気まぐれ、といった言葉が一番適しているのだろう。
退屈過ぎる毎日を過ごして、これといった刺激も興味もない日々。暇すぎる時間をどのように過ごしていいのかすら分からず終いで、頻回に欠伸を零していたことは覚えている。
【以前】の記憶を持っているからこそ、今の人生はつまらなかった。
呪いではなく、ただの人間として生まれ変わった宿儺。
一時的に肉体の共有をしていた関係なのか、虎杖悠仁の双子の兄として産まれてしまった。
呪いの王として君臨していた時代は終わってしまったのだ。仮に地獄というものが存在しているとするならば、まさに今が、宿儺にとっての地獄だった。
身体能力は低くはないが、鍛えなければ筋肉が萎み、以前の能力はまるでない。本当に、ただの人間に成り下がってしまった。
宿儺が【以前】の記憶を保持しているように、悠仁もまた記憶を持っていた。が、宿儺と同じように初めからではない。本人から聞いたわけでもないが、恐らく徐々に…といったところか。
今世こそ血の繋がりがあり、幼い頃は兄である宿儺の後ろをついて回っていた。ところが中学生に上がった頃、悠仁の挙動が少しずつ変わっていた。
嘘や誤魔化しが苦手なようで、あからさまに宿儺を避け始めたのだが【以前】もそうだったように元より悠仁になんの興味もなかったため宿儺から接触することはなかった。
必要以上の会話がなくなっても生活に困るはずもなく、自分とは無縁だと思っていた穏やかな時間を過ごしていた。
高校生活の折り返し地点になれば進学か就職かの選択肢を決めねばならなかった。面倒ではあるものの、誰かの下で働くビジョンが全く見えなかった宿儺は進学を希望した。
己が人間に成り下がったとしても、『両面宿儺』として生きていた年月が長いせいか…まだ人類を見下している。
大学進学と共に一人暮らしを始めれば思いの外、快適であった。自分一人という空間は窮屈さやストレスを感じることなく過ごすことができた。
家族が今世ではいたとしても、やはり宿儺からしてみればただの人間。どうでもいい存在には変わりない。
干渉されれば煩わしく思い、接触なんて以ての外だ。
だというのに、悠仁は違った。
記憶を思い出しているはずなのに…吹っ切れたのか、割り切ったのか定かではないが、まるで『普通』の家族のように連絡を寄越すようになった。
悠仁の心境がどのような状態なのか…それすらも興味がない宿儺は適当にあしらっている。基本的に無視をしているのだが、そんな態度でも悠仁からの連絡が少なくなることはなかった。
高校生よりも自由が利く大学生。
講義を受けて、寝に帰るだけの家への往復。
親からの仕送りにいつまでも世話になるつもりもないため、警察の目を掻い潜って時給や日給のいい裏バイトに手を出し始めた。
罪悪感なんてものは宿儺に存在しない。
前世で数え切れないほど人を葬っておいて、今更罪悪感など持つ方がどうかしている。
現金もそうだが、刺激欲しさに裏バイトを始めたはいいものの、予想していた通りすぐに飽きてしまった。が、今世では生きていくためには全てにおいて金がいる。だからバイトを辞めるという選択肢もなかった。
金曜日、夕方。
一度帰宅した宿儺は軽装に着替えて再び家を出た。汚れてもいいように色を黒に統一して。
指定された場所に足を運べば依頼してきた男ではなく、顔馴染みとなった仲介人の男性が待っていた。
「お待ちしておりました 宿儺様」
「…………」
「詳しい仕事内容はこちらになります」
雑談を好まぬ宿儺。それを分かっているかのように無駄な時間をかけないこの男を宿儺はそれなりに気に入っていた。明らかに今の自分より歳上である男であるが、発せられる声色はいつも柔らかく、丁寧だ。が、それは外見上だけの判断。宿儺がまだ未成年というのは把握しているはずなのに、こうして仕事を持ってくるあたり、やはり頭のネジの外れた人間であることには変わりない。
受け取った資料には今回の仕事内容の詳細が長々と綴られていた。依頼者側の細かな個人情報。仕事が成功した際の報酬金額。
「……………ガキ?」
「はい。依頼主様は写真にある子どもを手元に置いときたいとのことです」
「……………」
いわゆる、誘拐。
が、宿儺が気になったのはそこではなかった。
資料に添付されている写真には一人の子どもが写っていた。その子どもの容姿を…宿儺は見たことがあった。
────五条、悟
