話が進まないと思ったレラジェは、ソロモンの声と彼の持つ紙の方に集中した。
ソロモンがアンドラスの研究室を訪ね、デカラビアの名前が書かれた何枚かの紙を偶然に発見したところから始まる話に暫しの間耳を傾けたレラジェは書類からソロモンに視線を移す。
「つまり、オマエが発見した中の一枚であるコレが……アンドラスがデカラビアが死んだ後に解剖する許可証申請書?」
「申請書かな……出せばほぼ許可が下りるらしいから、許可証でも構わないけど……ともあれ、これを二人で隠れて勝手に作ってたんだ。サインも書き終わってて、後は提出するだけになってた。これを出せば、アンドラスの住む地域ならデカラビアを解剖しても問題ないって」
やや表情が固いソロモンが、隠しきれない寂しさを含ませた声色で話題の終わりをそう結んだ。
「やっぱりバカだったな……」
レラジェが嘆息すると、今まで黙って正座していたアンドラスが、誰よりも先に横から懸命に主張を展開してきた。手まで振り回していた、余程異論があるらしい。
「バカなんて事はないよ! ヴァイガルドの医学の発展に役に立つよ 回り回って全ヴィータと、ヴィータと関わり合いのある全メギドの助けになる! これから先俺が解剖する死体全部に誓ってもいいよ!」
「ははーん。さてはオマエ話の流れをぜんっぜん気にしてないな?」
ドン引きした余り却って軽口のようになったレラジェの突っ込みをものともせず、いつもの三倍増し近くは高まったテンションで、喋り方もいつもより変なアンドラスは力説を続ける。
「追放メギドを解剖できる機会なんて滅多にないし、それがアルスノヴァ血統なら更に」
「ともかく!」
綺麗に地雷を踏み抜かれ耐えかねた様子のソロモンの大声と共に、細かくなった紙がパラパラとアンドラスの研究室を舞う。
デカラビアの解剖に必要な書類がソロモンの手によって破り裂かれたのだ。
「ああ~」
「ふん」
デカラビアは感情の出ていない硬質な眼を、紙を散らすソロモンに向けている。
アンドラスは、大口を開けて上から落ちてくる紙を眺めていたが、まだ諦めきれないのか、散って積もった書類を床に両手をついて名残惜しそうにしている。
「絶対に駄目だからな、解剖なんて」
珍しく二人の様子に取り合わずに断言するソロモンの声が響いた後、アンドラスの研究室には沈黙が降りる。
デカラビアもアンドラスも、片方は真一文字にもう片方はさっき開けたせいで半開きにと違う形はしていたが、会話のために顎を動かすつもりはないようだった。普段は余計なことまで喋るくせに!
一旦話し終えたと言うように、ソロモンは息を整えているが、落ち着いてはいないだろう、興奮が収まっていない。
嫌な空気が部屋を満たしている。
途中から参加しただけのレラジェには細かい機微はわからないし、読めるような性格もしていない。だが、“あの”ソロモンにここまでの態度を取らせる状況を招いた癖に本気で何も喋らないつもりか、肯定にしろ反抗にしろ会話はするのが筋ではないかと、レラジェは二人に詰め寄るか悩んだ。結局、彼女が結論を出す前に新たな介入者がやって来て、迷う必要はなくなったのだが。
「やあ、終わったかい?」
カチャリ。
扉から顔を覗かせたのは、ヴィータ離れした風貌の男の姿をしたメギド、サタナキアだ。その背後に、金髪の美男子のバルバトスも居たらしく、ワンテンポ遅れて、やあと声を掛けてくる。
「……多分?」
アンドラスが顔だけをサタナキアの方に向けて、曖昧に答えた。
部屋に入って来ながら帽子の鍔に片手をやるサタナキアは、アンドラスの返答に何の感慨も持って無さそうだった。
「正直、解剖でも何でも好きにすればいいと思うけど。ここはソロモンのアジトだからね。彼が否を唱えるのであれば、意見を考慮に入れて、この場では控えるしか無いんじゃないか」
「……外でやるも何も、俺はここから出られないが?」
「そこまでは俺の知った事では無いね。アジトを居住区にするしか無いのは、君の今までの行動への応報だろう」
「ちっ、狂的研究者め。随分と分別染みた事を言うようになったじゃないか」
「反論が無いのは了解の証と受け取るよ、デカラビア」
「……無い。言い返してやりたいことはあるが、抗弁と言う程の物ではないし、直ちにこの場で話すつもりもない。アジトがソロモン王の所有物であるならば、王こそが法だ」
「それは結構」
その後、帽子とコートを着た彼の取り成しで、アンドラスはデカラビアの解剖申請書を作ることを諦め、なにかと忙しいソロモンはここから離れる事になった。何をしに来たか分からないバルバトスも一緒に去っていった。
巻き込まれたレラジェは、アンドラス達の見張として一緒に残ることになった。率直に言って、アンドラス達に付き合いたくはない。だが、ソロモンから頼るような視線を向けられては仕方がないだろう。レラジェはバカ二名のお目付け役になる事にした。流石の橙頭の解剖マニアも、直ちにデカラビア解剖申請書を作り直したりはしないだろうが、それでもデカラビアと二人きりにすると、何をやりだすか分からない不安がある。
レラジェの内心を察知したのか、アンドラスがふわふわした口調で寝言を言ってくるが無視だ。
