透明な氷 自分から飛び退いた恵に五条はきょとり、とした顔で。
「あぁごめん、まだだったか」
驚いちゃったね、ごめんね?
恵はその問いに答える事ができなかった。
いつものように抱きしめてきたうざったい腕が、氷のように冷たかったからだ。
「硝子~終わるまで預かっててくれる~?焼酎一本で」
「託児所じゃねえぞここは」
「いいってさ。はい、遊んでもらいな、恵」
五条と恵が揃わないと出来ない手続きがあり、高専へと連れてこられた。
手続きはただの置物でいられたのだが帰宅前に五条に用事が出来、少しの間だけここにいてよと寮に来た。
五条の部屋はもう片付けていて居るには寒いし、だったらと家入硝子の部屋へと恵は置いていかれた。
「まぁいいや。伏黒、だっけか。伏黒くん、五条のココアでいいかな」
「あ、いやお構い無く」
「…小学生から聞く『お構い無く』はクるものがあるね」
精神的に、と家入は言い、ケトルに水を入れ電源をつけた。
「五条には可愛がってもらってるか?万が一の必要な電話番号とか知ってる?」
「電話番号」
「イチイチゼロ的な」
同級生のしかも異性にこれほど言われる五条という男は、自分が思っているより余程ダメな大人なんだと恵は考えた。
「…それなら、こないだ俺のほうが」
「お、そっち?そっちから行く?ミレニアムベイビーやべぇ~」
「五条さんの腕が氷みたいに冷たくて、五条さん褒めたかっただけなのに。突き放した」
パチン、とケトルが湯気と共に電源を落とし、家入はココアの粉を入れたマグカップにお湯を注いだ。
「多分、傷つけた」
「伏黒くん、あいつがクズなだけだから気にしないでいいよ」
ことり、と置かれたマグカップからは甘いかおりがしている。
「すこし授業をしようか。 難しかったら聞き流していいよ。 反転術式は知ってる?」
「はい、治すちから」
ふむ。と家入は机に放ってあった箱の中身を取り出そうとして、止めたかわりに恵のココアの残りのお湯と一升瓶の中身を自身のマグカップに入れた。
「詳しくはそうじゃないけど、まぁ今の話にはそれでいっか。 そうだね、あれは治す力。 五条の脳ミソにそれが常に回ってるのは知ってるかな」
「あたまが疲れるからって言ってました」
「そうだね。 五条の反転術式はね、一定の量を越えると温度を奪うんだよ」
家入のマグカップからはアルコールのにおいがする。おかしな文字が書いてあり、それは手書きのようだった。
「私も反転術式は使えるがあんな風に体温を奪われた事はない。 五条のあれは使いすぎると熱が貯まって暴走する機械を冷やすのと同じものだよ。 氷みたいに冷たいから身体を調べたこともあったが、異常なし。 健康そのもの」
異常なくらいにね、と家入は続けて言う。
「憶測だけど、その日五条は疲れていて脳ミソを冷やすのに反転術式を過度に使っていた。 それで伏黒くんを説明なしにびっくりさせたってだけのクズってこと」
恵は思い出していた。その日五条に会った時聞き流していた一方的な会話。出張が多かったとか、その任務での後片付けが面倒だったとか。だから恵に会えて嬉しい、と言っていたのを思い出した。
「まだ使い方が安定していないんだ、きっと。 二の腕とかふくらはぎが凍傷になりかける時もある。 まぁ、あいつ自身それすらオートで治すから、気に病んでたらキリがないよ」
「…そうですか」
「つーか教えてなかった事をあいつに怒鳴ってもいいくらいだよ」
家入のマグカップの中身はすでに三回変わっているのに、恵のココアはまだ半分も飲んでいなかった。
「きみ、苦労人だね。 一生五条で苦労しそう」
「はぁ」
「私とも付き合いは長くなるだろうし、クズがゴミでもカスにでもなった時は言ってよ。 どんな箇所でも切断してやるからさ」
アルコールのせいか、少し表情が柔らかくなった家入は恵の奔放な髪をひと束つまみ、撫でた。
「硝子~恵返して~」
「てめぇが置いてったんだろ」
「あ、なに触ってんの。おさわり禁止。アル中がうつるからやめて」
「ゴミが。とっとと出ててけ。伏黒、じゃあな」
いきなり入ってきた五条は慌ただしく家入と会話をして恵を抱き抱え部屋を出た。
お邪魔しました、とドアがしまる前に恵が礼を言うと家入はこちらを見ず片手を上げて、煙草を咥えていた。
「恵、酒くさい」
片腕に抱えられたまま廊下を歩いていると頭に顔を突っ込んできてふんふん、と嗅いで五条は言った。
「飲んでる?」
「飲みませんよ」
家入の部屋へと連れてこられた時には日差しで明るかった廊下は夕暮れに染まっていた。ジジ、と音を小さく立てて天井の電球が灯る。
「夕飯なに食べよっか。 恵なに食べたい?」
手続きのあと、先に帰ると言った恵を引き留めたのは五条だった。今日の夕飯は一緒に食べたいと、大人なのにわがままを言って、そして恵は家入の世話になっていた。
「あったかいもん食べたいです。鍋以外」
「鍋嫌いなの?」
「作りやすいから冬の間ずっと鍋だった」
そうだ。五条が氷になる前に会ったのはまだ暑さの残る秋のはじめだった。
恵は今年の、冬の間の五条を知らなかった。
「まだ寒いですか」
寮の出入り口を出た時恵は五条に聞いた。
「寒くないけど? 恵あったかいしね」
自分を抱える五条はひとの温度をしている。
今度この男が氷になったら、逃げずに自分が出来ることは何だろう。五条が食べたいものをくちで羅列する間に、恵は薄くほろほろと崩れるように削られる氷を思い出していた。五条が夏に食べたいと言って連れて行かれたかき氷の店の、山奥で丁寧に作られたという、透明な氷が削られるその光景を、思い出していた。