かつて互いに殺し合いをした関係。
呪術界において最強の名を手にしたとされる、五条悟。
呪いの王と対等に戦える相手など存在しないはずだった。けれど【以前】は違った。
笑顔が絶えることのない闘いは初めてであった。血塗られていく己と相手。力、スピード、知能。全てにおいて同等であった。差があったとしてもそれは僅かなものだった。
心躍る闘いなど経験してこなかった宿儺。だからこそ五条との死闘は血が騒ぎ、自然と口角が上がり、決して手を抜けないものだったのだ。
かつて己の心を動かした唯一の人間が、写真越しに現れた。しかし、宿儺が記憶している五条の姿とは異なっている。
「対象の子どもの名前は五条悟。碧眼、白髪、色白ではありますが両親は歴とした日本人。血筋を辿っても誰一人外人はいませんでした。医師からはアルビノと診断されていますが、彼の両親は納得せずそれが原因で離婚。母方に引き取られたものの、今はほぼ育児放置されている状態です」
「……なるほどな」
「依頼を受けますか?」
「良いだろう。一週間以内だ」
「承りました。依頼主様にもご報告させて頂きます」
手にしたと資料を返すと宿儺は男に背を向ける。宿儺の姿が消えるまで、男は頭を下げたままだった。
そんなことはどうでもよく、宿儺の口角は上がっていた。
単純に、興味があった。
容姿は少し違えど、写真にあった子どもは間違いなく五条悟。己を楽しませた存在があった。
果たして彼は宿儺と同じように記憶を持っているのか。最強だと謳われていた男が、今度は自分以上に力を失った状態で生を授かり、己以上に惨めな境遇を辿っている。
今の五条の状況を把握している人物は他にいるのだろうか。そして、同様に記憶を保持している者はいるのか。
今まで気にならなかったことが次々と疑問として浮き上がり、脳内を占める。
依頼を受けると仲介人には言った。だが、宿儺は依頼通りに仕事をする気などさらさらなかった。
己をも手こずらせた男が、力及ばず見知らぬ人間に虐げられる様はきっと滑稽そのものだろう。しかし想像したと同時に不愉快で堪らなくなった。
宿儺自身でも引き出せなかった表情を、己以外の人間に見せることが。歪んだ顔を…泣き顔を、悔しむ様を、自分は知らない。
「…………」
自分と同じ、狂気と悦楽を交わった瞳なら知っている。真っ直ぐ射抜く、強い眼差しも。見下して、煽る瞳も…知っている。けれど、知らぬ表情の方が多い。
気が狂ってる依頼者とはいえ、傍から見ればただの凡人に過ぎない。そんな凡人に、簡単に『最強』を渡してしまうのは惜しいと思った。
ならば自身の手元に置いてしまったほうがこの退屈な日々は無くなるのではないか。そんな極端で、気が狂った結論に至った。
改めて五条悟に関しての情報を詳しく求めた。
資料に記載されていなかった情報も、全て。
「意外と簡単に事が進みそうだな」
時間を掛けるのは好きではない。
手っ取り早く。面倒事は少なく。だが大胆に。
送られてきた五条の情報を眺めながらまた宿儺は口角を上げるのであった。
※
「では手続きは以上になります。なにかご不明な点がありましたらいつでもご連絡下さい」
「ああ」
依頼を受けてから丁度一週間。
宿儺の隣にはかつての敵、五条悟が立っていた。
ダボついてる宿儺のズボンを小さな手のひらで握り、視線は自分の足元に落としていた。
頭で描いていた計画通り、五条悟を自分の手元に置くことに成功したのだ。
まず初めに処分したのは母親からだった。五条を自宅のアパートに放置して、自身は新しくできた彼氏の元へ足を運んでいた女。まるで子持ちと思わせない容姿と雰囲気。女を知らぬ他人が見れば、人生を楽しんでいる独身女性だと思うだろう。
女は離婚してから五条悟を一切、外に出すことはしなかった。完全に居ないものとして扱っていたのだ。
数日間、家を空けることは日常茶飯事であり、気に入らない事があれば暴力でストレスを発散させている。けれど勝手に死なれては面倒だと思った女は、ギリギリ生きていられる食料だけを与えていた。
女が男の家へと出向いたその先で、偶然を装った事故を起こさせた。もちろん、仲介人の手配で。
そして日付も変わらぬうちに、元依頼主の男の家に火をつけて火災を起こさせた。
大学生とは思えぬ大金を使って、宿儺は仲介人の男に改めて依頼したのだ。二人を殺すための計画と、五条悟を己の手元に置くための手続きを。