「大丈夫だよ、レラジェ。俺達だけで片付けできるよ。終わったらデカラビアを部屋まで送って、俺達は大人しくしておくよ。それよりもレラジェ……」
前科があるので、説得力が僅かすらない。手のひらを床についたまま、チラチラと申請書の残骸に視線を送っていれば尚更だった。アンドラスの事だから嘘ではないだろうが、信じさせる気も無いとしか思えない。
「(でも天然なんだよなあ……)」
レラジェはため息ついて、アンドラスの言葉と関わりの無い発言をするために口を開く。自分はアンドラスの事をこの件では……申請書を作らない事は言質も取ったし信じても良いが、他の何かをやり出さないとは信じるつもりがないという意思表示代わりだ。そのぐらいの意図が伝わる仲でもあった。
「アンドラス、デカラビア。さっきまでのオマエらが、うんともすんとも言わなかったのは、サタナキアが来るのを待ってただけだな」
「うん。気づかなかったのかい? それは悪いことしたなあ」
「当然だろう。沈黙の使い道程度は把握している。それが詮無い時分もな」
のんびりと言うアンドラスと冷たい薄ら笑いで言い放つデカラビア。本題にはいる前に、レラジェは彼らに不満を伝えることにした。
「オマエら……本当に焦ったんだからな。私の気持ちはどうするんだよ」
「ごめんごめん、あんな風になるとは思ってなくてね」
「ヴィータに容易く発見されるような場所に申請書を放置したアンドラスが悪い。だが、あいつもあいつだ。あそこまで感情を出すことではないだろうに」
デカラビアが丁度いい事を言い出したので、すぅと息を吸いこんで、レラジェは本題に踏み込んだ。
「そこだよ。どうしてソロモンをあそこまで怒らせてるんだ、オマエたちは」
あのソロモンなんだぞ、とレラジェは息と共に吐くように言ったが、二人からは返事がない。
「……」
「……」
正座で顔を見合わせて沈黙を続ける二人の様子にレラジェは察して声を上げた。
「まさか分からないのか」
「レラジェは分かるの?」
「えっと……たまたま虫の居所が悪いところに、オマエらが何かをやって、アンドラスの部屋に叱りに来たら、解剖書類が置いてあって堪忍袋の緒が切れたとか」
「俺達は問題のあるような事は何もしておらん。この部屋の外ならば尚更だ」
「今日は機嫌良さそうだったよ、ソロモン」
それと、解剖書類じゃなくて、解剖申請書だねとアンドラスは付け加えた。
「う、ううーん……どうだっていいんだってば、そんなことは!」
「……そうだな、どうでもいい。だが理不尽だ」
デカラビアが何時も低い声を、更に低くし、静かな声で語る。顔には表情が浮かんでおらず、スンとしているはずなのに、何故か眼光が爛々としているように感じられる奇妙な面構えだった。
「……オマエも反省してないな?」
「愚かな問い掛けに答える気はないぞ。……おまえも狩人ならば、狩った獲物を解体し腑を切り分け、捌くこともあろう。それと何の違いがある? アンドラスが俺を狩って解剖をすれば、ヴィータの法を犯すが、そうではない、不慮の死を迎えた時に、正式な手順に乗っ取って献体をしようと言うのだ。ヴィータの口に運ばれ滋養となる獣の血肉と、変わりはせんだろう」
レラジェは転生メギドである。デカラビアに指摘された通り狩人でもある。生き物の生死に、都市で暮らしている者達より近く、思考もドライな面がある。
「そりゃまあ、なあ……」
だからなのか、デカラビア達の主張も分かるのであった。
レラジェはソロモンの味方だが、今回はデカラビアとアンドラスに気持ちが近いので、彼女にはいつもの切れがなかった。
「でもなあ……」
「やっぱり言いくるめられてる」
「言いくるめられてるとはなんだ、バルバトス、いきなり失礼な」
「ああ、俺としたことが女性に向かって、何て事を 許してくれるかい」
再び、レラジェが確認してない時を含めれば三たび、アンドラスの部屋に戻ってきた吟遊詩人に向かって、レラジェは呆れ顔で口を開いた。
「そんな謝りかたをしろとは言ってないだろ。……ああもう、許す 許すから、話があるんだろ、入って来いよ」
レラジェに言われ、扉の外に棒立ちだったバルバトスが大袈裟な謝意を感謝の言葉に切り替えて述べながらやって来た。
俺の部屋なんだけどなあ、とアンドラスがポツリとこぼし、デカラビアはそれを鼻で笑っていた。
「デカラビア」
「……何だ」
ただ座り、立っていても、ただの舞い散るゴミとなったデカラビア解剖申請書が消えるわけでもないし、ソロモンが怒った拍子に手をついせいで倒れた瓶から零れたインクで汚れた机が綺麗になりもしない。
デカラビア解剖とは無関係に、アンドラスが出したままの奇妙な薬剤や道具、本来なら捨てたり整理すべき書類や本もある。アンドラスの部屋には相応しくない宝石のような石まで部屋の各所に置いてあった。どうせデカラビアが持ち込んだのだろうが、一度目に入ると気になって仕方が無かった。机の上にもあるが、椅子の上や窓際にも無秩序に置いてあるのだ。
だから、四名は掃除を始めた。吟遊詩人業とソロモンの側近業のダブルタスクが忙しいバルバトスが手伝うのは不思議だが、彼には彼の考えがあるのだろう。会話より先に掃除を手伝ってくれた。
レラジェと協力してインクを大方拭いたあと、バルバトスはデカラビアの側に歩みより、ピタリと止まった。
アンドラスが口を広げるごみ袋のなかに、書類の欠片を摘まんで拾って入れていたデカラビアは、ピタリと止まって自分の名を呼ぶバルバトスの方に顔だけで振り向いた。
「デカラビア、ソロモンが怒った理由、本当に分からないのかい?」
「……知らん」
「そうか。なら、今知らなくても良いからさ、どんな理由ならあり得るのか、考えて教えてくれないか?」
あくまでも穏やかに真摯に頼み込むバルバトスが功を奏したのか、珍しくデカラビアはポツリと溢すのをレラジェは聞いた。
「……………………あいつが」
「うん」
「ソロモン王が、俺の命を、ハルマ共の手から救った時」
「……」
「…………救えた時………………過信したのだろう。俺の命は救えるのだと。大した楽天家じゃないか。あいつの前以外で……前でも、かもしれんが……俺が死ぬ事をろくに考えてない、可能性として準備するのさえ厭い、ああ、いや……。…………」
「……それで?」
「……つまり、やつは、折角命を救ってやった俺が、自分の知らぬ間に死ぬ事を想定した計画を進めている事に腹を立てた………衝撃を受けたんだ。些かならぬな。それが事故や病に備えたものであったとしても許しがたかったのだろう。解剖の手続きがただの備えではなく、死への契約書のサインその物にさえ見えたのだろうよ。……馬鹿馬鹿しい事だ」
「ソロモンの事を狭量だと思ってる?」
「いや。……俺の命を救ったことを、他ならぬ俺本人に否定された気分になったんじゃないか。ひいては、俺が……俺に限らず……知らぬ間、勝手に死の魔手に捕えられるかもしれないと突きつけられた気持ちになった。それに次は手が届かないかもしれないともな。狭量だとは思わん、ただ、俺とアンドラスの害のない共謀と……失う訳でもない命程度で、そこまで深く動揺するなど、とんでもないお人好しで、これから先大丈夫なのかと思わんでもない……が……。……」
「もう大丈夫だ。参考になったよ、ありがとう」
「……此方からも問おう。俺に聞く意味なぞ、あったか? 吟遊詩人、……おまえはソロモンと親しいだろう。俺なんぞに聞かなくても、自ら考えれば解るのではないか。それが難しいとしても、ソロモンに直接聞く手もあった、違うか?」
「その疑問は当然だ。俺自身もそうしたかったぐらいだから。だけどそれが、案外難しくてね」
バルバトスは大仰にため息をついた。デカラビアがジト目になる。
デカラビアに向かってにっこりと笑いさらりと髪をかきあげ、バルバトスは数歩歩いて両手を竦めた。
「思春期って奴かな? 俺はソロモンの考えが最近分からないことがあってね。以前はもう少し分かっていたつもりなんだけれど。そして、直接聞くにしても、話し掛け辛くなってしまったんだ」
「……ヴィータに?」
「ああ、君達から離してこの部屋から連れ出したは良いけれど、その後完全に機嫌を損ねてしまってね。必要なことはしてくれるし、関係のない者に当たったりはしないんだけれど、サタナキアが正面からソロモンの機嫌を指摘したのが決定的で。サタナキアと、事情を知ってる俺相手にはかなり態度が、ね」
「甘えを見せているだけだ。あの研究者にはともかく、おまえにはな」
「そう? 安心したよ。ならなんとかなるかな。それでね、この話を君に聞いたのには、もう一つ理由があってね……」
「……ヴィータに詫びを入れろと?」
「そこまではお願いしないよ、そうしてくれるなら助かるとは思うけど」
「……嫌だ」
「うん。しかし、ソロモンがこのままでも困るんだ、弱い幻獣との戦いならなんとかするけど、差し迫った事情が幾つもあってね。だから」
「皆まで言うな。……試みについて謝ったりはせんぞ。ただ、やつを……やつの、ソロモン王の動揺を結果的に招いた、それが事実なら思う所がないでも無い」
摘ままれせっせと袋の中に集められていた書類の最後の欠片が、デカラビアの視線の先で、手放されヒラリと袋の中に舞い落ちた。
「その事について話すだけなら構わんと言うだけだ。……あの男が聞く気になるかどうかは俺の感知する所ではないが」
「助かる。ソロモンが聞いてくれるように俺も努力するからさ」
どうかよろしく頼むよとバルバトスは片目を瞑ってみせた。
「レラジェレラジェ、こっちこっち」
「なんだよ」
バルバトスとデカラビアの話が終わった途端、アンドラスがレラジェを呼んだ。
「危ないな。ちゃんとゴミ袋は人の通らない場所に置けよ。口の縛りも甘いし」
「ごめんごめん」
口ではそう言いながらも、アンドラスはベッドの上に座り医療道具が一通り入ったバッグを漁りだしていた。レラジェは溜息をつき、ゴミ袋の口を縛り直し部屋の端に置いてから、彼の頼み通り近づいてやった。
「レラジェ、患部患部、出してよ、治療しなきゃ」
「もう治ってるよ。血も止まってるし」
「そう言うと思った。じゃあ消毒だけでもしようよ」
アンドラスは、レラジェに腰をかけるよう合図する為に、ベッドをポンポンと叩いた。
レラジェとしてはもう大丈夫なのだが、このままではアンドラスがしつこくなりそうなのが半分、この場に居ない看護師への恐れが半分で、結局アンドラスの好きやらせてやる事にした。
患部をアンドラスに見せると、彼は患部を拭いて夢中になって脱脂綿で消毒液を肌に染みこませてくる。