宿儺の言動に、さすがに男も一瞬だけ言葉を詰まらせたがすぐに仕事用の表情に戻った。余計な口出し、詮索をしないのが男が仕事に向ける姿勢だった。
元の依頼者よりも大金が上乗せされれば、そちらを優先する。それが、裏で生きてきた人間たちの思考だ。
身寄りがいなくなった五条悟は一時的に施設に預けることとなったが、すぐさま宿儺と仲介人が動いたこともあって事はスムーズに進んだ。
本来ならこんな簡単にはいかない。だけど、裏同士が手を組めば面倒さを省く事ができる。
「いくぞ」
「………」
腰の位置にある頭を見下ろしながらそう告げ、歩き出す。流石の宿儺も身長差、歩幅を考えていつもより歩みはゆっくりである。
少年は口を開くことはせず、ただ黙って宿儺に着いていく。ズボンから手を離すことなく。
いつもなら三十分ほどで自宅に着くのだが、子どもの歩幅で合わせていたら一時間もかかってしまった。しかも途中で焦れた宿儺が五条を抱き上げる羽目となってしまった。
主に自分の名前を記載しただけの書類と交換するかのように仲介人の男から紙袋を二つほど受け取った。その中には子供用と思われる衣服たち。
五条を手元に置いておこうと決めたものの、すっかり生活面での五条との暮らしが頭から抜け落ちていた。
帰宅してすぐに宿儺は五条を浴室へ案内した。
一時的に避難していた施設の方でシャワーは浴びていたようで汚れなどはなかった。
薄っぺらい洋服を脱がせ、宿儺も一緒に浴室に入る。服の下に隠れていた肌は所々無数に痣や傷ができていた。
子供に不釣り合いな大きめのガーゼを剥がして、いつもより緩いお湯を足元からかけてやる。まさか自分がこんな甲斐甲斐しく、子供とはいえかつての敵、五条悟に気を遣う日が来るとは夢にも思わなかった。
まだ瘡蓋になっていない真新しい傷はさすがに沁みるようで、時折体を強張らせていた。
流石に湯船に浸かることは難しいだろうと判断した宿儺は五条の体を洗った後、共に浴室を出た。
風呂を終え、食事も軽く済ませたあと。宿儺は正面に座らせた五条に質問を投げかける。
「名は?」
「………………」
「…口が利けぬのか?」
「……………」
これは予想していなかった、と宿儺は思考を巡らせる。まさかの口が利けないときた。だが、そうなってしまっても可笑しくない現状だったな…と納得する。
居るはずの母親が常に不在で、同じ空間にいたとしても虐待をされていたのだから。精神的ダメージの予想は付かないが、ショックを受けていて当然だろう。
「今日からここが貴様の家となる」
「…………」
「狭い部屋だからな…寝るのはここのベッドを使え。腹が減ったら俺の袖を引くなりして伝えろ」
五条はここにきってやっと首を縦に小さく振った。言葉は理解していると分かった。
資料で目にした五条の年齢は今年で五歳。まだ義務教育すら始まっていない。しかし、あのような環境で過ごしていたことから、周りに比べれば恐らく発達は遅れているのだろう。読み書きができれば、まだ幾分かは意思疎通がしやすくなると思っていたのだが。
「……あんた…」
「あ?」
「…ぼくの、なまえ……あんた…」
突拍子もなく口を開いたのは紛れもなく、目の前の子供だ。が、随分な物言いに、つい発した一音が威圧的になってしまった。僅かに跳ねた体を見過ごすことはなかったが、五条は口を止めなかった。
「おかあさん…?が、いってた…」
「…………」
五条からの言葉で察することが出来た。
彼の母親は育児はもちろん、彼の名前すら碌に呼んだことがないのだと。『アンタ』と呼ばれ、拳を振り上げられていたのだろう、と。
始め、宿儺の言葉に反応が無かったのは…宿儺の癖のある言葉を理解できていなかったから。気を使うべき点が増えたこと……彼に教えねばならぬことが山ほどあることに、宿儺はため息を吐きそうになった。
顔を合わせた瞬間から予想していたことが確信へと変わったことが一つ。
【五条悟に以前の記憶がない】
この場合、宿儺や悠仁が特殊なのかもしれない。過去と呼ぶべきか分からぬ記憶を持ち、生活している。宿儺はまだ悠仁以外の人間で、同様の記憶を持った人物と出会ったことがない。もしかしたら悠仁の方は出会っているかもしれないが、それを探ろうとは微塵も思わなかった。
引き取ってしまった手前、このまますぐに手放すには少し惜しい気がした。暇つぶしにはちょうどいいのかもしれない。面倒事がこれ以上増えるようならまた仲介人に手続きを任せればいいだけのこと。