その処置の最中、アンドラスの顔はレラジェに自然と近くなる。レラジェはアンドラスの目の下の肌色が若干濃い事に気付いた。
「アンドラス」
「なあに?」
「オマエ、寝てないだろ!?」
「動かないでよ。三日かな」
「三日寝てないのか!? もしかしなくてもソロモンの機嫌を損ねさせたのはそのせいもあるな!? 」
レラジェが勢いに任せてアンドラスに向かって叫んでいると、机を拭くために退かしていたビーカーや試験管立てを戻し、机の上に整列させていたデカラビアが横から言った。
「ククク……そんなわけ無いだろう」
「デカラビア」
「アンドラスが万年寝不足なのと、ヴィータに何の関係がある」
「オマエ、昨日は何してた?」
「昨夜は夜通しアンドラスと居たが」
「居たがじゃないんだよ! オマエも徹夜してるじゃないか!」
「だからどうした、問題は無かろう」
「もうそれでいいから二人とも寝ろよ! 後の掃除やゴミ捨てはやっておくから! アンドラスは消毒ありがとうな!」
「どういたしまして」
「返事はマトモなんだよなあ」
レラジェは立ち上がり、ベッド上の空間の1/3強を占領している医療道具鞄と本とゴミにしか見えない物をベットの下に退けた。そして、ベッドに座るアンドラスの上半身をグイグイと押して横に寝かせ、デカラビアをアンドラスと一緒のベッドに叩き込み、アンドラスと並べて横に寝かせ、音を立てて毛布を掛けてやった。少し狭いだろうが、今の二人には関係あるまい。
案の定アンドラスはすぐに瞼を閉じて健やかな寝息を立て始めていた。デカラビアはまだ起きているが、薄目になっているので時間の問題だろう。レラジェが知る限り、元々寝付きが良い方でも無い。
二人の睡眠の邪魔にならないよう、足音を立てずに歩き、デカラビアの作業を引き継ぐ。
「君も大変だね」
小声でバルバトスが言った。
「もう帰っていいんじゃないか、バルバトスは」
「そう言う訳には行かないさ」
ウィンクを向けてくる吟遊詩人にレラジェは彼のファンの娘達のようなときめきは起こさなかったが、こう言うのがモテるんだろうな、あいつらと違って、と変な感慨は覚えた。
ソロモンがビリビリに破いた書類を始めとする、デカラビアの解剖に関係ありそうな紙や封筒や冊子を纏め、ついでにアンドラス達が散らかしたと思わしき夜食の痕からゴミも回収して、レラジェは部屋から出ようとするが、窓際の煌めきに気づいて途中で悩むように立ち止まった。煌めきの元は、アンドラスの部屋になぜか置いてあって、レラジェが1ヵ所に集めた石だ。
「……」
「欲しければ持っていって構わんぞ、特別に高価と言う訳でもないが、小遣い程度にはなるだろう」
ベッドに横になったままのデカラビアが声をかけてきた。やっぱりこの石はデカラビアの所持物らしい。
「別に欲しい訳じゃない。だけど、何なんだこれ?」
「ククク……俺の解剖の申請書をまた出す仕掛けの一部ではないかと疑っているな? ヴァイガルドで一番多いとも言われている鉱物だ。層状組織による光の干渉効果と散乱で独特の閃光効果が現れる。青色と白色が基本だ」
「まあ疑ってるんだけど、一言で言えよ」
レラジェは振り抜いたら強い打撃が出せる形に拳を強く握る。それが見えたはずも無いが、デカラビアは素早く説明をしてきた。
「磨けば宝石としての姿が顕わになる。深い青黒が基調だが、光の当て方によって虹色の煌めきを放つ。装飾品にも加工できるぞ。だから、持っていくかと聞いたのだが」
「宝石ねえ……それなら高価なんじゃないのか」
「程々にはな。だが半貴石だ。おまえが想像しているような石程では無い」
デカラビアの横で寝ているアンドラスが寝返りを打った。何やら寝言も言っている。大声ではないが、余り話し続けるのも睡眠の邪魔になるだろう。
不安が完全に無くなった訳でもないが、ただの石を取り上げる理由もない。これを取り上げるなら、デカラビアから全ての金目のものを没収しないといけなくなる。その方が資金が減って悪巧みをしなくなるのではないかと脳裏を過ったが、レラジェは軽く頭を振って考えるのを止めた。そこまでレラジェが介入する事もない、やるとしたら、ソロモンの意思か、あるいはアジトを取り仕切るメギド達の判断だ。メギドの性質として、そこまでやることはまずないだろうと知っていても。
「そう。値段は関係無いけど、宝石ならおまえ以外に貰うし、心配も要らないみたいだから一旦外に行くよ。その間に寝ろよ」
無言でデカラビアは横になったまま上げた片手をヒラヒラと振った。それを横目に、レラジェはバルバトスと共に部屋を出た。
ゴミ袋とゴミ箱を分担して運ぶレラジェとバルバトスはアジトの通路を歩いていた。
「ねえ」
「なんだい?」
「デカラビアの事だけど、あいつの言うことを信じていいのか?」
デカラビアがバルバトスに話していた内容である。普段よりも大人しい態度だったが、それを頭から信じていい相手でもない。あのままデカラビアに頼んでよかったのだろうか。
「ああ、それは……正直、デカラビアが何考えているのか、俺には分からなくてね。君の方が詳しそうだ」
「なんだよそれ、そんなんでいいのか。ソロモンが関わってるのに、困ってたんだろう。後、あいつは何も考えてないと思うぞ」
「そうなんだけどね、何を考えているかわからないから、本人に考えて貰ったのさ。……そうなのかい?」
「ソロモンやバルバトスが悩む程の事は考えてないんじゃないか、今回は特に徹夜のノリだし……って本人に考えて貰った……? それもしかして、口車って言うんじゃないか?」
ははは、と笑いながらバルバトスは頭を掻こうとして、手がゴミ箱で塞がっていることに気づいた。
「頭がいいみたいからね。それに、ソロモンの事なら頼めば助けてくれそうだなとは思って」
「割りといい加減だな……」
呆れたと言う様子で呟くレラジェの目が気になったのか、バルバトスは説明を重ねた。
「後は……デカラビアは、ソロモンの事を俺以上に理解していそうな節があってね。だから、いまいち彼らの事が分からない俺が何とかしようとするより、本当に困ってるとデカラビアに相談すれば、残りは自分で考えて解決してくれるんじゃないかと少し期待はしてたかな」
バルバトスのデカラビア評に、あいつは知ったかぶりしてるだけだとレラジェはよっぽど言いそうになった。
だが、人の機微に詳しいバルバトスでもデカラビアの事を分からないと言うなら、それを否定するほどレラジェだってデカラビアと深い付き合いでもない。
「解決に動いてくれそうでよかったな。あいつがどれだけ頼りになるかは分からないけど」
レラジェの内心を読んだように吟遊詩人が言った。
「やるだけの事はやったから、後は祈るのみだ。そうそう、この後暇だったら、お茶でもどうだい?」
「ゴミ箱両手に言うことじゃないだろ。本当にお互い暇ならお茶ぐらい良いけど、片付けの続きとアンドラス達の見張りがあるから遠慮しとく」
レラジェの返答を予想してたのか、バルバトスは大して残念でもなさそうだった。
アンドラスが目覚めると周囲は藍色だった。
部屋が藍色に染まっている理由は円形の天体だ。月の光が窓から部屋の中に射している。その位置から、もう真夜中だと分かった。
アンドラスはデカラビアが隣で寝ているのに気づいた。レラジェはもう居ない。夜だから自分の部屋に帰ったようだ。テーブルの上に布巾を被せた食料らしき物と、水差しが置いてある。きっとレラジェが置いて行ったのだろう。何だかんだと言うものの、優しい彼女らしいなとアンドラスは思った。
「(さて困ったな)」
日の登っている頃から寝続けたアンドラスは、レラジェの読み通り、少々腹が減っているし、喉はずいぶんと乾いていた。だが、今のアンドラスの横にはデカラビアがいる。デカラビアの頭はアンドラスの胸と同じ位置にあり、アンドラスからは彼の後頭部の髪が、月の光で艶々と照って見えた。デカラビアの方が背が低い上に、胎児のように丸まった体勢をしている為、見えはしないが、アンドラスの胴体に触れそうな位置にデカラビアの顔はあるはずだ。
「(まあいいか)」
瞬時に結論を出し、アンドラスはそのままの体勢を続けた。感じる飢餓も、普段から自分の生活を粗末に扱うことに慣れているアンドラスとしては、気持ちよく寝ている他人を起こして満たす程の物でも無い。大きく動けばデカラビアを起こす恐れがあった。
「(ああ、でも惜しかったな)」
丸い彼の後頭部を視界に入れて、アンドラスは思う。もう少しで追放メギドの肌の下を全部暴いて、直接触れる権利がアンドラスの手に転がり込むはずだったのに。
頭から髪の毛の隙間からちらりと見える首筋に、そこから繫がる肩や二の腕にとアンドラスは目を移していく。服を着たまま入ったベッドの中だが、それでもこれだけ接近していれば、普段より見えていた。
「(横になったから着崩された部分もあるしね)」
アンドラスと比べるとヴィータの肉体が余程細い追放メギドである彼だが、それでもしなやかな筋肉が骨を纏っている事が分かる。
「(本当に惜しかったなあ)」
つらつらと考えて居ると、くつくつくつくつ、と音が聞こえてきた。それは喉を震わせる声だった。嗤っている。
今まで向けた視線の先を逆に辿りデカラビアの頭の天辺を経て彼の顔の前方に目を向けると、青く輝く宝石のような瞳が見えた。
「起きていたのか」
「起こされたんだ」
「起こしてないよ」
アンドラスの言葉に、何がおかしいのかデカラビアは更にくつくつくつくつと嗤った。
「おまえにくれてやったのは、死後の俺に触れる権利だ。ベタベタと気安く触るな」
「触ってないよ」
「……ならばこの手は何だ?」
「あ、あれっ?」
デカラビアの肌に、アンドラスの指先が触れていた。
「ごめん、無意識だったみたいだ」
「ククク……謝りながら服を脱がそうとするな」
「別に服を脱がしたい訳じゃないよ。この際、解剖のイメージトレーニング位はさせて貰おうと思って。印を付けてね、切り開いて、骨を切り離して、手を奥に入れて。ここが肝臓で、胆嚢はそのすぐ下のこの辺に在るんだ。そして胆嚢の管が、肝臓と十二指腸に繫がって──」
「この狂人め。死んだ後にしろ」
「死んだ後も何も、ソロモンに止められたじゃ無いか。俺はソロモンの事も好きだから、約束を破る気は無いよ。解剖は俺がするはずだったんだし、少しぐらい良いだろ」
ソロモンに対しては物分かりの事を言いつつ、アンドラスの中では黒いもやもやした物が溜まっていた。アンドラスはそれに気付いて、俺ってやっぱり解剖がやりたかったんだなあと、折角のチャンスを棒に振った自分を慰めた。デカラビアの体に触れながら。