「貴様の名前は、五条悟、だ」
「…さとる」
「過去のことは忘れろ。必要ないからな」
「うん」
泣くでもなく、拒否するわけでもなく。ただ五条は素直に頷いた。
「おにいさんの、なまえは…?」
「……宿儺」
「すくな」
「好きに呼べ」
五条は再度頷いた。
初めて聞いたであろう己の名を噛み締めるのではなく、宿儺という名を繰り返し、小さく呟いていた。
※
子供とはいえ、人が一人増えただけで大変さは増すばかり。歳が近ければ生活はそれなりに楽だろうが、相手は子供。しかもつい最近まで実の母親から虐待やネグレクトされていたのだ。
口が利けないわけではないが、口数は少ない。
今まで我慢してきた生活。それが一気に変わった。自分の欲求など考えたことすらないのだろう。
五条と共に暮らすようになって三ヶ月。
宿儺は少し前に大学を中退した。元より暇つぶしの一環として通っていただけ。学費だとか、勉強だとか、就職だとか……世間一般が気にかける内容を、宿儺は気にも止めていなかった。
両親からの連絡はもちろんあったが、無視を決め込んでおり諦めてくれるのを待つしかない。むしろこの際、絶縁や勘当されは方が都合がいい。
宿儺が大学を辞めた理由はもちろん五条のことに関してだ。
留守番させればいいだけの話だが、今まで放置されていた子供を置いてまで大学に向かうだけの価値を見出せなかった。
優先順位を変えるだけでここまで生活が変わるものなのか、と新しい発見をした。
金銭面に関しては特に問題はない。暫くの間、わざわざ家を開ける必要もない。同じ空間に他人がいるこの状況に違和感はあるものの、不快感はない。
「すくな」
舌足らずの、幼児特有の高い声。
相手に名を呼ばれることにも慣れた。最初は詰まっていた声色も時間が経過すれば自然なものへと変化していった。
「飯にするか」
当初に伝えた通り、五条は空腹を感じれば宿儺の袖を引いて伝えた。口が利けないと思って提案した伝達方法なのだが五条は素直に言いつけを守っている。
腰を上げれば五条も一緒についてくる。
「リクエストはあるか?」
「…りく……?」
「食べたいものがあるなら言え」
「………わかんない」
「そうか」
一人分の飯なら簡単に仕上げることができる。が、自分好みの食と、相手の好みは恐らく異なるだろう。
幼児向けの味付けなど考えたことがあるはずもなく、試行錯誤しているうちに無駄に冷蔵庫の中身が充実してしまった。
開いた料理サイトの画面と睨めっこしたのも最近である。
味覚はしっかり機能しているであろう五条であるが、まだ何が好きなのかハッキリと分からなかった。
下から見上げてくる視線はいつものことなので好きにさせている。宿儺のそばにいる事と視線を寄越すだけで五条は大人しく料理が出来上がるのを待つ。火や包丁を使ったところで宿儺がヘマをするはずもないため五条をわざわざリビングへ追いやったりはしない。
五条の身長では宿儺の手元は見えない。それでも彼は宿儺を見上げるのをやめない。シャツの裾を掴んで、視線を送るだけ。
腹が膨れれば次に訪れる欲求は眠気。
眠たげな瞳を擦り、小さな欠伸を漏らして、今にも閉じてしまいそうな瞼を必死に持ち上げようとしている。なにと葛藤しているのか、宿儺にはさっぱりだ。
空になった食器をシンクに運んで、腰を上げたついでに五条をベッドに運んだ。添い寝をする形で宿儺も隣で横になる。
「すくな」
「………眠いのだろう?寝てろ」
「…すくなは、やさしいね」
「……は?」
「いたいこと、しない」
「俺にメリットがないからな」
「めりっ、と?」
「必要がないだけだ。貴様だって痛いのは嫌だろう?」
「うん」
「今まで出来なかったこと…好きなことをして生きればいい」
「じゃあ すくなといっしょ」
「…俺と?」
「すくながいっしょじゃなきゃ、やだ」
本当に、随分と懐かれたものだ。
碧く、眠たげな瞳を向けたまま…五条は頬を緩めた。そして直ぐに眠りにつく。
宿儺は、自分が五条に対して優しくした覚えはなかった。ただ、自分のやりたいように行動しているだけ。たしかに生活が五条を中心としたものへと変化はした。しかしそれだけのこと。
小さな手で握られた服は皺になっており、暫く外せそうにない。元よりそんな気がない宿儺は自身も瞼を下ろしたのだった。