「ズルい」
「何がだ」
「分からないけど口を突いて出たんだ。ズルいなあ」
「訳の解らん事を言うな、話を戻すぞ。それと、触れるな。三度は言わん」
「ああ、戻して戻して」
デカラビアが話があるようなので、アンドラスは姿勢を変えて耳を傾けた。手は惜しいが離した。
「……はん。ヴィータの指示は、解剖申請書類を出すなと言う事だろう。かと言えば、個人間の約束などと言う上等な物でも無い。実際を無視した手続き上のただの取り決めだ」
「それは流石に屁理屈じゃない?」
「最後まで聴け。無理強いしようとは言っていない」
「犯罪だろ、勝手に掘り起こすの。あのソロモンの様子じゃ、君の葬式も墓も心配要らなさそうだよ」
「そんな物は望んでおらんのだがな。特に墓など、余程特殊な身分か集落の出でもあるまいに。まあよかろう、本題には関係無い。おまえもヴィータ間での犯罪だからと言って、それだけで止まるような性根はしておらんだろう。 ならばボトルネックになっているのは、ソロモンの事だけだ。だろう?」
「否定はしないけれど……それだけなら、俺の返答は変わりはしないよ。君も分かってるだろ」
「……それがソロモンの為にもなる、と言ったら?」
体を伸ばしたデカラビアの貌がアンドラスの間近に迫ってくる。
「は」
いけない、と思ったが、アンドラスはその一言ですっかり話を聞く気になっていたので、これは負けなのだろうと自覚した。
「……どういう理屈だい?」
ジッと、青い瞳の中にアンドラスを捉えている。
「ソロモン王の死体は、有象無象のヴィータ共の屍と変わりが有るか? 恐らく無いと答えるものが殆どだろう。それを否定する材料も無い。だが、ある一点を以ってして、他のヴィータとの判別が付く可能性を否定できない」
「アルスノヴァ血統」
「そうだ」
「生命活動を停止した後、指輪も装着してないのに、区別が付くのかは判明してないけど」
「それも研究出来ておらん事柄だろう」
「つまり、実地でやれと」
「とは言うものの、特にフォトンの流れが精緻に見える存在には、その程度の区別は付く蓋然性があると考えている。死亡時刻からたいして時間が経過しないなら尚更な」
「スピードが勝負。だけど、スピードが関係ない可能性も否定できないって事だね」
「それに、おまえなら細工の一つや二つは思いつくだろう? フォトンが見える奴を雇う伝手も持っているはずだ」
触れるなと先程言ったデカラビアが、今度は彼の方からアンドラスの手首に触れ、握ってきた。触れあったお陰で、デカラビアが喉の奥で笑っている振動がアンドラスには良く伝わってきていた。
「自信を持って言い切れる訳じゃないけど」
「抜かせ。おまえがやれないのであれば、この大地の上にやれる奴などそうは見つからん」
「うん。やってみたい事はある」
「ならば良い。仮にこの俺が死ぬ状況になるなどと、余程追い詰められている証拠だろう」
「今の君を殺すのは、困難だろうね。危険な戦場には出られない。もし出たならば別だけど……そこで君が落とされるのは、追い詰められているな、俺達が」
「そうだ」
「もしそこで君が死んだら、殺したやつはソロモンが死んだと誤認するかな?」
「さて。そこまでの間抜けだったら楽だが。だが、そうでは無くても、分かっているだろう? 死体は好きに……いや、一番『良い姿』にしろ。最上の勝算を引き寄せる、相応しい姿にな」
「例えばソロモンそっくりにだね。あーあ、怒られるよ」
「……バレ無ければいい」
今までアンドラスを見つめて来てくれた、ホルマリン漬けにしたら綺麗な標本になるであろう目がそっぽを向いた。アンドラスは小さな笑い声を上げた。
「そりゃそうだ」
「それは了承と取って構わんな?」
「良いよ。これで俺も君の共犯者かな」
「調子に乗るな」
掴まれていた手が離されて、去り際にぺしっと手の甲をはたいてゆく。
「俺の共犯を名乗って良いのは一人だけだ」
アンドラスは叩かれた箇所を何度も擦った。丈夫なアンドラスには蚊に刺されるよりも軽微な一撃だったので、痛くは無かったのだが、そう言う気分だった。
「それは残念」
会話が一段落付いてから、デカラビアはするりと身を起こし、ベッドの端に腰をかける。
「……あの女が置いていった物を口にしたらどうだ」
「何となくそんな気分じゃ無くなっちゃった」
「落ち着かぬならば出て行くが?」
「冗談。お互いにそんなタマでもないだろ?」
会話が途切れた。しばらくの間、沈黙の帳が降りた。
その間、アンドラスは薄暗い中でデカラビアの背を視界に入れてぼんやりとしていた。何なら明日の朝までこうして居ても良い気がした。その深閑を破って会話の幕を再び上げたのは、背を向けたままデカラビアだ。
「……もし、ヴィータが、ソロモン王を降りたがる日が来たとしたら──手伝ってやってくれ。手段は問わん。その時に俺が使える状態を保っていれば、好きに使って良い」
「いいけど」
顔は勿論の事、声からも表情を見せないデカラビアの頼みを、アンドラスは軽やかに了承した。
軽やか過ぎて、続けて質問の言葉が出そうになる。
最初からそれを言おうとしてたんじゃ無いのかい?
でもそれが、デカラビアが望まないであろう問いかけであることは、アンドラスにも分かったので、滑り出ようとした言葉を一瞬唇を嚙んで何とか食い止める。
ソロモンが王になる事を望んだデカラビアが、いざとなれば王としてのソロモンを殺す依頼を誰かに持ちかけるのはチグハグしている気もした。
だが、ヴィータの、或いは転生メギドの目を誤魔化す目的なら、アンドラスの技術は大層役に立つ。ソロモンと年齢も近い肉体が手に入るなら尚更だった。
アンドラスにとっては伝聞でしか無いが……デカラビアが真に望んだソロモンの姿は、ヴァイガルドの王である事を考えると、それはごく自然の成り行きだと納得できた。
「偽装死か。腕が鳴るな。中身は貰っちゃっていい?」
「それを厭うならば、おまえに頼んだりはせん。だが、腕が鳴るなどと、そんな軟弱な事を言うやつに任せた覚えは無いぞ」
「どれだけ減らして、バレないかのチキンレースになるんだよ」
「……依頼料は先払いでやるから、危険な事はするなよ」
「それこそ冗談だよ。俺には金なんて意味が無い、一生分はもう稼いでるさ。他に俺が何を望むかなんて、説明しなくても分かるだろ?」
「ならば、おまえに全てを任せた手前、何も言わんが……手間賃だけは取っておけ、世の中何が起こるか分からん。資金はいつでも有用だ」
そこにもう置いてある、とデカラビアは窓際の石達を指差した。
「その石、何かと思ったらそう言う物だったんだ」
「他のなんだと思った。子供の遊び道具だとでも思ったか」
「それもいいなあ」
「……寝て構わんぞ。まだ睡眠が足りてないんじゃないか」
「嫌だよ。そうしたら自分の部屋に戻るつもりだろう」
「それで何の問題がある」
「問題は無いけど、そうだなあ」
アンドラスは唐突に理解出来た気がした。
「はははっ!」
深夜のアジトで悪目立ちしない程度の声で笑いながら、窓際の石を掴み、またベッドの上に戻る。
「……いきなりどうした、ついに狂ったか」
「いやあ、違うよ。はははっ、ソロモンの気持ちが解ったんだよ」
アンドラスは、持って来た石を口の前に運び、歯が欠けない程度に囓った。
デカラビアは完全にアンドラスの方に振り向いて、半月型の目をしている。
「ははは、骨と同じ堅さじゃないけど、生命を感じない冷たさと感触だ」
「ただの石に命が宿っている訳は無いだろう。その様子で狂ってないと言うのは無茶があるぞ。何がヴィータの気持ちが分かっただ、心が読めるようになる未開の地のまじないとでも言うのか。分かったというなら、他人にも分かるように説明してみろ」
「言うねえ! ははっ。でも秘密さ!」
デカラビアは眉間の皺を深く作った。それはアンドラスの事を疑っているようにも、心配してるようにも、怒っているようにも見えた。だが、そのいずれにしろ、アンドラスはデカラビアには一切話すつもりはなかった。
「ははっ、俺とソロモンのね!」
アンドラスは心の中で独白する。
ソロモンは、アンドラスと軍団の敬愛すべき王は、アンドラスとデカラビアがソロモンには秘密で悪巧みをしていた所から気に入らなかったのだ。
そして、こう思ったのではないだろうか。
二人きりで決めてしまうなんて、ズルい! と。
アンドラス達はうっかり話を急ピッチで進めてしまったが、最初から相談していれば……つまり、悪巧みにソロモンを誘ってさえいれば、案外すんなりと、軍団員が不慮の事故死をした際の解剖許可位は取れていたのかもしれない。
デカラビアの本来の目的は話せなくとも、表向きのアンドラスと医学界の為の解剖許可と言う形で事を運べたはずだ。
もう一つ懸念点はあったが、上手く行けば表面化せずに済んだはずだ。アンドラス自身も気付いていなかったのだから。
それに、アンドラスだって心の奥底では思っていたのだ。
ソロモンが王だからと言って、デカラビアの死んだ後の事まで決めるのはズルい! と。
アンドラスは自覚して笑い飛ばせたが、気づかないままだと不安定にもなりそうだった。
「……ならば深くは聞かんが、咥えるのは食物にしろ。下手を打って石を飲み込んでも知らんぞ。今そんな間抜けな死に様を見せられても敵わん。腹に入れるならテーブルの上の物を特別に俺が取ってきてやる」
「はっはっはっ、断るよ。ソロモンの為かあ、ソロモンの為だものね、じゃあ仕方ないなあ」
藍色に包まれた部屋の中で、石を舐め囓りながらアンドラスは上機嫌に笑う。
「おまえ、それでも普段医者の真似事をしている身か…………っ!?」
アンドラスはデカラビアの腰にしがみつき、強引にベッドの上に共に横になった。
「ははははは!」
「このっ……いい加減に、自身が狂人では無いとの主張に齟齬が出始めているが? アンドラス」
冷たい声のデカラビアだが、アンドラスに逆らうことは無かった。体力では敵わないと早々に諦めているのか、約束した出来事の前金代わりのつもりなのか。アンドラスが解剖を行うときの手順で体を各部を弄るのを受け入れている。
「いやね、ライバルだなあと思って」
「誰を、どうしてそう思ったかを言わないと、全く訳が分からんぞ」
彼を助けたソロモンは生きたデカラビアを望んでいて。
デカラビアの悪友のアンドラスは死んだ彼を夢見てる。
倒れて笑う内に、口から離れてベッドのシーツに半ば埋もれた石が、月の光で虹色の膜を張ったように燦めく瞬間をアンドラスは目撃した。
最初から、この事に関してだけは、話が合うはずが無いねと、アンドラスは想像上のソロモンに向かって微笑んだ。
「ははは! 解らないように言ってるんだから、当然さ」
「秘密だからか」
「俺とソロモンのね。君との秘密もあるからいいじゃないか」
「おまえが何を言わんとしているのか、俺には全く分からん。自称のヴィータとの秘事の方では無くてな」
完全に匙を放り投げたデカラビアは、普段の意味ありげな態度も一緒に投げ捨てた様子でアンドラスの腕の中で脱力した。
「だから解らないように言ってるからね。それにしても、自称ってのは酷いなあ、きっとソロモンも、怒りが収まったら肯定してくれるよ」
「本音は常態以外の時に出るとも言うぞ。俺はもう一眠りする」
「このままでいい?」
少し首を斜めにしたアンドラスに、好きにしろ、どうせ今の貴様は碌に耳を傾けはすまいと告げてデカラビアは目を閉じた。
アンドラスはそのまま、朝、レラジェが部屋の様子を見に来るまで、ベッドの上で横になったまま起きていた。
終
死亡志望人物空想説明書
デカラビア
愛は苦手。
相棒と相棒の猫と向上心のあるヴィータと美しい世界と毒と破滅と支配が好きなソロモン王になり損ねた男。ソロモンと同じ血統を持っている。
お人好しは嫌いじゃない。
ソロモンを世界の王座に着けたい。世界はヴァイガルドだけでいいと思っている。
二日の徹夜ぐらいは平気だと本人は主張している。
アンドラス
レラジェとデカラビアの事は友人として好きで、ソロモンとは自称相思相愛の仲。本気かは不明。医者業は嫌いではないが好きでもない軍団医。
解剖を愛している。
ヴィータの事も愛している。
後者の自覚はない。
三日徹夜ぐらいは普通だが、それにほぼ一日をプラスして、興奮状態で二日程過ごしたのは流石に問題があったと後日反省した。
レラジェ
狩りと母を愛している。
仲間の事も大事にしたいが、バカ二人は例外だと思っている。
ソロモンの事が好き。
好んで徹夜したいとは思わないが、二日ぐらいはギリギリ可能。それ以上は俊敏に動けなくなる為に避けたい。
サタナキア
研究と人の役に立つことが好き。
愛は捨てたかったが、追ってきた。
ソロモンの事はかなり好き。
怒るソロモンに参謀として付き添った。
純メギドなので、転生メギド達より遙かに長時間眠らず活動可能。
バルバトス
サタナキアの見張り。
デカラビアの事はよく分からない。
ソロモン王の名を戴く少年の事は一寸だけ分かっていたつもりだったが、最近は認識を変えた方が良いかもしれないと感じている。
特に女性と自分が好き。
そして、人と物語を愛している。勿論ソロモンの事も。
健康と喉と美貌のため徹夜はしたくないが、女性と過ごす時は例外。
ソロモン
デカラビアが隠れて解剖申請書を作ってたのがショックだったと暫くして自覚することになるが、なぜショックだったのか自分でも分からない。
アジトの皆の事が好き。
愛は自分には早すぎるし、今は考える時でもないと思っている。
徹夜は苦手だけど、故郷で友人に誘われて徹夜した時はワクワクした。